主上山門より還幸の事

 去月晦日、逆徒、都を落ちしかば、二月二日、主上、山門より還幸成つて、花山院を皇居に成されにけり。
 同じき八日、義貞朝臣、豊島打出の合戦に打ち勝つて、則ち朝敵を万里の波に漂はせ、同じく降人の五刑の難を宥めて、京都へ帰り給ふ。事の体ゆゆしくぞ見えたりける。その時の降人一万余騎、皆、元の笠印の紋を書き直して著けたりけるが、墨の濃き薄き程見えて、あらはにしるかりけるにや、その次の日、五條の辻に高札を立てて、一首の歌をぞ書きたりける。
  二筋の中のしろみを塗り隠し新田新田しげな笠じるしかな
 都鄙数箇度の合戦の体、君、殊に叡感浅からず。則ち臨時の除目を行はれて、義貞を左近衛中将に任ぜられ、義助を右衛門佐に任ぜられけり。
 天下の吉凶、必ずしもこれにはよらぬ事なれども、「今の建武の年号は、公家のため不吉なりけり。」とて、二月二十五日に改元有つて、延元に移さる。近日、朝廷、已に逆臣のために傾けられんとせしかども、程なく静謐に属して、一天下又泰平に帰せしかば、「この君の聖徳、天地に叶へり。如何なる世の末までも、誰かは傾け申すべき。」と、群臣、いつしか危ふきを忘れて、慎しむ方の無かりける、人の心ぞ愚かなる。

賀茂の神主改補の事

 大凶、一元に帰して、万機の政を新たにせられしかば、愁へを含み喜びを抱く人多かりけり。中にも賀茂の社の神主職は、神職の中の重職として、恩補次第ある事なれば、咎なくしては改動の沙汰もありがたきことなるを、今度、尊氏卿、貞久を改めて基久に補任せられ、彼、眉を開く事、僅かに二十日を過ぎず。天下、又反覆せしかば、公家の御沙汰として貞久に返し附けらる。この事、今度の改動のみならず、両院の御治世替はる毎に転変する事、掌を反すが如し。
 その逆鱗、何事の起こりぞと尋ぬれば、この基久に一人の女あり。養はれて深窓に在りし時より、若紫の匂ひ殊に、初本結の寝乱れ髪、「末、如何ならん。」と、見るに心も迷ひぬべし。齢、已に二八にも成りしかば、巫山の神女、雲となりし夢の面影を留め、玉妃{*1}の太真院を出でし春の媚びを残せり。唯、容色嬋娟の世に勝れたるのみにあらず。小野小町が弄びし道を学び、優婆塞宮のすさみ給ひし跡{*2}を追ひしかば、月の前に琵琶を弾じては傾く影を招き、花の下に歌を詠じては、移ろふ色を悲しめり。されば、その情を聞き、そのかたちを見る人ごとに、心を悩まさずと云ふ事なし。
 その頃、先帝{*3}は未だ帥宮にて、幽かなる御住まひなり。これは、後宇多院の第二の皇子、後醍醐天皇と申しし御事なり。今の法皇{*4}は、伏見院第一の皇子にて、既に春宮に立たせ給ふべしといひ、時めきあへり。この宮々、如何なる玉簾の隙にか御覧ぜられたりけん、「この女、いとあてやかに臈たけし。」とぞ思し召されける。されども、「ひたすらなる御業は如何。」と思し召し煩ひて、荻の葉に伝ふ風の便りにつけ、忘れ草の末葉に{*5}結ぶ露のかごとに寄せては、いひしらぬ御文の数、千束に余る程になりにけり。女も、いと物わびしう哀れなる方におぼえけれども、吹きも定めぬ浦風に靡きはつべき煙の末も、終にはうき名に立ちぬべしと、心強き気色をのみ関守になして、早、三年を過ぎにけり。
 父は賤しうして、母なん藤原なりければ、やんごとなき御子達の御おぼえはなほざりならぬを聞きて、「などや、今まで御いらへをも申さでは、やみにけるぞ。」と、いといたう打ち侘ぶれば、御消息伝へたる二人のなかだち、「ついでよし。」と思ひて、「たらちめ{*6}の諌めも、理にこそ侍るめれ。早、一方に御返り事を。」と、かこち顔なりければ、女、いふばかりなく打ち侘びて、「いさや、我とはいかでか分く方侍るべき。ただ、この度の御文に、御歌のいと哀れにおぼえ侍らん方へこそ参らめ。」と云ひて、少し打ち笑みぬる気色を、二りのなかだち、嬉しと聞きて、急ぎ宮々の御方へまゐりて、かくと申せば、やがて伏見宮の御方より、取る手もくゆるばかりにこがれたる紅葉重ねの薄様に、いつよりも言の葉過ぎて、哀れなる程なり。
  思ひかねいはむとすればかきくれて涙のほかは言の葉もなし
と遊ばされたり。「この上の哀れ、誰か。」と思へる処に、帥宮、御文あり。これは、さしも色深からぬ花染のかをり返りたる{*7}に、詞は無くて、
  数ならぬみのの小山の夕時雨つれなき松は降るかひもなし
と遊ばされたり。この御歌を見て、女、そぞろに心あこがれぬとおぼえて、手に持ちながら詠じ伏したりければ、「早、いづれをか。」と云ふべき程もなければ、帥宮の御使ひ、そぞろにひとり笑みして帰り参りぬ。
 やがて、その夜の更け過ぐる程に、牛車さわやかに取りまかなひて、御迎ひに参りたり。滝口なりける人、中門の傍らにやすらひかねて、「夜も早、丑三つになりぬ。」と急げば、女、下簾をかかげさせて、助け乗せられんとしける処に、父の基久、外より帰りまうで来て、「これは、いづ方へぞ。」と問ふに、母上、「帥宮、召しありて。」と聞こゆ。父、いたく留めて、「事の外なるわざをも計らひ給ひけるものかな。伏見宮は、春宮に立たせ給ふべき由御沙汰あれば、その御方へ参つてこそ、深山隠れの老木までも、花咲く春にも{*8}逢ふべきに、行く末とても憑みなき帥宮に参り仕へんことは、誰がためとても待つべき方やある。」と云ひ留めければ、母上、げにやと思ひ返す心になりにけり。
 滝口は、かくともしらで、簾の前によりゐて、月の傾きぬる程を申せば、母上、出で合ひて、「唯今、俄に心地の例ならぬ事侍れば、後の夕をこそ。」と申して、御車を返してけり。帥宮、かかる事侍るとは、つゆも思しよらず、「さのみや。」と、今日の憑みに昨日の憂さを替へて、度々御使ひありけるに、「思ひの外なる事候うて、伏見宮の御方へ参りぬ。」と申しければ、「おやしさけずば。東路の佐野の船橋さのみやは堪へては人の恋ひ渡るべき。」と、思ひ沈ませ給ふにも、御憤りの末深かりければ、帥宮御治世の初め、基久、さしたる咎は無かりしかども、勅勘を蒙り、神職を解せられて、貞久に補せらる。
 その後、天下大きに乱れて、二君三たび天位をかへさせ給ひしかば、基久貞久、僅かに三、四年が中に、三度改補せらる。夢幻の世の習ひ、今に始めぬこととは云ひながら、殊更身の上に知られたる世の哀れに{*9}、「よしや、今は、とてもかくても。」と思ひければ、
  うたたねの夢よりも猶あだなるはこのごろ見つるうつつなりけり
と、基久、一首の歌を書き留めて、遂に出家遁世の身とぞなりにける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「楊貴妃を指し太真は楊貴妃の名。」とある。
 2:底本頭注に、「琵琶の道。源氏物語に見えた八宮のことである。」とある。
 3:底本頭注に、「後醍醐天皇。」とある。
 4:底本頭注に、「後伏見院。」とある。
 5:底本は、「末葉の結ぶ」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 6:底本頭注に、「母親。」とある。
 7:底本頭注に、「色のさめた紙。」とある。
 8:底本は、「春には逢(あ)ふべきに、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 9:底本は、「世の哀(あは)れは、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。