義貞山門に牒ず同じく返牒の事

 児島備後守高徳、義貞朝臣に向つて申しけるは、「先年、京都の合戦の時、官軍{*1}、山門を落とされて候ひし事、全く軍の雌雄にあらず。唯、北国の敵に道を塞がれて、兵粮につまりし故なり。向後も、その時の如くに候はば、たとひ山上に御陣を召され候とも、又、先年の様なる事、決定たるべく候。然れば、越前、加賀の宗徒の城々には皆、御勢を残し置かれて兵粮を運送せさせ、大将一両人に御勢を六、七千騎も差し副へられ、山門に御陣を召され、京都を日々夜々攻められば、根を深うし蔕を固うする謀りごととなつて、八幡の官軍に力をつけ、九重の兇徒を亡ぼすべき道たるべく候。但し、小勢にて山門へ{*2}御上り候はば、衆徒、案に相違して、御方を背く者や候はんずらん。先づ山門へ牒状を送られて、衆徒の心を伺ひ御覧ぜられ候へかし。」と申しければ、義貞、「誠にこの議、謀りごと濃やかにして、慮り遠し。さらば、牒状を山門へ送るべし。」と宣へば、高徳、かねて心に草案をやしたりけん。即ち筆を取りてこれを書く。その詞に曰く、
 {*k}正四位上行左近衛中将兼播磨守源朝臣義貞、延暦寺の衙に牒す
   早く山門贔屓の一諾を得て、逆臣尊氏直義以下の党類を誅罰し、仏法王法の光栄を致さんと請ふ状
  以て竊かに素昔を観、遥かに玄風{*3}を聞くに、桓武皇帝、詔を下して専ら叡山を始むるは、聖化を以て顕密の両宗を億載に盛やかさんと期す。伝教大師、表を奉つて九たび王城を鎮むるは、法威を以て国家の太平を無疆に護する為のみなり。然れば則ち、山門の衰微を聞いてはこれを悼み、朝庭の傾廃を見てはこれを悲しむ。九五の聖位{*4}、三千の衆徒ならずして、誰とか為さんや。去んぬる元弘の始め、一天、命を改め、四海、風に帰するの後、源家の余裔、尊氏直義といふもの有り。忠無きに大禄を貪り、材にあらずして高官に登る。超涯の皇沢に誇り、欠盈の天真{*5}を顧みず。忽ちに君臣の義を棄てて、猥りに豺狼の心を抱く。遂に害、蒸民に流れ、禍ひ、八極に溢る。公議、止むを得ずして将に天誅を行はんとするの日、煙塵、暗に九重の月を侵し、翠花、再び四明の雲を掃ふ。この時貴寺、忽ちに危ふきを助け、庸臣、暴を退くるを謀る。然りといへども、死を善道に守る者は寡なく、党を利門に求むる者は多し。これに依つて、官軍、戦ひ破れて、聖主、忝くも羑里の囚{*6}に遭ふ。氈城、食尽きて、書王{*7}、自ら戦場の刃に伏す。然りしより以降、逆徒、弥々意を恣にして、婬刑、濫りに罰を行ふ。兇戻残賊、悪として極めざること無し。自ら疑ふ、天維ここに絶え、日月懸かる所無し。地軸既に摧けば、山川載するを得ず。耳を側だて目を奪ふ。苟しくも時を待つに忍びず、炭を呑み刃を含んで、直ちに敵に近づくことを計らんと欲するの処に、忽ちに鸞輿南山に幸し、衆星北極に拱するを聴く。ここに於いて思ひを蘇し思ひを発す。憤りを徹し憤りを啓く。嶮隘の中より起こつて、僅かに郡県の衆を得たり。然れば則ち、金牛を駆つて路を開き、火鶏を飛ばして城を脅かす。その戦ひ未だ半ばならざるに、勝つを一挙に決し、敵を四方に退け訖んぬ。疇昔、范蠡、黄地に闘つて、呉三万の旅を破り、周郎、赤壁に挑んで、魏十万の軍を虜にす。把り来ること、何ぞ比するに足らん。如今、国を挙げて朝敵を誅せんことを量るに、天慮、臣を以て爪牙の任と為す。かるが故に、否泰{*8}を卜するに遑あらず、臂を振つて将に京師に発せんとす。貴山、もし故旧を棄てずんば、大敵を隻手の中に拉がんこと、必せり。伝へ聞く、当山の護持、古に亘り今に亘り、乾坤に卓犖せり{*9}。承和、大威徳の法を修すれば、嗣君、乃ち玉扆{*10}に坐す。承平、四天王の像を安んずれば、将門、遂に鉄身を破る。これを以て佳運を七社の冥応に頼み、旧規を一山の懇祈に復す。つらつらこれを思量するに、凡そ悪の彼に在ると義の我に在ると、天下の治乱、山上の安危にいづれぞ。早く一諾の群議を聞いて、以て遠く虎符{*11}を合し、速やかに三軍の卒伍を靡けて、而して竜旗を揺らさんと為す。牒送件の如し。これを勧むるに状を以てす。
    延元二年{*12}七月日{*k}
とぞ書きたりける。
 山門の大衆は、先年春夏両度、山上へ臨幸成りたりし時、粉骨の忠功を致すに依つて、若干の所領を得たりしが、官軍、北国に落ち行き、主上、京都に還幸成りしかば、大望、一々に相違して、「あはれ、如何なる不思議もあつて、先帝の御代になれかし。」と祈念する処に、この牒状到来したりければ、一山、こぞつて悦びあへる事、限りなし。
 同じき七月二十三日に、一所住の大衆、大講堂の庭に会合して、返牒を送る。その詞に曰く、
 {*k}延暦寺、新田左近衛中将家の衙に牒す
   来牒一紙、朝敵御追罰の事を載せらる
  右、四夷の擾乱を鎮めて国家の太平を致すは、武将の節を失はざる所なり。百王の宝祚を祈つて天地の妖孽{*13}を消すは、吾が山の他に譲らざる所なり。途異にして、趣同じ{*14}。豈その際に一線縷を置かんや。それ、尊氏直義等が暴悪、千古未だその類を聞かず。これ、只に仏法王法の怨敵たるのみに非ず。兼ては又、国を害し民を害するの残賊たり。孟軻、言へること有り。己より出づる者、己に帰す。彼もし今亡びずんば、何を以てかこれを待たん。然りといへども、逆臣益々威を振ひ、義士常に苦しむこと有るは、何ぞや。類を取りてこれを看るに、夫差の越を合はせんの威、遂に勾践の為に摧かれ、項羽の山を抜かんの力、かへつて沛公の為に獲らる。これ則ち、呉は義無くして猛く、漢は仁有りて正しき所以なり。安危の拠る所、天命にしくは無し。これを以て、山門、内には武侯の忠烈を重んじて佳運を期し、外には聖主の尊崇を忝うして皇猷{*15}を祈る。上下、こひねがつて聴を貪るの処に、たまたま青鳥{*16}を投じて丹心を尽くさる。一山の欣悦、何事かこれにしかん。七社の霊鑑、この時に露顕す。つらつら往昔を把つて吉凶を量るに、当山もし棄つるときは、世を挙げて起こせども立たず。治承の乱、高倉の宮{*17}、遂に外都の塵に没したまふ。吾が寺、専ら与するときは、衆を合はせて禦げども得ず。元暦の初め、源義仲、忽ちに中夏の月を攀づ。これ、人情は神慮より起こる。彼を捨てこれを取るの故なり。満山の群議、今かくの如し。兇徒の誅戮、何ぞ疑ひ有らん。時節、已に到りぬ。暫くも遅疑すること勿かれ。依つて牒送、件の如し。信を尽くすに状を以てす。
    延元三年{*18}七月日{*k}
とぞ書きたりける。
 山門の返牒、越前に到来しければ、義貞、ななめならず悦んで、やがて上洛せんとし給ひけるが、「ひたすらに北国を打ち捨てなば、高経、いかさま、後より起こつて、北陸道をさし塞ぎぬとおぼゆれば、二手に分けて、国をも支へ、又、京をも攻むべし。」とて、義貞は三千余騎にて越前に留まり、義助は二万余騎を率して、七月二十九日、越前の府を立つて、翌日には敦賀の津に著きにけり。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本は、「官軍の山門」。『太平記 三』(1983年)に従い削除した。
 2:底本は、「山門に御上(おんのぼ)り」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「上古の風。」とある。
 4:底本頭注に、「皇位。」とある。
 5:底本頭注に、「満つれば欠くるの真理。」とある。
 6:底本頭注に、「史記本紀に『帝紂乃囚西伯(文王の事)於羑里。』」とある。
 7:底本頭注に、「一本『君王』。中書王尊良親王を指すか。」とある。
 8:底本頭注に、「安らかか否か。」とある。
 9:底本は、「卓(二)犖(たくらく)(セリ)于乾坤(一)(ニ)。」。底本頭注に、「天地間にすぐれてゐる。」とある。
 10:底本は、「玉扆(い)」。底本頭注に、「皇位。」とある。
 11:底本頭注に、「兵を徴する割符。」とある。
 12・18:底本は、「延元二年」。底本頭注に従い改めた。
 13:底本頭注に、「わざわひ。」とある。
 14:底本は、「途殊(ニシテ)帰(おもむき)同(ジ)、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 15:底本頭注に、「帝王の道。」とある。
 16:底本頭注に、「漢武故事に出づ。書面を持参する使。書簡のこと。」とある。
 17:底本頭注に、「以仁王。」とある。
 k:底本、この間は漢文。