巻第十八

先帝吉野へ潜幸の事

 主上は、「重祚の御事、相違候はじ。」と、尊氏卿、様々申されたりし偽りの詞を御憑みあつて、山門より還幸成りしかども、元よりたばかり参らせんためなりしかば、花山院の故宮に押し篭められさせ給ひ、宸襟を蕭颯たる寂寞の中に悩まさる。霜に響く遠寺の鐘に御枕をそばだて、楓橋の夜の泊りに御哀れを副へられ、梢に余る北山の雪に御簾をかかげては、梁園の昔の御遊に御涙を催さる。紅顔花の如くなりし三千の宮女も、一朝の嵐に誘はれて、いづ地ともなくなりしかば、夜の大殿に入らせ給ひても、夢より外の昔もなし。紫宸に星を列ねし百司の老臣も、満天の雲に覆はれ、参り仕ふる人一人もなければ、天下の事如何になりぬらんと、尋ね聞こし召さるべき便りもなし{*1}。
 「そもそも、朕が不徳、何事なれば、かほどに仏神にも放たれ奉つて、逆臣のために犯さるらん。」と、旧業{*2}の程も浅ましく、この世の中も憑み少なく思し召されければ、「寛平の遠き跡をも尋ね、花山の近き例をも追はばや{*3}。」と思し召し立たせたまひける処に、刑部大輔景繁、武家の許しを得て唯一人伺候したりけるが、勾当内侍を以てひそかに奏聞申しけるは、「越前の金崎の合戦に、寄せ手、毎度打ち負け候なる間、加賀国、剣、白山の衆徒等、御方に参り、富樫介が篭つて候、那多城を攻め落として、金崎の後詰めを仕らんと企て候なる。これを聞きて、還幸の時、供奉仕つて京都へ罷り上り候ひし菊池掃部助武俊、日吉加賀法眼以下、皆、己が国々へ逃げ下つて義兵を挙げ、国中を打ち従へて候なる間、天下の反覆遠からじと、謳歌の説{*4}、耳に満ち候。急ぎ近日の間に、夜に紛れて大和の方へ臨幸成りさふらうて、吉野、十津川の辺に皇居をさだめられ、諸国へ綸旨を成し下され、義貞が忠心をも助けられ、皇統の聖化を輝かされ候へかし。」と、委細にぞ申し入れたりける。
 主上、ことの様をつぶさに聞こし召され、「さては天下の武士、猶、帝徳を慕ふ者多かりけり。これ、天照太神の景繁が心に入り替はらせ給ひて、示さるるものなり。」と思し召されければ、「明夜必ず寮の御馬を用意して、東の小門のほとりに相待つべし。」とぞ仰せ出だされける。
 相図の刻限にもなりければ、三種の神器をば新勾当内侍に持たせられて、童部の踏みあけたる築地の崩れより、女房の姿にて忍び出でさせ給ふ。景繁、かねてより用意したることなれば、主上をば寮の御馬に舁き乗せ参らせ、三種の神器を自ら荷担して、未だ夜の中に大和路にかかりて、梨間宿までぞ{*5}落とし参らせける。白昼に南都をかくの如くにて通らせ給はば、人の怪しめ申す事もこそあれとて、主上をば賤しげなる張輿に召しかへさせ参らせて、供奉の上北面どもを輿舁になし、三種の神器をば足つきたる行器{*6}に入れて、物詣でする人の破篭{*7}なんど入れて持たせたる様に見せて、景繁、夫{*8}になつてこれを持つ。いづれも皆、習はぬ業なれば、急ぐとすれども行きやらで、その日の暮程に、内山までぞ著かせ給ひける。
 ここまでも、もし敵の追つかけ参らする事もやあらんずらんと、安き心もなかりければ、今夜、如何にもして吉野辺{*9}まで成し参らせんとて、ここより寮の御馬を参らせたれども、八月二十八日の夜の事なれば、道、いと暗くして、行くべき様もなかりける処に、俄に春日山の上より金峯山の嶺まで、光り物飛び渡る勢ひに見えて、松明の如くなる光、夜もすがら天を輝かし地を照らしける間、行路分明に見えて、程なく夜の曙に大和国賀名生といふ所へぞ落ち著かせ給ひける。
 この処の有様、里遠くして人煙幽かに、山深くして鳥の声も稀なり。柴といふ物を囲ひて家とし、芋、野老{*10}を掘つて世を渡るばかりなれば、皇居になすべき所もなく、供御に備ふべきその儲けも尋ね難し。かくては如何{*11}あるべきなれば、吉野の大衆を語らひて、君を入れ参らせんと思ひて、景繁、則ち吉野へ行き向ひ、当寺の宿老吉水法印にこの由を申しければ、満山の衆徒を語らひ、蔵王堂に集会して僉議しけるは、「古、清見原天皇{*12}、大友皇子に襲はれ、この所に御幸成りしも、程なく天下太平を致さる。その先蹤について、今、仙蹕{*13}を促さるる事、衆徒、何ぞ異議に及ぶべけんや。なかんづく、昨夜の光り物、臨幸の道を照らす。これ、しかしながら当山の鎮守蔵王権現、小守、勝手大明神、三種の神器を擁護し、万乗の聖主を鎮衛し給ふ瑞光なり。暫くも猶予あるべからず。」とて、若大衆三百余人、皆甲冑を帯して御迎ひにぞ参りける。
 この外、楠帯刀正行、和田次郎、真木定観、三輪西阿。紀伊国には、恩地、牲河、貴志、湯浅。五百騎三百騎、引きも切らず面々馳せ参りける間、雲霞の勢を腰輿の前後に囲ませて、程なく吉野へ臨幸なる。春雷一たび動く時、蟄虫萌蘇する心地して、「聖運、忽ちに開けて、功臣、既に顕はれぬ。」と、人皆歓喜の思ひをなす。

高野根来と不和の事

 先帝、花山院を忍び出でさせ給ひて、吉野に潜幸成りしかば、近国の軍勢は申すに及ばず、諸寺諸社の衆徒神官に至るまで、皆、王化に随つて、或いは軍用を支へ、或いは御祈りを致しけるに、根来の大衆は、一人も吉野へ参らず。これは、必ずしも武家を贔負して、公家を背き申すにはあらず。「この君、高野山を御崇敬あつて、方々の所領を寄せられ、様々の御立願あり。」と聞きて、偏執の心をさし挟みける故なり。
 そもそも釈門の徒たる者は、柔和を以て宗とし、忍辱を以て衣とすることにてこそあるに、根来と高野と、何事に依つてこれ程までに確執の心をば結ぶぞと、事の起こりを尋ぬれば、中頃、高野の伝法院に覚鑁とて、一人の上人おはしけり。一度三密瑜伽の道場に入りしより、永く四曼不離の行業に怠らず、観法、座たけなはにして、薫修、年久しかりけるが、即身成仏と談じながら、猶、有漏の身を替へざる事を歎きて、求聞持の法を七座まで行ふ。されども、三品成就の内、いづれを得たりともおぼえざりければ、覚洞院の清憲僧正の室に入り、一印一明を受けて、又、百日行ひ給ひければ、その法、忽ちに成就して、自然智を得給ひて、浅略深秘の奥義、習はずして底を極め、聞かずして旨を開けり。
 ここに、我慢邪慢の大天狗ども、如何にしてこの人の心中に依託して、不退の行学を妨げんとしけれども、上人、定力堅固なりければ、隙を伺ふ事を得ず。されども或る時、上人、温室に入つて、瘡をたでられけるが、心身快くして、僅かの楽しみに婬著す。この時天狗ども、力を得、造作魔の心をぞ附けたりける。これより覚鑁、伝法院を建立して、我が門徒を盛んにせばやと思ふ心、懇ろになりければ、鳥羽禅定法皇に奏聞を経て、堂舎を立て、僧坊を作らる。されば、一院の草創、不日に事成りし後、覚鑁上人、忽ちに入定の扉を閉ぢて、慈尊の出世五十六億七千万歳の暁を待ち給ふ。
 高野の衆徒等、これを聞きて、「何條その御房、我慢の心にて掘り埋づまれ、高祖大師{*14}の御入定に同じからんとすべき様やある。その儀ならば、一院を破却せよ。」とて、伝法院へ押し寄せ、堂舎を焼き払ひ、御廟を掘り破つてこれを見るに、上人は、不動明王の形像にて、伽楼羅炎の内に坐し給へり。ある若大衆一人、走り寄つて、これを引き立てんとするに、その身、磐石の如くにして、那羅延が力にても動かし難く、金剛の杵も砕き難くぞ見えたりける。悪僧等、猶これにも恐れず、「あな、ことごとし。如何なる古狸古狐なりとも、化くる程ならば、これにや劣るべき。よしよし、真の不動か、覚鑁が化けたる形か、打つて見よ。」とて、大きなる石を拾ひかけて、十方よりこれを打つに、投ぐる飛礫の声、大日の真言に聞こえて、かつてその身にあたらず、あらけて微塵に砕け去る。
 この時、覚鑁、「さればこそ汝等が打つ所の飛礫、全く我が身に当たる事、あるべからず。」と、少し憍慢の心を起こされければ、一つの飛礫、上人の御額に当たつて、血の色、漸くにして見えたりけり{*15}。「さればこそ。」とて、大衆ども、同音にどつと笑ひ、各、院々谷々へぞ帰りける。これより、覚鑁上人の門徒五百坊、心憂き事に思ひて、伝法院の御廟を根来へ移して、真言秘密の道場を建立す。その時の宿意相残つて、高野、根来の両寺、ややもすれば確執の心をさし挟めり。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本は、「便りなし。」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 2:底本頭注に、「前世の所業。」とある。
 3:底本頭注に、「〇寛平云々 寛平は宇多帝の年号で此の帝の出家なされた事を云ふ。」「〇花山云々 花山帝も出家された。」とある。
 4:底本頭注に、「世上の風説。」とある。
 5:底本は、「梨間宿までぞ落とし」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 6:底本は、「行器(ほかひ)」。底本頭注に、「食物を入れて持ち運ぶ器。」とある。
 7:底本は、「破籠(わりご)」。底本頭注に、「一種の弁当箱。」とある。
 8:底本は、「夫(ぶ)」。底本頭注に、「人夫。」とある。
 9:底本は、「吉野の辺」。『太平記 三』(1983年)に従い削除した。
 10:底本は、「野老(ところ)」。底本頭注に、「薢の異名で植物の名。」とある。
 11:底本は、「如何にあるべき」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 12:底本頭注に、「天武天皇。」とある。
 13:底本は、「仙蹕(せんひつ)」。底本頭注に、「天皇の御通り。」とある。
 14:底本頭注に、「〇御房 御僧。」「〇高祖大師 弘法大師。」とある。
 15:底本は、「見えたりける。」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。