北国下向勢凍え死にの事

 同じき十一日に、義貞朝臣、七千余騎にて塩津、海津に著き給ふ。七里半の山中をば、越前の守護尾張守高経、大勢にて差し塞いだりと聞こえしかば、これより道を替へて木目峠をぞ越え給ひける。北国の習ひに、十月の初めより高き峯々に雪降りて、麓の時雨、止む時なし。今年は例よりも陰寒早くして、風紛れに降る山路の雪は甲冑に注ぎ、鎧の袖を翻して面を撲つこと烈しかりければ、士卒、寒谷に道を失ひ、暮山に宿なくして、木の下岩の蔭にしじまり{*1}ふす。たまたま火を求め得たる人は、弓矢を折り焼いて薪とし、未だ友を離れざる者は、互に抱きつきて身を暖む。元より薄衣なる人、飼ふ事なかりし馬ども、ここやかしこに凍え死んで、行く人、道を去り敢へず。かの叫喚大叫喚の声、耳に満ちて、紅蓮大紅蓮の苦しみ、眼に遮る。今だにかかりけり。後の世を思ひ遣るこそ悲しけれ。
 河野、土居、得能は、三百騎にて後陣に打ちけるが、天曲にて前陣の勢に追ひ後れ、行くべき道を失うて、塩津の北におり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取り篭めて討たんとしける間、相懸かりにかかつて、皆刺し違へんとしけれども、馬は雪に凍えてはたらかず、兵は指を落として弓を引き得ず、太刀の柄をも握り得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。
 千葉介貞胤は、五百余騎にて打ちけるが、東西くれて降る雪に道を踏み迷ひて、敵の陣へぞ迷ひ出でたりける。進退、歩みを失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集まつて自害をせんとしけるを、尾張守高経のもとより使を立てて、「弓矢の道、今はこれまでにてこそ候へ。まげて御方へ出でられ候へ。この間の儀{*2}をば、身に替へても申し宥むべし。」と、慇懃に宣ひ遣はされければ、貞胤、心ならず降参して、高経の手にぞ属しける。
 同じき十三日、義貞朝臣、敦賀津に著き給へば、気比弥三郎大夫{*3}、三百余騎にて御迎へに参じ、春宮、一宮、総大将父子兄弟を、先づ金崎城へ入れ奉り、自余の軍勢をば津の在家に宿を点じて、長途の窮屈を相助く。ここに一日逗留あつて後、この勢、一所に集まり居ては叶はじと、大将を国々の城へぞ分けられける。大将義貞は、東宮に附き参らせて、金崎城に止まりたまふ。子息越後守義顕には、北国の勢二千余騎を副へて、越後国へ下さる。脇屋右衛門佐義助には千余騎を副へて、瓜生が杣山城へつかはさる。これは皆、国々の勢を相附けて、金崎の後詰めをせよとのためなり。

瓜生判官心変はりの事 附 義鑑房義治を隠す事

 同じき十四日、義助、義顕、三千余騎にて敦賀の津を立つて、杣山へ打ち越え給ふ。瓜生判官保、舎弟兵庫助重、弾正左衛門照、兄弟三人、種々の酒肴舁かせて、鯖並の宿へ参向す。この外、人夫五、六百人に兵粮を持たせて諸軍勢に下向し、毎事、これを一大事と取り沙汰したる様、誠に他事もなげに見えければ、大将も士卒も皆、頼もしき思ひをなし給ふ。献酌、順に下つて後、右衛門佐殿{*4}の飲み給ひたる杯を、瓜生判官、席を去つて三度傾けける時、白幅輪の紺糸の鎧、一領引き給ふ{*5}。面目、身に余りてぞ見えたりける。その後、判官、己が館に帰つて、両大将へいろいろの小袖二十重、調進す。この外、御内、外様の軍勢どもの、余りに薄衣なるがいたはしければ、先づ小袖一つづつ仕立て送るべしとて、倉の内より絹綿数千取り出だして、俄にこれをぞ裁ち縫はせける。
 かかる処に、足利尾張守の方よりひそかに使者を通じ、「前帝{*6}よりなされたり。」とて、義貞が一類追罰すべき由の綸旨をぞ送られける。瓜生判官これを見て、元より心遠慮なき者なりければ、将軍よりたばかりて申し成されたる綸旨とは、思ひも寄らず、「さては、勅勘武敵の人々を許容して大軍を動かさん事、天の恐れもあるべし。」と、忽ちに心を変じて杣山城へ取り上り、木戸を閉ぢてぞ居たりける。
 ここに、判官が弟に義鑑房といふ禅僧のありけるが、鯖並の宿へ参じて申しけるは、「兄にて候保は、愚痴なる者にて候間、将軍より押さへて{*7}申しなされ候綸旨を誠と存じて、忽ちに違反の志をさし挟み候。義鑑房、弓箭を取る身にてだに候はば、刺し違へて共に死ぬべく候へども、僧体に恥ぢ、仏見に憚つて、黙止し候事こそ口惜しくおぼえ候へ。但し、つらつら愚案を廻らし候に、保、事の様を承り開き候程ならば、遂には御方に参じ候ひぬと存じ候。もし御幼稚の公達あまた御座候はば、一人これに留め置き参らせられ候へ。義鑑、懐の中、衣の下にも隠し置き参らせて、時を得候はば、御旗を挙げて、金崎の御後詰めを仕り候はん。」と申しも敢へず、涙をはらはらとこぼしければ、両大将、これが気色を見給ひて、偽りては、よも申さじと、疑ひの心をなし給はず。
 則ち、席を近づけて、ひそかに仰せられけるは、「主上、坂本を御出でありし時、『尊氏、もし強ひて申す事あらば、やむ事を得ずして義貞追罰の綸旨をなしつとおぼゆるぞ。汝、かりにも朝敵の名を取らんずる事、然るべからず。春宮に位を譲り奉りて、万乗の政を任せ参らすべし。義貞、股肱の臣として、王業再び本に復する大功を致せ。』と仰せ下され、三種の神器を春宮に渡し進ぜられし上は、たとひ先帝の綸旨とて、尊氏、申しなしたりとも、思慮あらん人は、用ゐるに足らぬ所なりと思ふべし。然れども、判官、この是非に迷へる上は、重ねて仔細を尽くすに及ばず。急いで兵を引いて、又金崎へ打ち帰るべきこと、已に難儀に及ぶ時分、一人、兄弟の議を変じて{*8}忠義を顕はさるる條、ことに有り難くこそおぼえて候へ。御心中、憑もしくおぼゆれば、幼稚の息男義治をば、僧に預け申し候べし。彼が生涯の様、ともかくも御計らひ候へ。」と宣ひて、脇屋右衛門佐殿の子息に式部大輔義治とて、今年十三になり給ひけるを、義鑑房にぞ預けらるる。
 この人、鍾愛、他に異なる幼少の一子にておはすれば、一日片時も傍を離し給はず。荒き風にもあてじとこそいたはり哀れみ給ひしに、身近き若党一人をもつけず、心も知らぬ人に預けて、敵の中に留め置き給へば、恩愛の別れも悲しくて、再会のその期、知り難し。
 夜明くれば、右衛門佐は金崎へ打ち帰り、越後守は越後国へ下らんとて、宿中にて勢をそろへたまふに、瓜生が心替はりを聞いて、いつの間にか落ち行きけん、昨日までは三千五百余騎としるしたりし軍勢、僅か二百五十騎になりにけり。この勢にては、何として越後国まで遥々と敵陣を経ては下るべき。さらば、共に金崎へ引き返してこそ船に乗つて下らめとて、義助も義顕も、鯖並の宿より打ち連れて、又敦賀へぞ打ち帰りたまひける。
 ここに、当国の住人今庄九郎入道浄慶、この道より落人の多く下るよしを聞いて、打ち留めんために、近辺の野伏どもを催しあつめて、嶮岨に鹿垣を結ひ、要害に逆茂木を引いて、鏃をそろへてぞ待ちかけたる。
 義助朝臣、これを見給ひて、「これは、いかさま今庄法眼久経といひし者の、当手に属して坂本までありしが一族どもにてぞあるらん。その者どもならば、さすが旧功を忘れじとおぼゆるぞ。誰かある。近附いて事の様を尋ね聞け。」と宣ひければ、由良越前守光氏、畏まつて、「承り候。」とて、唯一騎、馬を控へて、「脇屋右衛門佐殿の、合戦評定のために杣山城より金崎へかりそめに御越し候を、かたがた存知候はでばし、かやうに道を塞がれ候やらん。もし矢一筋をも射出だされ候ひなば、いづくに身を置いて罪科を遁れんと思はれ候ぞ、早く弓を伏せ兜を脱いで、通し申され候へ。」と高らかに申しければ、今庄入道、馬より下りて、「親にて候、卿法眼久経、御手に属して軍忠を致し候ひしかば、御恩の末も忝く存じ候へども、浄慶父子、各別の身となつて尾張守殿に属し申したる事にて候間、ここをば支へ申さで通し参らせん事は、その罪科、遁れ難く存じ候程に、わざと矢一つ仕り候はんずるにて候。これ、全く身の本意にて候はねば、あはれ、御供仕り候人々の中に、名字さりぬべからんずる人を一両人、出だし賜はり候へかし。その首を取つて合戦仕りたる支証に備へて、身の咎を助かり候はん。」とぞ申しける。
 光氏、打ち帰つてこの由を申せば、右衛門佐殿、進退きはまりたる体にて、とかくの詞も出だされざりければ、越後守{*9}、見給ひて、「浄慶が申す所も、その謂はれありとおぼゆれども、今まで附き纏ひたる士卒の志、親子よりも重かるべし。されば、彼等が命に義顕は替はるとも、我が命に士卒を替へがたし。光氏、今一度打ち向つて、この旨を問答して見よ。猶難儀のよしをのみ申さば、力なく、我等も士卒と共に討死して、将の士を重んずる義を後世に伝へん。」とぞのたまひける。
 光氏、又打ち向つてこの由を申すに、浄慶、猶、心とけずして、数刻を移しける間、光氏、馬より下りて、鎧の上帯切つて投げ捨て、「天下のために重かるべき大将の御身としてだにも、軍勢の命に替はらんとし給ふぞかし。況んや義に依つて命を軽んずべき郎従の身として、主の御命に替はらぬ事やあるべき。さらば、早、光氏が首を取つて、大将を通し参らせよ。」といひもはてず、腰の刀を抜いて自ら腹を切らんとす。その忠義を見るに、浄慶、さすがに肝に銘じけるにや、走り寄つて光氏が刀に取りつき、「御自害の事、ゆめゆめ候べからず。実にも、大将の仰せも士卒の所存も、皆、理におぼえ候へば、浄慶こそいかなる罪科に当てられ候とも、いかでか情なき振舞をば仕り候べき。早、御通り候へ。」と申して、弓を伏せ逆茂木を引き退けて、泣く泣く道の傍に畏まる。両大将、大きに感ぜられて、「我等は、たとひ戦場の塵に没すとも、もし一家{*10}の内に世を保つ者出で来らば、これをしるしに出だして、今の忠義を顕はさるべし。」とて、射向の袖にさしたる金作の太刀を抜いて、浄慶にぞ与へられける。
 光氏は、主の危ふきを見て命に替はらんことを請ひ、浄慶は、敵の義を感じて後の罪科を顧みず。いづれも理の中なれば、これを聞き見る人ごとに、称嘆せぬはなかりけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「縮まり。」とある。
 2:底本頭注に、「敵となつてゐた間の事。」とある。
 3:底本頭注に、「氏治。」とある。
 4:底本頭注に、「脇屋義助。」とある。
 5:底本頭注に、「引出物として贈り給ふ。」とある。
 6:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 7:底本頭注に、「強制的に。」とある。
 8:底本頭注に、「貴方一人が兄弟の議に与せずして。」とある。
 9:底本頭注に、「義顕。」とある。
 10:底本頭注に、「新田氏の一族。」とある。