隆資卿八幡より寄せらるる事

 京都の合戦は十三日の巳の刻と、かねて諸方へ触れ送りたりければ、東坂本より寄する勢、関山、今路の辺に控へて時刻を待ちける処に、敵や、たばかつて火をかけたりけん、北白河に焼亡出で来て、煙、蒼天に充満したり。八幡より寄せんずる宮方の勢ども、これを見て、「すはや、山門より寄せて、京中に火をかけたるは。今日の軍にしおくれば、何の面目かあるべき。」とて、相図の刻限をも相待たず、その勢、僅かに三千余騎にて、鳥羽の作道より東寺の南大門の前へぞ寄せたりける。
 東寺の勢は、山門より寄する敵を防がんとて、河合、北白河の辺へ皆向ひたりければ、卿相雲客、或いは将軍近習の老者、児なんどばかり集まり居て、この敵を防ぐべき兵は、更になかりけり。寄せ手の足軽ども、鳥羽の田の面の畔をつたひ、四塚、羅城門のくろの上に立ち渡り、散々に射ける間、作道まで打ち出でたりける高武蔵守師直が五百余騎、射立てられて引き退く。敵、いよいよ勝つに乗つて、持楯ひしぎ、楯を突き寄せ突き寄せ、かづき入れて攻めける程に、坤の角なる出塀の上の高櫓一つ、念なく攻め破られて、焼けにけり。城中、これに騒いで、声々にひしめき合ひけれども、将軍は、ちつとも驚き給はず、鎮守の御宝前に看経しておはしける。
 その前に、問注所の信濃入道道大と土岐伯耆入道存孝と、二人倶して候ひけるが、存孝、傍らを屹と見て、「あはれ、愚息にて候悪源太{*1}を、上の手へ向け候はで、これに留めて候はば、この敵をばたやすく追ひ払はせ候はんずるものを。」と申しける処に、悪源太、つと参りたり。存孝、うれしげに打ち見て、「いかに、上の手の軍は、未だ始まらぬか。」「いや、それは未だ存知仕らず候。三條河原まで罷り向つて候ひつるが、東寺の坤に当たつて、けぶりの見え候間、取つて返して{*2}馳せ参じて候。御方の御合戦は、なんと候やらん。」と申しければ、武蔵守{*3}、「ただ今、作道の軍に打ち負けて引き退くといへども、この御陣の兵、多からねば、入りかはること叶はず。已に坤の角の出塀をうちやぶられて、櫓を焼き落とさるる上は、将軍の御大事、この時なり。一騎なりとも、御辺、打ち出でて、この敵を払へかし。」畏まつて、「承り候。」とて、悪源太、御前を立ちけるを、将軍、「暫し。」とて、いつも佩き副へにしたまひける、御所作り兵庫鎖の御太刀を、引出物にぞせられける。
 悪源太、この太刀を賜はりて、などか心の勇まざらん。洗皮の鎧に、白星の兜の緒を締めて、唯今賜はりたる金作りの太刀の上に、三尺八寸の黒塗の太刀佩き副へ、三十六差いたる山鳥の引尾の征矢、森の如くにとき乱し、三人張の弓にせき絃かけて食ひしめし、わざと臑当をばせざりけり。時々は馬よりとび下りて、深田を歩まんがためなりけり。北の小門より打ち出でて、羅城門の西へ打ち廻り、馬をば畔の蔭に乗り放して、三町余りが外に叢立ちたる敵を、さしつめ引きつめ散々にぞ射たりける。一矢に二人三人をば射落とせども、あだ矢は一つもなかりければ、南大門の前に攻め寄せたる寄せ手の兵千余人、一度にぱつと引き退く。悪源太、これに利を得て、かけ足逸物の馬に打ち乗り、さしも深き鳥羽田中を真平地に{*4}駆け立てて、敵六騎切つて落とし、十一騎に手負はせて、のつたる太刀を押し直し、東寺の方を屹と見て、気色ばうたる有様は、いかなる和泉小次郎、朝夷奈三郎も、これには過ぎじとぞ見えたりける。
 悪源太一人に駆け立てられて、数万の寄せ手、皆しどろになりぬと見えければ、高武蔵守師直、千余騎にて又、作道を下りに追ひかくる。越後守師泰は、七百余騎にて竹田をくだりに横切りせんとす。已に引き立つたる大勢なれば、なじかは足を留むべき。討たるるをも顧みず、手負をも助けず、我先にと逃げ散りて、元の八幡へ引き返しけり。

義貞軍の事 附 長年討死の事

 一方の寄せ手の破れたるをも知らず、「相図の刻限、よく成りぬ。」とて、追手の大将新田義貞、脇屋義助、二万余騎を率して、今路、西坂本より下つて、三手に分かれて押し寄する。一手は義貞、義助、江田、大館、千葉、宇都宮、その勢一万余騎。大中黒、月に星、左巴、丹、児玉のうちわの旗、三十余流れ連なりて、糺を西へ打ち通り、大宮を下りに押し寄せらる。一手には伯耆守長年、仁科、高梨、土居、得能、春日部、以下の国々の勢集まつて五千余騎、大将義貞の旗を守りて鶴翼魚鱗の陣をなし、猪熊を下りに押し寄する。一手は二條大納言、洞院左衛門督、両大将にて五千余騎、牡丹の旗、扇の旗、唯二流れ差し揚げて、敵に後を切られじと、四條を東へ引き渡して、さきへはわざと進まれず。かねてより阿弥陀峯に陣を取つたりし阿波、淡路の勢千余騎は、未だ京中へは入らず。泉涌寺の前、今熊野の辺まで降り下つて、相図の煙を上げたれば、長坂に陣を取つたる額田が勢八百余騎、嵯峨、仁和寺の辺に打ち散り、ところどころに火をかけたり。
 京方は大勢なれども、人疲れ馬疲れ、しかも今朝の軍に矢種はみな射尽くしたり。よせ手は小勢なれども、さしも名将の義貞、先日、度々の軍にうち負けて、この度、会稽の恥をすすがんと、牙を噛み、名を恥づと聞こえぬれば、御治世両統の聖運も、新田足利、多年の憤りも、唯、今日の軍に定まりぬと、気をつめぬ人はなかりけり。
 さる程に、六條大宮より軍始まつて、将軍の二十万騎と義貞の二万騎と、入り乱れて戦ひたり。射違ふる矢は、夕立の軒端を過ぐる音よりも猶繁く、打ち合ふ太刀の鍔音は、空に応ふる山彦の、鳴り止む隙もなかりけり。京勢は、小路小路を立ち塞ぎて、敵を東西より取り篭め、進まば先を遮り、左右へ分かれば中をわらんと、変化、機に応じて戦ひければ、義貞の兵、少しも散らで、中をも破られず。退いて後よりも揉まれず。向ふ敵に駆け立て駆け立て、大宮を下りにまつしぐらにかかりける程に、仁木、細川、今川、荒川、土岐、佐々木、逸見、武田、小早川、ここを打ち散らされ、かしこに追ひ立てられ、所々に控へたれば、義貞の兵二万余騎、東寺の小門の前に押し寄せて、一度に鬨をどつと作る。
 義貞、坂本を打ち出でし時、先づ皇居に参つて、「天下の落居は聖運に任せ候へば、心とする処に候はず。いかさま、今度の軍に於いては、尊氏が篭つて候東寺の中へ、矢一つ射入れ候はでは、帰りまゐるまじきにて候。」と申して出でたりし、その詞に違はず、敵を一的場{*5}の内に攻め寄せたれば、「今は、かう。」と、大きに悦んで、旗の蔭に馬を打ち据ゑ、城を睨み、弓杖にすがつて高らかに宣ひけるは、「天下の乱、止む事なくして、罪なき人民、身を安くせざる事、年久し。これ、国主両統{*6}の御争ひとは申しながら、唯、義貞と尊氏卿との所にあり。僅かに一身の大功を立てんために、多くの人を苦しめんより、ひとり身にして戦ひを決せんと思ふゆゑに、義貞、自らこの軍門に罷り向つて候なり。それかあらぬか、矢一つ受けて知り給へ。」とて、二人張に十三束二伏、飽くまで堅めて引きしぼり、絃音高く切つて放つ。その矢、二重に掻いたる高櫓の上を越えて、将軍の坐し給へる帷幕の中、本堂の艮の柱に、一ゆりゆりて、くつまき過ぎてぞ立つたりける。
 将軍、これを見給ひ、「我、この軍を起こして鎌倉を立ちしより、全く君を傾け奉らんと思ふに非ず。唯、義貞に逢ひて憤りを散ぜんためなりき。然れば、彼と我とひとり身にして戦ひを決せん事、元より悦ぶ所なり。その門、開け。討つて出でん。」と宣ひけるを、上杉伊豆守、「これは、いかなる御事にて候ぞ。楚の項羽が漢の高祖に向ひ、ひとり身にして戦はんと申ししをば、高祖、あざ笑うて、『汝を討つに、刑徒をもつてすべし。』と欺き候はずや。義貞、そぞろに深入りして、引き方のなさに、よき敵にや遭ふと、ふてて{*7}仕り候を、軽々しく御出あることや候べき。思ひも寄らぬ御事に候。」とて、鎧の御袖に取りつきければ、将軍、力なく、義者の諌めに従うて、怒りを押さへて坐し給ふ。
 かかる処に、土岐弾正少弼頼遠、三百余騎にて上賀茂に控へてありけるが、五條大宮に控へたる旗印を見てければ、「大将は皆、公家の人々よ。」と見てければ、後ろより鬨をどつと作つて、喚き叫んでぞ駆けたりける。「すはや、敵、後ろより取り廻しけるは。川原へ引きて、広みにて戦へ。」といふ程こそありけれ、一戦も戦はず、五條川原へぱつと追ひ出だされて、ちつとも足を踏み留めず、西坂本を差して逃げたりける。
 土岐頼遠、五條大宮の合戦に打ち勝つて、勝鬨を揚げければ、ここかしこより勢ども数千騎馳せ集まつて、大宮を下りに、義貞の後ろへ攻めよする。神祇官に控へたる仁木、細川、吉良、石堂が勢二万余騎は、朱雀をすぢかひに西八條へ押し寄する。東よりは少弐、大友、厚東、大内、四国中国の兵ども三万余騎、七條河原を下りに、針、唐橋へ引き廻して、敵を一人も討ち洩らさず引き包む。
 三方は、かくの如く百重千重に取り巻いて、天を翔り地に潜つて出づるより外は、漏れても逃ぐべき方なし{*8}。前には城郭、堅く守つて、数万の兵、鏃をそろへて散々に射る。義貞、「今日を限りの運命なり。」と思ひ定めたまひければ、二万余騎を唯一手になして、八條九條に控へたる敵十万余騎を、四角八方へかけ散らし、三條河原へ颯と引いて出でたれば、千葉、宇都宮も、はや所所に引き別れ、名和伯耆守長年も、かけ隔てられぬと見えたり。仁科、高梨、春日部、丹、児玉三千余騎、一手に成つて、一條を東へ引きけるが、三百余騎討たれて、鷺森へ駆け抜けたり。長年は、二百余騎にて大宮にて返し合はせ、我と後ろの木戸をさして、一人も残らず死してげり。
 その後、所々の軍に勝ち誇りたる敵三十万騎、僅かに討ち残されたる義貞の勢を、真中に又{*9}取り篭むる。義貞も、思ひ切つたる体にて、一引きも引かんとはし給はず。馬を皆、西頭に立てて、討死せんとし給ひける処に、主上の恩賜の御衣を切つて笠印に附けたる兵ども、所々より馳せ集まり二千余騎、戦ひ疲れたる大敵を、駆け立て駆け立て揉うだりけるに、雲霞の如くなる敵ども、馬の足を立てかねて、京中へぱつと引きければ、義貞、義助、江田、大館、万死を出でて一生に逢ひ、又、坂本へ引つ返さる。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「土岐頼直。」とある。
 2:底本は、「返し馳せ」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 3:底本頭注に、「高師直。」とある。
 4:底本は、「真平地(まつへいち)に」。底本頭注に、「平地のやうに。」とある。
 5:底本は、「一的場(ひとまとば)」。底本頭注に、「一所。的場は弓を射る場所だが此所は戦場だからかう云ふ。」とある。
 6:底本頭注に、「持明院統と大覚寺統。」とある。
 7:底本頭注に、「やけになつて。」とある。
 8:底本は、「方はなし。」。『太平記 三』(1983年)に従い削除した。
 9:底本は、「真中(まんなか)に取篭むる。」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。