児島三郎熊山に旗を挙ぐる事 附 船坂合戦の事
かかりける処に、備前国の住人児島三郎高徳、去年の冬、細川卿律師、四国より攻め上りし時、備前備中数箇度の合戦に打ち負けて、山林に身を隠し、会稽の恥をすすがんと、義貞朝臣の下向を待つて居たりけるが、船坂山を官軍の越えかねたりと聞きて、ひそかに使を新田殿の方へ立てて申しけるは、「船坂より御勢を越させらるべき由、承り及び候事、実に候はば、かの要害、たやすく破られ難く候か。高徳、来る十八日、当国の熊山に於いて義兵を挙ぐべく候。さる程ならば、船坂を堅めたる兇徒等、定めて熊山へ寄せ来り候はんか。敵の勢のすきたる隙を得て、御勢を二手に分けられ、一手をば、船坂へさし向けて攻むべき勢ひを見せ、一手をば、三石山の南に当たつて、木こりのかよふ路一つ候なる、ひそかに廻らせて、三石の宿より西へ出でられ候はば、船坂の敵、前後を包まれ、定めて引き方を失ひ候はんか。高徳、国中に旗を挙げ、船坂を先づ破り候はば、西国の軍勢、御方に参らずといふ者候べからず。急ぎこの相図を以て、御合戦あるべく候なり。」とぞ申し送りける。
そのころ、播磨より西、長門の国に至るまで、悉く敵陣にて、案内を通づる者もなきに、高徳が使者来つて、企ての様を申しければ、新田殿、悦び給ふ事ななめならず。則ち、相図の日を定めて、その使をぞ返されける。使者、備前に帰つて相図の様を申しければ、四月十七日の夜半ばかりに、児島三郎高徳、己が館に火をかけて、僅か二十五騎にてぞ打ち出でける。国を隔て境を隔てたる一族どもは、事急なるに依つて、相催すに及ばず。近辺の親類どもに事の仔細を告げたりければ、今木、大富、和田、射越、原、松崎の者ども、取る物も取り敢へず馳せ著きける間、その勢二百余騎になりにけり。かねては夜中に熊山へ取り上り、四方に篝火を焼いて、大勢篭りたる勢を敵に見せんと巧みたりけるが、馬よ物具よとひしめく間に、夏の夜程なく明けけれども、力なく、相図の時刻を違へじとて、熊山へこそ取り上りけれ。
案の如く三石、船坂の勢ども、これを聞きて、「国中に敵出で来りなば、ゆゆしき大事なるべし。万方を差し置いて、先づ熊山を攻めよ。」とて、船坂、三石の勢三千余騎を引き分けて、熊山へぞ向ひたりける。
かの熊山と申すは、高さは比叡山の如くにして、四方に七つの道あり。その路、いづれも麓は少し嶮しくして峯は平らかなり。高徳、僅かの勢を七つの道へ差し分けて、四方の敵をぞ防ぎける。追ひ下せば攻め上り、攻め上れば追ひ下し、終日戦ひ暮らして、わざと時をぞ移しける。夜に入りける時、寄せ手の中に石戸彦三郎とて、この山の案内者ありけるが、思ひも寄らぬ方より抜け入つて、本堂の後ろなる峯にて鬨をぞ揚げたりける。高徳、四方の麓へ勢を皆分けて遣はしぬ。僅かに十四、五騎にて本堂の庭に控へたりけるが、石戸が二百騎の中へ喚いて駆け入り、火を散らしてぞ戦ひける。深山の木隠れ月暗くして、敵の打ち太刀、分明にも見えざりければ、高徳が内兜を突かれて、馬よりさかさまに落ちにけり。敵二騎落ち合つて、首を取らんとしける処へ、高徳が甥松崎彦四郎、和田四郎、馳せ合つて、二人の敵を追ひ払ひ、高徳を馬に引き乗せて、本堂の縁にぞ下しける。
高徳は、内兜の創、痛手なりける上、馬より落ちける時、胸板を馬に強く踏まれて、目昏れ魂消えければ、暫く絶え入りたりけるを、父備後守範長、枕の下に差し寄つて、「昔、鎌倉の権五郎景政は、左の眼を射抜かれ、三日三夜までその矢を抜かで、当の矢を射たり{*1}とこそ云ひ伝へたれ。これ程の小創一所に弱りて死ぬると云ふ事やあるべき。それ程云ひ甲斐なき心を以て、この一大事をば思ひ立ちけるか。」と荒らかに恥ぢしめける間、高徳、忽ちに生き出でて、「我を馬に舁き乗せよ。今一軍して敵を追ひ払はん。」とぞ申しける。父、大きに悦んで、「今は、この者、よも死なじ。いざや、殿原、ここらにありつる敵ども追ひ散らさん。」とて、今木太郎範秀、舎弟次郎範仲、中西四郎範顕、和田四郎範氏、松崎彦四郎範家{*2}、主従十七騎にて敵二百騎が中へまつしぐらにかけ入りける間、石戸、これを小勢とは知らざりけるにや、一立て合はせも立て合はせず、南表の長阪を福岡までこそ引きたりけれ。
そのまま両陣相支へて、互に軍もせざりけり。相図の日にも成りければ、脇屋右衛門佐を大将として、梨原へ打ち臨み、二万騎{*3}の勢を三手に分けたり。一手には江田兵部大輔を大将として二千余騎、杉坂{*4}へ向けらる。これは、菅家、南三郷の者どもが堅めたる所を追ひ破つて、美作へ入らんためなり。一手には大江田式部大輔氏経を大将として、菊池、宇都宮が勢五千余騎を船坂へ差し向けらる。これは、敵をここに遮り留めて、搦手の勢をひそかに後ろより廻さんためなり。一手には伊東大和守を案内者として、頓宮六郎、畑六郎左衛門、当国の目代少納言範猷、由良新左衛門、小寺六郎、三津沢山城権守以下、わざと小勢をすぐつて三百余騎向けらる。その勢皆、轡の七寸{*5}を紙を以て巻いて、馬の舌根を結うたりける。
船坂越{*6}の北、三石の南に当たつて、鹿の渡る道一つあり。敵、これを知らざりけるにや、堀切りたる処もなく、逆茂木の一本をも引かざりけり。この道、余りに木茂つて、枝の支へたる処をば、下りて馬を引く。山、殊に嶮しくして、足もたまらぬ処をば、中々乗つて懸け下す。とかくして、三時ばかりに嶮岨を凌いで三石の宿の西へ打ち出でたれば、城中の者も船坂の勢も、遥かにこれを顧みて、思ひも寄らぬ方なれば、「熊山の寄せ手どもが帰りたるよ。」と心得て、更に仰天もせざりけり。三百余騎の勢ども、宿の東なる夷社の前へ打ち寄り、中黒の旗をさし揚げて、東西の宿に火をかけ、鬨をぞ揚げたりける。
城中の兵は、大略船坂へ差し向けぬ。三石にありし勢は、みな熊山へ向ひたる時分なれば、闘はんとするに勢なく、防がんとするに便りなし。船坂へ向ひたる勢、前後の敵に取り巻かれて、すべき様もなかりければ、唯、馬物具を捨てて、城へ続いたる山の上へ、はふはふ逃げ上らんとぞ騒ぎける。これを見て、大手搦手差し合はせて、「余すな、漏らすな。」と追ひ懸けける間、逃げ方を失ひける敵ども、ここかしこに行き迫つて自害をする者百余人、生け捕らるる者五十余人なり。
ここに、備前国一宮の在庁{*7}に美濃権介佐重と云ひける者、引くべき方なくして、已に腹を切らんとしけるが、屹と思ひ返すことあつて、脱ぎたる鎧を取つて著、捨てたる馬に打ち乗つて、向ふの敵の中を押し分けて、播磨の方へぞ通りける。船坂より打ち入る大勢ども、「これは、何者ぞ。」と尋ねければ、「これは、搦手の案内者仕る者にて候が、合戦の様を委しく新田殿へ申し入れ候なり。」と答へければ、打ち合ふ数万の勢ども、「めでたく候。」と感じて、道を開いてぞ通しける。佐重、総大将の侍所長浜が前に跪いて、「備前国の住人に美濃権介佐重、三石の城より降人に参つて候。」と申しければ、総大将より、「神妙に候。」と仰せられ、則ち著到にぞ著けられける。佐重、若干の人を出し抜いて、その日の命を助かりける。これも、暫時の智謀なり。
船坂、已に破れたれば、江田兵部大輔は、三千余騎にて美作国へ打ち入つて、奈義能山、菩提寺、二箇所{*8}の城を取り巻き給ふ。かの城も、すべきやうなければ、馬物具を捨てて、城に続いたる上の山へぞ逃げ上りける。脇屋右衛門佐義助は、五千余騎にて三石の城を攻めらる。大江田式部大輔は、二千余騎にて備中国へ打ち越え、福山城にぞ陣を取られける。
将軍筑紫より御上洛の事 附 瑞夢の事
多々良浜の合戦の後、筑紫九国の勢、一人として将軍に従ひ靡かずと云ふ者なかりけり。然れども、中国に敵陣充満して道を塞ぎ、東国、王化に従ひて、御方に通ずる者少なかりければ、左右なく京都へ攻め上らん事は、如何あるべからんと、この春の敗北にこり懼ぢて、諸卒、敢へて進む擬勢{*9}なかりける処に、赤松入道が三男則祐律師、並びに得平因幡守秀光、播磨より筑紫へ馳せ参つて申しけるは、「京都より下されたる敵軍、備中、備前、播磨、美作に充満して候といへども、これ皆、城々を攻めかねて、気疲れ粮尽きたる折節にて候間、将軍こそ大勢にて御上洛候へ{*10}とだに承りおよび候はば、一たまりもたまらじと存じ候。もし御進発延引候うて、白旗城攻め落とされなば、自余の城、一日もこらへ候まじ。四箇国の要害、皆敵の城になつて候はんずるのちは、何百万騎の勢にても、御上洛叶ふまじく候。
「これ則ち、趙王が秦の兵に囲まれて、楚の項羽、船筏を沈め、釜甑を焼いて、戦ひ負けば士卒一人も生きて帰らじとせし戦ひにて候はずや。天下の成功、唯この一挙にあるべきにて候ものを。」と、詞を残さで申しければ、将軍、これを聞き給ひて、「げにも、この議、さもありとおぼゆるぞ。さらば、夜を日に継いで上洛を急ぐべし。但し、九州をひたすら打ち捨てては叶ふまじ。」とて、仁木四郎次郎義長を大将として、大友、少弐両人を留め置き、四月二十六日に、太宰府を打つ立つて、同じき二十八日に、順風に纜解いて、五月一日、安芸の厳島へ船を寄せられて、三日参篭し給ふ。
その結願の日、三宝院の僧正賢俊、京より下つて、持明院殿より成されける院宣をぞ奉りける。将軍、これを拝覧し給ひて、「函蓋相応じて{*11}、心中の所願、已に叶へり。向後の合戦に於いては、勝たずといふ事あるべからず。」とぞ悦び給ひける。去る四月六日に、法皇は、持明院殿にて崩御なりしかば、後伏見院とぞ申しける。かの崩御已前に下りし院宣なり。将軍は、厳島の奉幣、事終はつて、同じき五日、厳島を立ち給へば、伊予、讃岐、安芸、周防、長門の勢、五百余艘にて馳せ参る。同じき七日、備後、備中、出雲、石見、伯耆の勢、六千余騎にて馳せ参る。その外、国々の軍勢、招かざるに集まり、攻めざるに従ひ附く事、唯、吹く風の草木を靡かすに異ならず。
新田左中将の勢、已に備中、備前、播磨、美作に充満して、国々の城を攻むる由、聞こえければ、鞆の浦より左馬頭直義を大将にて、二十万騎を差し分けて、かち路を上せられ、将軍は、一族四十余人、高家{*12}の一党五十余人、上杉の一類三十余人、外様の大名百六十人、兵船七千五百余艘を漕ぎ並べて、海上をぞ上せられける。
同じき五日、備後の鞆を立ち給ひける時、一つの不思議あり。将軍の屋形の中に少しまどろみ給ひたりける夢に、南方より光明赫奕たる観世音菩薩一尊、飛び来りましまして、船の舳に立ち給へば、眷属の二十八部衆、各、弓箭兵杖を帯して擁護し奉る体にぞ見給ひける。将軍、夢覚めて見給へば、山鳩一つ、船の屋形の上にあり。かれこれ、ひとへに円通大士{*13}の擁護の威を加へて、勝ち軍の義を得べき夢想の告げなりと思し召しければ、杉原{*14}を三帖、短冊の広さに切らせて、自ら観世音菩薩と書かせ給ひて、舟の帆柱毎にぞ押させられける。
かくて、船路の勢、已に備前の吹上に著けば、かち路の勢は、備中の草壁の荘にぞ著きにける。
校訂者注
1:底本は、「当(たう)の敵を射たり」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
2:底本は、「和田五郎範氏(のりうぢ)、松崎彦五郎範家(のりいへ)」。『太平記 三』(1983年)に従いそれぞれ改めた。
3:底本は、「二万余騎の勢」。『太平記 三』(1983年)に従い削除した。
4:底本は、「船坂」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
5:底本は、「七寸(みづつき)」。底本頭注に、「轡の手綱の端を受ける孔。」とある。
6:底本は、「杉坂越(すぎさかごゑ)」。『太平記 三』(1983年)頭注に従い改めた。
7:底本頭注に、「国府に居る官人。」とある。
8:底本は、「奈義(なぎ)、能仙(のせ)、菩提寺三箇所の城」。『太平記 三』(1983年)本文及び頭注に従いそれぞれ改めた。
9:底本頭注に、「虚勢、見かけの元気。」とある。
10:底本は、「御上洛候と」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
11:底本は、「函蓋(かんがい)相応じて」。底本頭注に、「箱と蓋と相応じて。即ち彼此同一体となつて。」とある。
12:底本は、「高家(かうけの)」。底本頭注に、「〇高家 よき家柄。」とある。
13:底本は、「円通大士(ゑんづうだいし)」。底本頭注に、「観世音。」とある。
14:底本頭注に、「紙の名で奉書紙の類。」とある。
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