備中の福山合戦の事
福山に楯篭る処の官軍ども、この由を聞きて、「この城、未だ拵ふるに及ばず。かれにつきこれにつき、大敵を支へん事は、叶ふべしともおぼえず。」と申しけるを、大江田式部大輔、暫く思案して宣ひけるは、「合戦の習ひ、勝負は時の運に依るといへども、御方の小勢を以て敵の大勢に闘はんに、負けずといふことは、千に一つもあるべからず。さりながら、国を越えて足利殿の上洛を支へんとて向ひたるものが、大勢の寄すればとて、聞き逃げには如何すべき。よしや、唯、一業所感{*1}の者どもが、ここにて皆死すべき果報にてこそあるらめ。死を軽んじ名を重んずる者をこそ人とは申せ。誰々もここにて討死して、名を子孫に残さんと思ひ定められ候へ。」と勇められければ、紀伊常陸、合田以下は、「申すにや及び候。」と領掌して、討死を一偏に思ひ儲けてげれば、中々、心中涼しくぞおぼえける。
さる程に、明くれば五月十五日の宵より、左馬頭直義、三十万騎の勢にて勢山を打ち越え、福山の麓四、五里が間、数百箇所を陣に取つて、篝を焼いてぞ居たりける。この勢を見ては、如何なる鬼神ともいへ、今夜落ちぬことは、よもあらじとおぼえけるに、城の篝も焼き止まず、猶こらへたりと見えければ、夜、已に明けて後、先づ備前備中の勢ども、三千余騎にて押し寄せ、浅原峠よりぞかかりたりける。
これまでも、城中、鳴りを静めて音もせず。「さればこそ落ちたれとおぼゆるぞ。鬨の声を挙げて、敵の有無を知れ。」とて、三千余騎の兵ども、楯の板を敲き、鬨を作る事三声、近づきて上らんとする処に、城中の東西の木戸口に、大鼓を打ちて鬨の声をぞ合はせたりける。よそに控へたる寄せ手の大勢、これを聞きて、「源氏の大将の篭りたらんずる城の、小勢なればとて、聞き落ちにはよもせじと思ひつるが、果たして未だこらへたりけるぞ。侮つて、手合はせの軍、し損ずな。四方を取り巻いて同時に攻めよ。」とて、国々の勢、一方一方を請け取つて、谷々峯々より攻め上りける。
城中の者どもは、かねてより思ひ設けたることなれば、雲霞の勢に囲まれぬれども、すこしも騒がず。ここかしこの木蔭に立ち隠れて、矢種を惜しまず散々に射ける間、寄せ手、稲麻の如くに立ち並びたれば、あだ矢は一つもなかりけり。敵に矢種を尽くさせんと、寄せ手はわざと射ざりければ、城の勢は、未だ一人も手を負はず。
大江田式部大輔、これを見給ひて、「さのみ精力の尽きぬさきに、いざや、打ち出でて、左馬頭が陣、一散らし駆け散らさん。」とて、城中には{*2}かち立ちなる兵五百余人を留めて、馬強なる兵{*3}千余騎引率し、木戸を開かせ、逆茂木を引き除けて、北の尾の殊に嶮しき方より喚いてぞ駆け出でられける。一方の寄せ手二万余騎、これに駆け落とされ、谷底に馬を馳せこみ、いやが上に重なり臥す。式部大輔、これをば打ち捨て、「東のはなれ尾に二つ引き両の旗の見ゆるは、左馬頭にてぞあるらん。」とて、二万余騎控へたる勢の中へ破つて入り、時移るまでぞ闘はれける。「これも、左馬頭にてはなかりけり。」とて、大勢の中を颯とかけぬけて、御方の勢を見給へば、五百余騎討たれて、僅かに四百余騎になりにけり。
ここにて城の方を遥かに観れば、敵、早、入り替はりぬと見えて、櫓、掻楯に火をかけたり。式部大輔、その兵を一処に集めて、「今日の合戦、今はこれまでぞ。いざや、一方打ち破つて備前へ帰り、播磨、三石の勢と一つにならん。」とて、板倉の橋を東へ向つて落ち給へば、敵二千騎三千騎、ここかしこに道を塞いで打ち留めんとす。四百余騎の者どもも、遁れぬ処ぞと思ひ切つたる事なれば{*4}、近づく敵の中へ破つて入り、駆け散らし、板倉川のほとりより唐皮まで、十余度までこそ戦ひけれ。されども兵も、さのみ討たれず、大将も恙なかりければ、虎口の難を遁れて、五月十八日の早旦に、三石の宿にぞ落ち著きける。
左馬頭直義は、福山の敵を追ひ落として、「事始め、よし。」と悦び給ふ事、ななめならず。その日一日、唐皮の宿に逗留あつて、首の実検{*5}ありけるに、生捕、討死の首千三百五十三と註せり。当国の吉備津宮に参詣の志、おはしけれども、合戦の最中なれば、触穢の憚りありとて、唯願書ばかりを篭められて、次のの日、唐皮を立ちたまへば、将軍も船を出だされて、順風に帆をぞあげられける。
五月十八日の晩景に、脇屋右衛門佐{*6}、三石より使者を以て新田左中将の方へ立て、福山の合戦の次第、委細に註進せられければ、その使者、やがて馳せ返つて、「白旗、三石、菩提寺の城未だ攻め落とさざる処に、尊氏、直義、大勢にて船路と陸路とより上ると云ふに、もし陸の敵をささへんために当国にて相待たば、船路の敵、差し違ひて帝都を侵さん事、疑ひなし。唯、速やかに西国の合戦を打ち捨てて、摂津国辺まで引き退き、水陸の敵を一処に待ち請け、帝都を後ろに当てて合戦を致すべく候。急ぎそれよりも{*7}山の里辺へ出で合はれ候へ。美作へもこの旨を申し遣はし候ひつるなり。」とぞ仰せられたりける。
これに依つて、五月十八日の夜半ばかりに、官軍、みな三石を打ち捨てて、船坂をぞ引かれける。城中の勢ども、これに機を得て、船坂山に出で合ひ、道を塞いで散々に射る。宵の間の月、山に隠れて、前後さだかに見えぬ事なれば、親討たれ子討たるれども、唯一足も先へこそ行き延びんとしける処に、菊池が若党に原源五、源六とて、名を得たる大剛の者ありけるが、わざと後に引きさがりて、御方の勢を落とさんと、防ぎ矢をぞ射たりける。矢種みな射尽くしければ、打物の鞘をばはづして、「傍輩ども、あらば、返せ。」とぞ呼ばはりける。菊池が若党ども、これを聞きて、遥かに落ち延びたりける者ども、「某、ここにあり。」と名のりかけて返し合はせける間、城よりおり合はせける敵ども、さすがに近づき得ずして、唯、よその峯々に立ち渡つて、鬨の声をぞつくりける。その間に数万の官軍ども、一人も討たるる事なくして、大江田式部大輔、その夜の曙には、山の里へ著きにけり。
和田備後守範長、子息三郎高徳、佐々木の一党が船よりあがるよしを聞きて、これを防がんために西川尻に陣を取つて居たりけるが、福山、已に落とされぬと聞こえければ、三石の勢と成り合はんがために、九日の夜に入つて、三石へぞ馳せ著きける。ここにて人に尋ぬれば、「脇屋殿は早、宵に播磨へ引かせ給ひて候なり。」と申しける間、さては、船坂をば通り得じとて、先日搦手の廻りたりし三石の南の山路を、たどるたどる夜もすがら越えて、さごしの浦へぞ出でたりける。夜未だ深かりければ、このまま少しの逗留もなくて打ちて通らば、新田殿には易く追つ著き奉るべかりけるを、子息高徳が前の軍に負ひたりける疵、未だ愈えざりけるが、馬に振られけるに依つて、目昏れ肝消えて、馬にもたまらざりける間、さごしのあたりに相知つたる僧のありけるを尋ね出だして、預け置きけるほどに、時刻押し遷りければ、五月の短夜明けにけり。
さる程に、この道より落人の通りけると聞きて、赤松入道、三百余騎を差し遣はして、那波辺にてぞ待たせける。備後守{*8}、僅かに八十三騎にて、大道へと志して打ちける処に、赤松が勢、とある山陰に寄せ合つて、「落人と見るは、誰人ぞ。命惜しくば、弓をはづし物具脱いで、降人に参れ。」と詞をぞかけたりける。備後守、これを聞きて、からからと打ち笑ひ、「聞きも習はぬ詞かな。降人になるべくは、筑紫より将軍の様々の御教書を成してすかされし時こそ成らんずれ。それをだに引き裂きて火にくべたりし範長が、御辺達に向つて降人にならんと、えこそ申すまじけれ。物具ほしくば、いで、取らせん。」と云ふままに{*9}、八十三騎の者ども、三百余騎の中へ喚いて駆け入り、敵十一騎切つて落とし、二十三騎に手負はせ、大勢の囲みを破つて、浜路を東へぞ落ち行きける。
赤松が勢、案内者なりければ、駆け散らされながら、先々へ馳せ過ぎて、「落人の通るぞ。討ち留め、物具はげ。」と近隣傍荘にぞ触れたりける。これに依つて、その辺二、三里が間の野伏ども、二、三千人出で合ひて、ここの山の蔭、かしこの田の畔に立ち渡りて散々に射ける間、備後守が若党ども、主を落とさんがために、進んでは駆け破り、引き下がつては討死し、那波より阿弥陀{*10}が宿のあたりまで、十八度まで戦つて落ちける間、討ち残されたる者、今は僅かに主従六騎に成りにけり。
備後守、或る辻堂の前にて馬を控へて、若党どもに向つて申しけるは、「あはれ、一族どもだに打ち連れたりせば、播磨の国中をば易く蹴散らして通るべかりつるものを。方々の手分けに向けられて、一族一所に居ざりつれば、力なく範長、討たるべき時刻の到来しけるなり。今は遁るべしともおぼえねば、最後の念仏、心閑かに唱へて、腹を切らんと思ふぞ。その程、敵の近づかぬ様に防げ。」とて、馬より飛んで下り、辻堂の中へ走り入り、本尊に向ひ手を合はせ、念仏高声に二、三百返が程唱へて、腹一文字に掻き切つて、その刀を口にくはへて、うつぶしに成つてぞ臥したりける。
その後、若党四人続きて自害をしけるに、備後守がいとこに和田四郎範家と云ひける者、暫く思案しけるは、「敵をば一人も滅ぼしたるこそ後までの忠なれ。追手の敵、もし赤松が一族、子供にてやあるらん。さもあらば、引つ組んで刺し違へんずるものを。」と思ひて、刀を抜いて逆手に握り、兜を枕にして、自害したる体に見えて{*11}ぞ臥したりける。
ここへ追手に懸かりける赤松が勢の大将には、宇野弥左衛門次郎重氏{*12}とて、和田が親類なりけり。まさしきに辻堂の庭へ馳せ来つて、自害したる敵の首をとらんとて、これを見るに、袖に著けたる笠印、みな下黒の紋なり。重氏、抜きたる太刀を抛げて、「あら、あさましや。誰やらんと思ひたれば、児島、和田、今木の人々にてありけるぞや。この人達と疾く知るならば、命に替へても助くべかりつるものを。」と悲しみて、涙を流して立ちたりける。和田四郎、この声を聞きて、「範家、ここにあり。」とて、がばと起きたれば、重氏、肝をつぶしながら立ち寄りて、「こはいかに。」とぞ悦びける。
やがて、和田四郎をば同道して助けおき、備後守をば、葬礼、懇ろに取り沙汰して、遺骨を故郷へぞ送りける。さても八十三騎は討たれて、範家一人助かりける、運命の程こそ不思議なれ。
校訂者注
1:底本は、「一業所感(ごふしよかん)」。底本頭注に、「同一の業報を感ぜられる事。即ち同一因果と同じ。」とある。
2:底本は、「城中に徒立(かちだち)」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
3:底本は、「馬強(うまづよ)なる兵」。底本頭注に、「馬乗りの達者な兵。」とある。
4:底本は、「思ひ切つたる事れば、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
5:底本は、「実験」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
6:底本頭注に、「義助。」とある。
7:底本頭注に、「貴殿の方よりも。」とある。
8:底本頭注に、「和田範長。」とある。
9:底本は、「云ふ儘、」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
10:底本頭注に、「播磨国。今阿弥陀村といひ其の辺の六騎武者塚といふものは範長の古跡だといふ。」とある。
11:底本は、「見せてぞ」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
12:底本は、「宇(うの)弥左衛門次郎重氏(しげうぢ)」。『太平記 三』(1983年)本文及び頭注に従い改めた。
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