金崎城落つる事
金崎城には、瓜生が後詰めをこそ命にかけて待たれしに、判官打ち負けて、軍勢若干討たれぬと聞こえければ、憑む方なくなりはて、心細くぞおぼえける。日々に随つて兵粮乏しくなりければ、或いは江の魚を釣りて飢ゑを助け、或いは磯菜を取つて日を過ごす。暫しが程こそかやうのものに命を継いで軍をもしけれ、余りに事迫りければ、寮の御馬を始めとして、諸大将の立てられたる秘蔵の名馬どもを、毎日二匹づつ刺し殺して、各、これをぞ朝夕の食には当てたりける。
これにつけても、後詰めする者なくては、この城、今十日とも堪へ難し。総大将御兄弟{*1}、ひそかに城を御出で候うて杣山に入らせ給ひ、与力の軍勢を催されて、寄せ手を追ひ払はれ候へかしと、面々に勧め申されければ、げにもとて、新田左中将義貞、脇屋右衛門佐義助、洞院左衛門督実世、河島左近蔵人惟頼を案内者にて、上下七人、二月{*2}五日の夜半ばかりに、城を忍び抜け出でて、杣山へぞ落ち著かせ給ひける。
瓜生、宇都宮、ななめならず悦びて、今一度金崎へ向つて先度の恥を清め、城中の思ひを蘇せしめんと、様々思案を巡らしけれども、東風漸く閑かになつて、山路の雪も叢消えければ、国々の勢も寄せ手に加はりて、兵十万騎に余れり。義貞の勢は、僅かに五百余人。心ばかりは猛けれども、馬物具もはかばかしからねば、とやせまし、かくやせましと身を揉みて、二十日余りを{*3}過ごしける程に、金崎には、早、馬どもをも皆食ひ尽くして、食事を断つこと十日ばかりになりければ、軍勢どもも、今は手足もはたらかずなりにけり。
ここに、大手の攻め口にありける兵ども、高越後守が前に来つて、「この城は、いかさま、兵粮に迫りて馬をばし食ひ候やらん。初めの頃は、城中に馬の四、五十匹もあるらんとおぼえて、常に湯洗ひをし、水を蹴させなんどし候ひしが、この頃は、一疋も引き出だすことも候はず。あはれ、一攻め攻めて見候はばや。」と申しければ、諸大将、「然るべし。」と同じて、三月六日の卯の刻に、大手、搦手十万余騎、同時に切り岸の下、塀際にぞ附けたりける。
城中の兵ども、これを防がんために、木戸の辺までよろめき出でたれども、太刀を使ふべき力もなく、弓を引くべき様もなければ、唯いたづらに櫓の上に登り、塀の蔭に集まつて、息つき居たるばかりなり。寄せ手ども、この有様を見て、「さればこそ城は弱りてげれ。日の中に攻め落とさん。」とて、乱杭、逆茂木を引き退け、塀を打ち破つて、三重に拵へたる二の木戸までぞ攻め入りける。
由良、長浜、二人、新田越後守の前に参じて申しけるは、「城中の兵ども、数日の疲れに依つて、今は矢一つをもはかばかしく仕り得候はぬ間、敵、既に一、二の木戸を破つて、攻め近づいて候なり。如何に思し召すとも、叶ふべからず。春宮をば小舟にめさせ参らせ、いづくの浦へも落とし参らせ候べし。自余の人々は、一所に集まりて御自害あるべしとこそ存じ候へ。その程は、我等、攻め口へ罷り向つて相支へ候べし。見苦しからん物どもをば、皆海へ入れさせられ候へ。」と申して、御前を立ちけるが、余りに疲れて足も快く立たざりければ、二の木戸の脇に射殺されて伏したる死人の股の肉を切つて、二十余人の兵ども、一口づつ食うて、これを力にしてぞ戦ひける。
河野備後守{*4}は、搦手より攻め入る敵を支へて、半時ばかり戦ひけるが、今は、はや精力尽きて、深手あまた負ひければ、攻め口を一足も引き退かず、三十二人腹切つて、同じ枕にぞ伏したりける。
新田越後守義顕は、一宮{*5}の御前に参りて、「合戦の様、今はこれまでとおぼえ候。我等、力なく、弓箭の名を惜しむ家にて候間、自害仕らんずるにて候。上様{*6}の御事は、たとひ敵の中へ御出で候とも、失ひ参らするまでの事は、よも候はじ。唯、かやうにて御座あるべしとこそ存じ候へ。」と申されければ、一宮、いつよりも御快げに打ち笑ませ給ひて、「主上、帝都へ還幸成りし時、我を以て元首の将とし、汝を以て股肱の臣たらしむ。それ股肱無くして、元首、保つ事を得んや。されば吾、命を白刃の上に縮めて、怨みを黄泉の下に酬いんと思ふなり。そもそも、自害をば如何様にしたるがよきものぞ。」と仰せられければ、義顕、感涙を押さへて、「かやうに仕るものにて候。」と申しもはてず、刀を抜いて逆手に取り直し、左の脇に突き立てて、右の脇のあばら骨二、三枚かけて掻き破り、その刀を抜いて宮の御前に差し置きて、うつぶしになつてぞ死しにける。
一宮、やがてその刀を召され御覧ずるに、柄口に血余り、すべりければ、御衣の袖にて刀の柄をきりきりと押し巻かせたまひて、雪の如くなる御肌を顕はし、御胸の辺りに突き立て、義顕が枕の上に伏させ給ふ。
頭大夫行房、里見大炊助時義、武田与一、気比弥三郎大夫氏治、太田帥法眼以下、御前に候ひけるが、「いざ、さらば、宮の御供仕らん。」とて、同音に念仏唱へて、一度に皆腹を切る。これを見て、庭上に並み居たる兵三百余人、互に刺し違へ刺し違へ、いやが上に重なり伏す。
気比大宮司太郎{*7}は、元来、力、人に勝れて水練の達者なりければ、春宮{*8}を小舟に乗せ参らせて、櫓かいもなけれども、綱手を己が横手綱{*9}に結ひつけ、海上三十余町を泳いで蕪木浦へぞ著け参らせける。これを知る人、更になかりければ、ひそかに杣山へ入れ参らせん事は、いと易かりぬべかりしに、「一宮を始め参らせて、城中の人々残らず自害する処に、我一人逃げて命を生きたらば、諸人の物笑ひなるべし。」と思ひける間、春宮を賤しげなる浦人の家に預け置き参らせ、「これは、日本国の主に成らせ給ふべき人にて渡らせ給ふぞ。如何にもして杣山城へ入れまゐらせてくれよ。」と申し含めて、蕪木浦より取つて返し、もとの海上を泳ぎ帰つて、弥三郎大夫が自害して伏したるその上に、自ら我が首を掻き落として片手にひつ提げ、大肌脱ぎになつて死しにけり。
土岐阿波守、栗生左衛門、矢島七郎、三人は、一所にて腹切らんとて、岩の上に立ち並びて居たりける処に、船田長門守、来つて、「そもそも新田殿の御一家の運、ここにて悉く極め給はば、誰々も残らず討死すべけれども、総大将兄弟、杣山に御座あり。公達も、三、四人までここかしこに御座ある上は、我等、一人も生き残つて御用に立たんずるこそ、永代の忠功にて侍らめ。何といふ沙汰もなく自害しつれて、敵に所得せさせての用は、何事ぞや。いざ、させ給へ。もしやと隠れて見ん。」と申しければ、三人の者ども、船田が後に附いて、遥かの磯へぞ遠浅の浪を分けて、半町ばかり行きたれば、磯打つ波に当たりて大きに穿げたる{*10}岩穴あり。「こここそ究竟の隠れ所なれ。」とて、四人共にこの穴の中に隠れて、三日三夜を過ごしける、心の中こそ悲しけれ。
由良、長浜は、これまでも猶、木戸口に支へて、喉乾けば己が創より流るる血を受けて飲み、力落ち疲るれば、前に伏したる死人の肉を切つて食うて、皆人々の自害しはてんまでと戦ひけるを、安間六郎左衛門、走り下りて、「いつを期に合戦をばしたまふぞ。大将は早、御自害候ひつるぞや。」と申しければ、「いざや、さらば、とても死なんずる命を、もしやと寄せ手の大将のあたりへ紛れ寄つて、よからんずる敵と倶に刺し違へて死なん。」とて、五十余人の兵ども、三の木戸を同時に打ち出で、攻め口一方の寄せ手三千余人を追ひまくり、その敵に相交じはつて、高越後守が陣へぞ近づきける。
如何に心ばかりは、やたけに思へども、城より打ち出でたる者どもの体たらく、枯槁{*11}憔悴して、尋常の人に紛るべくもなかりければ、皆人、これを見知つて押し隔てける間、一人もよき敵に合ふものなくして、所々にて皆討たれにけり。
すべて城中に篭る処の勢は百六十人、その中に、降人になつて助かる者十二人、岩の中に隠れて生きたる者四人、その外、百五十一人は一時に自害して、皆戦場の土となりにけり{*12}。されば、今に至るまでその怨霊ども、ここに留まつて、月曇り雨暗き夜は、叫喚求食の声啾々{*13}として、人の毛孔を寒からしむ。
匈奴を掃はん事を誓つて身を顧みず 五千の貂錦胡塵に喪びぬ
憐れむべし無定河辺の骨 猶これ春閨夢裏の人
と、己亥の歳の乱を見て陳陶が作りし隴西行も、かくやと思ひ知られたり。
校訂者注
1:底本頭注に、「義貞と義助。」とある。
2:底本は、「三月五日」。『太平記 三』(1983年)頭注に従い改めた。
3:底本は、「二十日余(あま)り過(すご)しける」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
4:底本頭注に、「通治。」とある。
5:底本頭注に、「尊良親王。」とある。
6:底本頭注に、「親王を指す。」とある。
7:底本頭注に、「名は齊晴。」とある。
8:底本は、「春宮(とうぐう)」。底本頭注に、「恒良親王。」とある。
9:底本は、「横手綱(よこたづな)」。底本頭注に、「褌。」とある。
10:底本は、「穿(う)げたる」。底本頭注に、「深く掘れ込みたる。」とある。
11:底本は、「枯牆憔悴(こかうせうすゐ)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
12:底本は、「なりけり。」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
13:底本は、「夜は、求食(くじき)の声啾々として、」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。底本頭注に、「〇啾々 しくしくと泣くさま。」とある。
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