十六騎の勢金崎に入る事

 始め、浄慶が問答の難儀なりしを聞いて、金崎へ{*1}通らん事叶はじとや思ひけん、唯今まで二百五十騎ありつる軍勢、いづちともなく落ち失せて、僅か十六騎になりにけり。深山寺の辺にて木こりの行き合ひたるに、金崎の様を問ひ給へば、「昨日の朝より国々の勢二、三万騎にて、城を百重千重に取り巻いて、攻め候なり。」とぞ申しける。
 「さては、いかがすべき。これより東山道を経て、忍びて越後へや下る。ただここにて腹をや切る。」と、異議まちまちなりけるを、栗生左衛門、進み出で申しけるは、「いづくの道を経ても、越後まで遥々と落ちさせ給はん事、叶はじとこそ存じ候へ。下人の一人をもつれぬ旅人の、疲れて道を通り候はんを、誰か落人よと見ぬことの候べき。又、面々、ここにて腹を切り候はんずることも、楚忽におぼえ候へば、今夜はこの山中に忍びて夜を明かして、まだ東雲の明けはてざらんころほひ、杣山城より後詰めするぞと呼ばはつて、敵の中へかけ入りて戦はんに、敵、もし騒いで攻口を引き退くことあらば、差し違うて城へ入り候べし。騒がで路を遮り候はば、思ふ程太刀打ちして、総大将の御覧ぜらるる御目の前にて討死仕りて候はんこそ、後までの名も九原{*2}の骨にも留まり候はんずれ。」と申しければ、十六人の人々、皆この議にぞ同ぜられける。
 「されば、大勢なる体を敵に見する様に謀れ。」とて、十六人が鉢巻と上帯とを解いて、青竹の末に結ひつけて、旗の様に見せて、ここの木の梢、かしこの蔭に立て置いて、明くるをおそしとぞ待たれける。金鶏三たび唱へて、雪よりしらむ山の端に、横雲漸く引き渡りければ、十六騎の人々、中黒の旗一流れさし挙げ、深山寺の木蔭より敵陣の後ろへかけ出でて、「瓜生、富樫、野尻、井口、豊原、平泉寺並びに剣、白山の衆徒等、二万余騎にて後詰め仕り候ぞ。城中の人々、出で向はれ候うて、先駆けの者どもの剛臆の振舞、委しく御覧じて、後の証拠に立てられ候へ。」と、声々に喚いて、鬨の声をぞ揚げたりける。
 その真先に進みける武田五郎は、京都の合戦に切られたりし右の指、未だ癒えずして、太刀の柄を握るべき様もなかりければ、杉の板をもつて木太刀を作つて、右の腕にぞ結ひつけたりける。二番に進みける栗生左衛門は、佩き副への太刀なかりける間、深山柏の周り一尺ばかりなるを一丈余りに打ち切つて、金才棒の如くに見せ、右の小脇に掻い挟みて、大勢の中へわつて入る。
 これを見て、金崎を取りまいたる寄せ手三万余騎、「すはや、杣山より後詰めの勢駆けけるは。」とて、馬よ物具よとあわてさわぐ。案のごとく深山寺に立て並べたる旗どもの、木々の嵐に翻るを見て、後詰めの勢、げにも大勢なりけりと心得て、攻め口にありける若狭越前の勢ども、楯を捨て、弓矢を忘れてぱつと引く。城中の勢八百余人、これに利を得て、浜面の西、大鳥居の前へ討ち出でたりける間、雲霞の如くに充満したる大勢ども、度を失ひて十方へ逃げ散る。或いは、後に引くを敵の追ふと心得て、返し合はせて同士討をし、或いは、横切つて逃ぐるを敵と見て、立ち留まつて腹を切るものもあり。二里三里が外にも猶留まらず、誰が追ふとしもなきに遠引きして、皆、己が国々へぞ帰りける。

金崎船遊びの事 附 白魚船に入る事

 さる程に、百重千重に城を囲みたりつる敵ども、一時の謀りごとに破られて、近辺に、今は敵といふ者一人もなかりければ、これ、只事にあらずとて、城中の人々の悦びあへる事、限りなし。
 十月二十日の曙に、江山雪晴れて、漁舟一蓬の月を載せ、帷幕風捲いて、貞松千株の花を敷けり。この興、都にて未だ御覧ぜられざる風流なれば、逆旅の御心をも慰められんために、浦々の船を点ぜられ、竜頭鷁首になぞらへて、雪中の景をぞ興ぜさせ給ひける。春宮、一宮は御琵琶、洞院左衛門督実世卿は琴の役、義貞は横笛、義助は箏の笛、維頼は打ち物{*3}にて、蘇合香の三帖、万寿楽の破、繁絃急管の声、一唱三嘆の調べ、融々洩々として、正始の音にかなひしかば、天衆もここに天降り、竜神も納受する程なり。簫韶九奏{*4}すれば、鳳舞ひ魚跳る感あり。誠に心なき鱗までも、これを感ずる事やありけん、水中に魚跳り、御船の中へ飛び入りける。
 実世卿、これを見給ひて、「昔、周の武王、八百の諸侯を率し、殷の紂を討たんために孟津を渡りし時、白魚跳つて武王の船に入りけり。武王、これを取つて天に祭る。果たして戦ひに勝つ事を得しかば、殷の世を遂に亡ぼして、周、八百年{*5}の位を保てり。今の奇瑞、古に同じ。早くこれを天に祭つて寿をなすべし。」と。屠人{*6}、これを調へて、その胙を東宮に奉る。東宮、御杯を傾けさせ給ひける時、島寺の袖といひける遊君、御酌に立ちたりけるが、拍子を打ちて、「翠帳紅閨、万事の礼法異なりといへども、舟の中波の上、一生の歓会、これ同じ。」と、時の調子の真中を三重にしほり歌ひたりければ、儲君儲王、忝くも叡感の御心を傾けられ、武将官軍も、等しく嗚咽の袖をぞぬらされける。

金崎城攻むる事 附 野中八郎が事

 杣山より引き返す十六騎の勢に出し抜かれ、金崎の寄せ手、四方に退散しぬるよし、京都へ聞こえければ、将軍、大きに怒りをなして、やがて大勢をぞ下されける。当国の守護尾張守高経は、北陸道の勢五千余騎を率して蕪木より向かはる。仁木伊賀守頼章は、丹波美作の勢千余騎を率して塩津より向かはる。今川駿河守は、但馬若狭の勢七百余騎を率して小浜より向かはる。荒川三河守は、丹後の勢八百余騎を率して匹壇より向かはる。細川源蔵人は、四国の勢二万余騎を率して東近江より向かはる。高越後守師泰は、美濃尾張遠江の勢六千余騎を率して荒血中山より向かはる。小笠原信濃守{*7}は、信濃の勢五千余騎を率して新道よりむかふ。佐々木塩冶判官高貞は、出雲伯耆の勢三千余騎を率して、兵船五百余艘に取り乗つて海上よりぞむかひける。その勢都合六万余騎、山には役所を作り並べ、海には船筏を組んで、城の四方を囲みぬること、隙透間もなかりけり。
 かの城の有様、三方は海に依つて岸高く、巌滑らかなり。巽の方に当たれる山一つ、城より少し高うして、寄せ手、城中を目の下に見下すといへども、岸絶え地さがりにして、近づいて寄すれば、城郭、一片の雲の上にそばだち、遠くして射れば、その矢、万仞の谷の底に落つ。されば、如何なる巧みを出だして攻むるとも、切り岸のほとりまでも近づくべき様はなかりけれども、小勢にて、しかも新田の名将一族を尽くして篭られたり。寄せ手大勢にて、しかも将軍の家来{*8}、威を振ひて向かはれたれば、両家の争ひ、ただこの城の勝負にあるべしと、各、機を張り心を専らにして攻め戦ふ事、片時もたゆまず。矢に当たりて創を病み、石に打たれて骨を砕く者、毎日千人二千人に及べども、逆茂木一本を{*9}だにも破られず。
 これを見て、小笠原信濃守、究竟の兵八百人をすぐつて、東の山の麓より巽角の尾をすぢかひに、かづき連れて{*10}ぞ上がつたりける。城には、これや破らるべき所なりけん、城中の兵三百余人、二の木戸を開いて、同時に打つて出でたり。両方相近になりければ、矢を止めて打物になる。防ぐ兵は、ここを引かば続いて攻め入られぬ{*11}と危ぶみて、一足も退かず戦ふ。寄せ手は、いふがひなく引いて敵味方に笑はれじと、命を捨ててぞ攻めたりける。
 敵、さすがに小勢なれば、戦ひ疲れて見えける処に、例の栗生左衛門、緋縅の鎧に竜頭の兜を夕日に輝かし、五尺三寸の太刀に、樫の棒の八角に削りたるが、長さ一丈二、三尺もあらんとおぼえたるを打ち振つて、大勢の中へ走りかかり、片手打ちに二、三十、重ね打ちにぞ打ちたりける。寄せ手の兵四、五十人、犬居{*12}にどうと打ち据ゑられ、中天にづんと打ち挙げられ、沙の上に倒れ伏す。後陣の勢、これを見て、しどろになりて浪打際に群立つ所へ、気比大宮司太郎、大学助矢島七郎、赤松太田帥法眼、四人、透間なく打つてかかりける間、叶はじとや思ひけん、小笠原が八百余人の兵、一度にぱつと引いて、元の陣へぞ帰りける。
 今川駿河守、この日の合戦を見て推量するに、「ここがいかさま、破られぬべき所なればこそ、城より、ここを先途と出でては戦ふらめ。陸地より寄せばこそ、足立ち悪しくてたやすく敵には払はれつれ。船にて一攻め攻めて見よ。」とて、小舟百余艘に取り乗つて、昨日小笠原が攻めたりし浜際よりぞ上りける。寄ると等しく、切り岸の下なる鹿垣一重引き破つて、やがて出し塀の下へ著かんとしける所へ、又、城より包み連れたる兵{*13}二百余人、抜き連れて打ち出でたりけり。寄せ手五百余人、真つさかさまに巻き落とされ、我先にと船にぞこみ乗りける。遥かに船を押し出だして{*14}、後を顧みるに、中村六郎{*15}といふ者、痛手を負ひて船に乗りおくれ、磯蔭なる小松の蔭に太刀をさかしまについて、「その船寄せよ。」と招けども、「あれ、あれ。」といふばかりにて、助けんとする者もなかりけり。
 ここに、播磨国の住人野中八郎貞国といひける者、これを見て、「知らであらんは力なし。御方の兵の、船に乗り後れて敵に討たれんとするをまのあたり見ながら、助けぬといふ事やあるべき。この船、漕ぎ戻せ。中村助けん。」といひけれども、人、敢へて耳にも聞き入れず。貞国、大きに怒つて、人の棹さす櫓を引き奪うて逆櫓に立て、自ら船を押しもどし、遠浅よりおり立つて、ただ一人、中村が前へ歩み行く。
 城の兵どもこれを見て、「手負うて引きかねたるものは、いかさま、宗徒の人なればこそ、これを討たせじと、遥かに引きたる敵どもは、又返し合はすらめ。下り合つて頚を取れ。」とて、十二、三人がほど、中村が後ろへ走りかかりけるを、貞国、ちつとも騒がず、長刀の石づき取り伸べて、向ふ敵一人、諸膝薙いで切り据ゑ、その首を取つて鋒に貫き、中村を肩に引つかけて、しづかに船に乗りければ、敵も御方もこれを見て、「あつぱれ、剛のものかな。」と、誉めぬ人こそなかりけれ。
 その後よりは、寄せ手、大勢なりといへども、敵、手痛く防ぎければ攻め屈して、唯、かへり、逆茂木引き、向ひ櫓を掻いて、いたづらに矢軍ばかりにてぞ日をくらしける。

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校訂者注
 1:底本は、「金(が)崎を通らん事(こと)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 2:底本頭注に、「支那戦国時代晋の卿大夫の墓のある地名。」とある。
 3:底本頭注に、「鼓太鼓の類。」とある。
 4:底本は、「簫韶九奏(せうぜうきうそう)」。底本頭注に、「書経『簫韶九成、鳳凰来儀。』。簫韶は舜の楽名。」とある。
 5:底本は、「八百の祚(くらゐ)」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い補った。
 6:底本は、「屠人(とじん)これを調へて其の胙(ひもろぎ)を東宮に奉る。」。底本頭注に、「〇屠人 料理人。」「〇胙 祭肉。」とある。
 7:底本頭注に、「〇今川駿河守 頼基の子頼貞。」「〇荒川三河守 詮頼。」「〇細川源蔵人 頼春。」「〇小笠原信濃守 貞宗。」とある。
 8:底本は、「家礼(けらい)」。底本頭注に従い改めた。
 9:底本は、「一本だにも」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 10:底本頭注に、「楯を被り打続いて。」とある。
 11:底本は、「攻(せ)め入れられぬ」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 12:底本は、「犬居(いぬゐ)」。底本頭注に、「四つ這ひになつて。」とある。
 13:底本頭注に、「甲冑に身を包み連れ立つた兵。」とある。
 14:底本は、「船(ふね)を押(お)して」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 15:底本頭注に、「重延。」とある。