小山田太郎高家青麦を刈る事

 そもそも官軍の中に、義を知り命を軽んずるもの多しといへども、事の急なるに臨んで、大将の命にかはらんとする兵なかりけるに、遥かに隔たりたる小山田一人、馬を引き返して義貞を乗せ奉り、あまつさへ、我が身、後に下がりて討死しける、その志を尋ぬれば、僅かの情に依つて、百年の身を捨てけるなり。
 今年{*1}義貞、西国の討手を承つて播磨に下著し給ふ時、兵多くして粮乏し。「もし軍に法を置かずば、諸卒の狼藉、絶ゆべからず。」とて、一粒をも刈り採り、民屋の一つをも追捕したらんずる者をば、速やかにこれを誅せらるべき由を大札に書いて、道の辻々にぞ立てられける。これに依つて、農民、耕作を棄てず、商人、売買を快くしける処に、この高家、敵陣の近隣に行きて青麦を打ち刈らせて、乗鞍に負はせてぞ帰りける。
 時の侍所長浜六郎左衛門尉、これを見、直に高家を召し寄せ、力なく、法の下なればこれを誅せんとす。義貞、これを聞き給ひて、「推量するに、この者{*2}、青麦に身を替へんと思はんや。この所、敵陣なればと思ひ誤りけるか、然らずば、兵粮に術尽きて法の重きを忘れたるかの間なり。いかさま、彼の役所を見よ。」とて、使者を遣はして点検せられければ、馬物具、爽やかにありて、食物の類は一粒も無かりけり。使者、帰つてこの由を申しければ、義貞、大きに恥ぢたる気色にて、「高家が法を犯す事は、戦ひのために罪を忘れたるべし。いかさま、士卒先んじて疲れたるは、大将の恥なり。勇士をば失ふべからず。法をば乱る事なかれ。」とて、田の主には小袖二重ね与へて、高家には兵粮十石相副へて、色代してぞ帰されける。
 高家、この情を感じて、忠義いよいよ心に染みければ、この時、大将の命に替はり、忽ちに討死をばしたるなり。昔より今に至るまで、さすがに侍たるほどの者は、利をも思はず、威にも恐れず、唯その大将に依つて、身を捨て命に替はるものなり。今、武将たる人、これを慎しんで、これを思はざらんや。

聖主又山門へ臨幸の事

 官軍の総大将義貞朝臣、僅かに六千余騎に討ちなされて帰洛せられければ、京中の貴賤上下、色を損じてあわて騒ぐ事、限りなし。官軍、もし戦ひに利を失はば、前の如く東坂本へ臨幸成るべきに、かねてより議定ありければ、五月十九日、主上、三種の神器を先に立てて、竜駕をぞ廻らされける。
 あさましや、元弘の初めに、公家、天下を一統せられて、三年を過ぎざるに、この乱又出で来て、四海の民安からず。然れども、去んぬる正月の合戦に、朝敵、忽ちに打ち負けて、西海の浪に漂ひしかば、「これ、聖徳の顕はるる処なり。今は、よも上を犯さんと好み、乱を起こさんとするものはあらじ。」とこそおぼえつるに、西戎{*3}、忽ちに襲ひ来つて、一年のうちに二度まで、天子、都を移させ給へば、今は、日月も昼夜を照らす事なく、君臣も上下を知らぬ世になつて、仏法王法、共に滅ぶべき時分にや成りぬらんと、人々、心を迷はせり。されども、この春も山門へ臨幸成つて、程なく朝敵を退治せられしかば、又さる事やあらんと、定めなき憑みに積習して、この度は、公家にも武家にも供奉仕る者多かりけり。
 摂籙の臣は、申すに及ばず。公卿には吉田内大臣定房、万里小路大納言宣房、竹林院大納言公重、御子左大納言為定、四條中納言隆資、坊城中納言経顕、洞院左衛門督実世、千種宰相中将忠顕、葉室中納言長光、中御門宰相宣明。殿上人には中院左中将定平、坊門左大弁清忠、四條中将隆光、園中将基隆、甘露寺左大弁藤長、岡崎右中弁範国、一條頭大夫行房。この外、衛府、諸司、外記、史、官人、北面、有官、無官の滝口、諸家の侍。官僧官女、医陰両道{*4}に至るまで、我も我もと供奉仕る。
 武家の輩には、新田左中将義貞、子息越後守義顕、脇屋右衛門佐義助、子息式部大輔義治、堀口美濃守貞満、大館左馬助義氏、江田兵部少輔行義、額田掃部助正忠、大江田式部大輔氏経、岩松兵衛蔵人義正、鳥山左京助氏頼、羽川越中守時房、桃井兵庫助顕氏、里見大膳亮義益、田中修理亮氏政、千葉介貞胤、宇都宮治部大輔公綱、同美濃将監泰藤、狩野将監貞綱、熱田大宮司昌能、河野備後守通治、得能備中守通益、武田甲斐守盛正、小笠原蔵人政道、仁科信濃守氏重、春日部治部少輔時賢、名和伯耆守長年、同太郎判官長生、今木新蔵人範家、頓宮六郎忠氏、これ等を宗徒の侍とし、その勢都合六万余騎、鳳輦の前後に打ち囲みて、今路越にぞ落ち行き給ひける。

持明院本院東寺へ潜幸の事

 持明院法皇、本院、新院、春宮{*5}に至るまで、悉く皆、山門へ御幸成し参らすべき由、太田判官全職、路次の奉行として供奉仕りたるに、本院は、かねてより尊氏に院宣を成し下されたりしかば、二度御治世の事やあらんずらんと思し召して、北白川の辺より、「俄に御不預{*6}の事あり。」とて、御輿を法勝寺の塔の前に舁き据ゑさせて、わざと時をぞ移されける。
 さる程に、敵、已に京中に入り乱れぬと見えて、兵火、四方に盛んなり。全職、これを見て、さのみは、いつまでか暗然として待ち申すべきなれば、供奉の人々に、「急ぎ山門へ成し参らすべし。」と申し置きて、新院、法皇、春宮ばかりを、先づ東坂本へぞ御幸成し参らせける。本院は、「全職が立ち帰る事もやあらんずらん。」と、恐ろしく思し召されければ、日野中納言資名、殿上人には三條中将実継ばかりを供奉人として、急ぎ東寺へぞ成し奉りける。
 将軍、ななめならず悦んで、東寺の本堂を皇居と定めらる。久我内大臣を始めとして、落ち留まり給へる卿相雲客、参られしかば、則ち、皇統を立てらる。これぞはや、尊氏、運を開かるべき瑞{*7}なりける。

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校訂者注
 1:底本は、「去年」。『太平記 三』(1983年)頭注に従い改めた。
 2:底本は、「此の青麦に」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 3:底本は、「西戎(せいじう)」。底本頭注に、「西の蛮人即ち尊氏の西より上つたことを指す。」とある。
 4:底本は、「無官、滝口(たきぐち)、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。底本頭注に、「〇外記 今の書記官。」「〇史 記録を司る役。」「〇北面 院御所の武士。」「〇滝口 宮中の武官。」「〇医陰両道 医道と陰陽道。」とある。
 5:底本頭注に、「〇持明院法皇 後伏見院。」「〇本院 花園院。」「〇新院 光厳院。」「〇春宮 豊仁親王。後の光明天皇。」とある。
 6:底本は、「御不預(ごふよ)」。底本頭注に、「御病気。」とある。
 7:底本は、「瑞(ずゐ)」。底本頭注に、「善き前兆。」とある。