比叡山開闢の事

 金崎の城攻め落とされて後、諸国の宮方、力を失ひけるにや。或いは降参し、或いは退散して、天下、将軍の威に随ふ事、あたかも吹く風の草木を靡かすが如し。在々所々に宮方の城あつて、山門、又如何なる事をかし出ださんずらんと危ぶまれし程こそ、衆徒の心を違へじと、山門の所領、共に安堵なされたりしが、「今、天下、已に武威に帰して静謐しぬる上は、何の憤りかあるべき。」とて、「以前の成敗の事を変じて、山門を三井寺の末寺にやなす。」、又、「若干の所領を塞げたるも無益なれば、唯、一円に九院を没倒し、衆徒を追ひ出だして、その跡を軍勢にや充て行ふべき。」と、高、上杉の人々、将軍の御前に参じて評定しける処に、北小路の玄恵法印、出で来れり。
 武蔵守師直、「この人こそ大智広学の物知りにて候なれば、かやうの事どもも存知候はんずれ。これに山門の事、委しく尋ね問ひ候はばや。」と申されければ、将軍、「げにも。」とて、「法印、こなたへ。」とぞ呼ばれける。
 法印、席に直つて、四海静謐の事ども賀し申して、種々の物語どもに及びける時、上杉伊豆守重能、法印に向つて申されけるは、「以前、山門、両度の臨幸を許容申して、将軍に敵し奉る事、他事なし。然りといへども、武運、天命に合する故に、遂に朝敵を一時に亡ぼして、太平を四海に致し候ひき。そもそも山門、毎年の祭礼に洛中の人民を煩はし、三千の聖供どもに国土の荘園を領する事、世のために費え多しといへども、公家武家、これを{*1}止めざる事は、唯、御祈祷を専らにし、天下の静謐を仰ぐ故なり。然るに今、武家のために怨みを結び、朝敵のために懇祈をいたす。これ、当家の蠧害、釈門の残賊なるべし{*2}。
 「仄かに聞く、比叡山草創の事、時は延暦の末の年に当たれり。君は桓武の治天に始まれり。この寺、未だ立たざりし先に、聖主、国を治め給ふ事、相続いて五十代。かつて異国にも侵されず、妖怪にも悩まされず。君、巍々の徳を施し、民、堂々の化に誇る。これを以てこれを憶ふに、有つて無益のものは、山門なり。無くてよかるべきは、山法師なり。但し、山門無くては叶ふまじき故候やらん。白河院も、『朕が心に任せぬは、双六の賽、賀茂川の水、山法師なり。』と仰せられ候ひけんなる。その議、誠にいぶかしくおぼえ候。御物語り候へ。ついでの才学に仕り候はん。」とぞ申されける。
 法印、つくづくとこれを聞いて、「言語道断の事なり。口を閉ぢて去り、耳を塞いで帰らばや。」と思ひけれども、「もし一言の下に、邪を翻し正に帰する事もやあらんずらん。」と思ひければ、中々旨に逆ひ議を犯す詞を留めて、長物語をぞ始められける。
 「それ、この国の起こりは、家々に{*3}伝ふる処格別にして、その説まちまちなりといへども、暫く記する処の一義に、天地、已に分かれて後、第九の減劫、人寿二万歳の時、迦葉仏、西天に出世し給ふ。時に大聖釈尊、その授記を得て、都率天に住み給ひしが、『我、八相成道の後、遺教流布の地、いづれの所にあるべき{*4}。』とて、この南瞻部州をあまねく飛行して御覧じけるに、漫々たる大海の上に、一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易と立つ浪の音あり。釈尊、これを聞こし召して、『この浪の流れ止まらんずる所、一つの国となりて、吾が教法弘通する霊地たるべし。』と思し召しければ、即ちこの浪の流れ行くに随つて、遥かに十万里の蒼海を凌ぎ給ふ。この波、忽ちに一葉の葦の海中に浮かべるにぞ留まりにける。この葦の葉、果たして一つの島となる。今の比叡山の麓、大宮大権現、跡を垂れ給ふ波止土濃なり。この故に、波止まつて土濃やかなりとは書けるなるべし。
 「その後、人寿百歳の時、釈尊、中天竺摩竭陀国浄飯王宮に降誕し給ふ。御歳十九にて、二月上八{*5}の夜半に王宮を遁れ出で、六年難行して雪山に身を捨て、寂場樹下に端座し給ふ。又、六年の後夜に正覚をなしし後、頓大三七日、遍小十二年、尽浄虚融の演説三十年、一実無相の開顕八箇年{*6}、遂に滅度を抜提河の辺、双林樹下に唱へ給ふ。然りといへども、仏は元来、本有常住周遍法界の妙体なれば、遺教流布のために、昔、葦の葉の国となりし南閻浮提豊葦原の中津国に到つて見給ふに、時は鵜羽不葺合尊の御代なれば、人、未だ仏法の名字をだにも聞かず。然れどもこの地、大日遍照の本国として仏法東漸の霊地たるべければ、いづれの所にか応化利生の門を開くべきと、かなたこなたを遍歴し給ふ処に、比叡山の麓、さざなみや志賀の浦のほとりに、釣を垂れて{*7}おはせる老翁あり。釈尊、これに向つて、『翁、もしこの地の主ならば、この山を吾に与へよ。結界の地となし、仏法を弘めん。』と宣ひければ、この翁、答へて曰く、『我は、人寿六千歳の始めより、この所の主として、この湖の七度まで桑原と{*8}変ぜしを見たり。但しこの地、結界の地とならば、釣する所を失ふべし。釈尊、早く去つて、他国に求め給へ。』とぞ惜しみける。この翁は、これ白髭明神なり。
 「釈尊、これに依つて、寂光土に帰らんとし給ひける処に、東方浄瑠璃世界の教主医王善逝{*9}、忽然として来り給へり。釈尊、大きに歓喜し給ひて、以前老翁が云ひつることを語り給ふに、医王善逝、称歎して宣はく、『善いかな、釈迦尊、この地に仏法を弘通し給はんこと。我、人寿二万歳の始めより、この国の地主なり。かの老翁、未だわれを知らず。何ぞこの山を惜しみ奉るべきや。機縁、時至つて仏法東流せば、釈尊は、教へを伝ふる大師となつて、この山を開闢したまへ。我は、この山の王となつて、久しく後五百歳の仏法を護るべし。』と誓約をなし、二仏、各、東西に去り給ひにけり。
 「かくて、千八百年を経て後、釈尊は伝教大師とならせ給ふ。延暦二十三年に{*10}、始めて求法のために漢土に渡り給ふ。則ち、顕密戒の三学淵底に玉を拾ひ、同じき二十四年に帰朝し給ひぬ。ここに桓武皇帝、法の檀度とならせ給ひて、比叡山を草創せられし始め、伝教大師、勅を承つて、根本中堂を建てんとて地を引かれけるに、紅蓮の如くなる人の舌一つ、土の底にあつて、法華読誦の声止まず。大師、怪しみてその故を問ひ給ふに、この舌、答へて曰く、『我、古、この山に住して、六万部の法華経を読誦せしが、寿命限り有つて、身、已に壊すといへども、音声尽くる事なくして、舌は尚存せり。』とぞ申しける。
 「又、中堂造営の事終はつて、本尊のために、大師御手づから薬師の像をつくり給ひしに、一度斧を下して、『像法転時、利益衆生、故号薬師瑠璃光仏。』と唱へて礼拝し給ひける時に、木像の薬師、首を屈してうなづかせ給ひけり。その後、大師は、小比叡の峯に杉の庵を占めて、暫くひとり住みしおはしける。或る時、かくぞ詠じ給ひける。
  波母山や小比叡の杉のひとり居はあらしも寒し問ふ人もなし
とあそばされ、観月を澄ましておはしける処に、光明嚇奕たる三つの日輪、空中より飛び下れり。その光の中に、釈迦、薬師、弥陀の三尊、光を並べて坐し給ふ。この三尊、或いは僧形を現じ、或いは俗体に変じて、大師を礼し奉つて、『十方大菩薩、愍衆故行道、応生恭敬心、是則我大師。』と讃め給ふ。
 「大師、大きに礼敬し給ひて、『願はくは、その御名を聞かん。』と問ひ給ふに、三尊、答へて曰く、『豎の三点に横の一点を加へ、横の三点に豎の一点を添ふ。我、内には円宗の教法を守り、外には済度の方便を助けんために、この山に来れり。』と答へ給ふ。その光、天にかかれる事、百錬の鸞鏡の如し。大師、この詞を以て文字をなすに、豎の三点に横の一点を加へては、山といふ字なり。横の三点に豎の一点を添へては、王といふ字なり。『山はこれ、高大にして動ぜざる形、王は、天地人の三才に経緯たる徳を顕はし給へる称号なるべし。』とて、その神を山王と崇め奉る。
 「所謂大宮権現は、久遠実成の古仏、天照大神の応作。専ら円宗の教法を護り、久しく比叡山に宿す。故に法宿大菩薩とも申し奉る。既にこれ、三界の慈父、我等が本師なり。聖真子は九品安養界の化主、八幡大菩薩の分身。光を四明の麓に和らげ、速やかに三聖の形を示す。十悪といへども猶引接し給ふ事は、疾風の雲霧を披くよりも甚だし。一念といへども必ず感応なる事は、これを、巨海の涓露を納るるに喩ふ。和光同塵は、既に結縁の始めたり。往生安楽は、豈得脱の終はりにあらずや。二の宮は、初め大聖釈尊と約をなし給ひし東方浄瑠璃世界の如来、吾が国秋津洲の地主なり。随所示願の誓ひ、既に叶ふ。現世安隠の人望、願生西方の願ひ、豈、後生菩提{*11}の指南にあらずや。八王子は、千手観音の垂跡。無垢三昧の力を以て、奈落迦{*12}の重苦を救ふ潅頂大法王子なり。故に、大八王子といふ。本地清涼の月は、安養界に処すといへども、応化随縁の影は、遥かに麓の祠露に顕はる。各、所居の浄土を表せば、これ、併しながら補陀楽山{*13}とも申しつべし。
 「客人の宮は、十一面観音の応作、白山禅定の霊神なり。しかも山王の行化を助け、北陸の崇峯を出で、東山の霊地に来る。故に客人と号す。現在生の中には十種の勝利を得、臨命終の時には九品の蓮台に生ず。十禅師の宮は、無仏世界の化主、地蔵薩埵の応化なり。忝くも牟尼の遺教を受け、懇ろに忉利の附嘱に預かる。二仏中間の大導師、三聖執務の法体なり。かの御託宣に曰く、『三千の衆徒を養つて我が子とし、一乗の教法を守つて我が命とす。』と示し給ふ。たとひ微少の結縁なりといへども、宜しく莫大の利益を蒙るべし{*14}。三の宮は、普賢菩薩の権化、妙法蓮華の正体なり。一乗読誦の窓前には、影向を垂れて哀愍を納受し給ふ{*15}。既にこれ、慚愧懺悔の教主たり。六根罪障の我等、何ぞこれを仰ぎ奉らざらんや。
 「次に、中七社。牛の御子は大威徳、大行事は毘沙門、早尾は不動、気比は聖観音、下八王子は虚空蔵、王子の宮は文殊、聖女は如意輪。次に、下七社の小禅師は弥勒竜樹、悪王子は愛染明王、新行事は吉祥天女、岩滝は弁財天、山末は摩利支天、剣宮は不動、大宮の竃殿は大日、聖真子の竃殿は金剛界の大日、二宮の竃殿は日光、月光。各、大悲の門を出で、利生の道に赴き給ふ。その後、四所の菩薩、化を助けて十方より来至し、三七の霊神、光を並べて四辺に囲繞し給ふ。それ、済度利生のまちまちなる徳、百千劫の間に舌を伸べて説くとも、尽くべからず。
 「山は、戒定恵の三学を表し、三塔を建つ。人は、一念三千の義を以て数とす。十二の願主{*16}、眸を廻らす故に、天下の治乱、この冥応に懸からずといふことなく、七社の権現、跡を垂るる故に、海内の吉凶、その玄鑑{*17}に依らずといふ事なし。されば、朝廷に事ある日は、これを祈つて災ひを除き、幸ひを致す。山門に訴へある時は、これを傷んで、非を以て理とせらる。ここに、両度の臨幸を山門に許容申したりしは、一応、衆徒のひが事に似て候へども、窮鳥懐ろに入る時は、狩人もこれを哀れみて殺さざる事にて候。況んや十善の君の御恃みあらんに、誰か与し申さざるべき。譬へばその時の久執の輩、少々相残つて野心をさし挟み候とも、武将、その恨みを忘れ、厚恩、徳を行はれ候はば、敵の運を祈らんずる勤めは、かへつて一家の祈りとなり、朝敵を贔負せん心変じて、御方の御ために貮心なき者となり候べし。」と、内外の理致明らかに、詞を尽くして申されたりければ{*18}、将軍、左兵衛督を始め奉り、高、上杉、頭人評定衆に至るまで、「さては、山門なくては天下を治むる事、あるまじかりけり。」と信仰して、則ち旧領安堵の外に、武家ますます寄進の地をぞ添へられける。

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校訂者注
 1:底本は、「公家武家を止めざる事は、」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 2:底本は、「これ当家の蠧害(とがい)、釈門の残賊なるべし。」。底本頭注に、「〇当家 武家。」「〇蠧害 大害。蠧は害虫である。」「〇釈門 仏門。」とある。
 3:底本は、「家々の伝ふる」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 4:底本は、「あるべしとて、」。
 5:底本は、「上八(じやうはち)」。底本頭注に、「上旬の八日。」とある。
 6:底本頭注に、「〇頓大 頓に大乗法界円融の法を説く事。」「〇遍小 偏に小乗小機を説くこと。」「〇尽浄 一切の清浄妙理。」「〇虚融 色即是空、空即是色の理。」「〇一実無相 法華不思議の妙理。」とある。
 7:底本は、「釣を垂れおはせる」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い補った。
 8:底本は、「桑原に変ぜし」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。底本頭注に、「〇この湖 琵琶湖。」とある。
 9:底本頭注に、「薬師如来。」とある。
 10:底本は、「二十三年、」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 11:底本は、「後生菩薩」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 12:底本は、「奈落伽(ならくか)」。底本頭注に、「奈落。地獄のこと。」とある。
 13:底本は、「併(しか)しながら補陀楽山(ふだらくざん)とも申しつべし。」。底本頭注に、「〇併しながら そのまゝの意。」「〇補陀楽山 海島と訳す。今は観世音菩薩の称。」とある。
 14:底本は、「蒙る。」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 15:底本は、「影向(やうがう)を垂れて哀愍(あいみん)納受し給ふ。」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。底本頭注に、「〇影向 仏神がその姿を現じること。」とある。
 16:底本頭注に、「薬師如来のこと。」とある。
 17:底本頭注に、「神仏の照覧。」とある。
 18:底本は、「申されければ、」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。