巻第十六

将軍筑紫へ御開きの事

 建武三年二月八日、尊氏卿、兵庫を落ち給ひしまでは、相従ふ兵、僅か七千余騎ありしかども、備前の児島に著き給ひける時、「京都より討手馳せ下らば、三石辺にて支へよ。」とて、尾張左衛門佐氏頼を、田井、飽浦、松田、内藤につけて留められ、細川卿律師定禅、同刑部大輔義敦をば、東国の事心元なしとて返さる。その外の勢どもは、各、暇申して己が国々に留まりける間、今は、高、上杉、仁木、畠山、吉良、石堂の人々、武蔵、相模勢の外は、相随ふ兵もなかりけり。筑前国多々良浜の湊に著き給ひける日は、その勢、僅かに五百人にも足らず。矢種は皆、打出、瀬川の合戦に射尽くし、馬物具は悉く兵庫西宮の渡海に脱ぎ捨てぬ。気疲れ、勢尽きぬれば、轍魚の泥に息吐き、窮鳥の懐に入りし風情して、知らぬ里に宿を問ひ、狎れぬ人に身を寄すれば、朝の食飢渇して、夜の寝覚め蒼々たり。いづれの日か誰と云はん敵の手に懸かりてか、魂浮かれ骨空しうして、天涯望郷の鬼とならんずらんと、明日の命をも憑まれねば、味気なく思はぬ人もなかりけり。
 かかるところに、宗像大宮司、使者を参らせて、「御座の辺りはあまりに分内狭くて、軍勢の宿なんども候はねば、恐れながらこの弊屋へ御入りあつて、しばらくこの間の御窮屈を休められ、国々へ御教書を成されて、勢を召され候べし。」と申しければ、将軍、やがて宗像が館へ入らせたまふ。次の日、小弐入道妙恵が方へ、南遠江守宗継、豊田弥三郎光顕を両使として、恃むべき由をのたまひ遣はされければ、小弐入道、仔細に及ばず、やがて嫡子の太郎頼尚に若武者三百騎差し添へて、将軍へぞ参らせける。

小弐菊池と合戦の事 附 宗応蔵主が事

 菊池掃部助武俊は、元より宮方にて肥後国にありけるが、小弐が将軍方へ参る由を聞きて、道にて討ち散らさんと、その勢三千余騎にて水木の渡しへぞ馳せ向ひける。小弐太郎は、夢にもこれを知らずして、小船七、艘に込み乗つて、我が身は先づ向ふの岸に著く。畤篭豊前守以下は、未だ越えず、控へて船のさし戻す間を相待ちける処に、菊池が兵三千余騎、三方より押し寄せて、河中へ追つぱめんとす。畤篭が兵百五十騎、とても遁れぬ所なりと、一途に思ひ定めて、菊池が大勢の中へかけ入つて、一人も残らず討死す。小弐太郎は、川向ひよりこれを見けれども、大河を中に隔てて、船ならでは渡るべき便りもなければ、いたづらに恃み切つたる一族若党どもを敵に{*1}取り篭めさせける心の中、遣る方なくぞ無念なる。遂に船ども近辺に見えざりければ、怒りを抑へて将軍へぞ参りける。
 菊池は、手合はせの合戦に打ち勝つて、門出良しと悦んで、やがてその勢を率し、小弐入道妙恵が楯篭つたる内山の城へぞ押し寄せける。小弐、宗徒の兵をば皆頼尚につけて、その勢過半、水木の渡しにて討たれぬ。城に残る勢、僅かに三百人にも足らざりければ、菊池が大勢に叶ふべしともおぼえず。されども、城の要害きびしかりければ、切り岸の下に敵を見下して防ぎ戦ふ事、数日に及べり。菊池、新手を入れ替へ入れ替へ、夜昼十方より攻めけれども、城中の兵、一人も討たれず、矢種も未だ尽きざりければ、いかに攻むるとも落ちざるものをと思ひけるところに、小弐が一族等、俄に心替はりして、詰めの城に引き上がり、中黒の旗を揚げて、「我等、いささか所存候間、宮方へまゐり候なり。御同心候べしや。」と、妙恵が方へ云ひ遣はしければ、一言の返答にも及ばず、「苟しくも、ながらへて義無からんよりは、死して名を残さんには如かじ。」と云つて、持仏堂へ走り入り、腹掻き切つて臥しにけり。郎等百余人も、堂の大床に{*2}並み居て、同音に声を出だし、一度に腹をぞ切つたりける。その声、天に響きて、悲想悲々想天{*3}までも聞こえやすらんとおびただし。
 小弐がいと末の子に、宗応蔵主といふ僧、蔀遣戸を踏み破りて薪とし、父が死骸を葬して、「万里の碧天、風高く月明らけし。ために問ふ、恵公行脚のこと。白刃を踏翻して身を転じて行く。下火{*4}に曰く、猛火重なり燃ゆ、一段清し。」と、閑かに下火の仏事をして、その炎の中へ飛び入つて、同じく死にぞ赴きける。

多々良浜合戦の事 附 高駿河守例を引く事

 小弐が城、已に攻め落とされて、一族若党百六十五人、一所にて討たれければ、菊池、いよいよ大勢に成つて、やがて多々良浜へぞ寄せかけける。
 将軍は、香椎宮に取り上がつて、遥かに菊池が勢を見給ふに、四、五万騎もあらんと思しく、御方は僅かに三百騎には過ぎず。しかも、半ばは馬にも乗らず、鎧をも著ず。「この兵を以て、かの大敵に合はん事、蚍蜉大樹を動かし、蟷螂隆車を遮るに異ならず{*5}。なまじひなる軍して、云ふ甲斐なき敵に合はんよりは、腹を切らん。」と将軍は仰せられけるを、左馬頭直義、堅く諌め申されけるは、「合戦の勝負は、必ずしも大勢小勢に依るべからず。異国に、漢の高祖、滎陽の囲みを出づる時は、僅かに二十八騎に成りしかども、遂に項羽が百万騎に打ち勝つて天下を保てり。吾が朝の近頃は、右大将頼朝卿、土肥の杉山の合戦に打ち負けて、伏木の中に隠れし時は、僅かに七騎になつて候ひしかども、終に平氏の一類を亡ぼして、累葉久しく武将の位を継ぎ候はずや。二十八騎を以て百万騎の囲みを出で、七騎を以て伏木の下に隠れし機分、全く臆病にて命を捨てかねしにはあらず。唯、天運の保つべき処を恃みしものなり。
 「今、敵の勢、誠に雲霞の如しといへども、御方の三百余騎は、今まで附きまとうて、我等が前途を見はてんと思へる一人当千の勇士なれば、一人も敵に後ろを見せ候はじ。この三百騎、志を同じうするほどならば、などか敵を追ひ払はで候べき。御自害の事、かつてあるべからず。先づ直義馳せ向つて、一軍仕つて見候はん。」と申し捨てて、左馬頭、香椎宮を打つ立ちたまへば、相従ふ人々には、仁木四郎次郎義長、細川陸奥守顕氏、高豊前守師重、大高伊予守重成、南遠江守宗継、上杉伊豆守重能、畠山阿波守国清を始めとして、大伴、島津、曽我、白石、八木岡、饗庭を宗徒の兵として、都合その勢二百五十騎、三万余騎の敵に懸け合はせんと志して、命を塵芥に思ひける、心の程こそ優しけれ。
 直義、已に旗の手を下し{*6}、社壇の前を打ち過ぎ給ひける時、烏一番ひ、杉の葉を一枝くはへて兜の上へぞ落としける。左馬頭、馬より下りて、「これは、香椎宮の擁護し給ふ瑞相なり。」と敬礼して、射向の袖にぞ差されける。敵御方、相近づきて、鬨の声を揚げんとしける時、大高伊予守重成は、「将軍の御陣の余りに無勢に候へば、帰参候はん。」とて引つ返しけり。直義、これを見て、「始めよりこそ留まるべきに、敵を見て引き返すは、臆病の至りなり。あはれ、大高が五尺六寸を五尺切つてすて、剃刀にせよかし{*7}。」と欺かれける。
 さる程に、菊池、五千余騎を率し、浜の西より相近づきて、先づ矢合はせの流鏑をぞ射たりける。左馬頭の陣よりは、矢の一筋をも射ず。鳴りをしづめて、透間あらば切り懸けんと伺ひ見給ひけるに、誰が射るとも知らず、白羽の流鏑矢、敵の上を鳴り響いて、落つる所も見えず。左馬頭の兵ども、「これは、只事にあらず。」と憑もしく思ひ、勇みを成さずといふものなし。
 両陣相挑んで、未だ兵刃を交じへざる処に、菊池が兵、黄河原毛なる馬に緋縅の鎧著たる武者唯一騎、御方の勢に三町余り先立つて、抜け懸けにぞしたりける。ここに曽我左衛門、白石彦太郎、八木岡五郎、三人共に馬物具もなくて、真先に進んだりけるが、これを見て白石、立ち向つて、馬より引き落とさんと、手もと近く寄り副ひければ、敵、太刀を捨てて、腰の刀を抜かんと一そり反りけるが、真さかさまになつて落ちにけり。白石、これを起こしも立てず、抑へて首をば掻いてげり。馬をば曽我、走り寄つて打ち乗り、鎧をば八木岡、剥ぎ取つて著たりけり。白石が高名に二人利を得、やがて三人共に敵の中へ打ち入れば、仁木、細川以下、「御方討たすな。続けや。」とて、大勢の中へ駆け入つて、乱れ合つてぞ闘ひける。
 仁木越後守は、近づく敵五騎切つて落とし、六騎に手負はせて、猶敵の中にありながら、のつたる太刀{*8}を踏み直しては切り合ひ、命を限りとぞ見えたりける。されば百五十騎、参然として堅きを破れば、菊池が勢、誠に百倍せりといへども、僅かの小勢にかけ立てられて、一陣の軍兵三千余騎、多々良浜の遠干潟を二十余町までぞ引き退きける。
 搦手に廻りける松浦、神田の者ども、将軍の御勢の僅かに三百余騎にも足らざりけるを、二、三万騎に見なし、磯打つ浪の音をも敵の鬨の声に聞きなしければ、俄に叶はじと思ふ心附いて、一軍をもせず、旗を捲き兜を脱いで降人に出でにけり。
 菊池、これを見て、いよいよ難儀に思ひ、「大勢の懸からぬ先に。」と、急ぎ肥後国へ引き返す。将軍、則ち一色太郎入道道献、仁木四郎次郎義長を差し遣はし、菊池が城を攻めさせらるるに、一日も堪へ得ず、深山の奥へ逃げ篭る。これよりやがて、同国八代の城を攻めて、内河彦三郎{*9}を追ひ落とす。これのみならず、阿蘇大宮司八郎惟直は、先日、多々良浜の合戦に深手負ひたりけるが、肥前国小杵山にて自害しぬ。その弟九郎は、知らぬ里に行き迷ひて、卑しき田夫に生け捕られぬ。秋月備前守は、太宰府まで落ちたりけるが、一族二十余人、一所にて討たれにけり。
 これ等は皆、一方の大将どもなり。又、九州の強敵ともなりぬべき者なりしが、天運、時至らざれば、かやうに皆滅ぼされにけり。しかりしより後は、九国二島、悉く将軍に附き従ひ奉らずと云ふ者なし。これ、全く菊池が不覚にも非ず、又、直義朝臣の謀りごとにも依らず。只、将軍、天下の主と成り給ふべき過去の善因催して、霊神擁護の威を加へ給ひしかば、不慮に勝つ事を得て、一時に靡き従ひけり。
 今まで大敵なりし松浦、神田の者ども、将軍の小勢を大勢なりと見て、降人に参りたりと、その聞こえありければ、将軍、高、上杉の人々に向つて宣ひけるは、「詞の下に骨を消し、笑ひの中に刀を研ぐ{*10}は、この頃の人の心なり。されば、小弐が一族どもは、多年の恩顧なりしかども、正しく小弐を討ちつるも、遠からぬ例ぞかし。これを見るにも、松浦、神田、如何なる野心をさし挟んでか、一軍もせず降人には出でたるらん。信心、真ある時は、感応、不思議を顕はすことあり。今、御方の小勢を大勢と見しこと、不審無きにあらず。相構へて面々、心赦しあるべからず。」と仰せければ、遥かの末座に候ひける高駿河守、進み出でて申しけるは、「誠に、人の心の測りがたき事は、天よりも高く地よりも厚しと申せども、かやうの大義に於いては、あまりに人の心を御不審有つては、いかでか早速の大功を成し候べき。なかんづく御勢の多く見えて候ひける事、例なきにもあるべからず。
 「その故は、昔、唐朝に、玄宗皇帝の左将軍に歌舒翰、逆臣安禄山が兵崔乾祐と潼関にて戦ひけるに、黄なる旗を差したる兵十万余騎、忽然として官軍の陣に出で来れり。崔乾祐、これを見て、敵大勢なりと思ひ、兵を引いて四方に逃げ散る。その喜びに、勅使、宗廟に詣でけるに、石人とて、石にて作り並べて廟に置きたる人形ども、両足泥にまみれ、五体に矢立てり。さてこそ、黄旗の兵十万余騎は、宗廟の神、官軍に化して逆徒を退けたまひたりけりと、人皆疑ひを散じけり。吾が朝には、天武天皇、大友王子と天下を争はせ給ひける時、備中国二万郷と云ふ所にて、両方の兵、戦ひを決せんとす。時に天武天皇の御勢は、僅かに三百余騎、大友王子の御勢は、一万余騎なり。勢の多少、更に闘ふべくもなかりける処に、いづくより来れるとも知らぬ爽やかなる兵二万余騎、天皇の御方に出で来て、大友王子の御勢を十方へかけ散らす。これよりして、その所を二万郷{*11}と名づけらる。
  君が代は二万の里人数そへてたえず供ふるみつぎ物かな
と、周防の内侍が詠みたりしも、この心にて候なり。」と、和漢両朝の例を引いて、武運の天に叶へる由を申しければ、将軍を始めまゐらせて、当座の人々も、皆歓喜の笑みをぞ含まれける。

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校訂者注
 1:底本は、「一族若党共を取篭(とりこ)めさせける」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 2:底本は、「百余入も、堂の大床(おほゆか)に」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。底本頭注に、「〇大床 広縁。」とある。
 3:底本頭注に、「三界の最頂の天。」とある。
 4:底本は、「下火(あこ)」。底本頭注に、「火葬の時火をつける僧の役名。」とある。
 5:底本は、「蚍蜉(ひふ)大樹を動かし、蟷螂隆車を遮る」。底本頭注に、「力の及ばぬ譬へ。蚍蜉は大蟻。蟷螂はかまきり。」とある。
 6:底本頭注に、「旗をひろげ。」とある。
 7:底本頭注に、「五尺六寸の太刀も用がないだらうから切断して六寸の剃刀にして剃髪出家せよ。」とある。
 8:底本頭注に、「そつた太刀。」とある。
 9:底本頭注に、「宗伯。」とある。
 10:底本頭注に、「〇言の下に骨を消し 史記張儀伝に『衆口鑠金、積毀銷骨』。言を巧にして人を害ふことを云ふ。」「〇笑ひの中に刀を研ぐ 表面に笑顔を作つて中に害心を蓄へることを云ふ。韻府に見える句。」とある。
 11:底本は、「二万里(にまのさと)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。