儲君を立て義貞に著けらるる事 附 鬼切日吉へ進ぜらるる事

 暫くあつて、義貞朝臣父子兄弟三人、兵三千余騎を召し具して参内せられたり。その気色、皆怒れる心ありといへども、しかも礼儀、みだりならず。階下の庭上に袖を連ねて並み居たり。
 主上、例よりも殊に玉顔を和らげさせ給ひて、義貞、義助を御前近く召され、御涙を浮かべて仰せられけるは、「貞満が、朕を恨み申しつる処、一儀、その謂はれあるに似たりといへども、猶、遠慮の足らざるに当たれり。尊氏、超涯の皇沢に誇つて、朝家を傾けんとせし刻、義貞もその一家{*1}なれば、定めて逆党にぞ与せんとおぼえしに、氏族を離れて志を義におき、傾廃を助けて命を天に懸けしかば、叡感、更に浅からず。唯、汝が一類を四海の鎮衛として、天下を治めん事をこそ思し召しつるに、天運、時未だ到らずして、兵疲れ、勢ひ廃れぬれば、尊氏に一旦和睦の儀を謀つて、暫く時を待たんために、還幸の由をば仰せ出ださるるなり。この事、かねても内々知らせたくはありつれども、事、遠聞に達せば、かへつて難儀なる事もありぬべければ、期に臨んでこそ仰せられめとうち置きつるを、貞満が恨み申すに付いて、朕が謬りを知れり。
 「越前国へは、河島維頼、先立ちて下されつれば、国の事、定めて仔細あらじとおぼゆる上、気比社の神官等、敦賀の津に城を拵へて、御方を仕るよし聞こゆれば、先づかしこへ下つて暫く兵の機を助け、北国を打ち随へ、重ねて大軍を起こして天下の藩塀となるべし。但し、朕、京都へ出でなば、義貞、かへつて朝敵の名を得つとおぼゆる間、春宮{*2}に天子の位を譲りて、同じく北国へ下し奉るべし。天下の事、小大となく義貞が成敗として、朕に替はらずこの君{*3}を取り立て参らすべし。朕、已に汝がために勾践の恥を忘る。汝、早く朕がために范蠡が謀りごとを巡らせ。」と、御涙をおさへて仰せられければ、さしも怒れる貞満も、理を知らぬ夷どもも、頭を垂れ、涙を流して、皆鎧の袖をぞぬらしける。
 九日は、事騒がしき受禅の儀、還幸の粧ひに日暮れぬ。夜更くる程になつて、新田左中将、ひそかに日吉の大宮権現に参社し給ひて、閑かに啓白し給ひけるは、「臣、苟しくも和光の御願を憑んで日を送り、逆縁を結ぶこと、日、已に久し。願はくは、征路万里の末までも擁護の御眸を廻らされて、再び大軍を起こし、朝敵を亡ぼす力を加へ給へ。我、たとひ不幸にして、命の中にこの望みを達せずといふとも、祈念、冥慮に違はずば、子孫の中に必ず大軍を起こすものあつて、父祖の骸を清めん事を請ふ。この二つの内、一つも達することを得ば、末葉、永く当社の檀度{*4}となつて、霊神の威光を輝かし奉るべし。」と、信心を凝らして祈誓し、当家累代の重宝に鬼切といふ太刀を、社壇にぞ篭められける。

義貞北国落ちの事

 明くれば十月十日の巳の刻に、主上は、腰輿に召されて今路を西へ還幸なれば、春宮は、竜蹄{*5}に召されて戸津を北へ行啓なる。還幸の供奉にて京都へ出でける人々には、吉田内大臣定房、万里小路大納言宣房、御子左中納言為定、侍従中納言公明、坊門宰相清忠、勧修寺中納言経顕、民部卿光経、左中将藤長、頭弁範国。武家の人々には、大館左馬頭氏明、江田兵部少輔行義、宇都宮治部大輔公綱、菊池肥後守武俊、仁科信濃守重貞、春日部左近蔵人家綱{*6}、南部甲斐守為重、伊達蔵人家貞、江戸民部丞景氏、本間孫四郎重氏、山徒の道場坊助註記祐覚。都合その勢七百余騎、腰輿の前後に相従ふ。
 行啓の御供にて北国へ落ちける人々には、一宮{*7}中務卿親王、洞院左衛門督実世、同少将定世、三條侍従泰季、御子左少将為次、頭大夫行房、子息少将行尹。武士には、新田左中将義貞、子息越後守義顕、脇屋右衛門佐義助、子息式部大輔義治、堀口美濃守貞満、一井兵部大輔義時、額田左馬助為綱、里見大膳亮義益、大江田式部大輔義政、鳥山修理亮義俊、桃井駿河守義繁、山名兵庫助忠家、千葉介貞胤、宇都宮信濃将監泰藤、同狩野将監泰氏、河野備後守通治、同備中守通綱{*8}、土岐出羽守頼直、一條駿河守為治、その外、山徒少々相交じはつて、都合その勢七千余騎、案内者を前に打たせて、竜駕の前後に打ち囲む。
 この外、妙法院の宮は、御船に召されて遠江国へ落ちさせ給ふ。阿曽宮{*9}は、山伏の姿になつて吉野の奥へ忍ばせ給ふ。四條中納言隆資卿は、紀伊国へ下り、中院少将定平は、河内国へ隠れたまふ。
 その有様、ひとへに唯、歌舒翰、安禄山に打ち負けて、玄宗、蜀の国へ落ちさせ給ひし時、公子内官悉く、或いは玉趾を素足にして剣閣の雲に踏み迷ひ、或いは衣冠を汚して野径の草に逃げ隠れし昔の悲しみに相似たり。
 昨日までも、聖運、遂に開けば、錦を著て故郷へかへり、知らぬ里、みぬ浦山の旅宿をも語り出ださば、なかなかにうかりし節も悲しさも、忘れ形見となりぬべしと、心々の有様に身を慰めてありつるに、君臣父子、万里に隔たり、兄弟夫婦、十方に別れ行けば、或いは再会の期なきことを悲しみ、或いは一身の置き処なきことを思へり。今も逆旅の中にして、重ねて逆旅の中に行く。行くも敵の陣、帰るも敵の陣なれば、「誰か先に討たれて哀れと聞かれんずらん。誰か後に死して、なき数を添へんずらん。」と、詞に出だしてはいはねども、心に思はぬ人はなし。「南に翔り北に嚮ふ、寒温を秋の雁に附け難し。東に出で西に流る、唯、贍望を暁の月に寄す。」と江相公の書きたりし、別れに送る筆の跡、今の涙となりにけり。

還幸供奉の人々禁殺せらるる事

 還幸、已に法勝寺辺まで近づきければ、左馬頭直義、五百余騎にて参向し、先づ三種の神器を当今の御方へ渡さるべき由を申されければ、主上、かねてより御用意ありける似せ物をとりかへて、内侍の方へぞ渡されける。その後、主上をば花山院へ入れ参らせて、四門を閉ぢて警固を据ゑ、降参の武士をば大名どもの方へ一人づつ預けて、囚人の体にてぞ置かれける。「かかるべしとだに知りたらば、義貞朝臣ともろともに北国へ落ちて、ともかくもなるべかりけるものを。」と、後悔すれどもかひぞなき。
 十余日を経て後、菊池肥後守は、警固の宥くありける隙を得て、本国へ逃げ下りぬ。また、宇都宮は、放し囚人の如くにて、逃げぬべき隙も多かりけれども、出家の体になつて、いたづらにむかひ居たりけるを、憎しと思ふ者やしたりけん、門の扉に山雀を絵に書き、その下に一首の歌をぞ書きたりける。
  山がらがさのみもどりをうつのみや都に入りていでもやらぬは
 本間孫四郎は、元より将軍家来の者なりしが、去んぬる正月十六日の合戦より、新田左中将に属して、兵庫の合戦の時は、遠矢を射て弓勢の程を顕はし、雲母坂の軍の時は、扇を射て手だれの程を見せたりし度々の振舞、憎ければとて、六條河原へ引き出だして、首を刎ねられけり。
 山徒の道場坊助註記祐覚は、元は法勝寺の律僧にてありしが、先帝、船上に御座ありし時、大衣を脱いで山徒のかたちに替へ、弓箭に携はつて一時の栄華を開けり。山門両度の臨幸に軍用を支へし事、ひとへに祐覚がしわざなりしかば、山徒の中の張本なりとて、十二月二十九日、阿弥陀峯にて斬られけるが、一首の歌を法勝寺の上人の方へぞ送りける。
  大かたの年のくれぞと思ひしにわが身のはても今夜なりけり
 この外、山門より供奉して出でられたる三公九卿、僅かに死罪一等を宥められたれども、解官停任せられて、有るも無きが如くの身になり給ひければ、傍人の光彩に向つて面を泥沙の塵に垂れ、後生の栄耀を望んで涙を犬羊の天に注ぐ。住みにし跡に帰り給ひけれども、庭には秋の草{*10}茂りて、通ひし道、露深く、閨には夜の月のみさし入りて、塵打ち払ふ人もなし。顔子が一瓢、水清くして、ひとり道あることを知るといへども、相如が四壁、風すさまじくして、衣なきに堪へず。五衰退没の今の悲しみに、大梵高台の昔の楽しみを思ひ出だし給ふにも、世の憂きことは数添ひて、涙の尽くる時はなし。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「同じく源氏の一族。」とある。
 2・3:底本頭注に、「恒良親王。」とある。
 4:底本は、「檀度(だんと)」。底本頭注に、「施主。」とある。
 5:底本頭注に、「名馬。」とある。
 6:底本は、「家縄(いへつな)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 7:底本頭注に、「尊良親王。」とある。
 8:底本は、「通縄(みちつな)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 9:底本頭注に、「〇妙法院の宮 尊澄親王。」「〇阿曽宮 懐良親王。」とある。
 10:底本は、「秋草」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。