巻第二十

黒丸城初度軍の事 附 足羽度々軍の事

 新田左中将義貞朝臣、去る二月の始めに越前の府中の合戦に打ち勝ち給ひし刻、国中の敵の城七十余箇所を暫時に攻め落として、勢ひ、又強大になりぬ。この時、山門の大衆、皆旧好を以て内々心を通はせしかば、先づかの比叡山に取り上りて、南方の官軍に力を合はせ、京都を攻められんことは、無下にたやすかるべかりしを、足利尾張守高経、なほ越前の黒丸城に落ち残つておはしけるを、攻め落とさで上洛せんことは無念なるべしと、詮なき小事に目をかけて、大義を次になされけるこそうたてけれ。
 五月二日、義貞朝臣、自ら六千余騎の勢を率して国府へ打ち出でられ、波羅密、安居、河合、春近、江守、五箇所へ五千余騎の兵を差し向けられ、足羽城を攻めさせらる。
 先づ一番に義貞朝臣の小舅、一條少将行実朝臣、五百余騎にて江守より押し寄せて、黒竜明神の前にて相戦ふ。行実の軍、利あらずして、又本陣へ引き返さる。
 二番に船田長門守政経、七百余騎にて安居渡より押し寄せて、兵半ば河を渡るとき、細川出羽守{*1}、二百余騎にて河向ひに馳せ合はせ、高岸の上に相支へて、散々に射させける間、漲る浪におぼれて、馬人若干討たれにければ、これも又、さしたる合戦もなくして引き返す。
 三番に細屋右馬助{*2}、千余騎にて河合荘より押し寄せ、北の端なる勝虎城を取り巻いて、即時に攻め落とさんと、塀につき堀につかりて攻めける処へ、鹿草兵庫助、三百余騎にて後詰めにまはり、大勢のなかへ駆け入つて、面も振らず攻め戦ふ。細屋が勢、城中の敵と後詰めの敵とに追ひ立てられて、本陣へ引き返す。
 かくて早、寄せ手、足羽の合戦に打ち負くる事、三箇度に及べり。この三人の大将は、皆天下の人傑、武略の名将たりしかども、余りに敵を侮つて、おぎろに大はやりなりし故に{*3}、毎度の軍に負けにけり。されば、後漢の光武、武に臨むごとに、「大敵を見ては欺き、小敵を見ては恐れよ。」といひけるも、理なりとおぼえたり。

越後勢越前に越ゆる事

 されば越後の国は、その境、上野に隣つて、新田の一族充ち満ちたる上、元弘以後、義貞朝臣、勅恩の国として、拝任、已に多年たりしかば、一国の地頭後家人、その烹鮮{*4}に随ふこと、日久し。義貞、已に北国を平らげて京都へ攻め上らんとし給ふ由を聞きて、大井田弾正少弼、同式部大輔{*5}、中條入道、鳥山左京亮、風間信濃守、祢津掃部助、太田滝口を始めとして、その勢都合二万余騎にて、七月三日、越後の府を立つて越中国へ打ち越えけるに、その国の守護普門蔵人俊清、国の境に出で合ひて、これを支へんとせしかども、俊清、無勢なりければ、大半討たれて松倉城に引き篭る。
 越後勢は、ここを打ち捨てて、やがて加賀国へ打ち通る。富樫介{*6}、これを聞きて、五百余騎の勢を以て、阿宅、篠原のほとりに出で合ふ。然れども、敵に対揚すべきほどの勢ならねば、富樫が兵、二百余騎討たれて、那多城へ引き篭る。越後の勢、両国二箇度の合戦に打ち勝つて、「北国所々の敵、恐るるに足らず。」とおもへり。
 このままにてやがて越前へ打ち越すべかりしが、「これより京までの道は、多年の兵乱に、国弊え民疲れて、兵粮あるべからず。加賀国に暫く逗留して、行末の兵粮を用意すべし。」とて、今湊宿に十余日まで逗留す。その間に軍勢、剣、白山以下、所々の神社仏閣に打ち入つて、仏物神物を犯し取り、民屋を追捕し、資財を奪ひ取る事、法に過ぎたり。ああ、「霊神怒りを為すときは、災害、岐に満つ。」といへり。「この軍勢の悪行を見るに、その罪、もし一人に帰せば、大将義貞朝臣、この度の大功を立てん事、如何あるべからん。」と、兆前に機を見る人は、ひそかにこれを怪しめり。

宸筆の勅書義貞に下さるる事

 日を経て、越後勢、已に越前の河合に著きければ、義貞の勢、いよいよ強大になつて、「足羽城をとり拉がん事、隻手の中にあり。」と、皆、掌をさす思ひをなせり。実にも尾張守高経の義を守る心は、奪ひがたしといへども、僅かなる平城に三百余騎にて楯篭り、敵三万余騎を四方に受けて、篭鳥の雲を恋ひ、涸魚の水を求むる如くなれば、「いつまでの命をか、この世の中に残すらん。」と、敵はこれを欺いて勇み、御方はこれに弱りて悲しめり。
 既に、「来る二十一日には、黒丸城を攻めらるべし。」とて、堀溝をうめんために、埋め草三万余荷を、国中の人夫に持ち寄せさせ、持楯三千余帖をはぎ立てて、様々の攻め支度をせられける処に、吉野殿より勅使を立てられて仰せられけるは、「義興{*7}、顕信、敗軍の労兵を率して八幡山に楯篭る処に、洛中の逆徒、数を尽くしてこれを囲む。城中、已に食乏しくして、兵皆疲る。然りといへども、北国の上洛、近きにあるべしと聞きて、士卒、梅酸の渇{*8}を忍ぶものなり。進発もし延引せしめば、官軍の没落、疑ひあるべからず。天下の安危、ただこの一挙にあり。早くその境の合戦を差し置いて、京都の征戦を専らにすべし。」と仰せられて、御宸筆の勅書をぞ下されける。義貞朝臣、勅書を拝見して、「源平両家の武臣、代々大功ありといへども、直に宸筆の勅書を下されたる例、未だ聞かざる所なり。これ、当家超涯の面目なり。この時、命を軽んぜずんば、正にいづれの時をか期すべき。」とて、足羽の合戦を差し置かれて、先づ京都の進発をぞ急がれける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「孝基。」とある。
 2:底本頭注に、「秀国。」とある。
 3:底本は、「頤(おぎろ)に大早(おほはや)なりし故に、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。底本頭注に、「〇頤に 甚だ。」とある。
 4:底本は、「烹鮮(ほうせん)」。底本頭注に、「国政。老子に『治大国若烹小鮮。』とあるに基く。」とある。
 5:底本頭注に、「系図に大井田氏経は弾正少弼で式部大輔である。」とある。
 6:底本頭注に、「高家。家通の子。」とある。
 7:底本頭注に、「徳寿丸。」とある。
 8:底本は、「梅酸(ばいさん)の渇(かつ)」。底本頭注に、「魏の武帝の故事で前途に梅林あつて実を結んで甘酸だと聞いて士卒が渇を医した話。」とある。