京都両度軍の事
六月五日より同じき二十日まで、山門数日の合戦に討たるる者、創を被る者、幾千万といふ数を知らず。結句、寄せ手、東西の坂より追つ立てられ、引き退きたる兵どもは、京中にも猶足を留めず、十方へ落ち行きける間、洛中、以ての外に無勢になつて、如何はせんと仰天す。この時しも、山門より時日を廻らさず寄せたらましかば、敵、重ねて都には、よもこらへじと見えけるを、山門に様々の異議あつて、空しく十余日を過ごされける程に、辺土洛外に逃げ隠れたる兵ども、機を直して又立ち帰りける間、洛中の勢、又、大勢になりにけり。これをば知らず、山門には、京中無勢なりと聞きて、六月晦日、十万余騎を二手に分けて、今路、西坂よりぞ寄せたりける。
将軍、始めはわざと小勢を河原へ出して、矢一筋射違へて引かんとせられける間、千葉、宇都宮、土居、得能、仁科、高梨が勢、勝つに乗つて、京中へ追つかけてせめいる。飽くまで敵を近付けて後、東寺より用意の兵五十万騎を出だして、縦小路、横小路に機変の陣をはり、敵を東西南北より押し隔だてて、四方に当たり八方に囲んで、余さじと戦ふ。寄せ手、片時が間に五百余人討たれて、西坂を指して引き返す。さてこそ京勢は又、勢ひに乗り{*1}、山門方は力を落として、互角の戦ひになりにけり。
かくて、暫しは合戦もなかりけるに、二條大納言師基卿、北国より、敷地、上木、山岸、瓜生、河島、深町以下の者三千余騎を率して、七月五日、東坂本へ著き給ふ。山門、これに又、力を得て、同じき十八日、京都へぞ寄せられける。「前には、京中を経て、遥々と東寺まで寄すればこそ、小路ぎりに前後左右の敵を防ぎかねて、その囲みをば破りかねつれ。この度は{*2}、一勢は二條を西へ、内野へ駆け出でて大宮を下りに押し寄せ、一勢は河原{*3}を下りに押し寄せ、東西より京を中にさし挟みて、焼き攻めにすべし。」とぞ議せられける。
この謀りごと、いかなる野心の者か京都へ告げたりけん、将軍、これを聞きすましてければ{*4}、六十万騎の勢を三手に分け、二十万騎をば東山と七條河原とに置かれたり。これは、河原より寄せんずる敵を、東西よりかへつて中に取り篭めんためなり。二十万騎をば船岡山の麓、神祇官の南に隠し置かれたり。これは、内野より寄せんずる敵を、南北より引き包まんためなり。残る二十万騎をば西八條東寺の辺に控へさせて、軍門の前に置かれたり。これは、諸方の陣強くして、駆け散らされば、新手に替はらんためなり。
さる程に、明くれば十八日の卯の刻に、山門の勢、北白河、八瀬、薮里、下松、修学院の前に押し寄せて、東西二陣の手を分かつ。新田の一族五万余騎は、糺の社を南に見て、紫野を内野へかけ通る。二條師基卿、千葉介、宇都宮、仁科、高梨、真如堂を西へ打ち過ぎて、河原を下りに押し寄する。その手の足軽ども走り散り、京中の在家数百箇所に火をかけたりければ、猛火天に満ち翻つて、黒煙四方に吹き覆ふ。五條河原より軍始まつて、射る矢は雨の如く、剣戟、稲妻の如し。やがて内野にも合戦始まつて、右近の馬場の東西、神祇官の南北に、汗馬の馳せ違ふ音、鬨の声に相交じはつて、唯、百千の雷の大地に振ふが如くなり。
暫くあつて、五條河原の寄せ手、一戦に打ち負けて引きたりける程に、内野の大勢、いよいよ重なつて、新田左中将兄弟の勢を十重二十重に取り巻いて、喚き叫んで攻め戦ふ。されども義貞の兵ども、元来、機変磬控、百鍛千錬して、己が物と得たる所なれば{*5}、一挙に百重の囲みを解いて、左副右衛、一人も討たれず、返し合はせ返し合はせ戦つて、又、山へ引き返す。それ、武の七書に言ふ事あり、曰く、「将の謀、洩るるときは、軍、利無し。外、内を窺ふときは、禍、制せず。」とて、「この度の洛中の合戦に、官軍、則ち打ち負けぬる事、唯、敵に内通の者どもの御方にありける故なり。」とて、互に心を置きあへり。
山門の牒南都に送る事
官軍、両度の軍に打ち負けて、気疲れ、勢ひ薄くなつてげれば、「山上、坂本に如何なる野心の者か出で来て、不慮の儀あらんずらん。」と、主上、玉扆を安くし給はず、叡襟を傾けさせ給ひければ、先づ衆徒の心を勇ましめんために{*6}、七社の霊神九院の仏閣へ、各、大荘二、三箇所づつ寄附せらる。その外、一所住とて、衆徒八百余人、早尾に群集して、軍勢の兵粮已下の事、取り沙汰しける衆の中へ、江州の闕所分三百余箇所を行はれて、当国の国衙を山門永代管領すべきよし、永宣旨を成して補任せらる。もし今、官軍勝つことを得ば、山門の繁昌、この時にありぬと見えけれども、「三千の衆徒、悉くこの抽賞に誇らば、誰か稽古の窓に向つて三諦止観の月を弄び、鑽仰の嶺に攀ぢて一色一香の花を折らん。富貴の末には、かへつて法滅の基たるべければ、神慮も如何あるらん。」と、智ある人は、これを悦ばず。
同じき十七日、三千の衆徒、大講堂の大庭に三塔会合して僉議しけるは、「それ、我が山は王城の鬼門に当たり、神徳の霊地たり。これを以て百王の宝祚を保つ事{*7}、一山の懇誠に依り、四夷の擾乱を鎮むる事、唯、七社の擁護に任ず。ここに源家の余裔、尊氏、直義と云ふ者あり。将に王化を傾け、仏法を亡ぼさんとす。大逆を異国に訪ふに、禄山、比ぶるに堪へず。積悪を本朝に尋ぬるに、守屋、かへつて浅かるべし。そもそも普天の下、王土に非ずといふ事なし。たとひ釈門の徒なりといへども、この時、何ぞ命を致すの忠義を尽くさざらんや。故に、北嶺は天子本命の伽藍なり。依つて、朝廷輔危の計略を巡らす。南都は、博陸{*8}股肱の氏寺なり。須らく藤氏類家の淹屈を救ふべし。然らば、早く東大、興福両寺に牒送して、義戦に力を合はするの一諾を結ばるべし。」と、三千、一同に僉議して、即ち南都へ牒状を送りける。その詞にいはく、
{*k}延暦寺、興福寺の衙に牒す。
早く両寺一味の籌策を運らし、朝敵源尊氏直義以下の逆徒を追罰し、いよいよ仏法王法の昌栄を致さんと請ふ状。
牒す。仏法、吾が邦に伝はりて七百余歳、皇統を祝し蒼生を益す者は、法相円頓の秘蹟、最も勝れたり。神明、権跡を垂れて七千余座、宝祚を鎮め威光を耀かす者は、四所三聖の霊験、他に異なり。是を以て、先には淡海公{*9}、興福寺を建てて、以て八識五重の明鏡を瑩き、後には桓武帝、比叡山を開きて、以て四教三観の法灯を挑ぐ。爾つしより以降、南都北嶺、共に護国護王の精祈を掌り、天台法相、互に権教実教{*10}の奥旨を究む。寔にこれ、仏法を以て王法を守るの濫觴、王法を以て仏法を弘むるの根源なり。これに因つて、当山、愁へ有るの時は、白疏を通じて懇情を談じ、朝家、故有るの日は、丹心を同じうして安静を祈る。五、六年より以来、天下、大いに乱れて、民間、静かならず。なかんづく尊氏、直義等、辺鄙の酋長より起こつて、飽くまで超涯の皇沢に浴し、未だ君臣の道を知らず、忽ちに豺狼の心有り。党を樹てて戎虜を誘引し、詔を矯めて藩籬を賊害す。つらつら王業再興の聖運を思ふに、更に尊氏一人の武功に非ず。叛逆を企つるに、その辞無し。義貞を以てその敵と称し、天功を貪つて己が力と為す、咎犯{*11}が恥づる所なり。晁錯を仮りて逆謀を挙ぐ、劉濞が亡ぶる所なり。臣として君を犯し、恩を忘れ義に背く。開闢より以来、未だその跡を聞かず。遂に乃ち孟春の初、猛火、燎原より甚しうして、九重の城闕、灰燼と成る。暴風、区宇を扇ぎ、辜無きの黎民、塗炭に堕つ。その積悪を論ずるに、誰か歎息せざらん。且は、当時の災孽を避けんが為、且は和光の神助を仰がんが為に、仙蹕を七社の瑞籬に廻らし、安全を四明の懇府に任す。衆徒の心、この時、豈敢へてせんや。ここに三千一揆して、身命を忘れ、義兵を扶く。老少同心して、冥威に代はつて異賊を伏す。王道、未だ衰へず、神感、潜かに通ずるが故に、逆党、旗を巻いて西に奔り、兇徒、戈を倒にして北に敗る。喩へば猶ほ紅炉の雪を消すがごとく、団石の卵を圧すに相似たり。昔、晋の八公に祈りて、早く符堅が兵を覆し、唐の四王を感ぜしめて、乍ち吐蕃の陣を却くは、蓋し、乃ちこの謂ひか。遂に鸞輿の威儀を厳かにし、鳳城の還幸を促さしむ。天に攙搶{*12}を掃ひ、上下、同じく慶雲の色を見、海に鯨鯢を剪り、遠近、尽く逆浪の声を歇む。併しながらこれ、学侶群侶の精誠なり。豈医王山王の加護に非ずや。而るに今、賊党、再び帝城を窺覦して、官軍、暫く征途に彷徨す。仍つて、先度の朝儀に慣らひ、重ねて当社の臨幸に及ぶ。山上山下の興廃、唯この時に在り。仏法王法の盛衰、豈今日に非ずや。天台の教法、七社の霊鑑、偏へに安危を朝廷に共にす。法相の護持、四所の冥応、何ぞ贔屓を国家に加へざる。貴寺、もし報国の忠貞を存ぜば、衆徒、須らく輔君の計略を運らすべし。満山の愁訴、猶、音問を通じて合体を成す。一朝の治乱、何ぞ群議に随つて与力無からん。仍つて、事の由を勒して牒送、件の如し。敢へて猶予すること勿かれ。故に牒す。
延元元年六月日 延暦寺三千の衆徒等{*k}
とぞ書かれたる。牒状披閲の後、南都の大衆、則ち山門に同心して返牒を送る。その状にいはく、
{*k}興福寺の衆徒、延暦寺の衙に牒す。
来牒一紙、尊氏直義等征伐の事に載せらる。
牒す。それ観行五品の勝位に居るや、円頓を河淮の流れに学び、等覚無垢の上果に因るや、了義を印度の境に敷く。是を以て、隋の高祖の玄文を崇むる、玉泉、水清めり。唐の文皇、神藻を奮ふ、瑶花、風芳し。遂に一夏敷揚の奥賾をして遥かに叡山に伝へしむ。三国相承の真宗、独り吾が寺に留まりしより以降、時、千祀に及び、軌、百王に垂んとす。寔にこれ、仏法を弘むるの宏規、皇基を護るの洪緒なる者なり。かの尊氏直義等、遠蛮の亡虜、東夷の降卒なり。鷹犬の才に非ずと雖も、屡々爪牙の任を忝うす。乍ちに朝奨を忘れて、還つて野心を挿む。揚氏を討つて辞を為り、藩渓に在つて逆を作す。州県を劫略し、吏民を掠虜す。帝都、悉く焼残し、仏閣、多く魔滅す。赤眉が咸陽に入るに軼ぎ、黄巾が河北に寇するに超ゆ。濫吹{*13}の甚だしき、古より未だ聞かず。天誅の覃ぶ所、冥譴、何ぞ逃るることを得ん。茲に因つて、去春の初、鋤耰棘矜{*14}、一たび関中を摧き、匹馬双輪、纔かに海西に遁る。今、その敗軍を聚めて、かの余衆を擁し、雷霆の威を恐れず、重ねて斧鉞の罪を待つ。六軍徘徊して、群兇益々振ふ。これ則ち、孟津再駕の役、独夫の亡ぶる所なり。城濮三舎の謀、侍臣の敗るる所なり。それ、天に違ふ者は、大いなる咎有り。道を失ふ者は、その助け寡し。積暴の勢、豈又能く久しからんや。方に今、皇輿を花洛の外に廻らし、軍幕を楢渓の辺に張る。三千の群侶、定めて懇祈の掌を合はせ、七社の霊神、鎮へに擁護の眸を廻らす者か。かの代宗の長安に屯するや、師を香積寺の中に観す。勾践の会稽に在るや、兵を天台山の北に陣す。事、先蹤に叶へり。寧ろ佳模{*15}に非ずや。ここに当寺の衆徒等、翠花{*16}、北に幸せしより、丹棘を中庭に抽んず。専ら宝祚の長久を祈り、唯、妖孽の滅亡を期す。精誠、弐心無し。冥助、豈空しからんや。なかんづく寺辺の若輩、国中の勇士、頻りに官軍に加はるの志有り、屡々兇賊を退けんの策を運らす。然るに、南北、境隔たつて、風馬の蹄、及ばず{*17}。山川、地殊にして、雲鳥の勢、接し難し。矧んや、亦賊徒、謀を構へ、寇、松壖の下に迫る。人心、未だ和せず、禍、蕭墻の中に在り。前は燕然の虜に対し、後ろは宛城の軍有り。攻守の間、進退、度を失ふ。但し、綸命、屡々降らば、牒送、止し難し。速やかに鋭師を率して、早く兇党を征せん。今、状を以て牒す。牒到らば、状に准ぜよ。故に牒す。
延元元年六月日 興福寺六方の大衆徒等{*k}
とぞ書きける。
南都、已に山門に与力しぬと聞こえければ、畿内近国に、軍の勝負を計りかねて、いづ方へか著くべきと案じ煩ひける兵ども、皆山門に志を通はし、力を合はせんとす。然りといへども、境、敵陣を隔てければ、坂本へ馳せ参る事、叶ふべからず。「大将を賜はりて、陣を取つて京都を攻め落とし候べし。」とぞ申しける。「さらば。」とて、八幡へは四條中納言隆資卿を差し遣はさる。真木、葛葉、禁野、片野、宇殿、賀島、神崎、天王寺、賀茂、三日原の者ども、馳せ集まつて三千余騎、大渡の橋より西に陣を取つて、川尻の道を差し塞ぐ。宇治へは、中院中将定平を遣はさる。宇治、田原、醍醐、小栗栖、木津、梨間、市野辺山、城脇の者ども、馳せ集まりて二千余騎、宇治橋二、三間引き落として、橘小島が崎に陣をとる。北丹波道へは、大覚寺宮を大将とし奉つて、額田左馬助を遣はさる。その勢三百余騎、白昼に京中を打ち通つて、長坂に打ち上る。嵯峨、仁和寺、高雄、栂尾、志宇知、山内、芋毛、村雲の者ども、馳せ集まつて千余騎、京中を足の下に見下して、京見峠、嵐山、高雄、栂尾に陣をとる。
この外、鞍馬道をば西塔より塞いで、勢多をば愛智、信楽より差し塞ぐ。今は、四方七つの道、僅かに唐櫃越ばかりあきたれば、国々の運送、道絶えて、洛中の士卒、兵粮に疲れたり。暫しは馬を売り、物具を売り、口中の食を継ぎけるが、後には京白川の在家、寺々へ打ち入つて、衣裳を剥ぎ取り、食物を奪ひ食ふ。卿相雲客も、兵火のために焼け出だされて{*18}、ここの辻堂、かしこの拝殿に身を側め、僧俗男女は、道路に食を乞ひて、築地の蔭、唐居敷{*19}の上に飢ゑ伏す。開闢以来、兵革の起こる事多しといへども、これ程の無道は未だ記さざる処なり。
京勢は疲れて、山門又つよる{*20}由、聞こえければ、国々の勢百騎二百騎、東坂本へと馳せ参る事、引きもきらず。中にも阿波、淡路より、阿間、志宇知、小笠原の人々、三千余騎にて参りければ、諸卿皆、憑もしき事に思はれけるにや、「今は、いつをか期すべき。四方より牒じ合はせて、合戦を致せ。」とて、四国の勢を阿弥陀峯へ差し向けて、夜々、篝をぞ焼かせられける。その光、二、三里が間につづいて、一天の星斗落ちて欄干たるに異ならず。
或る夜、東寺の軍勢ども、楼門に上りてこれを見けるが、「あら、おびただしの阿弥陀峯のかがりや。」と申しければ、高駿河守、とりもあへず、
多くとも四十八にはよも過ぎじ阿弥陀が峯にともすかがり火
と、一首の狂歌に取り成して戯れければ、満座、皆ゑつぼに入りてぞ笑ひける。
「今一度京都に寄せて、先途の合戦あるべし。」と、諸方の相図、定まりにければ、士卒の志を勇めんがために、忝くも十善の天子、紅の御袴をぬがせ給ひ、三寸づつ切つて、所望の兵どもにぞ下されける。
七月十三日、大将新田左中将義貞、度々の軍に打ち残されたる一族四十三人引き具して、先づ皇居へ参ぜらる。主上、竜顔麗しく、群下を照臨あつて、「今日の合戦、いつよりも忠を尽くすべし。」と仰せ下されければ、義貞、士卒の心に代はつて、「合戦の雌雄は時の運による事にて候へば、かねて勝負を定め難く候。但し、今日の軍に於いては、尊氏が篭りて候東寺の中へ、箭一つ射入れ候はでは、罷り帰るまじきにて候なり。」と申して、御前をぞ退出せられける。
諸軍勢、大将の前後に馬を早めて、白鳥の前を打ち過ぎける時、見物しける女童部、名和伯耆守長年が引きさがりて打ちけるを見て、「この頃、天下に結城、伯耆、楠木、千種頭中将、三木一草{*21}といはれて、飽くまで朝恩に誇りたる人々なりしが、三人は討死して、伯耆守一人残つたる事よ。」と申しけるを、長年、遥かに聞きて、「さては、長年が今まで討死せぬことを、人皆、いふがひなしといふ沙汰すればこそ、女童部までも、かやうにはいふらめ。今日の合戦に、御方、もしうち負けば、一人なりとも引き留まつて討死せんものを。」とひとり言して、これを最後の合戦と思ひ定めてぞ向ひける。
校訂者注
1:底本は、「さてこそ京都は又勝つに乗り」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
2:底本は、「此の度の一勢は、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
3:底本頭注に、「賀茂の河原。」とある。
4:底本は、「聞(き)きすましければ、」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
5:底本頭注に、「〇磬控 詩経の鄭風に『抑磬控忌。』馬をひきとめること。」「〇己が物と得たる所 己の手足の如く自由自在なこと。」とある。
6:底本は、「勇(いさ)めしめん為に、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
7:底本は、「保つに、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
8:底本頭注に、「摂関の唐名。」とある。
9:底本頭注に、「藤原不比等。」とある。
10:底本頭注に、「華厳と天台。」とある。
11:底本頭注に、「晋文公の男。」とある。
12:底本頭注に、「爾雅に『彗星為攙搶。』」とある。
13:底本頭注に、「虚言。」とある。
14:底本頭注に、「過秦論の誅に『鋤耰柄也、棘矜戟也。』剣戟のこと。」とある。
15:底本頭注に、「宜しき形勢。」とある。
16:底本頭注に、「天子の旗。」とある。
17:底本頭注に、「位置の懸隔甚だしいこと。左伝僖公四年の句。」とある。
18:底本は、「兵火のため焼き出されて、」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
19:底本は、「唐居敷(からゐしき)」。底本頭注に、「門の下の石畳。」とある。
20:底本頭注に、「強くなる。」とある。
21:底本頭注に、「ゆふき、はうき、くすのきのきを木に通じて三木といひ、ちぐさのくさを草に通じて一草としやれて云ふ。」とある。
k:底本、この間は漢文。
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