正成兄弟討死の事
楠判官正成、舎弟帯刀正季に向つて申しけるは、「敵、前後を遮つて、御方は陣を隔てたり。今は遁れぬ処とおぼゆるぞ。いざや、先づ前なる敵を一散らし追ひ捲つて、後ろなる敵に戦はん。」と申しければ、正季、「然るべくおぼえ候。」と同じて、七百余騎を前後に立てて、大勢の中へ駆け入りける。左馬頭の兵ども、菊水の旗を見て、よき敵なりとおもひければ、取り篭めてこれを討たんとしけれども、正成、正季、東より西へ破つて通り、北より南へ追ひ靡け、よき敵と見るをば馳せ並べて、組んで落ちては首をとり、合はぬ敵と思ふをば、一太刀打つてかけちらす。正成と正季と、七度合ひて七度分かる。その心、ひとへに左馬頭{*1}に近づき、組んで討たんと思ふにあり。
遂に左馬頭の五十万騎、楠が七百余騎に駆け靡けられて、又、須磨の上野の方へぞ引き返しける。直義朝臣の乗られたりける馬、矢尻を蹄に踏み立てて、右の足を引きける間、楠が勢に追ひ詰められて、已に討たれ給ひぬと見えける処に、薬師寺十郎次郎、唯一騎、蓮池の堤にて返し合はせて、馬より飛んでおり、二尺五寸の小長刀の石づきを取り延べて、懸かる敵の馬の平頚{*2}、むながひの引き廻し、切つては刎ね倒し刎ね倒し、七、八騎が程切つて落としけるその間に、直義は馬を乗り替へて、遥々落ち延び給ひけり。左馬頭、楠に追つ立られて引き退くを、将軍、見給ひて、「新手を入れ替へて、直義討たすな。」と下知せられければ、吉良、石堂、高、上杉の人々、六千余騎にて湊河の東へかけ出でて、後を切らんとぞ取り巻きける。
正成、正季、又取つて返してこの勢にかかり、駆けては打ち違へて殺し、駆け入つては組んで落ち、三時が間に十六度まで闘ひけるに、その勢、次第次第に滅びて、後は僅かに七十三騎にぞなりにける。この勢にても、打ち破つて落ちば落つべかりけるを、楠、京を出でしより、世の中の事、今はこれまでと思ふ所存ありければ、一足も引かず戦つて、機、已に疲れければ、湊河の北に当たつて在家の一村ありける中へ走り入つて、腹を切らんために、鎧を脱いで我が身{*3}を見るに、斬り創十一箇所までぞ負ひたりける。この外、七十二人の者どもも皆、五箇所三箇所の疵を被らぬ者はなかりけり。楠が一族十三人、手の者六十余人、六間の客殿に二行に並み居て、念仏十返ばかり同音に唱へて、一度に腹をぞ切つたりける。
正成、座上に居つつ、舎弟の正季に向つて、「そもそも最期の一念に依つて、善悪の生を引くといへり。九界の間に、なにか御辺の願ひなる。」と問ひければ、正季、からからと打ち笑ひて、「七生まで、唯同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ。」と申しければ、正成、よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれども、我もかやうに思ふなり。いざ、さらば同じく生を替へて、この本懐を達せん。」と契つて、兄弟、共に刺し違へて、同じ枕に伏しにけり。橋本八郎正員、宇佐美河内守正安、神宮寺太郎兵衛正師、和田五郎正隆を始めとして、宗徒の一族十六人、相随ふ兵五十余人、思ひ思ひに並み居て、一度に腹をぞ切つたりける。
菊池七郎武朝は、兄の肥前守が使にて、須磨口の{*4}合戦の体を見に来りけるが、正成が腹を切る所へ行き合ひて、おめおめしく{*5}見捨ててはいかが帰るべきと思ひけるにや、同じく自害をして、炎の中に伏しにけり。
そもそも元弘より以来、忝くもこの君{*6}に憑まれ参らせて、忠を致し功に誇る者、幾千万ぞや。然れども、この乱、又出で来て後、仁を知らぬ者は、朝恩を捨てて敵に属し、勇みなき者は、苟しくも死を免れんとて刑戮にあひ、智なき者は、時の変を弁ぜずして道に違ふことのみありしに、智仁勇の三徳を兼ねて、死を善道に守るは、古より今に至るまで、正成ほどの者は未だなかりつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主、再び国を失ひて、逆臣、横しまに威を振ふべき、その前表のしるし{*7}なれ。
新田殿湊河合戦の事
楠、已に討たれにければ、将軍と左馬頭と一処に合つて、新田左中将に打つてかかりたまふ。義貞、これを見て、「西宮より上がる敵は、旗の紋を見るに、末々の朝敵どもなり。湊河よりかかる勢は、尊氏、直義とおぼゆる。これこそ願ふ所の敵なれ。」とて、西宮より取つて返し、生田の森を後ろに当てて、四万余騎を三手に分けて、敵を三方にぞ受けられける。さる程に、両陣、互に勢を振うて、鬨を作り声を合はす。
先づ一番に大館左馬助氏明、江田兵部大輔行義、三千余騎にて、仁木、細川が六万余騎に駆け合ひて、火を散らして相戦ふ。その勢、互に討たれて、両方へ颯と引き退けば、二番に中院中将定平、大江田、里見、鳥山、五千余騎にて、高、上杉が八万騎に駆け合つて、半時ばかり黒煙を立てて揉み合ひたり。その勢ども、戦ひ疲れて両方へ颯と引き退けば、三番に脇屋右衛門佐、宇都宮治部大輔、菊池次郎、河野、土居、得能、一万騎にて、左馬頭、吉良、石堂が十万余騎に駆け合はせ、天を響かし地を動かして攻め戦ふ。或いは引つ組んで、落ち重なつて首を取るもあり、取らるるもあり。或いは敵と打ち違へて、同じく馬より落つるもあり。両虎二竜の闘ひに、いづれも討たるるもの多かりければ、両方、東西へ引き退きて、人馬の息をぞ休めける。
新田左中将、これを見給ひて、「新手の兵、已に尽きて、戦ひ未だ決せず。これ、義貞が自ら当たるべき処なり。」とて、二万三千余騎を左右に立てて、将軍の三十万騎に駆け合はせ、兵刃を交じへて、命を鴻毛よりも軽くせり。官軍の総大将と、武家の上将軍と、自ら戦ふ軍なれば、射落とさるれども矢を抜くに隙なく、組んで下になれども、落ち合ひて助くる者なし。唯、子は親を棄てて切り合ひ、朗等は主に離れて戦へば、馬の馳せ違ふ声、太刀の鐔音、いかなる修羅の闘諍も、これには過ぎじとおびただし。先に一軍して引きしざりたる両方の勢ども、今はいつをか期すべきなれば、四隊の陣、一処にこぞつて、敵と敵と相交じはり、中黒の旗と二引両と、巴の旗と輪違と、東へ靡き西へ靡き、磯山風に翩翻して、入り違ひたるばかりにて、いづれを御方の勢とは見え分かず。新田、足利の国の争ひ、今を限りとぞ見えたりける。
官軍は、元来小勢なれば、命を軽んじて戦ふといへども、遂には大敵に懸け負けて、残る勢、僅か五千余騎、生田森の東より丹波路を指してぞ落ち行きける。数万の敵、勝つに乗つてこれを追ふ事、甚だ急なり。されどもいつもの習ひなれば、義貞朝臣、御方の軍勢を落ち延びさせんために、後陣に引き下がりて、返し合はせ返し合はせ戦はれける程に、義貞の乗られたりける馬に、矢七筋まで立ちける間、小膝を折つて倒れけり。義貞、求塚の上に下り立ちて、乗替の馬を待ち給へども、敢へて御方、これを知らざりけるにや、下りて乗せんとする人もなかりけり。敵やこれを見知りたりけん、即ち取り篭めてこれを討たんとしけるが、その勢ひに僻易して、近くは更に寄らざりけれども、十方より遠矢に射ける矢、雨や雹の降るよりも猶繁し。
義貞は、薄金といふ鎧に、鬼切、鬼丸とて、多田満仲より伝はりたる源氏重代の太刀を二振り佩かれたりけるを、左右の手に抜き持ちて、下がる矢をば飛び越え、上がる矢にはさしうつぶき、真中を指して射る矢をば、二振りの太刀を相交じへて、十六までぞ切つて落とされける。その有様、譬へば多聞、持国、増長、広目の四天、須弥の四方にすんで同時に放つ矢を、捷疾鬼といふ鬼、走り廻つて、未だその矢の大海に落ち著かざる前に、四つの矢を取つて帰るらんも、かくやとおぼゆるばかりなり。
小山田太郎高家、遥かの山の上よりこれを見て、諸鐙を合はせて馳せ参じて、己が馬に義貞を乗せ奉りて、我が身は、かち立ちに成つて、追つ懸くる敵を防ぎけるが、敵あまたに取り篭められて、遂に討たれにけり。その間に義貞朝臣、御方の勢の中へ馳せ入つて、虎口に害を遁れ給ふ。
校訂者注
1:底本頭注に、「足利直義。」とある。
2:底本頭注に、「〇石づき 長刀の本を包んだ金具の所。」「〇平頚 馬の頭の横面の平らな部分。」とある。
3:底本は、「其の身」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
4:底本は、「須磨口(すまぐち)より合戦の体(てい)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
5:底本は、「をめをめしく」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
6:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
7:底本頭注に、「〇前表の験 前兆。」とある。
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