巻第十九

光厳院殿重祚の御事

 建武三年六月十日、光厳院太上天皇、重祚の御位に即かせ給ふ。
 そもそもこの君は、宗鑑{*1}が亡びし時、御位に即け参らせたりしが、三年の内に天下反覆して、宗鑑亡びはてしかば、その例、如何あるべからんと、諸人、異議多かりけれども、この将軍尊氏卿の筑紫より攻め上りし時、院宣をなされしも、この君なり。今又、東寺へ潜幸なりて、武家に威を加へられしも、この御事なれば、いかでかその天恩を報じ申さではあるべきとて、尊氏卿、平にはからひ申されける上は、末座の異見、再往の沙汰に及ばず。
 その頃、物にもおぼえぬ田舎の者ども、茶の会、酒宴の砌にて、そぞろなる物語しけるにも、「あはれ、この持明院殿{*2}ほど大果報の人は、おはせざりけり。軍の一度をもし給はずして、将軍より王位を賜はらせ給ひたり。」と、申し沙汰しけるこそをかしけれ。

本朝の将軍補任兄弟その例なき事

 同じき年十月三日、改元あつて、延元にうつる。
 その十一月五日の除目に、足利宰相尊氏卿、上首十一人を越えて位正三位にあがり、官大納言に遷りて、征夷将軍の武将に備はり給ふ。舎弟左馬頭直義朝臣は、五人を越えて位四品に叙し、官、宰相に任じて、日本の副将軍になり給ふ。
 それ、我が朝に将軍を置かれし初めは、養老四年に多治比真人県守、神亀元年に藤原朝臣宇合、宝亀十一年に藤原朝臣継綱{*3}。その後、時代遥かに隔たりて、藤原朝臣小里丸、大伴宿禰家持、紀朝臣古佐美、大伴宿禰乙丸、坂上宿禰田村丸、文屋宿禰綿丸、藤原朝臣忠文、右大将宗盛、新中納言知盛、右大将源頼朝、木曽左馬頭源義仲、左衛門督頼家、右大臣実朝に至るまで、その人十六人皆、功の抽賞に依つて、父子その先を追ふ事ありといへども、兄弟一時に相並んで大樹の武将{*4}に備はる事、古今未だその例を聞かずと、その方様の人は、皆驕逸の思ひ、気色に顕はれたり。
 その外、宗徒の一族四十三人、或いは象外の選に当たり、俗骨{*5}、忽ちに蓬莱の雲をふみ、或いは乱階の賞に依つて、庸才{*6}、たちどころに台閣の月を攀づ。しかのみならず、その門葉たる者は、諸国の守護吏務を兼ねて、銀鞍未だ解かず、五馬{*7}、忽ち重山の雲に鞭打つて、蘭橈、未だ乾かず、巨船、遥かに滄海の浪に棹さす。すべて博陸輔佐の臣も、これに向つて上位をのぞまん事を憚る。況んや名家儒林の輩は、かの仁に列なつて下風に立たん事を喜べり。

新田義貞越前府の城を落とす事

 左中将義貞朝臣、舎弟脇屋右衛門佐義助は、金崎城没落の後、杣山の麓、瓜生が館に、有るも無きが如くにておはしましけるが、「いつまでか、かくていたづらに時を待つべき。所々に隠れ居たる敗軍の兵を集めて国中へ討ち出で、吉野に御座ある先帝{*8}の宸襟をも休めまゐらせ、金崎にて討たれし亡魂の恨みをも散ぜばや。」と思はれければ、国々へひそかに使を通じて、旧功の輩を集められけるに、「竜鱗につき鳳翼を攀ぢて宿望を達せばや。」と、蟄居に時を待ちける在々所々の兵ども、聞き伝へ聞き伝へ、抜け抜けに馳せ集まりける程に、馬、物具なんどこそきらきらしくはなけれども、心ばかりはいかなる樊噲、周勃にも劣らじと思へる義心金鉄の兵ども、三千余騎になりにけり。
 この事、やがて京都に聞こえければ、将軍より、足利尾張守高経、舎弟伊予守、二人を大将として、北陸道七箇国の勢六千余騎{*9}を差し副へ、越前府へぞ下されける。かくて数月をふれども、府は大勢なり、杣山は要害なれば、城へも寄り得ず、府へもかかり得ず。唯、両陣の境、大塩、松崎辺に兵を出だし合はせて、日々夜々に軍の絶ゆる隙もなし。
 かかる所に、加賀国の住人敷地伊豆守、山岸新左衛門、上木平九郎以下の者ども、畑六郎左衛門尉時能が語らひについて、加賀越前の境、細呂木のほとりに城郭を構へ、津葉五郎{*10}が大聖寺城を攻め落として、国中を押領す。この時までは、平泉寺の衆徒等、みな貮心なき将軍方にて有りけるが、これもいかが思ひけん、過半、引き分かれて宮方に与力申し、三峯といふ所へ討ち出で、城を構へて敵を待つ所に、伊自良次郎左衛門尉{*11}、これに与して三百余騎にて馳せ加はる間、近辺の地頭御家人等、防ぎ戦ふに力を失つて、皆、己が家々に火をかけて、府の陣へ落ち集まる。
 北国、これより動乱して、汗馬の足を休めず。三峯の衆徒の中より杣山へ使者を立て、大将を一人賜はつて合戦を致すべき由を申しける間、脇屋右衛門佐義助朝臣に五百余騎を相副へて、三峯の陣へ差し遣はさる。牒使、又、加賀国に来つて、前に相図を定めらるる間、敷地、上木、山岸、畑、結城、江戸、深町の者ども、細屋右馬助を大将としてその勢三千余騎、越前国へ打ち越え、長崎、河合、川口、三箇所に城を構へて、漸々に府へぞ攻め寄せける。
 尾張守高経は、六千余騎を随へて府中にたて篭られたりけるが、「敵に国中を押し取られて、一所に篭り居ては、兵粮につまりて遂によかるまじ。」とて、三千余騎をば府に残しおき、三千余騎をば一国に分け遣はして、山々峯々に城を構へ、兵を二百騎三百騎づつ、三十余箇所にぞ置かれける。戦場、雪深くして、馬の足の立たぬ程は、城と城とを合はせて、昼夜旦暮合戦を致すといへども、僅かに一日雌雄を争ふばかりにて、誠の勝負は未だなかりけり。
 さる程に、新玉の年立ち帰つて{*12}、二月中旬にもなりければ、余寒も漸く退きて、士卒、弓をひくに、手かがまらず。残雪半ばむら消えて、匹馬、地を踏むに蹄を労せず。「今は時分よくなりぬ。次第に府の辺へ近づき寄せて、敵の往反する道々に城を構へて、四方を差し塞いで攻め戦ふべし。いづくか要害によかるべき所ある。」と、見試みんために、脇屋右衛門佐、僅か百四、五十騎にて、鯖江の宿へ討ち出でられけり。名将、小勢にて城の外に討ち出でたるを、「よき隙なり。」と、敵にや人の告げたりけん、尾張守の副将軍細川出羽守、五百余騎にて府の城より討ち出で、鯖江の宿へ押し寄せ、三方より相近づいて、一人も余さじとぞ{*13}取り巻きける。
 脇屋右衛門佐、前後の敵に囲まれて、とても遁れぬ所なりと思ひ切つてげれば、中々、心を一つにして、少しも機をたゆまさず。後陣に高木社をあて、左右に瓜生畔を取つて、矢種を惜しまず散々に射させて、敵に少しも馬の足を立てさせず、七、八度が程、遭うつ開いつ追ひ立て追ひ立て攻め附けたるに、細川、鹿草が五百余騎、僅かの勢に駆け立てられて、鯖江の宿の後ろなる川の浅瀬を打ち渡り、向うの岸へ颯と引く。
 結城上野介、河野七郎、熊谷備中守、伊東大和小次郎、足立新左衛門、小島越後守、中野藤内左衛門、瓜生次郎左衛門尉、八騎の兵ども、川の瀬頭に打ちのぞみ、続いて渡さんとしけるが、大将右衛門佐、馬を打ち寄せて制せられけるは、「小勢の大勢に勝つことは、暫時の不思議なり。もし難所に向つて敵に{*14}かからば、水沢に利を失つて、敵、かへつて機に乗るべし。今日の合戦は、不慮に出で来つることなれば、遠所の御方、これを知らで、左右なく馳せ来らじとおぼゆるぞ。この辺の在家に火をかけて、合戦ありと知らせよ。」と下知せられければ、篠塚五郎左衛門、馳せ廻つて、高木、瓜生、真柄、北村の在家二十余箇所に火をかけて、狼煙、天を焦がせり。
 所々の宮方、この煙を見て、「すはや、鯖江の辺に軍のありけるは。馳せ合はせて御方に力を合はせよ。」とて、宇都宮美濃将監泰藤、天野民部大輔政貞、三百余騎にて鯖並の宿より馳せ来る。一條少将行実朝臣、二百余騎にて飽和より討ち出でらる。瓜生越前守重、舎弟加賀守照、五百余騎にて妙法寺の城より馳せ下る。山徒三百余騎は、大塩の城よりおり合ひ、河島左近蔵人維頼は、三百余騎にて三峯の城より馳せ来り、総大将左中将義貞朝臣は、千余騎にて杣山よりぞ出でられける。合戦の相図ありとおぼえて、所々の宮方、鯖江の宿へ馳せ集まるよし、聞こえければ、「未だ河端に控へたる御方討たすな。」とて、尾張守高経、同じき伊予守、三千余騎を率して国分寺の北へ討ち出でらる。両陣、相去ること十余町、中に一つの河を隔つ。
 この河、さしもの大河にてはなけれども、折節、雪解に水増して、漲る浪、岸をひたしければ、互に浅瀬を伺ひ見て、いづくをか渡さましと、暫く猶予しける処に、船田長門守が若党葛新左衛門といふ者、河端に打ち寄せて、「この河は、水だにまされば、洲、俄に出で来て、案内知らぬ人は、いつも過ちする河にて候ぞ。いで、その瀬ぶみ仕らん。」といふままに、白葦毛なる馬に、かし鳥縅の鎧著て、三尺六寸のかひしのぎの太刀を抜き、兜の真向に指しかざし、たぎりて落つる瀬枕に唯一騎、馬を打ち入れて、白浪を立ててぞ泳がせける。
 我先に渡さんと打ちのぞみたる兵三千余騎、これを見て、一度に颯と打ち入れて、弓の本筈末筈取りちがへ、馬の足の立つ所をば、手綱をさしくつろげて歩ませ、足のたたぬ所をば、馬の頭をたたき上げて泳がせ、真一文字に流れをきつて、向うの岸{*15}へかけあげたり。葛新左衛門は、御方の勢に二町ばかり先立ちて渡しければ、敵のために馬の諸膝ながれて{*16}、かち立ちになつて、敵六騎に取り篭められて、すでに討たれぬと見えける処に、宇都宮が郎等に{*17}清新左衛門為直、馳せ合つて、敵二騎切つて落とし、三騎に手負はせ、葛新左衛門をば助けてげり。
 寄する勢も三千余騎、防ぐ勢も三千余騎、大将はいづれも名を惜しむ源氏一流の棟梁なり。しかも馬の駆け引きたやすき在所なれば、敵御方六千余騎、前後左右に追ひつ返しつ入り乱れ、半時ばかりぞ戦ひたる。かくては唯、命を限りの戦ひにて、いつ勝負あるべしとも見えざりける処に、杣山河原より廻りける三峯の勢と、大塩より下る山法師と差し違ひて、敵陣の後ろへ廻り、府中に火をかけたりけるに、尾張守の兵三千余騎、敵を新善光寺の城へ入り替はらせじと、府中を指して引き返す。
 義貞朝臣の兵三千余騎、逃ぐる敵を追つすがうて、透間もなく攻め入りける間、城へ篭らんと逃げ入る勢ども、己が拵へたる木戸逆茂木に支へられて、城へ入るべき逗留もなかりければ、新善光寺の前を府より西へ打ち過ぐる。伊予守の勢千余騎は、若狭をさして引きければ、尾張守の兵二千余騎、織田、大虫を打ち過ぎて、足羽の城へぞ引かれける。
 すべてこの日一時の戦ひに、府の城、すでに攻め落とされぬと聞き及んで{*18}、未だ敵も寄せざる先に、国中の城の落つること、同時に七十三箇所なり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「北條高時。」とある。
 2:底本頭注に、「光厳院。」とある。
 3:底本は、「継縄(つぐつな)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 4:底本頭注に、「将軍。」とある。
 5:底本頭注に、「〇象外 格外。」「〇俗骨 俗物。」とある。
 6:底本頭注に、「凡庸の才。」とある。
 7:底本頭注に、「漢制に太守の車には五馬を駕すとあり、即ち太守の異称。」とある。
 8:底本頭注に、「御醍醐帝。」とある。
 9:底本は、「七箇国の勢(せい)を差副(さしそ)へ」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 10:底本頭注に、「清文。」とある。
 11:底本頭注に、「秀宗。」とある。
 12:底本頭注に、「延元三年になつて。」とある。
 13:底本は、「余さじと取巻きける。」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 14:底本は、「敵かゝらば、」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 15:底本は、「向ふの岸」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
 16:底本頭注に、「両膝を薙がれて。」とある。
 17:底本は、「郎等清(の)新左衛門為直」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 18:底本は、「聞き及んて、」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。