越前府の軍 附 金崎後詰めの事
「北国の道塞がつて、後ろに敵あらば、金崎を攻めん事、難儀なるべし。如何にもして{*1}杣山の勢を国中へはびこらぬ様にせでは叶ふまじ。」とて、尾張守高経、北陸道四箇国の勢三千余騎を率して、十一月二十八日に、蕪木浦より越前の府へ帰り給ふ。瓜生、この事を聞きて、敵に少しも足をためさせては悪しかるべしとて、同じき二十九日に、三千余騎にて押し寄せ、一日一夜攻め戦ひて、遂に高経が楯篭つたる新善光寺城を攻め落とす。この時、また討たるる者二百余人、生け捕り百三十人が首を刎ねて、帆山河原に懸け並ぶ。
それより式部大輔義治、勢ひ漸く近国に振ひければ、平泉寺、豊原の衆徒、当国他国の地頭御家人、引出物を捧げ酒肴を舁かせて、日々に群集しけれども、義治、よに無興気なる体にのみ見え給ひければ、義鑑房{*2}、御前に近づきて、「これ程めでたき砌にて候に、などや勇みげなる御気色も候はぬやらん。」と申しければ、義治、袖掻き収め給ひて、「御方、両度の軍にうち勝つて、敵を多く亡ぼしたる事、尤も悦ぶべき処なれども、春宮を始めまゐらせて、当家の人々、金崎城に取り篭められ御座あれば、さこそ兵粮にもつまり、戦ひにも苦しみて、心安き隙もなくおはすらめと想ひやり奉る間{*3}、酒宴に臨めども、楽しむ心も候はず。」と宣へば、義鑑房、畏まつて申しけるは、「その事にて候はば、御心安く思し召され候へ。この間は、余りに吹雪烈しくして、長途のかち立ち難儀に候間、天気の少し晴るるほどを相待つにて候。」とて、感涙を押さへながら御前をぞ立ちにける。
宇都宮と小野寺と、垣越しにこれを聞きて、「『好堅樹は地の底にあつて、芽、百囲をなし、頻伽羅は卵の中にあつて、声、衆鳥に勝れたり。』といへり。この人、丈夫の心根おはして、かやうに思ひ給ひけるこそ憑もしけれ。されば、やがて金崎の後詰めをすべし。」とて、兵を集め、楯をはがせて、さほど雪の降らぬ日を門出にしてぞ相待ちける。
正月七日、椀飯{*4}、事終はりて、同じき十一日、雪晴れ風止みて、天気少し長閑なりければ、里見伊賀守を大将として、義治、五千余人を金崎の後詰めのために敦賀へ差し向けらる。その勢皆、吹雪の用意をして、物具の上に蓑笠を著、踏沓の上に橇{*5}を履んで、山路八里が間の雪踏み分けて、その日、葉原までぞ寄せたりける。
高越後守も、かねて用意したる事なれば、敦賀津より二十余町東に当たつて、究竟の要害のありける処へ、今川駿河守を大将として二万余騎を差し向けて、所々に掻楯かかせて、今や寄すると待ちかけたり。夜明くれば、先づ一番に、宇都宮紀清両党三百余人、押し寄せて、坂中なる敵千余人を遥かの峯へまくり上げて、やがて二陣の敵にかからんとしけるが、両方の峯なる大勢に射立てられ、北なる峯へ引き退く。
二番に瓜生、天野、斎藤、小野寺七百余騎、鋒をそろへて上りけるに、駿河守の堅めたる陣を三箇所追ひ破られ、ぱつと引きけるところへ、越後守が勢三千余騎、新手に代はつて相戦ふところに、瓜生、小野寺が勢、また追ひ立てられて、宇都宮と一つにならんと、傍なる峯へ引き上りけるを、里見伊賀守、僅かの勢にて、「きたなし、かへせ。」とて、横合ひに進まれたり。
敵、これを大将よと見てげれば、自余の葉武者にはかからず、おつ取り篭めて討たんとしけるを、瓜生と義鑑房と、屹と見て、「我等、ここにて討死せでは、御方の勢は助かるまじきところぞ。」と自嘆して、ただ二人打ち懸かり、敵の中へ破つて入らんとするを、判官が弟林次郎入道源琳、同舎弟兵庫助重、弾正左衛門照、三人これを見て、はるかに落ち延びたりけるが、共に討死せんと取つて返しけるを、義鑑房、尻目に睨んで、「日頃再三謂ひし事をば、いつの程に忘れけるぞ。我等二人討死したらんは一旦の負け、兄弟残りなく死したらば永代の負けにてあらんずるを、思ひ篭むる心のなかりける事の云ふ甲斐なさよ。」と、荒らかに申し留めける間、三人の者ども、げにもと思ひ返して少し猶予しける間、大勢の敵に中を押し隔てられ、里見、瓜生、義鑑房三人は、一所にて討たれにけり。
葉原より深雪を分けて重鎧に肩をひける者ども、数刻の合戦に入り替はる勢もなく、戦ひ疲れければ、返さんとするに力尽き、引かんとするに足たゆみぬ。されば、ここかしこに引き延びて、腹を切る者、数を知らず。たまたま落ち延びる兵も、弓矢、物具を棄てぬはなし。「さてこそ先日、府、鯖並の軍に多く捨てたりし物具どもをば、今皆取り返したれ。」と、敦賀の寄せ手どもは、笑ひける。
これ程に、不定の人間、あだなる身命を助けんとて、互に罪業をつくり、長き世の苦しみを受けんことこそあさましけれ。
瓜生判官老母が事 附 程嬰杵臼が事
さる程に、敗軍の兵ども、杣山へ帰りければ、手負死人の数を註すに、里見伊賀守、瓜生兄弟、甥の七郎が外、討死する者五十三人、疵を被る者五百余人なり。子は父に別れ、弟は兄に後れて、啼哭する声、家々に充ち満ちたり。されども、瓜生判官が老母の尼公ありけるが、敢へて悲しめる気色もなし。
この尼公、大将義治の前に参つて、「この度、敦賀へ向うて候者どもが、不覚にてこそ里見殿を討たせ参らせて候へ。さこそ無念に思し召され候らめと、御心中おし量り参らせて候。但し、これを見ながら判官兄弟、いづれも恙なくしてばし{*6}帰り参りて候はば、如何に今ひとしほ、うたてしさも遣る方なく候べきに、判官が伯父甥三人の者、里見殿の御供申し、残りの弟三人は、大将の御ために生き残りて候へば、歎きの中の悦びとこそおぼえて候へ。元来、上の御ためにこの一大事を思ひ立ち候ひぬる上は、百千の甥子どもが討たれ候とも、歎くべきにては{*7}候はず。」と、涙を流して申しつつ、自ら酌を取つて一献を進め奉りければ、機を失へる軍勢も、別れを歎く者どもも、愁へを忘れて勇みをなす。
そもそも義鑑房が討死しける時、弟三人が続いて返しけるを堅く制し止めける、謂はれを如何にと尋ぬれば、この義鑑房、合戦に出でける度毎に、「もしこの軍、難儀に及ばば、我等兄弟の中に、一両人は討死をすべし。残りの兄弟は命を全うして、式部大輔殿を取り立て参らすべし。」とぞ申しける。これも、古の義を守りし人を規とせし故なり。
昔、晋の世に、趙盾、智伯と云ひける二人、趙の国を争ふこと、年久し。或る時、智伯、已に趙盾がために取り巻かれ、夜明けなば討死せんとしける時、智伯が臣、程嬰、杵臼と云ひける二人の兵を呼び寄せて、「我、已に運命極まり至つて趙盾に囲まれぬ。夜明けば、必ず討死すべし。汝等、我に真実の志ふかくば、今夜ひそかに城を逃げ出でて、我が三歳のみなし子を隠し置いて、人とならば、趙盾を亡ぼして、我が生前の恥を清むべし。」とぞ宣ひける{*8}。
程嬰、杵臼、これを聞きて、「臣等、主君と共に討死仕らんことは、近くして易し。三歳のみなし子を隠して命を全うせん事は、遠くして難し。然りといへども、臣たる道、豈易きを取つて難きを捨てんや。必ず君の仰せに随ふべし。」とて、程嬰、杵臼は、ひそかにその夜、紛れて城を落ちにけり。夜明けければ、智伯、忽ちに討死して、残る兵もなかりしかば、多年争ひし趙国、終に趙盾に随ひけり。
ここに、程嬰、杵臼二人は、智伯がみなし子を隠さんとするに、趙盾、これを聞きつけて、討たんとすること頻りなり。程嬰、これを恐れて、杵臼に向つて曰く、「旧君、三歳のみなし子を以て、この二人の臣に預けたり。されば、死して敵を欺かんと、暫く命を生きてみなし子を取り立てんと、いづれか難かるべき。」杵臼が曰く、「死は一心の義に向ふ処に定まり、生は百慮の智を尽くす中に全し。然らば、吾、生を以て難しとす。」程嬰、「さらば、吾は難きについて命を全うすべし。御辺は、易きについて討死せらるべし。」といふに、杵臼、悦んで許諾す。
「さらば、謀りごとを巡らすべし。」とて、杵臼、我が子の{*9}三歳になりけるを、旧主のみなし子なりと披露して、これを抱きかかへ、程嬰は、主のみなし子三つになるを、我が子なりと云ひて、朝夕これを養育しけり。かくて、杵臼は山深き住みかに隠れ、程嬰は趙盾がもとに行きて、降参すべき由を申すに、趙盾、猶も心を置きて、これを許さず。程嬰、重ねて申しけるは、「臣は元、智伯が左右に仕へて、その振舞を見しに、遂に趙の国を失はんずる人なりと知れり。遥かに君の徳恵を聞くに、智伯に勝れ給へる事、千里を隔てたり。故に臣、苟しくも趙盾に仕へん事を乞ふ。豈亡国の先人{*10}のために有徳の賢君をたばからんや。君、もし我をして臣たる道を許されば、亡君智伯がみなし子三歳になる{*11}、杵臼が養育し深く隠し置きたる所、我、つぶさに知れり。君、これを失はせ給ひて、趙国を永く安からしめ給へ。」とぞ申したりける。
趙盾、これを聞き給ひて、「さては程嬰、偽らず吾が臣とならんと思ひける。」と信じて、程嬰に武官を授けて、辺り近く召し仕はれけり。さては、杵臼が隠したる所を委しく尋ね聞きて、数千騎の兵を差し遣はして、これを召し捕らんとす。杵臼、かねて相謀りし事なれば、未だ膝の上なる三歳のみなし子を刺し殺して、「亡君智伯のみなし子、運命拙なくして、謀りごと已に顕はれぬ。」と呼ばはつて、杵臼も腹掻き切つて死しにけり。趙盾、「今より後は、吾が子孫の代を傾けんとする者はあらじ。」と悦んで、いよいよ程嬰に心を置かず。あまつさへ、大禄を与へ高官を授けて、国の政を司らしむ。
ここに、智伯がみなし子、程嬰が家に人となりしかば、程嬰、忽ちに兵を起こして、三年が内に趙盾を亡ぼし、遂に智伯がみなし子に趙国を保たせり。この大功、然しながら程嬰が謀りごとより出でしかば、趙王、これを賞して大禄を与へんとせらる。程嬰、これを請けず。「我、官に昇り禄を得て、卑しくも生を貪らば、杵臼と倶に計りし道にあらず。」とて、杵臼が骸を埋めし古き塚の前にて、自ら剣の上に伏して、同じ苔にぞ埋づもれける。
されば、今の保と義鑑房との討死、古の程嬰、杵臼が振舞にも劣るべからずとぞいふべき。
校訂者注
1:底本は、「如何にしても」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
2:底本は、「義鑑(ぎかん)御前に」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
3:底本は、「想(おも)ひ奉りける間、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
4:底本は、「椀飯(わうばん)」。底本頭注に、「料理をふるまふこと。」とある。
5:底本は、「橇(かんじき)」。底本巻18「瓜生旗を挙ぐる事」頭注に、「雪中を歩行する時足に穿つもの。」とある。
6:底本頭注に、「ばしは強めの辞。」とある。
7:底本は、「歎(なげ)くべきにて候はず。」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
8:底本は、「宣(まう)しける」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
9:底本は、「我が子三歳に」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
10:底本頭注に、「先君。」とある。
11:底本は、「三歳になる此処(こゝ)にあり。杵臼が」。『太平記 三』(1983年)頭注に従い削除した。
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