奥州国司顕家卿上洛並新田徳寿丸上洛の事
奥州国司北畠源中納言顕家卿、去んぬる建武三年{*1}正月に園城寺合戦の時、上洛せられて義貞に力を加へ、尊氏卿を西海に漂はせし、無双の大功なりとて鎮守府将軍になされて、又、奥州へぞ下されける。
その翌年、官軍、戦ひ破れて、君は山門より還幸なりて、花山院の故宮に幽閉せられさせ給ひ、金崎城は攻め落とされて、義顕朝臣、自害したりと聞こえし後は、顕家卿に附き随ふ郎従、皆落ち失せて、勢ひ微々になりしかば、僅かに伊達郡霊山城一つを守つて、有るも無きが如くにてぞおはしける。
かかる処に、主上は吉野へ潜幸なり、義貞は北国へ討ち出でたりと披露ありければ、いつしか又、人の心替はりて、催促に随ふ人多かりけり。顕家卿、時を得たりと悦んで、廻文を以て便宜の輩を催さるるに、結城上野入道道忠を始めとして、伊達、信夫、南部、下山、六千余騎にて馳せ加はる。国司、即ちその勢を合はせて三万余騎、白川の関へ打ち越え給ふに、奥州五十四郡の勢ども、多分{*2}馳せ附きて、程なく十万余騎になりにけり。「さらば、やがて鎌倉を攻め落として上洛すべし。」とて、八月十九日、白川の関を立ちて、下野国へ打ち越え給ふ。
鎌倉の管領足利左馬頭義詮、この事を聞き給ひて、上杉民部大輔、細川阿波守、高大和守{*3}、その外、武蔵相模の勢八万余騎を相副へて、利根河にて支へらる。さる程に、両陣の勢、東西の岸に打ち臨みて、互にこれを渡さんと、渡るべき瀬やあると見ければ、その折節、よその時雨に水増して、逆波高く漲り落ちて、浅瀬はさてもありやなしやと、こと問ふべき渡守さへなければ、両陣共に、水の干落つる程を相待ちて、いたづらに一日一夜は過ぎにけり。
ここに、国司の兵に長井斎藤別当実永といふものあり。大将の前に進み出でて申しけるは、「古より今に至るまで、河を隔てたる陣多けれども、渡して勝たずといふ事なし。たとひ水増して日頃より深くとも、この川、宇治、勢多、藤戸、富士川にまさる事は、よもあらじ。敵に先づ渡されぬさきに、こなたより渡つて、気を助けて戦ひを決し候はんに、などか勝たで候べき。」と申しければ、国司、「合戦の道は、勇士に任するにしかず。ともかくも計らふべし。」とぞ宣ひける。
実永、大きに悦んで、馬の腹帯を堅め、兜の緒をしめて、渡さんと打つ立ちけるを見て、いつも軍の先を争ひける部井十郎、高木三郎、少しも前後を見つくろはず、唯二騎、馬を颯と打ち入れて、「今日の軍の先駆け、後に論ずる人あらば、河伯水神に向つて問へ。」と高声に呼ばはつて、箆橈形{*4}に流れをせいてぞ渡しける。
長井斎藤別当、舎弟豊後次郎、兄弟二人これを見て、「人の渡したる処を渡つては、何の高名かあるべき。」と、共に腹を立てて、これより三町ばかり上なる瀬を唯二騎渡しけるが、岩浪高うして逆巻く波に巻き入れられて、人馬共に見えず、水の底に沈んで{*5}失せにけり。その身はいたづらに溺れて、骸は急流の底に漂ふといへども、その名は永く止まつて、武を九泉の先に輝かす。「さてこそ、鬚髪を染めて討死せし実盛が末とはおぼえたれ。」と、万人感ぜし詞の下に、先祖の名をぞ揚げたりける。
これを見て、奥州の勢十万余騎、一度に打ち入れて、まつ一文字{*6}に渡せば、鎌倉勢八万余騎、同時に渡り合ひて、河中にて勝負を決せんとす。されども、先づ一番に渡りつる奥勢の人馬に、東岸の流れせかれて、西岸の水の早き事、あたかも竜門三級の如くなれば、鎌倉の先陣三千余騎、馬筏を押し破られて、浮きぬ沈みぬ流れ行く。後陣の勢はこれを見て、叶はじとや思ひけん、河中より引き返して、平野に支へて戦ひけるが、引き立ちける軍なれば、右往左往に懸け散らされて、皆、鎌倉へ引き返す。
国司、利根河の合戦に打ち勝つて、勢ひ漸く強大になるといへども、鎌倉に猶、東八箇国の勢馳せ集まつて、雲霞の如くなりと聞きければ、武蔵府に五箇日逗留して、ひそかに鎌倉の様をぞ伺ひ聞きたまひける。
かかるところに、宇都宮左少将公綱、紀清両党千余騎にて国司に馳せ加はる。然れども、芳賀兵衛入道禅可一人は、国司に属せず。公綱が子息加賀寿丸を大将として、尚当国宇都宮城に楯篭る。これに依つて国司、伊達、信夫の兵二万余騎を差し遣はして、宇都宮城を攻めらるるに、禅可、三日が中に攻め落とされて降参したりけるが、四、五日を経て後、又、将軍方にぞ馳せ附きける。
この時に、先亡の余類相模次郎時行も、已に吉野殿より勅免を蒙りてげれば、伊豆国より起こつて五千余騎、足柄、箱根に陣を取つて、相共に鎌倉を攻むべき由を国司の方へ牒ぜらる。又、新田左中将義貞の次男徳寿丸{*7}、上野国より起こつて二万余騎、武蔵国へ打ち越えて、入間河にて著到をつけ、「国司の合戦もし延引せば、自余の勢を待たずして鎌倉を攻むべし。」とぞ相謀りける。
鎌倉には、上杉民部大輔、同中務大輔、志和三郎、桃井播磨守{*8}、高大和守以下、宗徒の一族大名数十人、大将足利左馬頭義詮の御前に参りて評定ありけるは、「利根河の合戦の後、御方は気を失つて、大半は落ち散り候。又、敵は勢ひに乗つて、いよいよ猛勢になり候ひぬ。今は、重ねて戦ふとも勝つ事を得難し。唯、安房上総へ引き退きて、東八箇国の勢、いづ方へか附くと見て、時の変違に随ひ、軍の安否を計らひて戦ふべきか。」と、延び延びとしたる評定のみあつて、誠にすずしく聞こえたる擬勢は更になかりけり。
奥勢のあとを追ひて道々合戦の事
大将左馬頭殿は、その頃僅かに十一歳なり{*9}。未だ思慮あるべき程にてもおはせざりけるが、つくづくとこの評定を聞き給ひて、「そもそもこれは、面々の異見ともおぼえぬ事かな。軍をする程にては、一方負けぬ事、あるべからず。そぞろに怖ぢば、軍をせぬものにてこそあらめ。苟しくも義詮、東国の管領としてたまたま鎌倉にありながら、敵、大勢なればとて、ここにて一軍もせざらんは、後難、遁れ難くして、敵の欺かん事、最も当然なり。されば、たとひ御方小勢なりとも、敵寄せ来らば馳せ向つて戦はんに、叶はずば討死すべし。もし又、遁れつべくば、一方打ち破つて、安房上総の方へも引き退きて、敵のしりへに随つて上洛し、宇治勢多にて前後より攻めたらんに、などか敵を亡ぼさざらん。」と、謀りごと濃やかに、義に当たつて宣ひければ、勇将猛卒、等しくこの一言に励まされて、「さては、討死するより外の事なし。」と、一偏に思ひ切つて鎌倉中に楯篭る。その勢、一万余騎には過ぎざりけり。
これを聞きて、国司、新田徳寿丸、相模次郎時行、宇都宮の紀清両党、かれこれ都合十万余騎、十二月二十八日に、諸方皆牒じ合はせて鎌倉へとぞ寄せたりける。鎌倉には、敵の様を聞きて、「とても勝つべき軍ならず。」と、一筋に皆思ひ切つたりければ、城を堅うし塁を深くする謀りごとをも事とせず{*10}、一万余騎を四手に分けて、道々に出で合ひ、駆け合ひ駆け合ひ一日支へて、各、身命を惜しまず戦ひける程に、一方の大将に向はれける志和三郎、杉下にて討たれにければ、この陣より軍破れて、寄せ手、谷々に乱れ入る。寄せ手、三方を囲みて、御方一処に集まりしかば、討たるる者は多くして、戦ふ兵は少なし。かくては始終叶ふべしとも見えざりければ、大将左馬頭殿を具足し奉りて、高、上杉、桃井以下の人々、皆思ひ思ひになつてぞ落ちられける。
かかりし後は、東国の勢、宮方に随ひ附く事、雲霞の如し。「今は、鎌倉に逗留して何の用かあるべき。」とて、国司顕家卿以下、正月八日、鎌倉を立つて、夜を日についで上洛し給へば、その勢都合五十万騎、前後五日路、左右四、五里を押して通るに、元来無慚無愧の夷どもなれば、路次の民屋を追捕し、神社仏閣を焼き払ふ。総じてこの勢の打ち過ぎける跡、塵を払つて、海道二、三里が間には在家の一宇も残らず、草木の一本もなかりけり。前陣、已に尾張の熱田に著きければ、摂津大宮司入道源雄、五百余騎にて馳せつけ、同じき日、美濃の根尾徳山より堀口美濃守貞満、千余騎にて馳せ加はる。今は、これより京までの道に、誰ありともこの勢をいささかも支へんとする者はあり難しとぞ見えたりける。
ここに、鎌倉の軍に打ち負けて、方々へ落ちられたりける上杉民部大輔、舎弟宮内少輔は相模国より起こり、桃井播磨守直常は箱根より討ち出で、高駿河守は安房上総より鎌倉へ押し渡り、武蔵相模の勢を催さるるに、所存あつて国司の方へは附かざりつる江戸、葛西、三浦、鎌倉、坂東{*11}の八平氏、武蔵の七党、三万余騎にて馳せ来る。又、清の党の旗頭、芳賀兵衛入道禅可も、元来将軍方に志ありければ、紀清両党が国司に属して上洛しつる時は、虚病して国に留まつたりけるが、清の党千余騎を率して馳せ加はる。この勢、又五万余騎、国司の後を追つて、先陣、已に遠江に著けば、その国の守護今川五郎入道、二千余騎にて馳せ加はる。中一日ありて三河国に著けば、当国の守護高尾張守、六千余騎にて馳せ加はる。又、美濃の洲俣へ著けば、土岐弾正少弼頼遠、七百余騎にて馳せ加はる。
国司の勢六十万騎、先を急ぎて、「将軍を討ち奉らん。」と上洛すれば、高、上杉、桃井が勢八万余騎、「国司を討たん。」と後につきて追つて行く。「蟷螂、蝉をうかがへば、野鳥、蟷螂を窺ふ。」といふ荘子が人間世のたとへ、実にもと思ひ知られたり。
校訂者注
1:底本は、「元弘三年」。『太平記 三』(1983年)本文及び頭注に従い改めた。
2:底本は、「多分(たぶん)」。底本頭注に、「大部分。」とある。
3:底本頭注に、「〇細川阿波守 和氏。」「〇高大和守 重茂。」とある。
4:底本は、「箆橈形(のためがた)」。底本頭注に、「矢竹を撓める形即ち斜にの意。」とある。
5:底本は、「沈んて」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
6:底本は、「まづ一文字」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
7:底本頭注に、「新田義興。」とある。
8:底本頭注に、「〇志和三郎 家長。高経の子。」「〇桃井播磨守 直経。貞経の子。」とある。
9:底本頭注に、「義詮は元徳二年に生れ貞治六年に薨じたのだから延元二年には八歳である。」とある。
10:底本は、「謀(はかりごと)を事ともせず、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
11:底本は、「鎌倉、東の」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
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