新田殿兵庫を引かるる事

 新田左中将義貞は、備前美作の勢どもを待ちそろへんために、賀古川の西なる岡に陣を取つて、二日までぞ逗留し給ひける。折節、五月雨の降り続いて、河の水、増さりければ、「後より敵の懸かる事もこそ候へ。先づ総大将、又、宗徒の人々ばかりは、船にて向ふへ御渡り候へかし。」と諸人、口々に申しけれども、義貞、「さる事やあるべき。渡さぬ先に敵かかりたらば、中々引くべき方なくして、死を軽んぜんに便りあり。されば、韓信が水を背にして陣を張りしは、ここなり。軍勢を渡しはてて、義貞、後に渡るとも、何の痛みかあるべき。」とて、先づ馬弱なる軍勢、手負ひたる者どもを漸々にぞ渡されける。
 さる程に、水、一夜に落ちて、備前美作の勢、馳せ参りければ、馬筏を組んで六万余騎、同時に川をぞ渡されける。
 これまでは西国勢ども馳せ参じて、十万騎に余りたりしが、将軍兄弟{*1}、上洛し給ふ由を聞きて、いつの間にか落ち失せけん、五月十三日、左中将、兵庫に著き給ひける時は、その勢僅かに二万騎{*2}にも足らざりけり。

正成兵庫に下向の事

 尊氏卿、直義朝臣、大勢を率して上洛の間、要害の地に於いて防ぎ戦はんために、兵庫に引き退きぬるよし、義貞朝臣、早馬を参らせて、内裏に奏聞ありければ、主上、大きに御騒ぎあつて、楠判官正成を召されて、「急ぎ兵庫へ罷り下り、義貞に力をあはせて合戦を致すべし。」と仰せられければ、正成、畏まつて奏しけるは{*3}、「尊氏卿、すでに筑紫九国の勢を率して上洛候なれば、定めて勢は、雲霞の如くにぞ候らん。御方の疲れたる小勢を以て、敵の機に乗つたる大勢に懸け合つて、尋常の如くに合戦を致しさふらはば、御方、決定、打ち負け候ひぬ{*4}とおぼえ候なれば、新田殿をも唯京都へ召しさふらうて、前の如く山門へ臨幸成り候べし。正成も、河内へ罷り下りさふらうて、畿内の勢を以て河尻を差し塞ぎ、両方より京都を攻めて兵粮をつからかし候ほどならば、敵は次第につかれて落ち下り、御方は日々に随つて馳せ集まり候べし。その時に当たつて、新田殿は、山門より押し寄せられ、正成は搦手にて攻めのぼり候はば、朝敵を一戦に滅ぼす事ありぬとおぼえ候。
 「新田殿も、定めてこの料簡候とも、路次にて一軍もせざらんは、無下に云ふ甲斐なく人の思はんずる所を恥ぢて、兵庫に支へたりとおぼえ候。合戦は、とてもかくても、始終の勝ちこそ肝要にて候へ。よくよく遠慮を巡らされて、公議を定めらるべきにて候。」と申しければ、「誠に、軍旅の事は、兵に譲られよ。」と諸卿僉議ありけるに、重ねて坊門宰相清忠、申されけるは、「正成が申す所も、その謂はれありといへども、征罰のために差し下されたる節度使{*5}、未だ戦ひを成さざる前に、帝都を捨てて一年の内に二度まで山門へ臨幸ならんこと、且は帝位の軽きに似、又は官軍の道を失ふ処なり。たとひ尊氏、筑紫勢を率して上洛すとも、去年、東八箇国を従へて上りし時の勢には、よも過ぎじ。
 「およそ戦ひの始めより敵軍敗北の時に至るまで、御方、小勢なりといへども、毎度大敵を攻め靡けずと云ふことなし。これ、全く武略の勝れたる所にはあらず。唯、聖運の天に叶へる故なり。然れば、唯、戦ひを帝都の外に決して、敵を鈇鉞の下に滅ぼさん事、何の仔細かあるべきなれば、唯、時を替へず、楠、罷り下るべし。」とぞ仰せ出だされける。正成、「この上は、さのみ異議を申すに及ばず。」とて、五月十六日に都を立つて、五百余騎にて兵庫へぞ下りける。
 正成、これを最後の合戦と思ひければ、嫡子正行が今年十一歳にて供したりけるを、「思ふ様あり。」とて、桜井の宿より河内へ返し遣はすとて、庭訓を残しけるは、「獅子、子を産んで三日を経る時、数千丈の石壁よりこれを投ぐ。その子、獅子の機分あれば、教へざるに宙より跳ね返りて、死する事を得ずといへり。況んや汝、已に十歳に余りぬ。一言、耳に留まらば、我が教誡に違ふ事なかれ。今度の合戦、天下の安否と思ふ間、今生にて汝が顔を見ん事、これを限りと思ふなり。正成、已に討死すと聞きなば、天下は必ず将軍の代に成りぬと心得べし。然りといへども、一旦の身命を助からんために、多年の忠烈を失ひて、降人に出づる事、あるべからず。一族若党の一人も死に残つてあらんほどは、金剛山のほとりに引き篭つて、敵、寄せ来らば、命を養由が矢さきに懸けて、義を紀信が忠に比すべし。これぞ汝が第一の孝行ならんずる。」と、泣く泣く申し含めて、各、東西へ別れにけり。
 昔の百里奚は、穆公、晋の国を伐ちし時、戦ひの利なからん事を鑑みて、その将孟明視に向つて、今を限りの別れを悲しみ、今の楠判官は、敵軍、都の西に近づくと聞きしより、国、必ず滅びんことを愁へて、その子正行を留めて、なき後までの義を勧む。彼は異国の良弼、これは吾が朝の忠臣。時、千載を隔つといへども、前聖後聖一揆{*6}にして、有り難かりし賢佐なり。
 正成、兵庫に著きければ、新田左中将、やがて対面し給ひて、叡慮の趣をぞ尋ね問はれける。正成、畏まつて、所存の通りと勅定の様とを、委しく語り申しければ、「誠に、敗軍の小勢を以て、機を得たる大敵に戦はんこと、叶ふべきにてはなけれども、去年、関東の合戦に打ち負けて上洛せしとき、路にて猶支へざりし事、人口の嘲り、遁るる時を得ず。それこそあらめ、今度西国へ下されて、数箇所の城郭、一つも落とし得ずして、結句、敵の大勢なるを聞きて、一支へもせず京都まで遠引きしたらんは、余りに云ふ甲斐なく存ずる間、戦ひの勝負をば見ずして、唯一戦に義を勧めばやと存ずるばかりなり。」と宣ひければ、正成、重ねて申しけるは、「『衆愚の諤々たるは、一賢の唯々には如かず。』と申し候へば、道を知らざる人の譏りをば、必ずしも御心に懸けらるまじきにて候。唯、戦ふべき所を見て進み、叶ふまじき時を知つて退くをこそ良将とは申し候なれ。
 「さてこそ、『暴虎憑河、死して悔い無からん者{*7}には、与せず。』と、孔子も子路を誡められし事の候へ。その上、元弘の初めには、平太守{*8}の威猛を一時に砕かれ、この年の春は、尊氏の逆徒を九州へ退けられ候ひし事、聖運とは申しながら、ひとへに御計略の武徳に依りし事にて候へば、合戦の方に於いては、誰かさみし申し候べき{*9}。殊更、今度西国より御上洛の事、御沙汰の次第、一々に道に当たつてこそ存じ候へ。」と申しければ、義貞朝臣、誠に顔色解けて、夜もすがらの物語に、数杯の興をぞ添へられける。
 後に思ひ合はすれば、これを、正成が最期なりけりと、哀れなりし事どもなり。

兵庫海陸寄せ手の事

 さる程に、明くれば五月二十五日辰の刻に、沖の霞の晴れ間より、幽かに見えたる船あり。いさりに帰る海人か、淡路の迫戸を渡る船かと、海辺の眺望を眺めて、潮路遥かに見渡せば、取梶面梶に掻楯掻いて、艫舳に旗を立てたる数万の兵船、順風に帆をぞ挙げたりける。煙波眇々たる海の面、十四、五里が程に漕ぎ連ねて、舷をきしり、艫舳を並べたれば、海上、俄に陸地に成つて、帆影に見ゆる山もなし。「あな、おびただし。呉魏、天下を争ひし赤壁の戦ひ、大元、宋朝を滅ぼせし黄河の兵も、これには過ぎじ。」と目を驚かして見る処に、又、須磨の上野と鹿松岡、鵯越の方より二引両、四目結、すぢかひ、左巴、倚せかかりの輪違ひの旗、五、六百流れ差し連れて、雲霞の如くに寄せ懸けたり。海上の兵船、陸地の大勢、思ひしよりもおびただしくして、聞きしにも猶過ぎたれば、官軍、御方を顧みて、退屈してぞおぼえける。
 されども、義貞朝臣も正成も、大敵を見ては欺き、小敵を見ては侮らざる、世祖光武{*10}の心根をうつして得たる勇者なれば、少しも機を失ひたる気色なうして、先づ和田御崎の小松原に打ち出でて、閑かに手分けをぞし給ひける。一方には、脇屋右衛門佐義助を大将として、末々の一族二十三人、その勢五千余騎、経島にぞ控へたる。一方には大館左馬助{*11}氏明を大将として、相従ふ一族十六人、その勢三千余騎にて、灯炉堂の南の浜に控へらる。一方には楠判官正成、わざと他の勢を交じへずして七百余騎、湊川の西の宿に控へて、陸地の敵に相向ふ{*12}。左中将義貞は、総大将にておはすれば、諸将の命を司つて、その勢三万五千余騎、和田御崎に帷幕を引かせて控へらる。
 さる程に、海上の船ども、帆を下ろして磯近く漕ぎ寄すれば、陸地の勢も旗を進めて、相近にぞ成りにける。両陣、互に攻め寄せて、先づ沖の船より大鼓を鳴らし、鬨の声を揚ぐれば、陸地の搦手五十万騎、請け取つて声をぞ合はせける。その声、三度畢れば、官軍、又、五万余騎、楯の端を鳴らし胡簶を敲いて、鬨を作る。敵御方の鬨の声、南は淡路絵島崎、鳴戸沖、西は播磨路須磨浦、東は摂津国生田森、四方三百余里に響き渡つて、誠に天維も断えて落ち、坤軸{*13}も傾くばかりなり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「尊氏と直義。」とある。
 2:底本は、「二万余騎」。『太平記 三』(1983年)に従い削除した。
 3:底本は、「申しけるは、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 4:底本頭注に、「打ち負け候ひぬべしの意。」とある。
 5:底本頭注に、「一方面の軍旅を都督するもの。」とある。
 6:底本は、「前聖後聖一揆(き)」。底本頭注に、「孟子に見えた句で一揆とは趣の同一なこと。」とある。
 7:底本は、「死すとも而も悔い無からんには」。『太平記 三』(1983年)に従い改め、補った。
 8:底本は、「平太守(へいたいしゆ)」。底本頭注に、「北條高時。」とある。
 9:底本は、「誰か褊(さみ)し申し候べき。」。底本頭注に、「誰が軽蔑申しませうや。」とある。
 10:底本頭注に、「後漢の光武帝。」とある。
 11:底本は、「大館(おほだち)左馬(の)頭氏明(うぢあきら)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 12:底本は、「敵に向ふ。」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 13:底本頭注に、「〇天維 天を成立せしむる大綱。」「〇坤軸 地軸。」とある。