義貞の首を獄門に懸くる事 附 勾当内侍の事

 新田左中将の首、京都に著きければ、「これ、朝敵の最、武敵の雄なり。」とて、大路を渡して獄門に懸けらる。この人、前朝{*1}の寵臣にて、武功、世に被らしめしかば、天下の倚頼として、その芳情を悦びその恩顧をまつ人、幾千万といふ数を知らず、京中に相交じはりたれば、車馬、道に横たはり、男女、ちまたに立つて、これを見るに堪へず、泣き悲しむ声、呦々{*2}たり。中にも、かの北台勾当内侍の局の悲しみを伝へ聞くこそあはれなれ。
 この女房は、頭大夫行房の女にて、金屋の内に粧ひを閉ぢ、鶏障の下に媚びを深くして、二八の春の頃より内侍に召されて君王の傍に侍り。羅綺にだも堪へざるかたちは、春の風一片の花を吹き残すかと疑はる。紅粉を事とせる顔ばせは、秋の雲半江の月をはき出だすに似たり。されば、椒房{*3}の三十六宮、五雲の漸くに巡ることをいたみ、禁漏{*4}の二十五声、一夜の正に長きことを恨む。
 去んぬる建武のはじめ、天下また乱れんとせし時、新田左中将、常に召されて、内裏の御警固にぞ候はれける。或る夜、月すさまじく風冷ややかなるに、この勾当の内侍、半ば簾を捲きて、琴を弾じ給ひけり。中将、その怨声に心引かれて、おぼえず禁庭の月にさまよひ、あやなく心そぞろにあこがれてげれば、唐垣の傍に立ち紛れて伺ひけるを、内侍、見る人ありと物侘しげにて、琴をば弾かずなんぬ。夜いたく更けて、有明の月のくまなくさし入りたるに、「類までやはつらからぬ{*5}。」と打ち詠め、しをれ伏したる気色の、折らば落ちぬべき萩の露、拾はば消えなん玉篠の、あられより尚あだなれば、中将、行方も知らぬ道にまよひぬる心地して、帰る方もさだかならず、淑景舎の傍らにやすらひかねて立ち明かす。朝より夙に帰りても、ほのかなりし面影の、猶ここもとにある心迷ひに、世のわざ、人のいひかはすことも、心の外なれば、いつとなく起きもせず寝もせで夜を明かし日を暮らして、「もししるべする海人だにあらば、忘れ草のおふといふ浦のあたりにも尋ねゆきなまし。」と、そぞろに思ひしづみ給ふ。
 あまりにせん方なきままに、なかだちすべき人を尋ね出だして、「そよとばかりをしらすべき風の便りの、下荻の穂に出づるまではなくとも。」とて、
  我が袖の涙に宿るかげとだにしらで雲居の月やすむらむ{*6}
と詠みて遣されたりければ、「『君の聞こし召されん事も憚りあり。』とて、よに哀れげなる気色に見えながら、手にだに取らず。」と、使、帰りて語りければ、中将、いとど思ひしをれて、いふべき方なく、あるを憑みの命ともおぼえずなりぬべきを、何人か奏しけん、君、「なほざりならず。」と聞こし召して、「夷心のわく方なさに、思ひそめけるも理なり。」と、哀れなる事に思し召されければ{*7}、御遊の御ついでに左中将を召され、御酒たばせ給ひけるに、「勾当内侍をば、この杯につけて。」とぞ仰せ出だされける。
 左中将、限りなく忝しと悦びて、次の夜やがて、牛車さわやかにしたてて、「かく。」と案内せさせたるに、内侍も早、この年月の志に、「さそふ水あらば。」と思ひけるにや、さのみ更け過ぎぬ程に、車のきしる音して、中門に轅を指し廻せば、侍児一人二人、妻戸をさしかくして、そよめきあへり。中将は、この幾年を恋ひ忍んで相逢ふ今の心の中、優曇花の春まち得たる心地して、珊瑚の樹の上に陽台の夢長くさめ、連理の枝のほとりに驪山の花自ら濃やかなり。
 あやなく迷ふ心の道、諌むる人もなかりしかば、去んぬる建武の末に、朝敵西海の波に漂ひし時も、中将、この内侍に暫しの別れを悲しみて、征路に滞り、後に山門臨幸の時、寄せ手大嶽より追ひ落とされて、そのまま寄せば、京をも落とさんとせしかども、中将、この内侍に迷ひて、勝つに乗り疲れを攻むる戦ひを事とせず。その弊え、果たして敵のために国を奪はれたり。誠に、「一たび笑んで、よく国を傾く。」と、古人のこれを戒めしも、理なりとぞおぼえたる。
 中将、坂本より北国へ落ち給ひし時は、路次の難儀を顧みて{*8}、この内侍をば今堅田といふ所にぞ留め置かれたりける。かからぬ時の別れだに、行くには後を顧みて、頭を家山の雲に廻らし、留まるは、末を思ひやりて、涙を天涯の雨に添ふ。況んや中将は、行末とてもたのみなき北狄の国に赴き給へば、生きて再びめぐりあはん後の契りもいさ知らず。又、内侍は、都近き海人の磯屋に身をかくし給ひければ、「今もやさがし出だされて、憂き名を人に聞かれんずらん。」と、一方ならず歎き給ふ。
 翌年の春、「父行房朝臣、金崎にて討たれ給ひぬ。」と聞こえしかば、思ひの上に悲しみをそへて、「明日までの命も、よしや、何かせん。」と、歎きしづみ給ひしかども、さすがに消えぬ露の身なれば、起ち居に袖をほしわびて、二年余りになりにけり。中将も、越前に下り著きし日より、「やがて迎ひをも上せばや。」と思ひ給ひけれども、道の程もたやすからず、又、人の言ひ思はんずる所、憚りあれば、唯、時々の音づればかりを互に残る命にて、年月を送り給ひけるが、その秋のはじめに、「今は、道の程も暫く静かになりぬれば。」とて、迎ひの人を上せられたりければ{*9}、内侍は、この三年が間、暗き夜のやみに迷へるが、俄に夜の明けたる心地して、やがて先づ杣山まで下り著き給ひぬ。
 折節、「中将は、足羽といふ所へ向ひ給ひたり。」とて、ここには人もなかりければ、杣山より輿の轅を廻らして、浅津の橋を渡り給ふ処に、瓜生弾正左衛門尉、百騎ばかりにて行き合ひ奉りたるが、馬より飛んでおり、輿の前にひれ伏して、「これは、いづくへとて御渡り候らん。新田殿は、昨日の暮に、足羽と申す所にて討たれさせ給ひて候。」と申しもはてず、涙をはらはらとこぼせば、内侍の局、「こは、いかなる夢のうつつぞや。」と、胸ふさがり肝消えて、中々涙も落ちやらず、輿の中にふし沈みて、「せめては、あはれ、その人の討たれ給ひつらん野原の草の露の底にも、身をすて置きて帰れかし。さのみは後れさきだたじ。共に消えもはてなん。」と、泣き悲しみ給へども、「早、その輿、かき返せ。」とて、急いで又、杣山へぞ返し入れまゐらせける。
 「これぞこの程、中将殿の住み給ひし所なり。」とて、色紙押し散らしたる障子の内を見給へば、何となき手ずさみの筆の跡までも、唯、「都へいつか。」と、あらまされたる言の葉をのみ書きおき、詠み{*10}すてられたり。かかる空しき形見を見るにつけても、いとど悲しみのみ深くなり行けば、心少しも慰むべき方ならねども、「中将のすみすて{*11}給ひし跡なれば、ここにて中陰の程をも過ごして、なき跡をも弔はばや。」と思しけるに、やがてその辺りも騒がしくなつて、敵の近附くなど聞こえしかば、「城の麓はあしかるべし。」とて、やがて又、京へ上せ奉り、仁和寺の辺り、幽かなる宿の、主だにすまずなりぬる蓬生の宿におくり置き奉る。
 都も今はかへつて旅なれば、住みかも定まらず、心うかれ袖しをれて、いづくにか身を浮舟のよるべもあるべきと、昔見し人の行方を尋ねて陽明のあたりへ行きたまひける路に、人あまた立ち合ひて、「あな、あはれ。」なんどいふ声{*12}するを、「何事にか。」と立ち留まつて見たまへば、越路遥かに尋ね行きて、あはで帰りし新田左中将義貞の首を、獄門の木に懸けられて、眼塞がり色変ぜり。内侍の局、これを二目とも見給はずして、傍らなる築地の蔭に泣き倒れ給ひけり。知るも知らぬもこれを見て、共に涙を流さぬはなかりけり。
 日、已に暮れけれども、立ち帰るべき心地もなければ、蓬が本の露の下に泣きしをれておはしけるを、その辺なる道場の聖、「余りに御いたはしく見えさせたまひ候に。」とて、内へいざなひ入れ奉れば、その夜やがて、緑の髪を剃り下し、紅顔を墨染にやつし給ふ。暫しがほどは、なき面影を身にそへて、泣き悲しみ給ひしが、会者定離の理に、愛別離苦の夢をさまして、厭離穢土の心は日々にすすみ、欣求浄土の念、時々に増さりければ、嵯峨の奥、往生院のあたりなる柴の扉に、明暮を行ひすましてぞおはしける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「御醍醐帝。」とある。
 2:底本は、「呦々(えう(二字以上の繰り返し記号))」。底本頭注に、「声の和するさま。」とある。
 3:底本は、「椒房(せうばう)」。底本頭注に、「後宮。」とある。
 4:底本頭注に、「禁中の漏刻(水時計)の二十五声、一昼夜の半である。」とある。
 5:底本頭注に、「新古今集に、『つれなさの類までやはつらからぬ月をもめでじ有明の月』。」とある。
 6:底本頭注に、「澄むと住むとを云ひ懸く。」とある。
 7:底本は、「思召しければ、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 8:底本は、「顧(かへり)みで、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 9:底本は、「上(のぼ)せられければ、」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 10:底本は、「読み」。『太平記 三』(1983年)本文及び傍訳に従い改めた。
 11:底本は、「すみはて」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 12:底本は、「音」。『太平記 三』(1983年)傍訳に従い改めた。