巻第十七
山門攻めの事 附 日吉神託の事
主上、二度山門へ臨幸なりしかば、三千の衆徒、去んぬる春の勝ち軍に習つて、弐心なく君を擁護し奉り、北国奥州の勢を待つ由、聞こえければ、将軍、左馬頭、高、上杉の人々、東寺に会合して合戦の評定あり。「事、延引して、義貞に勢附きなば、叶ふまじ。勢、未だ微なるに乗つて、山門を攻むべし。」とて、六月二日、四方の手分けを定めて、追手搦手五十万騎の勢を、山門へ差し向けらる。
追手には、吉良、石堂、渋河、畠山を大将として、その勢五万余騎、大津、松本の東西の宿、園城寺の焼け跡、志賀、唐崎、如意嶽まで充満したり。搦手には、仁木、細川、今川、荒川を大将として、四国中国勢八万余騎、今道越に三石の麓を経て無動寺へ寄せんと志す。西坂本へは、高豊前守師重、高土佐守、高伊予守、南部遠江守、岩松、桃井等を大将として三十万騎、八瀬、薮里、静原、松崎、赤山、下松、修学院、北白河まで支へて、音無の滝、不動堂、白鳥よりぞ寄せたりける。
山門には、敵、これまで寄すべしとは思ひも寄らざりけるにや、道々をも警固せず、木戸、逆茂木の構へもせざりければ、さしも嶮しき道なれども、岩石に馴れたる馬どもなれば、上らぬ所もなかりけり。その時しも、新田左兵衛督を始めとして、千葉、宇都宮、土居、得能に至るまで、東坂本に集まり居て、山上には行歩も叶はぬ宿老、稽古の窓を閉ぢたる修学者の外は、兵一人もなかりけり。この時、もし西坂より寄する大勢ども、暫しも滞りなく四明嶽まで打ち上がりたらましかば、山上も坂本も、防ぐに便りなくして、一時に落つべかりしを、猶も山王大師の御加護やありけん、俄に朝霧深く立ち隠して、咫尺{*1}の中をも見わかぬ程なりければ、前陣に作る御方の鬨の声を、敵の防ぐ矢叫びの声ぞと聞き誤つて、後陣の大勢つづかねば、そぞろに時をぞ移しける。
かかる処に、大宮へおり下つて三塔会合しける大衆上下、帰山して、将門の童堂の辺りに相支へて、ここを先途と防ぎける間、面に進みける寄せ手三百人討たれ、前陣、敢へてかからねば、後陣はいよいよ進み得ず。唯、水飲の木蔭に陣をとり、堀切を境ひて掻楯を掻き、互に遠矢を射違へて、その日はいたづらに暮れにけり。
西坂に軍始まりぬとおぼえて、鬨の声、山に響きて聞こえければ、志賀、唐崎の寄せ手十万余騎、東坂本の西の穴生の前へ押し寄せて、鬨の声をぞ揚げたりける。ここにて敵の陣を見渡せば、無動寺の麓より湖の波打際まで、から堀を二丈余りに掘り通して、処々に橋をかけ、岸の上に塀を塗り、木戸、逆茂木をきびしくして、渡り櫓、高櫓、三百余箇所掻き並べたり。塀の上より見越せば、これこそ大将の陣とおぼえて、中黒の旗三十余流れ、山颪に吹かれて竜蛇の如くに翻りたるその下に、陣屋を並べて油幕を引き、爽やかに鎧うたる兵二、三万騎、馬を後ろに引き立てさせて、一勢一勢並み居たり。無動寺の麓、白鳥の方を見上げたりければ、千葉、宇都宮、土居、得能、四国中国の兵、ここを堅めたりとおぼえて、左巴、右巴、月に星、片引両、傍折敷に三文字書きたる旗ども六十余流れ、木々の梢に翻つて片々たるその蔭に、兜の緒を締めたる兵三万余騎、敵近づかば横合にかさより落とさんと、轡を並べて控へたり。
又、湖上の方を見下したれば、西国北国東海道の、船軍に馴れたる兵どもとおぼえて、亀甲、下濃の瓜の紋、連銭、三星、四目結、赤幡、水色、三𥻘、家々の紋画いたる旗三百余流れ、潮ならぬ海に影見えて、漕ぎ並べたる舷に射手とおぼえたる兵数万人、掻楯の蔭に弓杖を突いて、横矢を射んと構へたり。寄せ手、誠に大勢なりといへども、敵の勢に機を呑まれて、矢懸かりまでも進み得ず。大津、唐崎、志賀の里三百余箇所に陣を取つて、遠攻めにこそしたりけれ。
六月六日、追手の大将の中より、西坂の寄せ手の中へ使者を立て、「こなたの敵陣を伺ひ見候へば、新田、宇都宮、千葉、河野を始めとして、宗徒の武士ども大略皆、東坂本を堅めたりと見えて候。西坂をば、嶮しきを憑みて、公家の人々、さては山法師どもを差し向けて候なる。一軍手痛く攻めて御覧候へ。はかばかしき合戦は、よも候はじ。思ふ図に大嶽の敵を追ひ落とされて候はば、大講堂、文殊楼のほとりに控へて、火を挙げられ候へ。同時に攻め合はせて、東坂本の敵を一人も余さず湖水に追つぱめて、亡ぼし候べし。」とぞ牒ぜられける{*2}。
西坂の大将高豊前守、これを聞きて、諸軍勢に向つて法をいだしけるは、「山門を攻め落とすべき諸方の相図、明日にあり。この合戦に一足も退きたらんものは、たとひさきざき抜群の忠ありといふとも、無きに処して本領を没収し、その身を追ひ出だすべし。一太刀も敵に打ち違へて、陣を破り、分捕をもしたらんずる者をば、凡下ならば侍になし、御家人ならば、直に恩賞を申し与ふべし。さればとて、一人高名せんとて抜け懸けすべからず。又、傍輩の忠を猜んで、危ふき処を見放つべからず。互に力を合はせ、共に志を一つにして、斬れども射れどももちゐず{*3}、乗り越え乗り越え進むべし。敵引き退かば、立ち帰らざるさきに攻め立てて、山上に攻めのぼり、堂舎仏閣に火をかけて、一宇も残さず焼き払ひ、三千の衆徒の頚を一々に大講堂の庭に斬りかけて、将軍の御感に預かり給へかし。」と、諸人を励まして下知しける、悪逆の程こそあさましけれ。諸国の軍勢等、この命を聞きて、勇み進まぬものなし。
夜、已に明けければ、三石、松尾、水飲より三手に分かれて二十万騎、太刀長刀の鋒を並べ、射向の袖を差しかざして、えいや声を出だしてぞ上がつたりける。先づ一番に、中書王{*4}の副将軍に憑まれたりける千種宰相中将忠顕卿、坊門少将正忠、三百余騎にて防がれけるが、松尾より攻め上がる敵に後ろを包まれて、一人も残らず討たれてげり。これを見て、後陣に支へて防ぎける正護院、禅智坊、道場坊以下の衆徒七千余人、一太刀打つては引き上がり、暫く支へては引き退き、次第次第に引きける間、寄せ手、いよいよ勝つに乗つて追ひ立て追ひ立て、一息をもつがせず。さしも嶮しき雲母坂、蛇池を弓手に見なして、大嶽までぞ攻め上がりける。
さる程に、院々に早鐘撞いて、「西坂、已に攻め破られぬ。」と、本院の谷々に騒ぎ呼ばはりければ、行歩も叶はぬ老僧は、鳩の杖{*5}に携はつて中堂、常行堂なんどへ参りて、本尊と共に焼け死なんと悲しみ、稽古讃仰をのみ事とする修学者などは、経論聖教を腹に当て、落ち行く悪僧の太刀長刀を奪ひ取つて、四郎谷の南、箸塚の上に走り上がり、命を捨てて戦ひける。
ここに、数万人の中より唯一人、「備後国の住人江田源八泰氏。」と名のつて、洗革の大鎧に{*6}五枚兜の緒を締め、四尺余の太刀、所々さびたるに血を附けて、ましぐらにぞ上がりたりける。これを見て、杉本山神の大夫定範といひける悪僧、黒糸の鎧に竜頭の兜の緒を締め、大立挙の臑当に、三尺八寸の長刀、茎短かに取つて、乱れ足を踏み、人交ぜもせず唯二人、火を散らしてぞ斬り合ひける。源八、遥かの坂を上がつて、数箇度の戦ひに腕緩く機疲れけるにや、ややもすればうけ太刀になりけるを、定範、得たりかしこしと長刀の柄を取り延べ、源八が兜の鉢を、破れよ砕けよと重ね打ちにぞ打つたりける。源八、兜の吹き返しを目の上へ切りさげられて、著直さんと押し仰きける処を、定範、長刀をからりと打ち棄てて、走りかかつてむづと組む。二人が踏みける力足に山の片岸崩れて、足もたまらざりければ、二人、引つ組みながら数千丈高き小篠原を上になり下になり転びけるが、中程より別々になつて、両方の谷の底へぞ落ちたりける。
この外、十四の禅侶、法華堂の衆に至るまで、忍辱の衣の袖を結びて肩にかけ、降魔の利剣をひつ提げて、向ふ敵に走りかかり走りかかり、命を風塵よりも軽くして防ぎ戦ひける程に、寄せ手の大勢、進みかねて、四明の巓、西谷口、今三町ばかりに見上げて、一息休めてぞ支へける。
ここに、何者かしたりけん、大講堂の鐘を鳴らして事の急を告げたりける間、「篠峯を固めん。」とて、昨日横川へ向はれたりける宇都宮五百余騎、鞭に鐙を合はせて西谷口へ馳せ来る。皇居を守護して東坂本におはせられける新田左中将義貞、六千余騎を率して四明の上へ馳せ上がつて、紀清両党を虎韜に進ませ、江田、大館を魚鱗に連ねて、真さかさまに駆け立てられけるに、寄せ手二十万騎の兵ども、水飲の南北の谷へ駆け落とされて、人馬、いやが上に落ち重なりしかば、さしも深き谷二つ、死人に埋まつて平地になる。寄せ手、日頃の合戦に打ち負けて、相図の支度相違しければ、水飲より下に陣を取つて、敵の隙を伺ふ。義貞は、東坂本を差し置いて、大嶽に陣を取り、昼夜旦暮に戦ひて、互に陣を破られず。西坂の合戦、このままにて止みぬ。
その翌日、高豊前守、大津へ使を立てて、「宗徒の敵どもは、皆大嶽へ向ひたりと見えて候。急ぎ追手の合戦を始められて、東坂本を攻め破り、神社、仏閣、僧坊、民屋に至るまで、一宇も残らず焼き払ひて、敵を山上に追ひ上げ、東西両塔の間に打ち上げて、煙を揚げられ候はば、大嶽の敵ども、前後に心を迷はして、進退定めて度を失ひつとおぼえ候。その時、こなたより同じく攻め上がり、戦ひの雌雄を一時に決すべし。」とぞ牒ぜられける。吉良、石堂、仁木、細川の人々、これを聞きて、「昨日は、已に追手の勧めに依つて、高家の一族ども、手詰めの合戦を致しつ。今日は又、搦手よりこの陣の合戦を勧めらるる事、誠に理に当たれり。黙止すべきにあらず。」とて、十八万騎を三手に分けて、田中、浜道、山傍より、わざと夕日に敵を向けて、東坂本へぞ寄せたりける。
城中の大将には、義貞の舎弟脇屋右衛門佐義助を置かれたりければ、東国西国の強弓、手だれをそろへて、土矢間、櫓の上におき、土居、得能、仁科、春日部、伯耆守以下の四国北国の懸け武者ども二万余騎、白鳥岳に控へさせ、船軍に馴れたる国々の兵に、和仁、堅田の地下人どもを差し添へて五千余人、兵船七百余艘に掻楯を掻いて、湖水の沖に浮けられたり。敵陣の構へきびしくして、人の近づくべき様なしといへども、「軍をせでは、敵の落つべき様やある。」とて、三方の寄せ手八十万騎、相近づきて鬨を作りければ、城中の勢六万余騎、矢間の板を鳴らし舷をたたいて、鬨の声を合はす。大地もこれがために裂け、大山もこの時に崩れやすらんとおびただし。
寄せ手、すでに堀の前までかづき寄せ、埋め草を以て堀をうめ、焼き草を積んで櫓を落とさんとしけるとき、三百余箇所の櫓、土さま、出し塀の内より、雨の降る如く射出だしける矢、更にあだ矢一つもなかりければ、楯のはづれ、旗下に{*7}射伏せられて、死生の境を知らざる者、三千人に余れり。寄せ手、余りに射殺されける間、「持楯の蔭に隠れん。」と少し色めきたる{*8}処を城中より見澄まして、脇屋、堀口、江田、大館の人々六千余騎、三つの木戸を開かせて、まつしぐらに敵の中へかけ入る。土居、得能、仁科、伯耆が勢二千余騎、白鳥より駆け下りて横合にあふ。湖水に浮かべる国々の兵ども、唐崎の一松の辺へ漕ぎ寄せて、さし矢、遠矢、すぢかひ矢に、矢種を惜しまず射たりける。寄せ手、大勢なりといへども、山と海と横矢に射しらまされ{*9}、田中、白鳥の官軍に駆け立てられ、叶はじとや思ひけん、又、本陣へ引き返す。
その後よりは、日夜朝暮に兵を出だし、矢軍ばかりをばしけれども、寄せ手は遠攻めにしたるばかり{*10}を業にし、官軍は、城を落とされざるを勝ちにして、はかばかしき軍はなかりけり。
同じき十六日、熊野の八荘司ども、五百余騎にて上洛したりけるが、「新手なれば、一軍せん。」とて、やがて西坂へぞ向ひたりける。黒糸の鎧兜に、指のさきまで鎖りたる篭手、臑当、半頬{*11}、膝鎧、透き処なく一様に包みつれたることがら{*12}、誠に尋常の兵どもの出で立ちたる体には事替はりて、物の用に立ちぬと見えければ、高豊前守、悦び思ふ事、ななめならず。やがて対面して、合戦の意見を問ひければ、湯河荘司、殊更進み出でて申しけるは、「紀伊国そだちの者どもは、幼きより悪処岩石に馴れて、鷹をつかひ、狩を仕る者にて候間、馬の通り候はぬほどの嶮岨をも、平地の如くに存ずるにて候。ましてや申さん、この山なんどを見て、難所なりとおもふことは、つゆばかりも候まじ。縅毛こそよくも候はねども、我等が手づから撓め拵へて候物具をば、如何なる筑紫の八郎殿{*13}も、左右なく裏かかする程の事は、よも候はじ。将軍の御大事、この時にて候へば、我等、武士の矢面に立つて、敵、矢を射ば、物具にうけ留め、斬らばその太刀長刀に取りつき、敵の中へわり入る程ならば、如何なる新田殿なりとも、やはか、こらへ候べき。」と傍若無人に申せば、聞く人見る人、いづれも偏執の思ひをなしにけり。「さらば、やがてこれをさき武者として攻めよ。」とて、六月十七日の辰の刻に、二十万騎の大勢、熊野の八荘司が五百余人を先に立てて、松尾坂の尾崎より、かづきつれてぞ上がりたりける。
官軍の方に綿貫五郎左衛門、池田五郎、本間孫四郎、相馬四郎左衛門とて、十万騎が中よりすぐり出だされたる強弓の手だれ{*14}あり。池田と綿貫とは、折節、東坂本へ遣はされて居合はさざれば、本間と相馬と二人、義貞の御前に候ひけるが、熊野人どもの真黒に包みつれて攻め上がりけるを遥かに見下し、からからと打ち笑ひ、「今日の軍に、御方の兵に太刀をも抜かせ候まじ。矢一つをも射させ候まじ。我等二人罷り向つて、一矢仕つて、奴原に肝をつぶさせ候はん。」と申し、いと閑かに座席をぞ立ちたりける。
猶も弓を強く引かんために、著たる鎧を脱ぎ置きて、脇立ばかりに大童になり、白木の弓の、ほこ短かには見えけれども、尋常の弓に立ち並べたりければ、今二尺余りほこ長にて、そり高なるを大木どもに押し撓め、ゆらゆらと押し張り、白鳥の羽にてはぎたる矢の十五束三伏ありけるを、百矢の中よりただ二筋抜いて弓に取り副へ、そぞろ歌うたうてしづしづと向うの尾へ渡れば、後ろに立ちたる相馬、銀のつく打つたる弓の、普通の弓四、五丁{*15}張り合はせたる程なるを、左の肩に打ちかたげて、金磁頭二つ、箆撓{*16}に取り添へて道々撓め直し、爪よりて、一群茂る松かげに人交ぜもなく、唯二人、弓杖突いてぞ立つたりける。
ここに、「これぞ聞こえたる八荘司がうちの大力よ。」とおぼえて、たけ八尺ばかりなる男の一荒れ荒れたるが、鎖の上に黒皮の鎧を著、五枚兜の緒を締め、半頬の面に朱をさして、九尺ばかりに見えたる樫の木の棒を左の手に握り、猪の目透かしたる鉞の刃のわたり一尺ばかりあるを、右の肩に振りかたげて、少しもためらふ気色なく、小跳りして登る有様は、摩醯修羅王、夜叉、羅刹の怒れる姿に異ならず。あはひ二町ばかり近づいて、本間、小松の蔭より立ち顕はれ、くだんの弓に十五束三伏、忘るるばかり引きしぼり、ひやうと射わたす。志す処の矢壺を少しも違へず{*17}、鎧の弦走より総角附の板まで、裏表五重を懸けず射徹して、矢さき三寸ばかり、ちしほに染みて出でたりければ、鬼か神と見えつる熊野人、持ちける鉞を打ち捨てて、小篠の上にどうと伏す。
その次に、これも熊野人かとおぼえて、先の男に一かさ増して、二王を作り損じたる如くなる武者の、眼さかさまに裂け、鬚、左右へ分かれたるが、緋縅の鎧に竜頭の兜の緒を締め、六尺三寸の長刀に四尺余りの太刀佩いて、射向の袖をさしかざし、後ろを吃と見て、「遠矢な射そ。矢だうなに。」といふままに、鎧づき{*18}して上がりける処を、相馬四郎左衛門、五人張に十四束三伏の金磁頭、くつ巻を残さず引きつめて、弦音高く切つて放つ。手答へと、すがひ拍子{*19}に聞こえて、兜の真向より眉間の脳を砕いて、鉢著の板の横縫きれて、鏃の見ゆるばかりに射篭みたりければ、あつといふ声と共に倒れて、矢庭に二人死ににけり{*20}。
後に続ける熊野勢五百余人、この矢二筋を見て、前へも進まず、後ろへも帰らず。皆、背をくぐめてぞ立つたりける。本間と相馬と二人ながら、これをば少しも見ぬ由にて、御方の兵の二町ばかり隔たりける向ふの尾に陣を取つて居たりけるに向つて、「例ならず敵どものはたらき候は、軍の候はんずるやらん。ならしに一つづつ射て見候はん。何にても的に立てさせ給へ。」といひければ、「これ、遊ばし候へ。」とて、皆紅の扇に月出だしたるを矢に挟みて、遠的場だてにぞ立てたりける。本間は前に立ち、相馬は後ろに立つて、「月を射ば、天の恐れもありぬべし。両方のはづれを射んずるぞ。」と約束して、本間、はたと射れば、相馬もはたと射る。矢壺、約束に違はず、中なる月をぞ残しける。その後、百矢二腰取り寄せて、張りがへの弓の素引きして、「相模国の住人本間孫四郎重氏、下総国の住人相馬四郎左衛門尉忠重二人、この陣を堅めて候ぞ。矢、少々うけて、物具の札のほど、御覧候へ。」と高らかに名のりければ、後ろなる寄せ手二十万騎、誰追ふとしもなけれども、我先にとふためきて、又、元の陣へ引き返す。
「今のごとく矢軍ばかりにて日を暮らし夜を明かさば、何年攻むるとも、山、落つることやはあるべき。」と、諸人、攻めあぐんで思ひける処に{*21}、山徒、金輪院の律師光澄がもとより、今木の少納言隆賢と申しける同宿を使にて、高豊前守に申しけるは、「新田殿の支へられ候四明山の下は、山上第一の難所にて候へば、たやすく攻め破られんこと、叶ひ難しとこそ存じ候へ。よく物馴れて候はんずる西国方の兵を四、五百人、この隆賢に相副へられ、無動寺の方より忍び入り、文殊楼のほとり四王院のあたりにて、鬨の声を揚げられ候はば、光澄与力の衆徒等{*22}、東西両塔の間に旗を揚げ、鬨をあはせて、山門をば時の間に攻め落とし候べし。」とぞ申しける。
「あはれ、山徒の中に御方する者、一人なりとも出来あれかし。」と念願しけるところに、隆賢、忍びやかに来り、夜討すべき様を申しければ、高豊前守、大きに喜んで、播磨、美作、備前、備中四箇国の勢の中より、夜討に馴れたる兵五百余人をすぐつて、六月十八日の夕闇に、四明の巓へぞ上せける。隆賢、多年の案内者なる上、敵の有る所無き所、委しく見置きたることなれば、少しも道に迷ふべきにてはなかりけるが、天罰にてやありけん、俄に目くれ心迷ひて、夜もすがら四明の麓を北南へ迷ひありきける程に、夜、已に明けければ、紀清両党に見つけられて、中に取り篭められける間、後ろなる武者ども百余人討たれて、谷底へ皆転び落ちぬ。隆賢一人は、深手数箇所負うて、腹を切らんとしけるが、上帯を解くひまに組まれて、生け捕られにけり。
大逆の張本なれば、やがてこそ斬らるべかりしを、大将、山徒の号に宥如して、御方にある一族の中へ遣はされ、「生けて置かんとも殺されんとも、意に任すべし。」と仰せられければ、今木中務丞範顕、畏まつて、「承り候。」とて、則ち使者の見ける前にて、その首を刎ねてぞ捨てたりける。忝くも万乗の聖主、医王山王の擁護を御憑みあつて臨幸成りたる故に、三千の衆徒、悉く仏法と王法と相比すべき理を存じて、弐心なく忠戦を致す処に、金輪院一人、山徒の身として我が山をそむき、武士の家にあらずして将軍に属し、あまつさへ、弟子同宿を出だし立てて山門を亡ぼさんと企てける、心の程こそ浅ましけれ。されば、悪逆忽ちに{*23}顕はれて、手引きしつる同宿ども、或いは討たれ、或いは生け捕られぬ。光澄は、幾程なくして最愛の子に殺されぬ。その子は又、一腹一生の弟に討たれて、世に類なき不思議を顕はしける、神罰の程こそ怖ろしけれ。
さる程に、「越前守護尾張守高経、北陸道の勢を率して仰木より押し寄せて、横川を攻むべし。」と聞こえければ、楞厳院九谷の衆徒、処々のつまりつまりに木戸を拵へ、逆茂木を引いて、要害を構へける。そのころ、大師の御廟修造のためとて、材木を多く山上に引き上せたりけるを、櫓の柱、矢間の板にせんとて、坂中へぞ運びける。
その日、般若院の法印がもとに召し仕ひける童、俄に物に狂ひて様々の事を口走りけるが、「我に大八王子の権現、つかせ給ひたり。」と名のつて、「この御廟の材木、急ぎ元の処へ返し運ぶべし。」とぞ申しける。大衆、これを不審して、「誠に八王子権現のつかせ給ひたるものならば、本地の内証、朗らかにして、諸教の通義、明らかなるべし。」とて、古来碩学の相承し来る一念三千の法門、唯受一人の口訣どもを、様々にぞ{*24}問ひたりける。この童、からからと打ち笑ひて、「我、和光の塵に交じはること久しくして、三世了達の智も浅くなりぬといへども、如来出世の御時、会座に列なつて聞きし事なれば、あらあらいうて聞かせん。」とて、大衆の立てつる処の不審、一々に詞に花をさかせ、理に玉を連ねて答へける。
大衆、皆これに信を取つて、重ねて山門の安否、軍の勝負を問ふに、この物つき、涙をはらはらと流して申しけるは、「我、内には円宗{*25}の教法を守り、外には百王の鎮護を致さんために、当山開基の初めより跡を垂れし事なれば、如何にも吾が山の繁昌、朝廷の静謐をこそ心にかけて思ふ事なれども、叡慮の向ふ所も、富貴栄耀のためにして、理民治世の政にあらず。衆徒の願ふ心も皆、驕奢放逸の基にして、仏法紹隆のためにあらざる間、諸天善神も擁護の手を休め、四所三聖も加被の力を巡らされず。悲しいかな、今より後、朝儀久しく塗炭に落ちて、公卿大臣、蛮夷の奴となり、国主、遥かに帝都を去つて、臣は君を殺し、子は父を殺す世にならんずる事の浅ましさよ。大逆のつもり、かへつてその身を責むる事なれば、逆臣、猛威を振はん事も、又、久しからじ。
「ああ、恨めしや、師重が吾が山を攻め落として、堂舎仏閣を焼き払はんと議する事。看よ看よ、人々。明日の午の刻に早尾の大行事{*26}を差し遣はして、逆徒を四方に退けんずるものを。この上は、我が山に何の怖畏かあるべき。その材木皆、元の如く運び返せ。」と託宣して、この童、四、五人して持つほどなる大木を一つ打ちかつぎ、御廟の前に打ち捨てて、手足を縮めて震ひけるが、「明日の午の刻に、敵を追ひ払ふべし。」といふ神託、余りに事遠からで、誠ともおぼえず。「一事ももし相違せば、申す処皆、虚説になるべし。暫く明日の様を見て、思ひ合はする事あらば、後日にこそ奏聞を経め。」と申して、その日の奏し事を止めければ、神託空しく衆徒の胸中に隠れて、知る人、更になかりけり。
山門には、「西坂に軍あらば、本院の鐘をつき、東坂本に合戦あらば、生源寺の鐘を鳴らすべし。」と、方々の約束を定めたりける。ここに、六月二十日の早旦に、早尾の社の猿ども、あまた群がり来て、生源寺の鐘を東西両塔に響きわたる程こそ撞いたりけれ。諸方の官軍、九院の衆徒、これを聞きて、「すはや、相図の鐘を鳴らすは{*27}。さらば、攻め口へ馳せ向つて防がん。」とて、我劣らじと渡り合ふ。東西の寄せ手、この有様を見て、「山より逆寄せに寄するぞ。」と心得て、水飲、今路、八瀬、薮里、志賀、唐崎、大津、松本の寄せ手ども、「楯よ、物具よ。」と、あわて色めきける間、官軍、これに利を得て、山上、坂本の勢十万余騎、木戸を開き逆茂木を引き退けて、打つて出でたりけり。
寄せ手の大将、踏み留まつて、「敵は小勢ぞ。引いて討たるな。きたなし、返せ。」と下知して、暫く支へたりけれども、引き立つたる大勢なれば、一足も留まらず。脇屋右衛門佐義助の兵五千余騎、志賀の閻魔堂のほとりにありける敵の向ひ城五百余箇所の東西に火をかけて、をめき叫んで揉うだりける。敵陣、ここより破れて、寄せ手の百八十万騎、さしも嶮しき今路、古道、音無滝、白鳥、三石、大嶽より、人雪崩をつかせてぞ逃げたりける。谷深くして行先つまりたる所なれば、人馬いやが上に落ち重なつて死にける有様は、伝へ聞く治承の古、平家十万余騎の兵、木曽が夜討に懸け立てられて、くりからが谷に埋づもれけるも、これには過ぎじとおぼえたり。
大将高豊前守は、太股を我が太刀に突き貫いて引きかねたりけるを、船田長門守が手の者、これを生け捕り、白昼に東坂本を渡し、大将新田左中将の前に面縛す。「これは、仏敵神敵の最たれば、重衡卿の例にまかすべし。」とて、山門の大衆、これを申し請けて、則ち唐崎の浜に首を刎ねてぞ懸けられける。この豊前守は、将軍の執事高武蔵守師直が猶子の弟にて、一方の大将を承る程の者なれば、身に替はらんと思ふ者ども、幾千万といふ数を知らざりしかども、若党の一人もなくして、いふがひなき敵に生け捕られけるは、ひとへに医王山王の御罰なりけりと、今日は昨日の神託によりけるにやと思ひ合はされて、身の毛もよだつばかりなり。
校訂者注
1:底本は、「咫尺(しせき)」。底本頭注に、「咫は八寸。接近してゐること。」とある。
2:底本は、「牒(てふ)ぜられける」。底本頭注に、「示し合はされた。」とある。
3:底本頭注に、「意に介さず。」とある。
4:底本頭注に、「恒良親王。」とある。
5:底本頭注に、「鳩は食に咽ばないといふのでそれに肖らうとする信仰から老人の杖に鳩を刻んだもの。」とある。
6:底本は、「大鎧、五枚兜」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
7:底本は、「旗下の射伏(いふ)せられて、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
8:底本頭注に、「負色だちたる。」とある。
9:底本頭注に、「射られて意気阻喪せさせられ。」とある。
10:底本は、「したる計(はかりごと)を業(わざ)にし、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
11:底本は、「半頬(はんぼゝ)」。底本頭注に、「頬と顎ばかりを覆ふ鉄製の面。」とある。
12:底本は、「ことながら、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
13:底本頭注に、「鎮西八郎源為朝。」とある。
14:底本頭注に、「〇手垂 手練者。」とある。
15:底本は、「四五人張合はせたる」。『太平記 三』(1983年)頭注に従い改めた。
16:底本は、「箆撓(のだめ)」。底本頭注に、「矢幹の曲つたのを直す具。」とある。
17:底本は、「違(たが)はず、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
18:底本頭注に、「〇矢だうなに 矢費えなるに。」「〇鎧づき 矢の立たぬやうに鎧をつきゆすること。」とある。
19:底本頭注に、「つゞけ拍子。」とある。
20:底本は、「死(し)ににける。」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
21:底本は、「山(やま)落(お)つることやあるべきと、諸人(もろびと)攻(せ)めあぐんで思ひけるに処に、」。『太平記 三』(1983年)に従い補い、削除した。。
22:底本は、「衆徒、」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
23:底本は、「忽ち顕はれて、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
24:底本は、「様々にてぞ」。『太平記 三』(1983年)に従い削除した。
25:底本は、「円宗(ゑんしう)」。底本頭注に、「天台宗。」とある。
26:底本頭注に、「早尾は不動明王、大行事は毘沙門天を祀る。」とある。
27:底本は、「鳴(な)らす。」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
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