瓜生旗を挙ぐる事
さる程に、先帝は吉野に御座あつて、近国の兵馳せ参る由、聞こえければ、京都の周章は申すに及ばず、諸国の武士も又、「天下、穏やかならじ{*1}。」と、安き心もなかりけり。この事、已に一両月に及びけれども、金崎城には、出で入り絶えたるに依つて、知る人もなかりける処に、十一月二日の朝凪に、櫛川の島崎より金崎を指して泳ぐ者あり。海松和布を被く海士人か、浪に漂ふ水鳥かと、目をつけてこれを見れば、それにはあらずして、亘理新左衛門と云ひける者、吉野の帝よりなされたる綸旨を髻に結ひ附けて、泳ぐにてぞありける。城中の人々、驚きて急ぎ開いて見るに、先帝、ひそかに吉野へ臨幸成つて、近国の士卒、悉く馳せ参る間、不日に京都を攻めらるべき由、載せられたり。寄せ手はこれを聞きて、この間隠しつる事を、城中に早知られぬと、安からず思へば、城の内には、助けの兵ども国々に出で来つて、今に寄せ手を追ひ払はんと、悦びの心、身に余れり。
中にも瓜生判官保、足利尾張守高経の手に属して、金崎の攻め口にあり。その弟兵庫助重、弾正左衛門照、義鑑房三人は、未だ金崎へは向かはで、杣山城にありけるが、去月十一日に、新田の人々、この国へ落ちられたりし時、義鑑房が隠し置きたりし脇屋右衛門佐の子息、式部大輔義治を大将として、義兵を挙げんと、日々夜々にぞ巧みける。
兄の判官、この事を聞きて、「この者ども、もし楚忽に謀叛を起こさば、我、必ず存知せぬ事は非じとて、金崎にて討たれぬ。」と思ひければ、「兄弟一つになつてこそ、ともかくもならめ。」と思ひ返して、「あはれ、同心する人あれかし。」と、壁に耳を附け、心を人の腹に置いて、とかく伺ひ聞きける折節、陣屋を並べて居たりける宇都宮美濃将監と天野民部大輔{*2}と寄り合つて、四方山の雑談のついでに、家々の旗の紋どもを云ひ沙汰しける処に、誰とは知らず、末座なる者、「二つ引き両と大中黒と、いづれか勝れたる紋にて候らん。」と問ひければ、美濃将監、「紋の善悪をば暫く置き、吉凶を云はば、大中黒程めでたき紋はあらじとおぼゆ。その故は、前代の紋に三つ鱗形をせられしが滅びて、今の世、二つ引き両になりぬ。これを{*3}又亡ぼさんずる紋は、一つ引き両にてこそあらんずらめ。」と申しければ、天野民部大輔、「勿論に候。周易と申す文には、一文字をば、かたきなしと読みて候なる。されば、この御紋は、いかさま、天下を治めて五畿七道を悉く敵なき世になしぬとおぼえて候。」と、文字につきて才覚を吐きければ、又、傍らなる者の、「天に口なし、人を以て云はしむ。」と、憚る所なく笑ひ戯れければ、瓜生判官、これを聞きて、「さては、この人々も、野心をさし挟む所存ありけり。」と嬉しく思ひて、常に酒を送り茶を進めて、連々に睦び近づきて後、大儀を思ひ立ち候由を語りければ、宇都宮も天野も、「仔細あらじ。」とぞ同じける。
さらば、やがて杣山へ帰つて旗を挙げんと評定しける処に、諸国の軍勢ども、暇をも乞はず、己が所領へ抜け抜けに帰りけるを押し留めんために、高越後守、四方の口々に堅く兵士を据ゑて、人を通さず。もしくは所用ありてこの道を通る人は、師泰が判形を取つてぞ通りける。瓜生判官、さらば、この関をたばかつて通らんと思ひて、越後守のもとに行きて、「御馬の大豆を召し参らせんために、杣山へ人夫を百五十人遣はすべく候。関所の御札を賜はり候へ。」と云ひければ、師泰が執事山口入道、杉板を札に作つて、「この人夫百五十人{*4}通すべし。」と書きて、判を据ゑてぞ出だしける。瓜生、この札を請け取つて、下なる判形ばかりを残し置きて、上なる文字を皆押し削りて、「上下三百人通すべし。」と書き直し、宇都宮、天野相共に、深山寺の関所を事ゆゑなく通りてげり。
瓜生判官、杣山に帰りければ、三人の弟ども、大きに悦んて、やがて式部大輔義治を大将として、十一月八日、飽和の社の前にて中黒の旗を挙げける程に、去んぬる十月、坂本より落ち下りける軍勢、ここかしこに隠れ居たりけるが、この事を聞きて、いつの間にか馳せ来りけん、程なく千余騎になりにけり。則ち、その勢を五百余騎差し分けて、鯖並の宿、湯尾峠に関を据ゑて、北国の道を差し塞ぐ。昔の火打城の巽に当たる山の、水木足つて嶮しくそばだちたる峯を、詰めの城に拵へて、兵粮七千余石積み篭めたり。これは、千万、駆け合ひの軍に打ち負くることあらば、楯篭らんための用意なり。
越後守師泰は、この由を聞きて、「もし遅く退治せば、剣、白山の衆徒等、成り合ひて{*5}、ゆゆしき大事なるべし。時を替へず杣山を打ち落として、金崎城を心安く攻むべし。」とて、能登加賀越中三箇国の勢六千余騎を、杣山城へぞ差し向けける。瓜生、これを聞きて、敵の陣を要害に取らせじとて、新道、今庄、葉原、宅良、三尾、河内四、五里が間の在家を、一宇も残さず焼き払つて{*6}、杣山城の麓なる湯尾の宿ばかりをば、わざと焼き残してぞ置きたりける。
さる程に、十一月二十三日、寄せ手六千余騎、深雪に橇{*7}を懸けて、山路八里を一日に越えて、湯尾の宿にぞ著いたりける。これより杣山へは五十町を隔てて、その間に大河あり。「日暮れて、路にあゆみ疲れぬ。明日こそ相近づいて矢合はせをもせめ。」とて、僅かなる在家に詰まり居て、火を焚き身を温めて、前後も知らず寝たりけり。
瓜生は、かねて案の図に{*8}敵を谷底へおびき入れて、「今は、かう。」と思ひければ、その夜の夜半ばかりに、野伏三千人を後ろの山へあげ、足軽の兵七百余人、左右へ差し廻して、鬨の声をぞ揚げたりける。寝おびれたる寄せ手ども、鬨の声に驚いて、あわてふためく処へ、宇都宮紀清両党、乱れ入つて、家々に火をかけたれば、物具したるものは太刀を取らず、弓を持ちたるものは矢をはげず。五尺余り降り積もつたる雪の上に、橇もかけずして走り出でたれば、胸の辺まで落ち入つて、足を抜かんとすれども叶はず。唯、泥にねられたる魚の如くにて、生け捕らるる者三百余人、討たるる者は数を知らず。希有にして逃げ延びたる人も皆、物具を捨て、弓箭を失はぬ者はなかりけり。
校訂者注
1:底本は、「穏(おだや)かならずと、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
2:底本頭注に、「〇宇都宮美濃将監 泰藤。」「〇天野民部大輔 名は政貞。景光の子。」とある。
3:底本は、「これ又」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
4:底本は、「百五十通す可し。」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
5:底本頭注に、「結託して。」とある。
6:底本は、「四里が間の在家を一宇も残らず焼き払つて、」。『太平記 三』(1983年)に従い補い、改めた。
7:底本は、「橇(かんじき)」。底本頭注に、「雪中を歩行する時足に穿つもの。」とある。
8:底本頭注に、「計画通りに。」とある。
コメント