江州軍の事

 「京都をなかに篭めて四方より寄せば、今度は、さりとも。」とたのもしくおぼえしに、諸方の相図相違して、寄せ手、又、打ち負けしかば、四條中納言も、八幡を落ちて坂本へ参られぬ。阿弥陀峯に陣を取りし阿波、淡路の兵どもも、細川卿律師に打ち負けて、坂本へ帰りぬ。長坂を堅めたりし額田も、落ちて山上{*1}へ帰参しければ、京勢は、篭の中を出でたる鳥の{*2}如く悦び、宮方は、穴に篭りたる獣の如く縮まれり。
 南都の大衆も、山門に与力すべきよし、返牒を送りしかば、定めて力を合はせんずらんと待たれしかども、将軍より数箇所の荘園を寄附して語らはれける程に、目の前の欲に身の後の恥を忘れければ、山門与力の合戦を翻して、武家合体の約諾をぞなしける。今は、君の御憑みありける方とては、備後の桜山、備中の那須五郎、備前の児島、今木、大富が、兵船をそろへて近日上洛の由申しけると、伊勢の愛曽が、当国の敵を退治して江州へ発向すべしと注進したりしばかりなり。
 山門の衆徒、財産をつくして士卒の兵粮を出だすといへども、公家武家の従類、上下二十万人に余りたる人数を、六月の始めより九月の中旬まで養ひければ、家財悉く尽きて、共に首陽に臨まんとす{*3}。あまつさへ、北国の道をば、足利尾張守高経、差し塞いで人を通さず。近江国も、小笠原信濃守、野路、篠原に陣を取つて、湖上往返の船を留めける間、唯、官軍、朝暮の飢ゑを嗜むのみに非ず。三千の聖供の運送の道塞がつて、谷々の講演も絶えはてて、社々の祭礼もなかりけり。
 山門、かくては叶ふまじとて、先づ江州の敵を退治して、美濃、尾張の通路を開くべしとて、九月十七日に、三塔の衆徒五千余人、志那の浜より上つて、野路、篠原へ押し寄する。小笠原、山門の大勢を見て、さしもなき平城に篭りて取り巻かれなば、叶ふまじとて、逆よせに平野に懸け合はせて戦ひけるほどに、道場坊助註記祐覚、一軍に打ち負けて、立つ足もなく引きければ、成願坊律師、入り替はりて、一人も残らず討たれにけり。
 山門、いよいよ憤りを深くして、同じき二十三日、三塔の衆徒の中より五百房の悪僧をすぐつて二万余人、兵船を連ねて押し渡る。小笠原が勢ども、重ねて寄する山門の大勢に聞き懼ぢして、大半落ち失せければ、勢、僅か三百騎にも足らざりけり。これを聞きて、例の大早りの極めなき大衆どもなれば、後陣の勢をも待ちそろへず、我先にとぞ進みける。この大勢を敵に受けて、落ち留まる程の者どもなれば、なじかは少しも気を屈すべき。小笠原が三百余騎、山徒の向ひ陣を取つたりける四十九院の宿へ、未だ卯の刻に押し寄せて、駆け立て駆け立て戦ひけるに、宗徒の山徒、理教坊の阿闍梨を始めとして、三千余人まで討たれにければ、湖上の船に棹さして、堅田を指してぞ漕ぎ戻る。
 かかる処に、佐々木佐渡判官入道道誉、京よりひそかに若狭路を廻つて、東坂本へ降参して申しけるは、「江州は代々、当家守護の国にて候を、小笠原、上洛の路に滞つて、不慮に両度の合戦を致し、その功を以てやがて管領仕り候こと、道誉、面目を失ふ所にて候。もし当国の守護職を恩補せられ候はば、則ち、かの国へ罷り向ひ、小笠原をおひ落とし、国中を打ち平らげて、官軍に力をつけん事、時日を移すまじきにて候。」とぞ申しける。主上も義貞も、出し抜いて申すとは知り給はず。「事、誠に然るべし。」とて、道誉が申し請くる旨に任せて、当国の守護職並びに便宜の闕所数十箇所、道誉が恩賞に行はれて、江州へぞ遣はされける。
 元来、偽つて申しつることなれば、道誉、江州へ押し渡つて後、当国をば将軍より賜はりたる由を申す間、小笠原、やがて国を捨てて上洛しぬ。道誉、忽ちに国を管領して、いよいよ坂本を遠攻めに攻めければ、山徒の遠類親類、宮方の被官所縁の者までも、近江国中には跡を留むべきやうぞなかりける。「さては道誉、出し抜きけり。時刻を移さず退治せよ。」とて、脇屋右衛門佐を大将にて、二千余騎を江州へ差し向けらる。この勢、志那の渡しをして、船より下りける処へ、道誉、三千余騎にて押し寄せ、上げも立てず戦ひけるほどに、或いは遠浅に船を乗りすゑ、上がり場に馬を下しかねて、射落とされ切り臥せらるる兵、数を知らず。この日の軍にも、官軍、又打ち負けて、僅かに坂本へ漕ぎ返る。
 この後よりは、山上、坂本にいよいよ兵粮尽きて、始め百騎二百騎ありしもの、五騎十騎になり、五騎十騎ありし人は、馬にも乗らずなりにけり。

山門より還幸の事

 かかる処に、将軍より内々、使者を主上へ進じて申されけるは、「去年の冬、近臣の讒に依つて勅勘を蒙り候ひし時、身を法体に替へて、死を罪なきに賜はらんと存じ候ひし処に、義貞、義助等、事を逆鱗に寄せて日頃の鬱憤を散ぜんと仕り候ひし間、止む事を得ずして、この乱、天下に及び候。これ、全く君に向ひ奉つて反逆を企てしに候はず。唯、義貞が一類を亡ぼして、向後の讒臣をこらさんと存ずるばかりなり。もし天鑑、誠を照らされば、臣が讒におちし罪を哀れみ思し召して、竜駕を九重の月に廻らされ、鳳暦{*4}を万歳の春に返され候へ。供奉の諸卿並びに降参の輩に至るまで、罪科の軽重をいはず、悉く本官本領に復し、天下の成敗を公家に任せ参らせ候べし。」と、「且は、條々御不審を散ぜんために、一紙別に進覧候なり。」とて、大師{*5}勧請の起請文を副へて、浄土寺の忠円僧正の方へぞ参らせける。
 主上、これを叡覧あつて、「告文を参らする上は、偽りては、よも申されじ。」と思し召されければ、かたへの元老智臣にも仰せ合はせられず、やがて還幸成るべきよしを仰せ出だされけり。将軍、勅答の趣を聞きて、「さては、叡智浅からずと申せども、欺くに易かりけり。」と悦びて、さもありぬべき大名のもとへ、縁に触れ、趣を伺うて、ひそかに状を通じてぞ語らはれける。
 さる程に、還幸の儀、事ひそかに定まりければ、降参の志ある者ども、かねてより今路、西坂本の辺まで抜け抜けに行き儲けて、還幸の時分をぞ相待ちける。中にも江田兵部少輔行義、大館左馬助氏明は、新田の一族にて、いつも一方の大将たりしかば、安否を当家の存亡にこそ任せらるべかりしが、いかなる深き所存かありけん、二人共に降参せんとて、九日の暁より、先づ山上に登つてぞ居たりける。
 義貞朝臣、かかる事とは知り給はず、参仕の軍勢に対面して、事なき様にておはしける処へ、洞院左衛門督実世卿の方より、「唯今、主上、京都へ還幸成るべしとて、供奉の人を召し候。御存知候やらん。」と告げられたりければ、義貞、「さる事やあるべき。御使の聞き誤りにてぞあるらん。」とて、いと騒がれたる気色もなかりけるを、堀口美濃守貞満、聞きもあへず、「江田、大館が、何の用ともなきに、この暁、中堂へ参るとて登山仕りつるが、怪しくおぼえ候。貞満、先づ内裏へ参つて、事の様を見奉り候はん。」とて、郎等に著せられたる鎧取つて、肩に投げ懸け、馬の上にて上帯を締め、諸鐙合はせて参ぜらる。
 皇居近くなりければ、馬より下り、兜を脱いで中間に持たせ、四方を屹と見渡すに、臨幸、唯今の程と見えて、供奉の月卿雲客、衣冠を帯せるもあり、未だ戎衣なるもあり。鳳輦を大床に差し寄せて、新典侍、内侍所の櫃を取り出だし奉れば、頭弁範国、剣璽の役に随つて{*6}、御簾の前に跪く。
 貞満、左右に少し揖して{*7}御前に参り、鳳輦の轅に取り附き、涙を流して申されけるは、「還幸のこと、児女の説、幽かに耳に触れ候ひつれども、義貞、存知仕らぬ由を申し候ひつる間、伝説の誤りかと存じて候へば、事の儀式、早、誠にて候ひけり。そもそも義貞が不義、何事にて候へば、多年の粉骨忠功を思し召し捨てられて、大逆無道の尊氏に叡慮を移され候ひけるぞや。
 「去んぬる元弘の始め、義貞、不肖の身なりといへども、忝くも綸旨を蒙つて、関東の大敵を数日の内に亡ぼし、西海の宸襟を三年の間に休め参らせ候ひし事、恐らくは上古の忠臣にも類少なく、近日の義卒も皆、功を譲る処にて候ひき。その後、尊氏が反逆顕はれしより以来、大軍を靡かしてその師を虜にし、万死を出でて一生に逢ふ事、あげて計ふるに暇あらず。されば、義を重んじて命を落とす一族百三十二人、節に臨んで骸を曝す郎従八千余人なり。然れども今、洛中数箇度の戦ひに、朝敵勢ひ盛んにして、官軍頻りに利を失ひ候事、全く戦ひの咎にあらず。唯、帝徳の欠くる処に候か、依つて御方に参る勢の少なき故にて候はずや。詮ずる処、当家{*8}累年の忠義を捨てられて、京都へ臨幸なるべきにて候はば、唯、義貞を始めとして、当家の氏族五十余人を御前へ召し出だされ、首を刎ねて伍子胥が罪に比し、胸を割いて比干が刑に処せられ候べし。」と、怒れる面に涙を流し、理を砕いて申しければ、君も、御誤りを悔いさせ給へる御気色になり、供奉の人々も皆、理に服し義を感じて、首を垂れてぞおはせられける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「比叡山上。」とある。
 2:底本は、「鳥(とり)を如く」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「伯夷叔齊が首陽山で餓死した故事に基いて、飢渇に迫らうとすの意味に用ゐた。」とある。
 4:底本頭注に、「君の御代。」とある。
 5:底本頭注に、「伝教大師。」とある。
 6:底本頭注に、「〇大床 広縁。」「〇内侍所 神鏡。」「〇剣璽 剣と曲玉。」とある。
 7:底本は、「揖(いふ)して」。底本頭注に、「会釈して。」とある。
 8:底本頭注に、「新田家。」とある。