八幡炎上の事
将軍、この事を聞こし召されて、「八幡の城、未だ攻め落とさで、兵、攻め戦ひ疲れぬる処に、脇屋右衛門佐義助、山門となりあつて北国より上洛すなる{*1}こそ、ゆゆしき珍事なりけれ。期に臨んで引かば、南方の敵、勝つに乗るべし。未だ事の急にならぬ先に、急ぎ八幡の合戦を差し置いて、京都へ帰つて北国の敵を相待つべし。」と、高武蔵守の方へぞ下知し給ひける。師直、この由を聞きて、「この城を攻めかかりながら、落とさで引き返しなば、南方の敵に利を得られつべし。さて又、京都を差し置かば、北国の敵に隙を伺はれつべし。かれこれ、如何せん。」と、進退きはまつておぼえければ、或る夜の雨風のまぎれに、逸物の忍びを八幡山へ入れて、神殿に火をぞかけたりける。
この八幡大菩薩と申し奉るは、忝くも王城鎮護の宗廟にて、殊更、源家崇敬の霊神にておはしませば、「寄せ手、よも社壇を焼くほどの悪行はあらじ。」と、官軍油断しけるにや、城中、あわて騒動して、煙の下に迷倒す、これを見て、四方の寄せ手十万余騎、谷々より攻め上つて、既に一二の木戸口までぞ攻め入りける。この城、三方は嶮岨にして登りがたければ、防ぐにその便りあり。西へなだれたる尾崎は、平地に続きたれば、僅かに掘り切つたる乾堀一重を憑んで、春日少将顕信朝臣の手の者ども、五百余騎にて支へたりけるが、敵の火を見て攻め上りける勢ひに心を迷はして、皆、引き色にぞなりにける。
ここに城中の官軍、多田入道が手の者に高木十郎、松山九郎とて{*2}、名を知られたる兵二人あり。高木は、その心剛にして力足らず。松山は、力世に勝れて心臆病なり。二人共に同じ木戸{*3}を堅めてありけるが、一の木戸{*4}を敵にせめ破られて、二の木戸{*5}を猶支へてぞ居たりける。敵、已に逆茂木を引き破つて、木戸{*6}を切つて落とさんとしけれども、例の松山が癖なれば、手足震ひわなないて、戦はんともせざりけり。高木十郎、これを見て眼を怒らかし、腰の刀に手をかけていひけるは、「敵、四方を囲みて、一人も余さじと攻め戦ふ合戦なり。ここを破られては、宗徒の大将達、乃至我々に至るまでも、落ちて残る者やあるべき。されば、ここを先途と戦ふべき処なるを、御辺、以ての外に臆して見え給ふこそあさましけれ。平生、百人二百人が力ありと自称せられしは、何のための力ぞや。所詮、御辺、ここにて手を砕きたる合戦をし給はずば、我、敵人の手にかからんよりは、御辺と刺し違へて死すべし。」と怒つて、誠に思ひ切つたる体にぞ見えたりける。
松山、その色を見て、てきめんの勝負、敵よりも猶怖ろしくや思ひけん、「暫く静まり給へ。公私の大事、この時なれば、我、命惜しむべきにあらず。いで、一戦して敵に見せん。」といふままに、わななくわななく走り立つて、傍にありける大石の、五、六人して持ちあぐる程なるを軽々とひつ提げて、敵の群がつて立つたるその中へ十四、五程、大山の崩るるが如くに投げたりける。寄せ手数万の兵ども、この大石に打たれて、将棋倒しをするが如く、一同に谷底へころび落ちければ、己が太刀長刀につき貫かれて、命を堕とし創を蒙る者、幾千万といふ数を知らず。今夜、既に攻め落とされぬと見えつる八幡城、思ひの外に堪へてこそ、「松山が力は、ただ高木が身にありけり。」と、笑はぬ人もなかりけり。
さる程に、敦賀まで著きたりける越前の勢ども、遥かに八幡山の炎上を聞いて、「いかさま、せめ落とされたり。」と心得て、実否を聞き定めんために数日逗留して、いたづらに日数を送る。八幡の官軍は、兵粮を社頭に積んで、悉く焼き失ひしかば、北国の勢を待つまでのこらへ場もなかりければ、六月二十七日の夜半に、ひそかに八幡の御山を退き落ちて、又、河内国へぞ帰りける。
この時、もし八幡の城、今四、五日も堪へ、北国の勢、逗留もなく上りたらましかば、京都は、ただ一戦の内に攻め落とすべかりしを、聖運、時未だ至らざりけるにや、両陣の相図相違して、敦賀と八幡との官軍ども、互に引きて帰りける薄運の程こそあらはれたれ。
義貞重ねて黒丸合戦の事 附 平泉寺調伏の法の事
「義貞、京都の進発を急がれつる事は、八幡の官軍に力をつけ、洛中の隙を伺はんためなりき。しかるに今、その相図相違しぬる上は、心閑かに越前の敵を悉く退治して、重ねて南方に牒し合はせてこそ、京都の合戦をばいたさめ。」とて、義貞も義助も、河合荘へ打ち越えて、先づ足羽城を攻めらるべき企てなり。
尾張守高経、この事を聞き給ひて、「御方、僅かに三百騎に足らざる勢を以て、義貞が三万余騎の兵に囲まれなば、千に一つも勝つ事を得べからず。然りといへども、敵、はや諸方の道を差し塞ぎぬと聞こゆれば、落つともいづくまでか落ち延ぶべき。唯ひとへに討死と志して、城を堅くするよりほかの道やあるべき。」とて、深田に水をかけ入れて、馬の足も立たぬ様にこしらへ、路を掘り切つて落としを構へ、橋を外し溝を深くして、その内に七つの城を拵へ、敵攻めば、互に力を合はせて後ろへ廻りあふ様にぞ構へられたりける。
この足羽城と申すは、藤島荘に相並んで、城郭半ばは、かの荘を{*7}こめたり。これに依つて、平泉寺の衆徒の中より申しけるは、「藤島荘は、当寺、多年山門と相論する下地にて候。もし当荘を平泉寺に附けらるべく候はば、若輩をば城々に篭め置きて合戦致させ、宿老は、総持{*8}の扉を閉ぢて御祈祷を致すべきにて候。」とぞいひける。尾張守、大きに悦んで、
{*k}今度合戦の雌雄、併しながら衆徒の合力を借り、霊神の擁護を憑むの上には、先づ藤島の荘を以て平泉寺に附する所なり。もし勝軍の利を得ば、重ねて恩賞を申し行ふべし。仍つて執達、件の如し。
建武五年{*9}七月二十七日 尾張守
平泉寺衆徒御中{*k}
と、厳密の御教書をぞなされける。衆徒、これに勇みて、若輩五百余人は藤島へ下りて城に楯篭り、宿老五十人は、炉壇の煙にふすぼり返つて、怨敵調伏の法をぞ行はれける。
校訂者注
1:底本は、「するなるこそ」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
2:底本頭注に、「〇多田入道 源了と号す。」「〇高木十郎 政述。」「〇松山九郎 安里。」とある。
3~6:底本は、「関(せき)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
7:底本は、「彼の荘(しやう)にこめたり。」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
8:底本は、「総持(そうぢ)」。底本頭注に、「陀羅尼のこと。」とある。
9:底本は、「建武四年」。『太平記 三』(1983年)頭注に従い改めた。
k:底本、この間は漢文。
k:底本、この間は漢文。
コメント