金崎の東宮並将軍宮御隠れの事

 「新田義貞、義助、杣山より討ち出でて、尾張守、伊予守、府中を落ち、その外所々の城、落とされぬ。」と聞こえければ、尊氏卿、直義朝臣、大きに怒つて、「この事は、ひとへに春宮{*1}の彼等を御助けあらんために、金崎にてこれ等は腹を切りたりと宣ひしを、まことと心得て、杣山へ遅く討手を差し下しつるによつてなり。この宮、これ程当家を失はんと思し召しけるを知らで、もし唯置き奉らば、いかさま{*2}、不思議の御企てもありぬとおぼゆれば、ひそかに鴆毒を参らせて、失ひ奉れ。」と、粟飯原下総守氏光にぞ下知せられける。
 春宮は、連枝の御兄弟将軍宮とて、直義朝臣、先年鎌倉へ申し下し参らせたりし先帝第七の宮{*3}と一処に押し篭められて御座ありける処へ、氏光、薬を一包み持ちて参り、「いつとなく、かやうに打ち篭つて御座候へば、御病気なんどの萌す御事もや候はんずらんとて、三條殿より調進せられて候。毎朝一七日聞こし召し候へ。」とて、御前にぞ差し置きける。
 氏光、罷り帰つて後、将軍宮、この薬を御覧ぜられて宣ひけるは、「病ひの未だ見えざる先に、かねて療治を加ふる程に我等を思はば、この一室の中に押し篭めて、明け暮れ、物を思はすべしや。これは、定めて病ひを治する薬にはあらじ。唯、命を縮むる毒なるべし。」とて、庭へ打ち捨てんとせさせ給ひけるを、春宮、御手に取らせ給ひて、「そもそも尊氏、直義等、その程に情なき所存をさし挟むものならば、たとひこの薬を飲まずとも、遁るべき命かは。これ、元来所願成就なり。この毒を飲み、世を早うせばやとこそ存じ候へ。
 「『それ、人間の習ひ、一日一夜を経る間に八億四千の念あり。一念悪を起こせば一生の悪身を得、十念悪を起こせば十生悪身を受く。乃至、千億の念も又しかなり。』といへり。かくの如く一日の悪念の報、受け尽くさんこと、猶難し。況んや一生の間の悪業をや。悲しいかな、未来無窮の生死出離、いづれの時ぞ。富貴栄花の人に於いて、猶この苦を遁れず。況んや我等、篭鳥の雲を恋ひ、涸魚の水を求むる如くになつて、聞くにつけ見るに随ふ悲しみの中に、待つこともなき月日を送つて、日の積もるをも知らず、悪念に犯されんよりも、命を鴆毒のために縮めて、後生善処の望みを達せんにはしかじ。」と仰せられて、毎日法華経一部遊ばされ、念仏唱へさせ給ひて、この鴆毒をぞ聞こし召しける{*4}。
 将軍宮、これを御覧じて、「誰とても、かかる憂世に心を留むべきにあらず。同じくは後生までも御供申さんこそ本意なれ。」とて、もろともにこの毒薬を七日までぞ聞こし召しける。やがて春宮は、その翌日より御心地、例に違はせ給ひけるが、御終焉の儀、閑かにして、四月十三日の暮程に、忽ちに隠れさせ給ひけり。将軍宮は、二十日余りまで御座ありけるが、黄疸といふ御いたはり{*5}出で来て、御遍身、黄にならせ給ひて、これも終に、はかなくならせ給ひにけり。
 哀れなるかな、尸鳩樹頭の花、連枝早く一朝の雨に随ひ、悲しいかな、鶺鴒原上の草、同根忽ちに三秋の霜に枯れぬる事を{*6}。去々年は兵部卿親王、鎌倉にて失はれさせ給ひ、又、去年の春は中務親王、金崎にて御自害あり{*7}。これ等をこそためしなく哀れなることに、聞く人、心を傷ましめつるに、今又、春宮、将軍宮、幾程なくて御隠れありければ、心あるも心なきも、これを聞き及ぶ人毎に、哀れを催さずといふことなし。かくつらくあたり給へる直義朝臣の行末、いかならんと思はぬ人もなかりけるが、果たして毒害せられ給ふことこそ不思議なれ。

諸国の宮方蜂起の事

 「主上、山門より還幸なり、官軍、金崎にて皆討たれぬ。」と披露ありければ、「今は、再び皇威に服せん事、近き世にはあらじ。」と、世、こぞつて思ひ定めける処に、「先帝、又、三種の神器を帯して吉野へ潜幸なり、又、義貞朝臣、已に数万騎の軍勢を率して越前国に討ち出でたり。」と聞こえければ、山門より降参したりし大館左馬助氏明、伊予国へ逃げ下り、土居、得能が子どもと引き合つて、四国を討ち従へんとす。江田兵部大輔行義も、丹波国に馳せ来つて、足立、本庄等を相語らつて高山寺に楯篭る。金谷治部大輔経氏、播磨の東條より討ち出で、吉河、高田が勢を附けて丹生の山蔭に城郭を構へ、山陰の中道を差し塞ぐ。遠江井介は、妙法院宮{*8}を取り立てまゐらせて、奥の山に楯篭る。宇都宮治部大輔入道は、紀清両党五百余騎を率して吉野へ馳せまゐりければ、旧功を捨てざる志を、君、殊に叡感あつて、即ちこれを還俗せさせられ、四位少将にぞなされける。
 この外、四夷八蛮ここかしこより起こるとのみ聞こえしかば、先帝旧労の功臣、義貞恩顧の軍勢等、病雀花を喰らうて飛揚の翅を伸べ、轍魚雨を得て噞喁の唇を湿ほす{*9}と、悦び思はぬ人もなし。

相模次郎時行勅免の事

 先亡相模入道宗鑑が二男相模次郎時行は、一家忽ちに亡びし後は、天にせぐくまり地にぬきあしして、一身を置くに安き所なかりしかば、ここの禅院かしこの律院に一夜二夜を明かして、隠れありきけるが、ひそかに使者を吉野殿へ参らせて申し入れけるは、「亡親高時法師、臣たる道を弁へずして、遂に滅亡を勅勘の下に得たりき。然りといへども、天誅の理に当たる故を存ずるに依つて、時行、一塵も君を恨み申す処を存じ候はず。元弘に、義貞は関東を滅ぼし、尊氏は六波羅を攻め落とす。かの両人、いづれも勅命に依つて征罰を事とし候ひし間、憤りを公儀に忘れ候ひし処に、尊氏、忽ちに朝敵となりしかば、威を綸命の下に仮つて、世を叛逆の中に奪はんと企てける心中、事、已に露顕し候か。
 「そもそも尊氏がその人たる事、ひとへに当家優如の厚恩に依り候ひき。然るに、恩を担ひて恩を忘れ、天を戴いて天を背けり。その大逆無道の甚だしきこと、世の憎む所、人の指さす所なり。これを以て当家の氏族等、悉く敵を他に取らず。唯、尊氏、直義等がためにその恨みを散ぜん事を存ず。天鑑、明らかに下情を照らされば、まげて勅免を蒙つて、朝敵誅罰の計略を巡らすべき由、綸旨を成し下されば、宜しく官軍の義戦を助け、皇統の大化を仰ぎ申すべきにて候。それ、不義の父を誅せられて、忠功の子を召し仕はるる例あり。異国には趙盾、我が朝には義朝、その外、泛々たる類、あげて数ふべからず。用捨偏なし、弛張時あり、明王の士を選ぶ徳なり。豈既往の罪を以て、当然の理を棄てられ候はんや。」と、伝奏に属して委細にぞ奏聞したりける。
 主上、よくよく聞こし召して、「犁牛のたとへ、その理、しかなり。罰、その罪にあたり、賞、その功に感ずるは、善政の最たり。」とて、則ち恩免の綸旨をぞ下されける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「恒良親王。」とある。
 2:底本は、「何様(なにさま)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「成良親王。」とある。
 4:底本は、「聞こし召されける。」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 5:底本頭注に、「御病気。」とある。
 6:底本は、「哀れなるかな尸鳩樹頭(しきうじゆとう)の花、連枝早く一朝の雨に随ひ、悲しいかな鶺鴒原上(せきれいげんじやう)の草、同根(どうこん)忽ちに三秋の霜に枯(か)れぬる事を。」。底本頭注に、「〇尸鳩 詩経に『鳲鳩在乗、其子在梅。』骨肉の中の睦じき譬へ。」「〇連枝、同根 共に兄弟のこと。」「〇鶺鴒 詩経に『脊令在原、兄弟急難。』兄弟の親しい譬へ。」とある。
 7:底本頭注に、「〇兵部卿親王 護良。」「〇中務親王 尊良。」とある。
 8:底本頭注に、「宗良親王。」とある。
 9:底本は、「轍魚(てつぎよ)雨を得て噞喁(けんぐ)の唇を湿(うるほ)す」。底本頭注に、「〇轍魚 車の轍に溜つた少水に住む魚。」「〇噞喁 魚が口を上に向けて喘ぐさま。」とある。