義貞自害の事

 灯明寺の前にて三万余騎を七手に分けて、七つの城を押し隔てて、先づ向かひ城をぞ取られける。かねての配立には、「前なる兵は城に向かひ逢うて合戦を致し、後ろなる足軽は櫓をかき塀を塗つて、向かひ城を取りすましたらんずる後、漸々に攻め落とすべし。」と議定せられたりけるが、平泉寺の衆徒のこもりたる藤島城、以ての外に色めき渡つて、やがて落つべく見えける間、数万の寄せ手、これに機を得て、先づ向かひ城の沙汰を差し置き、塀に著き堀につかつて喚き叫んで攻め戦ふ。衆徒も落ち色に見えけるが、とても遁るべき方のなき程を思ひ知りけるにや、身命を捨ててこれを防ぐ。官軍、櫓{*1}を覆して入らんとすれば、衆徒、走り木を出だして突き落とす。衆徒、橋を渡りて打つて出づれば、寄せ手の官軍、鋒をそろへて斬つて落とす。追ひつ返しつ入れ替はる戦ひに、時刻おし移つて、日、已に西山に沈まんとす。
 大将義貞は、灯明寺の前にひかへて、手負の実検しておはしけるが、藤島の戦ひ強くして、官軍、ややもすれば追ひ立てらるる体に見えける間、安からぬことに思はれけるにや、馬に乗り替へ鎧を著かへて、僅かに五十余騎の勢を相従へ、路をかへ畔を伝ひ、藤島城へぞ向かはれける。その時分、黒丸城より、細川出羽守{*2}、鹿草彦太郎、両大将にて、藤島城を攻めける寄せ手どもを追ひ払はんとて、三百余騎の勢にて横畷を廻りけるに、義貞、てきめんに{*3}行き合ひ給ふ。細川が方には、かち立ちにて楯をついたる射手ども多かりければ、深田に走り下り、前に持楯を衝き並べて、鏃をささへて散々に射る。義貞の方には射手の一人もなく、楯の一帖をも持たせざれば、前なる兵、義貞の矢面に立ち塞がつて、ただ的になつてぞ射られける。
 中野藤内左衛門は、義貞に目くはせして、「千鈞の弩は、鼷鼠のために機を発せず{*4}。」と申しけるを、義貞、聞きもあへず、「士を失してひとり免るるは、我が意にあらず。」といひて、尚、敵の中へ駆け入らんと、駿馬に一鞭をすすめらる。この馬、名誉の駿足なりければ、一、二丈の堀をも前々たやすく越えけるが、五筋まで射立てられたる矢にやよわりけん、小溝一つをこえかねて、屏風を倒すが如く、岸の下にぞころびける。義貞、弓手の足をしかれて、起きあがらんとし給ふ処に、白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立つたりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞、今は叶はじとや思ひけん、抜いたる太刀を左の手に取り渡し、自ら首をかき切つて、深泥の中に隠して、その上に横たはつてぞ伏し給ひける。
 越中国の住人氏家中務丞重国、畔を伝ひて走りより、その首を取つて鋒に貫き、鎧太刀刀、同じく取り持ちて、黒丸城へ馳せ帰る。義貞の前に畷を隔てて戦ひける結城上野介、中野藤内左衛門尉、金持太郎左衛門尉{*5}、これ等、馬より飛んで下り、義貞の死骸の前に跪いて、腹かき切つて重なり臥す。この外四十余騎の兵、皆堀溝の中に射落とされて、敵の一人をも取り得ず、犬死してこそ伏したりけれ。この時、左中将の兵三万余騎、皆猛く勇める者どもなれば、身に代はり命に代はらんと思はぬ者はなかりけれども、小雨まじりの夕霧に、誰を誰とも見わかねば、大将の自ら戦ひ討死し給ふをも知らざりけるこそ悲しけれ。唯、よそにある郎等が、主の馬に乗り替へて、河合をさして引きけるを、数万の官軍、遥かに見て、大将の後に随はんと、見定めたることもなく、心々にぞ落ち行きける。
 漢の高祖は、自ら淮南の黥布を討ちし時、流矢に当たつて未央宮の内にして崩じたまひ、齊の宣王は、自ら楚の短兵{*6}と戦つて、干戈に貫かれて修羅場の下に死したまひき。されば、「蛟竜は常に深淵の中を保つ。もし浅渚に遊ぶときは、漁綱釣者の愁ひ有り。」といへり。この人、君の股肱として武将の位に備はりしかば、身を慎しみ命を全うしてこそ、大義の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場におもむいて、匹夫の鏃{*7}に命を止めし事、運の極めとはいひながら、うたてかりし事どもなり。
 軍散じて後、氏家中務丞、尾張守の前に参て、「重国こそ新田殿の御一族かとおぼしき敵を討つて、首を取りて候へ。誰とは名のり候はねば、名字をば知り候はねども、馬物具の様、相従ひし兵どもの、死骸を見て腹をきり討死を仕り候ひつる体、いかさま{*8}、尋常の葉武者にてはあらじとおぼえて候。これぞその死人のはだに懸けて候ひつる護りにて候。」とて、血をも未だ洗はぬ首に、土のつきたる金襴の守りを副へてぞ出だしたりける。
 尾張守、この首をよくよく見給ひて、「あな、不思議や。よに新田左中将の顔附に似たる所あるぞや。もしそれならば、左の眉の上に矢の創あるべし。」とて、自ら鬢櫛を以て髪をかきあげ、血をすすぎ土を洗ひ落としてこれを見給ふに、果たして左の眉の上に創の跡あり。これにいよいよ心附きて、佩かれたる二振の太刀を取り寄せて見たまふに、金銀を延べて作りたるに、一振には銀を以て金膝纏の上に鬼切といふ文字を沈めたり。一振には金を以て銀脛巾{*9}の上に鬼丸といふ文字を入れらる。これは、共に源氏重代の重宝にて、義貞の方に伝へたりと聞こゆれば、末々の一族どもの佩くべき太刀にはあらずと見るに、いよいよ怪しければ、肌の守りを開きて見給ふに、吉野の帝{*10}の御宸筆にて、「朝敵征伐の事、叡慮の向かふ所、ひとへに義貞の武功に在り。選んで未だ他を求めず。殊に早速の計略を巡らすべきものなり。」と遊ばされたり。
 「さては、義貞の首、相違なかりけり。」とて、屍を輿に乗せ、時衆八人にかかせて、葬礼のために往生院へ送られ、首をば朱の唐櫃に入れ、氏家中務を副へて、ひそかに京都へ上せられけり。

義助重ねて敗軍を集むる事

 脇屋右衛門佐義助は、河合の石丸城へ打ち帰りて、義貞の行末をたづね給ふに、始めの程は分明に知る人もなかりけるが、事の様、次第に顕はれて、「討たれ給ひけり。」と申し合ひければ、「日を替へず黒丸へ押し寄せて、大将の討たれ給ひつらん所にて、同じく討死せん。」と宣ひけれども、いつしか兵、皆呆れ迷ひて、唯茫然たる外は、さしたる擬勢もなかりけり。あまつさへ、人の心もやがて替はりけるにや、野心の者、内にありとおぼえて、石丸城に火を懸けんとする事、一夜の内に三箇度なり。
 これを見て、斎藤五郎兵衛尉季基、同七郎入道道猷{*11}二人は、他に異なる左中将の近習にてありしかば、門前の左右の脇に役所をならべて居たりけるが、幕を捨てて夜の間にいづちともなく落ちにけり。これを始めとして、或いは心も起こらぬ出家して、往生院長崎の道場に入り、或いは縁に属し罪を謝して、黒丸城へ降参す。昨日まで三万騎にあまりたりし兵ども、一夜の程に落ち失せて、今日は僅かに二千騎にだにも足らざりけり。
 かくては北国を踏まへん事叶ふまじとて、三峯城に河島を篭め、杣山城に瓜生を置き、湊城に畑六郎左衛門尉時能を残されて、閏七月十一日に、義助、義治父子共に、祢津、風間、江戸、宇都宮の勢七百余騎を率して、当国の府へ帰り給ふ。

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校訂者注
 1:底本は、「楯(たて)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 2:底本頭注に、「義償。」とある。
 3:底本頭注に、「目の前に。」とある。
 4:底本頭注に、「鈞は重さ三十斤。弩は石弓。鼷鼠は小鼠。小敵を攻めるのに大将の手を下すまでのことはないの意。」とある。
 5:底本頭注に、「〇結城上野介 親霽。」「〇金持太郎左衛門尉 重興。」とある。
 6:底本頭注に、「打物を振つて攻める兵。」とある。
 7:底本は、「鏑(やじり)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 8:底本は、「何様(なにさま)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 9:底本は、「膝纏(はゞき)」「脛巾(はゞき)」。底本頭注に、「刀身の鍔の両側にはめて鍔元を固める金具。」とある。
 10:底本頭注に、「御醍醐帝。」とある。
 11:底本は、「道献(だうけん)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。