青野原軍の事 附 嚢沙背水の事

 坂東よりの後詰めの勢、美濃国に著きて評定しけるは、「将軍は、定めて宇治、勢多の橋を引いて御支へあらんずらん。さる程ならば、国司の勢、河を渡しかねて、いたづらに日を送るべし。その時、御方の勢、労兵の弊えに乗つて、国司の勢を前後より攻めんに、勝つ事をたちどころに得つべし。」と申し合はされけるを、土岐頼遠、黙然として耳を傾けけるが、「そもそも目の前を打ち通る敵を、大勢なればとて、矢の一つをも射ずして、いたづらに後日の弊えに乗らん事を待たん事は、唯、楚の宋義が、『蚊を殺すにはその馬を撃たず。』と云ひしに似たるべし。天下の人口、唯この一挙にあるべし{*1}。所詮、自余の御事は知らず、頼遠に於いては、命を際の一合戦して、義にさらせる骸を九原の苔に留むべし。」と、又、余儀もなく申されければ、桃井播磨守、「某も、かくの如く存じ候。面々はいかに。」と申されければ、諸大将、皆理に服して、悉くこの議にぞ同じける。
 さる程に、奥勢の先陣、既に垂井、赤坂辺に著きたりけるが、「後より上る後詰めの勢、近づきぬ。」と聞こえければ、「先づその敵を退治せよ。」とて、又三里引き返して、美濃尾張両国の間に、陣を取らずといふ処なし。後詰めの勢は、八万余騎を五手に分け、前後を籤に取つたりければ、先づ一番に小笠原信濃守、芳賀清兵衛入道禅可、二千余騎にて自貴の渡しへ馳せ向かへば、奥勢の伊達、信夫の兵ども、三千余騎にて河を渡つてかかりけるに、芳賀、小笠原、散々にかけ立てられて、残りすくなに討たれにけり。
 二番に{*2}高大和守、三千余騎にて洲俣河を渡る所に、渡しも立てず相模次郎時行、五千余騎にて乱れ合ひ、互に笠印をしるべにて、組んで落ち、落ち重なつて頚を取り、半時ばかり戦ひたるに、大和守が憑みきつたる兵三百余人討たれにければ、東西にあらけて山を便りに引き退く。
 三番に今川五郎入道、三浦新介、阿字賀に打ち出でて横合ひに懸かる所を、南部、下山、結城入道、一万余騎にて駆け合ひ、火出づるほどに戦ひたり。今川、三浦、元来小勢なれば打ち負けて、河より東へ引き退く。
 四番に上杉民部大輔、同じき宮内少輔{*3}、武蔵上野の勢一万余騎を率して、青野原に打ち出でたり。ここには新田徳寿丸、宇都宮の紀清両党、三万余騎にて相向ふ。両陣の旗の紋、皆知りたる兵どもなれば、後の嘲りをや恥ぢたりけん、互に一足も引かず、命を際に相戦ふ。毘嵐断えて大地忽ちに無間獄に堕ち、水輪湧いて世界悉く有頂天に翻へらんも、かくやとおぼゆるばかりなり。されども、大敵とりひしぐに難ければ、上杉、遂に打ち負けて、右往左往に落ちて行く。
 五番に桃井播磨守直常、土岐弾正少弼頼遠、わざと鋭卒をすぐつて一千余騎、渺々たる青野原に打ち出でて、敵を西北に請けてひかへたり。これには奥州の国司鎮守府将軍顕家卿、副将軍春日少将顕信{*4}、出羽奥州の勢六万余騎を率して相向ふ。敵に御方を見合はすれば、千騎に一騎を合はすとも、猶当たるに足らずと見えける処に、土岐と桃井と、少しも機を呑まれず。前に恐るべき敵なく、後に退くべき心ありとも見えざりけり。鬨の声を挙ぐる程こそありけれ、千余騎、唯一手になつて大勢の中に颯とかけ入り、半時ばかり戦つて、つとかけぬけてその勢を見れば、三百余騎は討たれにけり。
 相残る勢七百余騎を、又一手に束ねて、副将軍春日少将の控へたる二万余騎が中へかけ入つて、東へ追ひ靡け、南へかけ散らし、汗馬の足を休めず、太刀の鐔音止む時なく、や声を出してぞ戦ひ合ひたる。「千騎が一騎になるまでも、引くな、引くな。」と互に気を励まして、ここを先途と戦ひけれども、敵、雲霞の如くなれば、ここに囲まれかしこに取り篭められて、勢もつき気も屈しければ、七百余騎の勢も、僅かに二十三騎に討ちなされ、土岐は左の目の下より右の口脇、鼻まで、鋒深に切りつけられて、長森城へ引き篭る。桃井も、三十余箇度の駆け合ひに七十六騎に討ちなされ、馬の三頭、平頚{*5}二太刀切られ、草摺の外れ三所つかれて、余りに戦ひ疲れければ、「この軍、これに限るまじ。いざや、人々、馬の足休めん。」と、洲俣河に馬を追ひ浸して{*6}、太刀長刀の血を洗ひて、日も暮るれば野に下り居て、終に河より東へは越し給はず。
 京都には、奥勢上洛の由、先立つて聞こえけれども、「土岐、美濃国にあれば、さりとも一支へは支へんずらん。」と憑もしく思はれける処に、「頼遠、既に青野原の合戦に打ち負けて、行方知らず。」とも聞こえ、又は、「討たれたり。」とも披露ありければ、洛中の周章、ななめならず。
 「さらば、宇治、勢多の橋を引きてや相待つ。然らずば、先づ西国の方へ引き退きて、四国九州の勢をつけて、かへつて敵をや攻むべき。」と、異議まちまちに分かれて、評定未だ落居せざりけるに、越後守師泰、暫く思案して申されけるは、「古より今に至るまで、都へ敵、寄せ来る時、宇治、勢多の橋を引いて戦ふ事、度々なり。然れども、この河にて敵を支へて都を落とされずといふ事なし。寄する者は、広く万国を御方にして威に乗り、防ぐ者は、僅かに洛中を管領して気を失ふ故なり。不吉の例を追ひて、おほけなく宇治、勢多の橋を引き、大敵を帝都のほとりにて相待たんよりは、兵勝の利について、急ぎ近江、美濃の辺に馳せ向ひ、戦ひを王城の外に決せんには如かじ。」と、勇み、その気に顕はれ、謀りごと、その理にかなうて申されければ、将軍も師直も、「この議、然るべし。」とぞ甘心{*7}せられける。
 「さらば、時刻をうつさず向かへ。」とて、大将軍には高越後守師泰、同播磨守師冬{*8}、細川刑部大輔頼春、佐々木大夫判官氏頼、佐々木佐渡判官入道道誉、子息近江守秀綱、この外、諸国の大名五十三人、都合その勢一万余騎、二月四日、都を立ち、同じき六日の早旦に、近江と美濃との境なる黒地川に著きにけり。「奥勢も、垂井、赤坂に著きぬ。」と聞こえければ、「ここにて相待つべし。」とて、前には関の藤川を隔て、後ろには黒地川をあてて、その間に陣をぞ取つたりける。
 そもそも古より今に至るまで、勇士猛将の陣を取つて敵を待つには、後ろは山により、前は水を境ふ事にてこそあるに、今、大河を後ろに当てて陣を取られける事は、又一つの兵法なるべし。
 昔、漢の高祖と楚の項羽と天下を争ふ事、八箇年が間、戦ふ事止まざりけるに、或る時高祖、軍に負けて逃ぐる事三十里、討ち残されたる兵を数ふるに、三千余騎にも足らざりけり。項羽、四十余万騎を以てこれを追ひけるが、その日、既に暮れぬ。「夜明くれば、漢の陣へ押し寄せて、高祖を一時に亡ぼさん事、隻手の内にあり。」とぞ勇みける。
 ここに、高祖の臣に韓信といひける兵を大将になして、陣を取らせけるに、韓信、わざと後ろに大河を当てて、橋を焼き落とし、船を打ち破つてぞ棄てたりける。これは、「とても遁るまじき所を知つて、士卒、一引きも引く心なく、皆討死せよ。」と示さんための謀りごとなり。夜明けければ、項羽の兵、四十万騎にて押し寄せ、敵を小勢なりと侮つて、戦ひを即時に決せんとす。その勢、参然として{*9}左右を顧みず懸かりけるを、韓信が兵三千余騎、一足も引かず死を争ひて戦ひける程に、項羽、忽ちに打ち負けて、討たるる兵、二十万人、逃ぐるを追ふ事、五十余里なり。
 沼を境ひ沢を隔てて、「ここまでは、敵、よも駆くる事得じ。」と、橋を引きてぞ居りける。漢の兵、勝つに乗りて、今夜やがて項羽の陣へ寄せんとしけるに、韓信、兵どもを集めて申しけるは、「我、思ふ様あり。汝等、皆持つ所の兵粮を捨てて、その袋に砂を入れて持つべし。」とぞ下知しける。兵皆、「心得ぬ事かな。」と思ひながら、大将の命に随ひて、士卒皆、持つ所の粮を捨て、その袋に砂を入れて、項羽が陣へぞ押し寄せたる。夜に入つて、項羽が陣の様を見るに、四方皆、沼を境ひ沢を隔てて、馬の足も立たず、渡るべき様なき所にぞ陣取つたりける。
 この時、韓信、持たせたる所の砂嚢を沢に投げ入れ投げ入れ、これを堤になしてその上を渡るに、深泥、更に平地の如し。項羽の兵二十万騎、終日の軍には疲れぬ、「ここまでは敵寄すべき道なし。」と油断して、帯紐といて寝ねたる処に、高祖の兵七千余騎、鬨をどつと作つて押し寄せたれば、一戦にも及ばず、項羽の兵十万余騎皆、河水に溺れて討たれにけり。
 これを名づけて、韓信が嚢砂背水の謀りごととは申すなり。今、師泰、師冬、頼春が、敵を大勢なりと聞きて、わざと水沢を後ろになして関の藤川に陣を取りけるも、専ら士卒、心を一つにして、再び韓信が謀りごとを示すものなるべし。
 さる程に、国司の勢十万騎、垂井、赤坂、青野原に充満して、東西六里南北三里に陣を張る。夜々の篝を見渡せば、一天の星斗落ちて欄干たるに異ならず{*10}。この時、越前国に新田義貞、義助、北陸道を従へて、天をめぐらし地を略する勢ひ、専ら盛んなり。奥勢、もし黒地の陣を払はん事難儀ならば、北近江より越前へ打ち越えて、義貞朝臣と一つになり、比叡山に攀ぢ登り、洛中を脚下に見下して、南方の官軍と牒じ合はせ、東西よりこれを攻めば、将軍、京都には一日も堪忍し給はじとおぼえしを、顕家卿、我が大功、義貞の忠にならんずることを猜みて、北国へも引き合はず、黒地をも破りえず、俄に士卒を引きて、伊勢より吉野へぞ廻られける。さてこそ、「日頃は鬼神の如くに聞こえし奥勢、黒地をだにも破りえず。まして、後詰めの東国勢、京都に著きなば、恐るるに足らざる敵なり。」とぞ、京勢には思ひおとされける。
 顕家卿、南都に著きて、暫く汗馬の足を休めて、諸卒に向つて合戦の意見を問ひ給ひければ、白河の結城入道、進みて申しけるは、「今度、路次に於いて度々の合戦に打ち勝ち、所所の強敵を追ひ散らし、上洛の道を開くといへども、青野原の合戦にいささか利を失ふに依つて、黒地の橋をも渡り得ず、このまま吉野殿へ参らん事、余りにいふがひなくおぼえ候。唯、この御勢を以て都へ攻め上り、朝敵を一時に追ひ落とすか、もし然らずば、骸を王城の土に埋づみ候はんこそ本意にて候へ。」と、誠に余儀なく申しけり。顕家卿も、「この議、げにも。」と甘心せられしかば、やがて京都へ攻め上りたまはんとの企てなり。
 その聞こえ、京都に隠れなかりしかば、将軍、大きに驚き給ひて、「急ぎ南都へ大勢を差し下し、顕家卿を遮り留むべし。」とて、討手の評定ありしかども、「我、向かはん。」といふ人なかりけり。「かくては如何。」と、両将、その器を選び給ひけるに、師直、申されけるは、「何としてもこの大敵をとり拉がんことは、桃井兄弟にまさる事あらじと存じ候。その故は、鎌倉より退いて長途を経、所々にして戦ひ候ひしに、毎度この兵どもに手痛く当たりて、気を失ひ附けたる者どもなり。その臆病神の醒めぬ先に、桃井、馳せ向つて南都の陣を追ひ落とさんこと、案の内に候。」と申されしかば、「さらば。」とて、やがて師直を御使にて、桃井兄弟にこの由を仰せられしかば、直信、直常、「仔細を申すに及ばず。」とて、その日やがて打つ立ち、南都へぞ進発せられける。
 顕家卿、これを聞きて、般若坂に一陣を張り、都よりの敵に相当たる。桃井直常、兵の先に進んで、「今度、諸人の辞退する討手を、我等兄弟ならでは叶ふべからずとて、その選びに相当たる事、且は弓矢の眉目なり。この一戦に利を失はば、度々の高名皆、泥土に塗れぬべし。志を一つに励まして、一陣を先づ攻め破れや。」と下知せられしかば、曽我左衛門尉を始めとして究竟の兵七百余騎、身命を捨てて切つて入る。顕家卿の兵も、ここを先途と支へ戦ひしかども、長途の疲れ武者、何かは叶ふべき。一陣二陣、あらけ破れて、数万騎の兵ども、思ひ思ひにぞなりにける。
 「顕家卿も、同じく在所を知らずなり給ひぬ。」と聞こえしかば、直信、直常兄弟は、大軍をたやすく追ひ散らし、その身は恙なく都へ帰り上られけり。されば、「戦功は万人の上に立ち、抽賞は諸卒の望みを塞がん。」と、ひとり笑みして待ち居給ひたりしかども、更にその功、その賞に当たらざりしかば、桃井兄弟は、万、世間を述懐して、天下の大変を憑みにかけてぞ待たれける{*11}。
 かかる処に、顕家卿{*12}、舎弟春日少将顕信朝臣、今度南都を落ちし敗軍を集め、和泉の境に打ち出でて、近隣を犯し奪ひ、やがて八幡山に陣を取つて、勢ひ、京洛を呑む。これに依つて、京都、又騒動して、「急ぎ討手の大将を差し向くべし。」とて厳命を下されしかども、「軍忠、他に異なりし桃井兄弟だにも、抽賞の儀もなし。まして、その已下の者は、さこそあらんずらめ。」とて、かつて進む兵、更になかりける間、「かくては叶ふまじ。」とて、師直、一家を尽くして打つ立ち給ひける間、諸軍勢、これに驚いて、我も我もと馳せ下る。
 されば、その勢雲霞の如くにて、八幡山の下、四方に尺地も残さず充ち満ちたり。されども、要害の堀きびしくして、猛卒、悉く志を同じうして楯篭りたる事なれば、寄せ手、毎度戦ひに利を失ふと聞こえしかば、桃井兄弟の人々、我が身を省みて、今度の催促にも応ぜず都に残り留まられたりけるが、「高家、氏族を尽くし、大家、軍兵を起こすといへども、合戦、利を失ふ。」と聞きて、「よそにはいかが{*13}見て過ぐべき。述懐は私事。弓矢の道は公界の義。遁れぬ所なり。」とて、ひそかに都を打つ立ちて、手勢ばかりを引率し、御方の大勢にも牒じ合はせず、自身山下に押し寄せ、一日一夜攻め戦ふ。これにして官軍も若干討たれ、創を被りける。直信、直常の兵ども、残り少なに手負ひ討たれて、御方の陣へ引いて加はる。この頃の京童部が桃井塚と名づけたるは、兄弟合戦の在所なり。
 これを始めとして、厚東駿河守、大平孫太郎、和田近江守、自ら戦つて創を被り、数輩の若党を討たせ、日夜旦暮、相挑む。
 かかる処に執事師直、所々の軍兵を招き集め、「和泉の境、河内は、故敵国なれば、さらでだに恐懼する処に、強敵、その中に起こりぬれば、和田、楠も力を合はすべし。未だ微なるに乗つて、早速に退治すべし。」とて、八幡には大勢を差し向けて、敵の打つて出でぬ様に四方を囲み、師直は天王寺へぞ向かはれける。
 顕家卿の官軍ども、疲れてしかも小勢なれば、身命を棄てて支へ戦ふといへども、軍、利なくして、諸卒散り散りになりしかば、顕家卿、立つ足もなくなり給ひて、吉野へ参らんと志し、僅かに二十余騎にて大敵の囲みを出でんと、自ら利きを破り堅きを砕き給ふといへども{*14}、その戦功いたづらにして、五月二十二日、和泉の境、安部野にて討死し給ひければ、相従ふ兵、悉く腹切り創を被つて、一人も残らず失せにけり。顕家卿をば武蔵国の越生四郎左衛門尉、討ち奉りしかば、首をば丹後国の住人武藤右京進政清、これを取りて、兜太刀刀まで進覧したりければ、師直、これを実検して、疑ふ所なかりしかば、抽賞御感の御教書を両人にぞ下されける。
 哀れなるかな、顕家卿は、武略智謀、その家に非ずといへども、無双の勇将にして、鎮守府将軍に任じ、奥州の大軍を両度まで起こして、尊氏卿を九州の遠境に追ひ下し、君の宸襟を快く休め奉られしその誉れ、天下の官軍に先立つて、争ふ輩なかりしに、聖運、天に叶はず、武徳、時至りぬるその謂はれにや、股肱の重臣、あへなく戦場の草の露と消え給ひしかば、南都の侍臣、官軍も、聞きて力をぞ失ひける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「天下の毀誉褒貶は此の一挙にあるのだ。」とある。
 2:底本は、「二番は」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「藤成。」とある。
 4:底本頭注に、「顕家の弟。」とある。
 5:底本は、「馬の三頭(さんづ)平頚(ひらくび)」。底本頭注に、「〇三頭 馬の尾の本の上の辺。」「〇平頚 馬の頚。」とある。
 6:底本は、「追(お)ひたひして、」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
 7:底本は、「甘心(かんしん)」。底本頭注に、「同意。」とある。
 8:底本頭注に、「師直の養子。」とある。
 9:底本頭注に、「群がり立つさま。」とある。
 10:底本頭注に、「〇星斗 ほし。」「〇欄干 光あざやかなさま。」とある。
 11:底本頭注に、「〇述懐 不平の思ひを抱いて。」「〇大変 大変動。」とある。
 12:底本は、「顕家(の)卿の舎弟」。『太平記 三』(1983年)に従い削除した。
 13:底本は、「如何(いか)に見て」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 14:底本頭注に、「〇利き 利兵。」「〇堅き 堅甲。」とある。