春宮還御の事 附 一宮御息所の事
さる程に、夜明けければ、蕪木浦より春宮御座のよし告げたりける間、島津駿河守忠治を御迎ひに参らせて、取り奉る。去んぬる夜、金崎にて討死自害の首百五十一、とりならべて実検せられけるに、新田の一族には、越後守義顕、里見大炊助義氏の首ばかりあつて、義貞、義助、二人の首はなかりけり。「さては、いかさま、その辺の淵の底なんどにぞ沈めたらん。」と、海人を入れて被かせけれども、かつて見えざりければ、足利尾張守、春宮の御前にまゐりて、「義貞、義助、二人が死骸、いづくにありとも見え候はぬは、何となり候ひけるやらん。」と尋ね申されければ、春宮、幼稚なる御心にも、「かの人々、杣山にありと敵に知らせては、やがて押し寄する事もこそあれ{*1}。」と思し召されけるにや、「義貞、義助二人、昨日の暮程に自害したりしを、手の者どもが役所の内にして火葬にするとこそ云ひ、沙汰せしか。」と仰せられければ、「さては、死骸の{*2}なきも道理なりけり。」とて、これを求むるに及ばず。
さてこそ、「杣山には、はかばかしき敵なければ、降人にぞ出でんずらん。」とて、暫しが程は差し置きけれ。我執と欲念とに使はれて、互に害心を起こす人々も、終には皆、無常の殺鬼に逢ひ、呵責せられん事も久しからず。哀れに愚かなる事どもなり。
新田越後守義顕、並びに一族三人、その外宗徒の首七つを持たせ、春宮をば張輿に乗せ参らせて{*3}、京都へ還し上せ奉る。諸大将、事の体、皆美々しくぞ見えたりける。越後守義顕の首をば、大路を渡して獄門に懸けらる。「新帝御即位の初めより三年の間は、天下の刑を行はざる法なり。未だ河原の御禊ひ、大甞会も遂げ行はれざる先に、首を渡さるる事は{*4}、如何あるべからん。先帝重祚の初め、規矩掃部助高政、糸田左近将監貞吉が首を渡されたりしも、不吉の例とこそおぼゆれ。」と、諸人の意見どもありけれども、「これは、朝敵の棟梁義貞の長男なれば。」とて、終に大路を渡されけり。
春宮、京都へ還御成りければ、やがて牢の御所を{*5}拵へて押し篭め奉り、一宮{*6}の御首をば、禅林寺の長老夢窓国師{*7}の方へ送られ、御喪礼の儀式を引き繕はる。さても、御匣殿{*8}の御歎き、中々申すもおろかなり。
この御匣殿の、一宮に参り初め給ひし古の御心づくし、世に類なきこととこそ聞こえしか。一宮、已に初冠めされて、深宮の内に人とならせ給ひし後、御才学もいみじく、容顔も世に勝れておはせしかば、「春宮に立たせ給ひなん。」と、世の人、時めきあへりしに、関東の計らひとして、想ひの外に後二條院の第一の御子、春宮{*9}に立たせ給ひしかば、一宮に参り仕ふべき人々も、皆望みを失ひ、宮も、世の中、万、打ちしをれたる御心地して、明暮は唯詩歌に御心を寄せ、風月に思ひを傷ましめ給ふ。折節につけたる御遊びなどあれども、さして興ぜさせ給ふこともなし。さるにつけても、「如何なる宮腹、一の人{*10}の御女などを、『かく。』と仰せられば、御心を尽くさせ給ふまでもあらじ。」とおぼえしに、御心に染む色もなかりけるにや、「これを。」と思し召されたる御気色もなく、唯ひとりのみ年月を送らせ給ひける。
或る時、関白左大臣の家にて、なま上達部、殿上人、あまた集まりて絵合のありけるに、洞院左大将の出だされたりける絵に、源氏の優婆塞宮の御女、少し真木柱に居隠れて琵琶を調べたまひしに、雲隠れしたる月の俄にいとあかくさし出でたれば、扇ならでも招くべかりけりとて、撥を揚げてさしのぞきたる顔つき、いみじく臈たけて{*11}匂やかなる気色、云ふばかりなく、筆を尽くしてぞ書きたりける。
一宮、この絵を御覧ぜられ、限りなく御心に懸かりければ、この絵を暫く召し置かれ、「見るに慰む方もや。」とて、巻き返し巻き返し御覧ぜらるれども、御心、更に慰まず。昔、漢の李夫人、甘泉殿の病ひの床に臥してはかなくなり給ひしを、武帝、悲しみに堪へかねて反魂香を焼き給ひしに、李夫人の面影の煙の中に見えたりしを、似せ絵に書かせて御覧ぜられしかども、「もの言はず笑はず人を愁殺せしむ。」と武帝の歎き給ひけんも、実に理と思ひ知らせ給ふ。
「我ながら、はかなの心迷ひやな。誠の色を見てだにも、世は皆夢の中の現とこそ思ひ捨つる事なるに、これはそも、何事のあだ心ぞや。遍照僧正の歌の心を貫之が難じて、『歌の様は得たれども、実少なし。譬へば絵に書ける女を見て、いたづらに心を動かすが如し。』と云ひし、その類にもなりぬるものかな。」と思ひ捨て給へども、尚あやにくなる御心、胸に充ちて、限りなく御物思ひになりければ、かたへの色異なる人を御覧じても、御目をだにも廻らされず。まして、時々の便りにつけて、こと問ひ通はし給ふ御方様へは、一村雨の過ぐる程の笠宿りに立ち寄るべき心地にも思し召さず。
世の中にさる人ありと伝へ聞きて、御心にかからば、玉垂の隙求むる風の便りもありぬべし。又、僅かに人を見しばかりなる御心当てならば、水の泡の消え返りても、よる瀬はなどかなかるべきに、これは、見しにもあらず聞きしにもあらず、古のはかなき物語、あだなる筆の跡に御心を悩まされければ、せん方なく思し召し煩はせ給へば、せめて御心を遣る方もやと、御車に召され、賀茂の糺宮へ詣でさせ給ひ、御手洗河の川水を御手水にむすばれ、何となく河に逍遥せさせたまふにも、昔、業平中将、恋せじと御祓せしことも、哀れなるさまに思し召し出だされて、
祈るとも神やはうけむ影をのみ御手洗河のふかきおもひを
と詠ぜさせ給ふ{*12}時しもあれ、一村雨の過ぎ行く程、木の下露にたち濡れて、御袖もしをれたるに、「日も早暮れぬ。」と申す声して、御車を轟かして、一條を西へ過ぎさせ給ふに、誰が住む宿とは知らず、垣に苔むし瓦に松生ひて、年久しく住み荒らしたる宿のものさびしげなるに、撥音気高く青海波をぞ調べたる。
「怪しや。如何なる人なるらん。」と、通りがてに{*13}御車を駐めさせて、遥かに見入れさせ給ひたれば、見る人ありとも知らざる体にて、暮れ居る空の月影の、時雨の雲間よりほのぼのと顕はれ出でたるに、御簾を高く捲き上げて、年の程二八ばかりなる女房の、云ふばかりなくあてやかなるが、秋の別れを慕ふ琵琶を弾ずるにてぞありける。「鉄{*14}、珊瑚を砕く、一両曲。氷、玉盤に落つ、千万声。」掻き鳴らしたるその声は、庭の落葉に紛れつつ、よそには降らぬ村雨に、御袖濡るるばかりにぞ聞こえたる。宮、御目もあやに、つくづくと御覧ずるに、この程そぞろに御心を尽くして、夢にもせめて逢ひ見ばやと、恋ひ悲しみ給ひつる似せ絵に少しも違はず、尚あてやかに臈たけて、云はん方なくぞ見えたりける。
御心地、空に浮かれて、たどたどしき程にならせ給へば、御車より下りさせ給ひて、築山の松の木蔭に立ち寄らせ給へば、女房、見る人ありと、もの侘びしげにて{*15}、琵琶をば几帳の傍にさし寄せて、内へ紛れ入りぬ。引くや裳裾のあからさまなる面影に、又立ち出づることもや{*16}とて、立ちやすらはせ給ひたれば、賤しげなる御所侍の御格子参らする音して、早、人静まりぬれば、いつまでかくてもあるべきとて、宮、還御なりぬ。絵に書きたりし形にだに御心を悩まされし御事なり。まして、実の色を御覧ぜられて、如何にせんと御恋ひ忍ばせ給ふも、理かな。
その後よりは、ひたすらなる御気色に見えながら、さすが御詞には出だされざりけるに、常に御会に参り給ふ二條中将為冬、「いつぞや賀茂の御帰るさの、幽かなりし宵の間の月、又も御覧ぜまぼしく思し召さるるにや。その事ならば、いと易き事にてこそ侍るめれ。かの女房の行く末を委しく尋ねて候へば、今出川右大臣公顕{*17}の女にて候なるを、徳大寺左大将に申し名づけ{*18}ながら、未だ皇太后宮の御匣にて候なる。切に思し召され候はば、歌の御会に申し寄せて、かの亭へ入らせ給ひて、玉垂の隙にも自ら御心顕はす御事にて候へかし。」と申せば、宮、例ならず御快げに打ち笑ませ給ひて、「やがて今夜、その亭にて褒貶の御会あるべし。」と、右大臣の方へ仰せ出だされければ、公顕、「忝し。」と取りきらめきて、数寄の人あまた集めて、「かく。」と案内申せば、宮、為冬ばかりを御供にて、かの亭へ入らせ給ひぬ。
歌のことは、今夜、さまでの御本意ならねば、唯、披講ばかりにて褒貶はなし。主の大臣、こゆるぎのいそぎありて{*19}、土器もてまゐりたれば、宮、常よりも興ぜさせ給ひて、郢曲絃歌の妙々に、御杯賜はせ給ひたるに、主もいたく酔ひ臥しぬ。宮も御枕を傾けさせ給へば、人皆静まりて、夜も已に更けにけり。なかだちの左中将、心あつて酔はざりければ、その案内せさせて、かの女房の住みける西の台へ忍び入らせ給ひて、垣の隙より見たまへば、灯の幽かなるに、花紅葉散り乱れたる屏風引き廻し、起きもせず寝もせぬ体に打ち萎れ、ただ今人々の詠みたりつる歌の短冊{*20}取り出だして、顔打ち傾けたれば、こぼれ懸かりたる鬢のはづれより、匂やかにほのかなる顔ばせ、露を含める花の曙の色、風にしたがへる柳の夕の気色、絵に書くとも筆も及び難く、語るに詞もなかるべし。よそながらほのかに見てし形の、世に又類もやあらんと、怪しきまでに思ひしは、尚数ならざりけりと御覧じ居給ふに、御心も、はやほれぼれとなつて、知らず、我が魂もその袖の中にや入りぬらんと、ある身ともなくおぼえさせたまふ。
折節、辺りに人もなくて、灯さへ幽かなれば、妻戸を少しおしあけて内へ入らせ給ひたるに、女は、驚くかたちにもあらず、のどやかにもてなして、やはら衣引き被いて{*21}臥したる気配、云ひしらずなよやかに雅びやかなり。宮も、傍に寄り臥させ給ひて、ありしながらの心尽くし、哀れなるまでに聞こえけれども、女はいらへも申さず。ただ、思ひ萎れたるその気色、誠に匂ひ深くして、花薫り月霞む夜の手枕に、見果てぬ夢の面影ある御心迷ひに、明くるも知らず語らひ給へども、尚つれなき気色にて程経ぬれば、己が翅を並べながら、人の別れをも思ひ知らぬ八声の鳥も告げ渡り、涙の氷解けやらず。衣々も冷やかになりて、類も辛き有明の、つれなき影に立ち帰らせ給ひぬ。
その後より度々御消息あつて、云ふばかりなき御文の数、早、千束にもなりぬらんとおぼゆるほどに積もりければ、女も哀れなる方に心引かれて、『上れば下る稲舟の、否にはあらず{*22}。』と思へる気色になん顕はれたりける。されども尚、互に人目を中の関守になして、月頃過ごさせ給ひけるに、式部少輔英房と云ふ儒者、御文談に参じて、貞観政要を読みけるに、「昔、唐の太宗、鄭仁基が女を后に備へ、元和殿にかしづき入れんとし給ひしを、魏徴、諌めて、『この女、已に陸氏に約せり。』と申せしかば、太宗、その諌めに随つて、宮中に召さるる事をやめ給き。」と談じけるを、宮、つくづくと聞こし召して、「如何なれば古の君は、かく賢人の諌めについて、色を好む心を棄て給ひけるぞ。如何なる我なれば、已に人の云ひ名づけて事定まりたる中をさけて、人の心を破るらん。」と{*23}、古のためしを恥ぢ、世の譏りを思し召して、唯御心の中には恋ひ悲しませ給ひけれども、御詞には出だされず。御文をだに書き絶えて、かくとも聞こえねば、百夜の榻の端書き、「今は、我や数書くまじ{*24}。」と打ち侘びて、海士の刈藻に思ひ乱れ給ふ。
かくて月日も過ぎければ、徳大寺、このことを聞き及び、「左様に宮なんどの御心に懸けられんを、いかでか便なうさる事あるべき。」とて、「早、あらぬ方に通ふ道あり。」と聞こえければ、宮も今は御憚りなく、重ねて御文のありしに、いつよりも黒み過ぎて、
知らせばや塩やく浦の煙だにおもはぬ風になびくならひを
女、もはや余りつれなかりし心のほど、我ながら憂きものに思ひ返す心地になんなりにければ、詞はなくて、
立ちぬべき浮名をかねて思はずば風に煙のなびかざらめや
その後よりは、かなたこなたに結び置かれし心の下紐打ち解けて、小夜の枕を河島の{*25}、水の心も浅からぬ御契りになりしかば、「生きては偕老の契り深く、又、死しては同じ苔の下にも。」と思し召し通はして、十月あまりになりにけるに、又、天下の乱出で来て、一宮は、土佐の畑へ流されさせたまひしかば、御息所は、ひとり都に留まらせ給ひて、明くるも知らず歎き沈ませ給ひて、せめてなき世の別れなりせば、憂きに堪へぬ命にて、生まれ逢はん後の契りを憑むべきに、同じ世ながら海山を隔てて、互に風の便りの音づれをだにもかき絶えて、この日頃召し仕はれける青侍官女の一人も参り通はず。万、昔に替はる世になつて、人の住み荒したる蓬生の宿の露けきに、御袖の乾く隙もなく、思し召し入らせ給ふ御有様、いかでか涙の玉の緒もながらへぬらん{*26}と、怪しきほどの御事なり。
宮も、都を御出でありし日より、君の御事、御身の悲しみ、一方ならず晴れやらぬに、また{*27}打ち添ひて御息所の御名残、これや限りと思し召ししかば、供御も聞こし召し入れられず。道の草葉の露ともに消えはてさせ給ひぬと見えさせたまふ。惜しとも思し召さぬ御命ながらへて、土佐の畑といふ所の、あさましく、この世の中ともおぼえぬ浦のあたりに流されて、月日を送らせたまへば、晴るる間もなき御歎き、喩へて云はん方もなし。
余りに思ひくづをれさせ給ふ御有様の、御痛はしく見奉りければ、御警固に候ひける有井荘司、「何か苦しく候べき。御息所を忍んでこれへ入れ参らせられ候へ。」とて、御衣一重したてて、道の程の用意まで細々に沙汰し参らせければ、宮、限りなく嬉しと思し召して、唯一人召し仕はれける右衛門府生秦武文と申す随身を、御迎ひに京へ上せらる。
武文、御文を賜はりて、いそぎ京都へ上り、一條堀河の御所へまゐりたれば、葎茂りて門を閉ぢ、松の葉積もりて道もなし。音づれ通ふものとては、古き梢の夕嵐、軒もる月の影ならでは、問ふ人もなく荒れはてたり。「さては、いづくにか立ち忍ばせ給ひぬらん。」と、かなたこなたの御行方を尋ね行く程に、嵯峨の奥深草の里に、松の袖垣、隙あらはなるに、蔦はひかかりて池の姿もさびしく、汀の松の嵐も秋すさまじく吹きしをりて、誰住みぬらんと見るも物憂げなる宿の内に、琵琶を弾ずる音しけり。怪しやと、立ち留まつてこれを聞けば、紛らふべくもなき御撥音なり。
武文、嬉しく思ひて、中々案内も申さず、築地の破れより内へ入つて、中門の縁の前に畏まれば、破れたる御簾の内より遥かに御覧ぜられ、「あれや。」とばかりの御声、幽かに聞こえながら、何とも仰せ出ださるる事もなく、女房達あまたさざめきあひて、先づ泣き声のみぞ聞こえける。「武文、御使に罷り上り、これまで尋ね参りて候。」と申しもあへず、縁に手を打ち懸けて、さめざめと泣き居たり。ややあつて、「唯、これまで。」と召しあれば、武文、御簾の前に跪き、「雲居のよそに思ひ遣り参らするも、堪へ忍び難き御事にて候へば、如何にもして田舎へ御下り候へとの御使に参つて候。」とて、御文捧げたり。急ぎ披いて御覧ぜらるるに、実にも御おもひの切なる色、さもこそとおぼえて、言の葉ごとに置く露の、御袖に余るばかりなり。「よしや、如何なる鄙の住みかなりとも、その憂きにこそ、せめては堪へめ。」とて、既に御門出でありければ、武文、かひがひしく{*28}御輿なんど尋ね出だし、先づ尼崎まで下し参らせて、渡海の順風をぞ相待ちける。
かかりける折節、筑紫人に松浦五郎といひける武士、この浦に風を待つて居たりけるが、御息所の御かたちを垣の隙より見参らせて、「こは、そも天人のこの土へ天降れるか。」と、目かれもせず目守り居たりけるが、「あな、あぢきなや。たとひ主ある人にてもあれ、又、如何なる女院姫宮にてもましませ、一夜の程の契りを百年の命に代へんは、何か惜しからん。奪ひ取つて下らばや。」とおもひける処に、武文が下部の浜のほとりに出で行きけるを呼び寄せて、酒飲ませ、引出物なんど取らせて、「さるにても、御辺が主の具足し奉つて船に召させんとする上臈は、如何なる人にて御渡りあるぞ。」と問ひければ、下郎のはかなさは、酒にめで、引出物に耽りて、事の様ありのままにぞ語りける。松浦、大きに悦んで、「この頃、如何なる宮にてもおはせよ、謀叛人にて流され給へる人のもとへ忍んで下り給はんずる女房を奪ひ捕つたりとも、さしての罪科は、よもあらじ。」と思ひければ、郎等どもにかの宿の案内よくよく見置かせて、日の暮るるをぞ相待ちける。
夜、既に更けて、人静まる程になりければ、松浦が郎等三十余人、物具ひしひしと堅めて、松明に火を立てて、蔀遣戸を踏み破り、前後より討つて入る。武文は、京家の者といひながら、心剛にして日頃も度々手柄を顕はしたる者なりければ、強盜入りたりと心得て、枕に立てたる太刀をおつ取つて中門に走り出で、討ち入る敵三人、目の前に切り伏せ、縁にあがりたる敵三十余人、大庭へ颯と追ひ出だして、「武文といふ大剛の者、これにあり。盗られぬものを盗らんとて、二つなき命を失ふな、盜人ども。」とあざけつて、のつたる太刀を押し直し、門の脇にぞ立つたりける。
松浦が郎等ども、武文一人に切り立てられて、門より外へぱつと逃げたりけるが、「きたなし。敵は唯一人ぞ。切つて入れ。」とて、傍なる在家に火をかけて、又喚いてぞ寄せたりける。武文、心は猛しといへども、浦風に吹き覆はれたる煙に目くれて、防ぐべき様もなかりければ、先づ御息所を掻き負ひ参らせ、向ふ敵を打ち払つて、沖なる船を招き、「如何なる舟にてもあれ、女性暫く乗せまゐらせてたび候へ。」と申して、汀にぞ立ちたりける。
船しもこそ多かるに、松浦が迎ひに来たる船、これを聞いて、一番に{*29}渚へ差し寄せたれば、武文、大きに悦んで、屋形の内に打ち置き奉り、取り落としたる御具足、御供の女房達をも船に乗せんとて走り帰りたれば、宿には早、火かかつて、我が方様の人もなくなりにけり。松浦は、たまたま我が船にこの女房の乗らせ給ひたる事、然るべき契りのほどかなと、限りなく悦びて、「これまでぞ。今は皆、船に乗れ。」とて、郎等眷属百余人、取る物も取りあへず、皆この船に取り乗つて、遥かの沖にぞ漕ぎ出だしたる。
武文、渚に帰り来つて、「その御船、寄せられ候へ。先に屋形の内に置き参らせつる上臈を、陸へ上げ参らせん。」と呼ばはりけれども、「耳にな聞き入れそ。」とて、順風に帆を上げたれば、船は次第に隔たりぬ。又、手繰りする{*30}海士の小舟に打ち乗つて、自ら櫓を押しつつ、何ともして御船に追ひ著かんとしけれども、順風を得たる大船に、押し手の小舟、追つ附くべきにあらず。遥かの沖に向つて扇を挙げ招きけるを、松浦が船にどつと笑ふ声を聞いて、「安からぬものかな。その儀ならば、唯今の程に海底の竜神となつて、その船をば遣るまじきものを。」と怒つて、腹十文字に掻き切つて、蒼海の底にぞ沈みける。
御息所は、夜討の入りたりつる宵の間の騒ぎより、肝心も御身に副はず、唯夢の浮橋浮き沈み、淵瀬を辿る心地して、何となり行くこととも知らせたまはず。船の中なる者どもが、「あはれ、大剛の者かな。主の女房を人に奪はれて、腹を切りつる哀れさよ。」と沙汰するを、武文が事やらんとは聞こし召しながら、その方をだに見遣らせ給はず。唯、衣引き被いて屋形の内に泣き沈ませたまふ。見るも恐ろしくむくつけげなる髭男の、声いと訛りて色飽くまで黒きが、御傍に参つて、「何をか{*31}さのみむつがらせ給ふぞ。面白き道すがら、名所どもを御覧じて、御心をも慰ませ給ひ候へ。さやうにては、如何なる人も船には酔ふものにて候ぞ。」と、とかく慰め申せども、御顔をも更にもたげさせ給はず。唯、鬼を一つ車に載せて、巫の三峡に棹さすらんも、これには過ぎじと御心迷ひて、消え入らせ給ひぬべければ、むくつけ男も舷に寄り懸かつて、これさへあきれたる体なり。
その夜は、大物の浦に碇を下して、世を浦風{*32}に漂ひ給ふ。明くれば、風よくなりぬとて、同じ泊りの船ども、帆を引き梶を取り、己がさまざま漕ぎ行きければ、都は早、跡の霞に隔たりぬ。九国にいつか行き著かんずらんと、人のいふを聞こし召すにぞ、さては心つくし{*33}に行く旅なりと、御心細きにつけても、「北野天神、荒人神にならせたまひしその古の御悲しみ、思し召し知らせたまはば、我を都へ帰しおはしませ。」と、御心の中に祈らせ給ふ。
その日の暮程に、阿波の鳴戸を通る処に、俄に風替はり潮向かうて、この船、更に行きやらず。船人、帆を引いて、近辺の磯へ船を寄せんとすれば、沖の潮合に、大きなる穴の底も見えぬがいで来て、船を海底に沈めんとす。水主梶取、あわてて帆薦なんどを投げ入れ投げ入れ渦に巻かせて、その間に船を漕ぎ通さんとするに、船、かつて去らず。渦巻くに随つて、浪と共に船の廻る事、茶臼を押すよりも尚速やかなり。「これは、いかさま、竜神の財宝に目懸けられたりとおぼえたり。何をも海へ入れよ。」とて、弓箭、太刀、刀、鎧、腹巻、数を尽くして投げ入れたれども、渦巻く事、尚やまず。「さては、もし、色ある衣裳にや目を見入れたるらん。」とて、御息所の御衣、赤き袴を投げ入れたれば、白波色変じて、紅葉を浸せるが如くなり。これに渦巻き少し静まりたれども、船は尚、元の所にぞ廻り居たる。
かくて三日三夜になりければ、船の中の人、一人も起き上がらず、皆船底に酔ひ伏して、声々に喚き叫ぶ事、限りなし。御息所は、さらでだに生くる{*34}御心地もなき上に、この浪の騒ぎに尚、御肝消えて、更に人心もましまさず。よしや憂き目を見んよりは、如何なる淵瀬にも身を沈めばやとは{*35}思し召しつれども、さすがに今を限りと叫ぶ声を聞こし召せば、千尋の底の水屑となり、深き罪に沈みなん後の世をだに、誰かは知りて弔はんと思し召す。涙さへ尽きて、今は更に御ぐしをももたげさせ給はず。むくつけ男も、早、茫然となつて、「かかるやんごとなき貴人を取り奉り下る故に、竜神の咎めもあるやらん。詮なき事をもしつるものかな。」と、誠に後悔の気色なり。
かかる処に、梶取一人、船底より這ひ出でて、「この鳴戸と申すは、竜宮城の東門に当たつて候間、何にても候へ、竜神{*36}の欲しがらせ給ふものを海へ沈め候はねば、いつもかやうの不思議ある所にて候。これは、いかさま、上臈を竜神の思ひがけ申されたりとおぼえ候。申すもあまりに邪見に情なく候へども、この御事{*37}一人の故に、若干の者どもが皆非分の死を仕らん事は、不便の次第にて候へば、この上臈を海へ入れ参らせて、百余人の命を助けさせたまへ。」とぞ申しける。松浦、元来情なき田舎人なれば、さても命や助かると、屋形の内へまゐつて、御息所を荒らかに引き起こし奉り、「あまりにつれなき御気色をのみ見奉るに、本意なく存じ候へば、海に沈め参らすべきにて候。御契り深くば、土佐の畑へ流れよらせ給ひて、その宮とやらん堂とやらん、一つ浦に住ませ給へ。」とて、情なく掻き抱き参らせて、海へ投げ入れ奉らんとす。
これ程の事になつては、何の御詞かあるべきなれば、唯夢の様に思し召して、つやつや息をも出ださせ給はず。御心の中に仏の御名ばかりを念じ思し召して、早絶え入らせ給ひぬるかと見えたり。これを見て、僧の一人、便船せられたりけるが、松浦が袖をひかへて、「こは、如何なる御事にて候ぞや。竜神と申すも、南方無垢の成道を遂げて、仏の授記を得たるものにて候へば、全く罪業の手向けを受くべからず。然るを、生きながら人を忽ちに海中に沈められば、いよいよ竜神怒つて、一人も助かる者や候べき。唯、経を読み、陀羅尼を満てて、法楽{*38}に備へられ候はんずるこそ然るべくおぼえ候へ。」と、堅く制し宥めければ、松浦、理に折れて、御息所を篷屋の内に荒らかに投げ棄て奉る。
「さらば、僧の議について、祈りをせよや。」とて、船中の上下、異口同音に観音の名号を唱へ奉りける時、不思議の者ども、波の上に浮かび出でて見えたり。先づ一番に、濃き紅著たる仕丁が、長持を舁きて通ると見えて打ち失せぬ。その次に、白葦毛の馬に白鞍置きたるを、舎人八人して引きて通ると見えて打ち失せぬ。その次に、大物の浦にて腹切つて死したりし右衛門府生秦武文、赤糸縅の鎧、同じ毛の五枚兜の緒を締め、黄鳭毛なる馬に乗つて、弓杖にすがり、皆紅の扇を挙げ、松浦が船に向つて、「その船、留まれ。」と招くやうに見えて、浪の底にぞ入りにける。
梶取、これを見て、「灘を走る船に不思議の見ゆることは、常の事にて候へども、これは、いかさま、武文が怨霊とおぼえ候。そのしるしを御覧ぜんために、小舟を一艘下して、この上臈を乗せ参らせ、波の上に突き流して、竜神の心を如何と御覧候へかし。」と申せば、「この議、げにも。」とて、小舟一艘引き下して、水主一人と御息所とを乗せ奉つて、渦の波に漲つて巻きかへる波の上にぞ浮かべける。
かの早離速離{*39}の海岸山に放たれ、「飢寒の愁ひ深くして、涙も尽きぬ。」と云ひけんも、人住む島の中なれば、立ち寄る方もありぬべし。これは、浦にもあらず、島にもあらず、如何に鳴戸{*40}の浪の上に、身を捨て船の浮き沈み、潮瀬に廻る泡の、消えなん事こそ悲しけれ。されば、竜神も、えならぬ中をや避けられけん、風、俄に吹き分けて、松浦が船は、西を指して吹かれ行くと見えけるが、一の谷の沖津より武庫山颪に放たれて、行き方知らずなりにけり。
その後、波静まり風止みければ、御息所の御船に乗せられつる水主、かひがひしく船を漕ぎ寄せて、淡路の武島といふ所へ著け奉る。この島の体たらく、廻り一里に足らぬ所にて、釣する海士の家ならでは住む人もなき島なれば、隙あばらなる芦の屋の、憂き節繁き住みかに入れ参らせたるに、この四、五日の波風に、御肝消え御心弱りて、やがて絶え入らせ給ひけり。心なき海人の子供までも、「これは、如何にし奉らん。」と泣き悲しみ、御顔に水を注ぎ、櫓床を洗うて御口に入れなんどしければ、半時ばかりして活き出でさせ給へり。
さらでだに涙のかかる御袖は、乾く間もなかるべきに、篷漏る滴、藻塩草敷き忍ぶべき旅寝ならねば、「いつまでかくてもあり侘ぶべき。土佐の畑といふ浦へ送りてもやれかし。」と、打ち侘びさせ給へば、海士ども皆、同じ心に、「これ程いつくしく御渡り候上臈を、我等が船に乗せ参らせて、遥々と土佐まで送り参らせ候はんに、いづくの泊りにてか、人の奪ひ取り参らせぬことの候べき。」と、叶ふまじきよしを申せば、力及ばせたまはずして、波の立ち居に御袖をしぼりつつ、今年はここにて暮らし給ふ、哀れは類もなかりけり。
さて、一宮は、武文を京へ上せられし後は、月日遥かになりぬれども、何とも御左右{*41}を申さぬは、如何なる目にも逢ひぬるかと、静心なく思し召して、京より下れる人に御尋ねありければ、「去る年の九月に御息所は都を御出であつて、土佐へ御下り候ひしとこそ慥かに承りしか。」と申しければ、「さては、道にて人に奪はれぬるか、又、世を浦風に放たれ、千尋の底にも沈みぬるか。」と、一方ならず思ひくづをれさせ給ひけるに、或る夜、御警固{*42}に参りたる武士ども、中門に宿直申して、四方山の事ども物語しける者の中に、「さるにても、去る年の九月、阿波の鳴戸を過ぎて当国に渡りし時、船の梶に懸かりたりし衣を取り上げて見しかば、尋常の人の装束とも見えずいつくしかりし事よ。これは、いかさま、院、内裏の上臈女房なんどの田舎へ下らせ給ふが、難風に逢うて海に沈み給ひけん、その装束にてぞあるらん。」と語つて、「あな、哀れや。」なんど申し合ひければ、宮、垣越しに聞こし召され、「もし、その行方にてやあるらん。」と、不審多く思し召して、「いささか御覧ぜられたき御事あり。その衣、未だ有らば、持ちて参れ。」と御使ありければ、「色こそ損じて候へども、未だ私に候。」とて、召し寄せ参らせけり。
宮、よくよくこれを御覧ずるに、御息所の御迎ひに武文を京へ上せられし時、有井荘司が仕立て参らせたりし御衣なり。「あな、不思議や。」とて、裁ち余したる切れを召し出だして、差し合はせられたるに、あやの文、少しも違はず続きたれば、二目とも御覧ぜられず、この衣を御顔に押し当てて、御涙を押し拭はせ給ふ。有井も御前に候ひけるが、涙を袖にかけつつ罷り立ちにけり。今は、御息所のこの世にまします人とは、つゆも思し召されず。この衣の梶にかかりし日を、なき人の忌日と定められ、自ら御経を書写せられ、念仏を唱へさせたまひて、「過去聖霊藤原氏の女、並びに物故秦武文どもの、三界の苦海を出でて、速やかに九品の浄刹に到れ。」と祈らせたまふ、御歎きの色こそ哀れなれ。
さる程に、その年の春のころより諸国に軍起こつて、六波羅、鎌倉、九国、北国の朝敵ども、同時に滅びしかば、先帝は隠岐国より還幸成り、一宮は、土佐の畑より都へ帰り入らせ給ふ。天下悉く公家一統の御世となつて、めでたかりしかども、一宮は、唯、御息所のこの世にましまさぬ事を歎き思し召しける処に、「淡路の武島に未だ生きて御座あり。」と聞こえければ、急ぎ御迎ひを下され、都へ帰り上らせ給ふ。唯、王質が仙より出でて七世の孫に会ひ、方士が海に入つて楊貴妃を見奉りしに異ならず。
御息所は、「心つくしに赴きし時の心憂さ、浪に廻りし泡の消ゆるを争ふ命の程、堪へかねたりし物思ひは、御推し量りも浅くや。」とて、御袖濡るるばかりなり。宮は又、「外渡る船のかぢの葉に、書けども尽きぬ御歎き{*43}、なき跡弔ひし月日の数、御身につもりし悲しみは、語るも詞{*44}はおろかなり。」とぞ掻き口説かせ給ひける。
さしも憂かりし世の中の{*45}、時の間に引き替へて、人間の栄花、天上の娯楽、極めずといふ事なく、尽くさずといふ御遊もなし。長生殿の裏には、梨花の雨、土くれを破らず。不老門の前には、楊柳の風、枝を鳴らさず。今日を千年の始めと、めでたきためしに思し召したりしに、楽しみ尽きて悲しみ来る人間の習ひなれば、中一年あつて、建武二年{*46}の冬の頃より又天下乱れて、公家の御世、武家の成敗になりしかば、一宮は、終に越前の金崎城にて御自害あつて、御首、京都に上りて、禅林寺の長老夢窓国師、喪礼執り行はるなど聞こえしかば、御息所は、余りのせん方なさに御車に助け載せられて、禅林寺の辺まで浮かれ出でさせ給へば、これぞその御事とおぼしくて、墨染の夕の空に立つ煙、松の嵐に打ち靡き、心細く澄み上る。
さらぬ別れの悲しさは、誰とてもおろかならぬ涙なれども、宮などのやんごとなき御身を、剣の先に触れて、秋の霜{*47}の下に消え果てさせ給ひぬる御事は、類なき悲しみなれば、思ひ遣り奉る今はの際の御有様も、今ひとしほのおもひを添へて、共に東岱前後の煙と立ち上り、北邙{*48}新丘の露とも消えなばやと、返る車のとことはに、伏し沈ませ給ひける、御心の中こそ哀れなれ{*49}。
行きて古き跡を訪へば、竹苑{*50}故宮の月、心を傷ましめ、帰りて寒閨に臥せば、椒房{*51}寡居の風、夢を吹き、見るにつけ聞くに随ひ、御歎き、日ごとに深くなり行きければ、やがて御息所も御心地煩ひて、御中陰の日数未だ終へざる先に、はかなくならせ給ひければ、聞く人ごとにおしなべて、類少なきあはれさに、皆袂をぞ濡らしける。
校訂者注
1:底本は、「押寄する事こそあれと」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
2:底本は、「死骸(しがい)なきも」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
3:底本は、「乗らせ参らせて、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
4:底本は、「遂に行(おこな)はれざる先に、首(くび)を渡さるゝの事は」。『太平記 三』(1983年)に従い改め、削除した。
5:底本は、「牢(らう)の御所をば拵へて」。『太平記 三』(1983年)に従い削除した。
6:底本頭注に、「尊良親王。」とある。
7:底本頭注に、「源疎石。国師は僧の尊称。」とある。
8:底本は、「御匣殿(みくしげどの)」。底本頭注に、「今出川右大臣公顕の女。」とある。
9:底本頭注に、「〇後二條院 後宇多天皇の皇子。」「〇春宮 邦仁親王。」とある。
10:底本頭注に、「摂政関白。」とある。
11:底本は、「臈闌(らふた)けて」。底本頭注に、「優美で。」とある。
12:底本は、「給ひし時」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
13:底本は、「通り難(がて)に」。底本頭注に、「通り過ぎ難くて。」とある。
14:底本は、「繊(せん)」。『太平記 三』(1983年)本文及び頭注に従い改めた。底本頭注に、「〇繊珊瑚を砕く云々 白氏文集に見ゆ。」とある。
15:底本頭注に、「心苦しくつらさうにして。」とある。
16:底本は、「立出づることやとて、」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
17:底本頭注に、「西園寺太政大臣実兼の子。」とある。
18:底本頭注に、「いひなづけとし。」とある。
19:底本は、「いそぎありきて、」。『太平記 三』(1983年)本文及び頭注に従い改めた。底本頭注に、「〇披講 歌を聞いて詠み上げること。」「〇褒貶 批判。」「〇こゆるぎのいそぎ 相模国のこゆるぎの磯と急ぎとを云ひ懸く。」とある。
20:底本は、「短冊(たんじやく)を取出して、」。『太平記 三』(1983年)に従い削除した。
21:底本は、「衣(きぬ)引被(ひきかづ)いで」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
22:底本頭注に、「古今集に、『最上川上れば下る稲船の否にはあらずこの月ばかり。』」とある。
23:底本は、「破るらん。古の」。
24:底本は、「百夜(もゝよ)の榻(しぢ)の端書(はしがき)、今は我や数(かず)書(か)かまし」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。」。底本頭注に、「〇百夜の榻の端書 榻は轅の台。古今集の『暁の鴫の羽がき百羽がき君が来ぬ夜は我ぞ数かく。』を後世、『暁の榻の端書百夜書き…』と誤り伝へた俗説により書いたのである。」とある。
25:底本頭注に、「枕をかはすを含ませ云ふ。」とある。
26:底本は、「争でか涙(なみだ)の玉の緒(を)も存(ながら)へぬと、」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。底本頭注に、「〇涙の玉の緒 涙の玉を玉の緒(いのち)に云ひつゞけた。」とある。
27:底本は、「晴れやらぬに、打添ひて、」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
28:底本は、「かひ(二字以上の繰り返し記号と濁点)して」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
29:底本は、「一番渚(なぎさ)へ」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
30:底本頭注に、「手繰網して漁しゐる。」とある。
31:底本は、「何か」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
32:底本頭注に、「世を憂しと観ずる意を含む。」とある。
33:底本頭注に、「心尽しと筑紫(九州)とを云ひ懸く。」とある。
34:底本は、「生(い)ける御心地」。『太平記 三』(1983年)本文及び頭注に従い改めた。
35:底本は、「沈めばやと思召(おぼしめ)し」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
36:底本は、「竜の」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
37:底本は、「此の御事(おこと)」。底本頭注に、「このお方。」とある。
38:底本頭注に、「誦経法施して仏神を慰めること。」とある。
39:底本は、「早離速離(さうりそくり)」。底本頭注に、「兄弟二人の名。継母に悪まれて海巌山に棄てられたといふ。」とある。
40:底本頭注に、「如何になるを含め云ふ。」とある。
41:底本は、「御左右(おんさう)」。底本頭注に、「とかくのお便り。」とある。
42:底本は、「或夜警固(けいご)に」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
43:底本頭注に、「後拾遺集に『天の河とわたる船のかぢの葉に思ふことをも書きつくるかな。』」とある。
44:底本は、「言(こと)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
45:底本は、「世の中、時の」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
46:底本は、「建武(けんむ)元年」。『太平記 三』(1983年)頭注に従い改めた。
47:底本頭注に、「刀剣。」とある。
48:底本は、「北邙(ほくばう)」。底本頭注に、「洛陽の北の邙山には墓場が多いことから墓地の意。」とある。
49:底本は、「哀(あは)れなり。」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
50:底本は、「竹苑(ちくゑん)」。底本頭注に、「親王。」とある。
51:底本は、「椒房(せうばう)」。底本頭注に、「後宮。」とある。
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