西国蜂起官軍進発の事

 さる程に、将軍、筑紫へ没落し給ひし刻、四国西国の朝敵ども、気を損じ度を失ひて、或いは山林に隠れ、或いは所縁を尋ねて、新田殿の御教書を賜はらぬ人はなかりけり。この時、もし義貞、早速に下向せられたらましかば、一人も降参せぬ者はあるまじかりしを、その頃、天下第一の美人と聞こえし勾当内侍を内裏より賜はりたりけるに、暫しが程も別れを悲しみて、三月の末まで西国下向の事延引せられけるこそ、誠に傾城傾国の験なれ。
 これに依つて、丹波国には、久下、長沢、荻野、波々伯部の者ども、仁木左京大夫頼章を大将として高山寺の城に楯篭り、播磨国には赤松入道円心、白旗峯を城郭に構へて、討手の下向を支へんとす。美作には、菅家、江見、弘戸の者ども、奈義能山{*1}、菩提寺の城を拵へて、国中を掠め領す。備前には、田井、飽浦、内藤、頓宮、松田、福林寺の者ども、石橋左衛門佐を大将として、甲斐河、三石、二箇処の城を構へて、船路陸路を支へんとす。備中には、庄、真壁、陶山、成合、新見、多地部の者ども、勢山を切り塞いで、鳥も翔けらぬやうに構へたり。これより西、備後、安芸、周防、長門は申すに及ばず、四国九州も悉く著かでは叶ふまじかりければ、将軍方に志なきも、皆従ひ靡かずといふ事なし。
 処々の城郭、国々の蜂起、おびただしく京都へ聞こえければ、先づ東国を敵に成しては叶ふまじとて、北畠源中納言顕家卿を鎮守府将軍になして、奥州へ下さる。新田左中将義貞には、十六箇国の管領を許され、尊氏追討の宣旨をぞ成されける。義貞、綸命を蒙つて、已に西国へ立たんとし給ひける刻、瘧病{*2}の心地煩はしかりければ、先づ江田兵部大輔行義、大館左馬助氏明、二人を播磨国へ差し下さる。その勢二千余騎、三月四日、京を立つて、同じき六日、書写坂本に著きにけり。赤松入道、これを聞いて、敵に足をためさせては叶ふまじとて、備前、播磨両国の勢を合はせて書写坂本へ押し寄せける間、江田、大館、室山に出で向つて相戦ふ。赤松、軍、利なくして、官軍、勝つに乗りしかば、江田、大館、勢ひを得て、西国の退治たやすかるべき由、頻りに羽書{*3}を飛ばせて京都へ注進す。

新田左中将赤松を攻めらるる事

 さる程に、左中将義貞の病気よくなりてげれば、五万余騎の勢を率して西国へ下り給ふ。後陣の勢を待ちそろへんために、播磨国賀古河に四、五日逗留ありけるほどに、宇都宮治部大輔公綱、紀伊常陸守、菊池次郎武季、三千余騎にて下著す。その外、摂津国、播磨、丹波、丹後の勢ども、思ひ思ひに馳せ参じける間、程なく六万余騎になりにけり。「さらば、やがて赤松が城へ寄せて攻むべし。」とて、斑鳩の宿まで打ち寄せ給ひたりけるとき、赤松入道円心、小寺藤兵衛尉を以て新田殿へ申されけるは、「円心、不肖の身を以て、元弘のはじめ大敵に当たり、逆徒を攻め退け候ひしこと、恐らくは第一の忠節とこそ存じ候ひしに、恩賞の地、降参不義の者よりも猶賤しく候ひし間、一旦の恨みに依つて多日の大功を捨て候ひき。さりながら、兵部卿親王の御恩、生々世々忘れ難く存じ候へば、全く御敵に属し候こと、本意とは存ぜず候。所詮、当国の守護職をだに綸旨に御辞状を副へて下し賜はり候はば、元の如く御方に参つて忠節を致すべきにて候。」と申したりければ、義貞、これを聞き給ひて、「この事ならば、仔細あらじ。」と仰せられて、やがて京都へ飛脚を立て、守護職補任の綸旨をぞ申しなされける。
 その使節往反の間、已に十余日を過ぎける間に、円心、城を拵へすまして、「当国の守護国司をば、将軍より賜はつて{*4}候間、手の裏を返す様なる綸旨をば、何かは仕り候べき。」と、嘲弄してこそ返されけれ{*5}。新田左中将、これを聞き給ひて、「王事、もろい事なし{*6}。たとひ恨みを以て朝敵の身になるとも、天を戴いて天命を欺かんや。その儀ならば、ここにて数月を送るとも、彼が城を攻め落とさでは通るまじ。」とて、六万余騎の勢を以て白旗の城を百重千重に取り囲みて、夜昼五十余日、息をも継がず攻めたりけり。かかりけれども、この城、四方皆嶮岨にして、人の上るべきやうもなく、水も兵粮も沢山なる上、播磨、美作に名を得たる射手ども、八百余人まで篭りたりける間、攻むれども攻むれども、唯寄せ手手負ひ討たるるばかりにて、城中恙なかりけり。
 脇屋右衛門佐{*7}、これを見給ひて、左中将に向つて申されけるは、「先年、正成が篭りたりし金剛山の城を、日本国の勢どもが攻めかねて、結句天下を覆へされしことは、先代の後悔にて候はずや。僅かの小城一つに取りかかりて、そぞろに日数を送り候はば、御方の軍勢は皆{*8}、兵粮に疲れ、敵陣の城は、いよいよ強り{*9}候はんか。その上尊氏、已に筑紫九箇国を平らげて上洛する由、聞こえ候へば、彼が近づかぬ前に備前備中を退治して、安芸、周防、長門の勢を著けられ候はでは、ゆゆしき大事に及び候はんとこそおぼえ候へ。さりながら、今まで攻めかけたる城を落とさで引くは、天下の嘲りともなるべく候へば、御勢を少々残され、自余の勢を船坂へ差し向けられ、先づ山陽道の路を開いて中国の勢を著け、押して筑紫へ御下り候へかし。」と申されければ、左中将、「この議、最も宜しくおぼえ候。」とて、やがて宇都宮と菊池が勢を差し副へ、伊東大和守、頓宮六郎を案内者として二万余騎、船坂山へぞ向けられける。
 かの山と申すは、山陽道第一の難処なり。両方は嶺峨々として、中に一つの細道あり。谷深く石滑らかにして、路、羊腸を践んで上ること二十余町、雲霧、窈溟たり{*10}。もし一夫怒つて関に臨めば、万侶も通ることを得難し。況んや岩石を穿つて細橋を渡し、大木を倒して逆茂木に引きたれば、如何なる百万騎の勢にても、攻め破るべしとは見えざりけり。されば、さしも勇める菊池、宇都宮が勢も、麓に控へて進み得ず。案内者に憑まれたる伊東、頓宮の兵どもも、山をのみ見上げて、いたづらに日をぞ送りける。

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校訂者注
 1:底本は、「奈義(なぎ)、能仙(のせ)、」。『太平記 三』(1983年)本文及び頭注に従い改めた。
 2:底本は、「瘧病(ぎやくへい)」。底本頭注に、「おこりの病。」とある。
 3:底本は、「羽書(うしよ)」。底本頭注に、「急の書状。」とある。
 4:底本は、「将軍より賜ひて候間、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 5:底本は、「返されける。」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 6:底本頭注に、「王事は堅固である事。」とある。
 7:底本頭注に、「義助。」とある。
 8:底本は、「軍勢は兵粮に」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 9:底本は、「強(つよ)り」。底本頭注に、「強くなり。」とある。
 10:底本は、「路(みち)羊腸(やうちやう)を践んで上ること二十余町、雲霧窈溟(えうめい)たり。」。底本頭注に、「〇羊腸 坂路の曲折したさま。」「〇窈溟 深く遠く朦朧としたさま。」とある。