奥州下向の勢難風に逢ふ事
吉野には、奥州の国司{*1}、安部野にて討たれ、春日少将、八幡の城を落とされて、諸卒、皆力を失ふといへども、新田殿、北国より攻め上る由、奏聞したりけるを御憑みあつて、今や今やと待ちたまひける処に、この人さへ、「足羽にて討たれぬ。」と聞こえければ、蜀の後主の孔明を失ひ、唐の太宗の魏徴に哭せしが如く、叡襟、更におだやかならず、諸卒も皆、色を失へり。
ここに、奥州の住人結城上野入道道忠と申しける者、参内して奏し申しけるは、「国司顕家卿、三年の内に両度まで大軍を動かして上洛せられ候ひしことは、出羽奥州の両国、皆、国司に従ひて、兇徒、その隙を得ざる故なり。国人の心未だ変ぜざるさきに、宮を一人下しまゐらせて、忠功の輩には直に賞を行はれ、不忠不烈の族をば、根をきり葉を枯らして御沙汰候はんには、などか攻め従へでは候べき。国の差図を見候に、奥州五十四郡、あたかも日本の半国に及べり。もし兵数を尽くして一方に属せば、四、五十万騎も候べし。道忠、宮をさし挟み奉つて、老年の頭{*2}に兜を頂くほどならば、重ねて京都に攻め上り、会稽の恥を清めん事、一年の内をば過ごし候まじ。」と申しければ、君を始め奉つて、左右の老臣悉く、「この議、げにも然るべし。」とぞ同ぜられける。
これに依つて、第八宮{*3}の今年七歳にならせ給ふを初冠めさせて、春日少将顕信を輔弼とし、結城入道道忠を衛尉として、奥州へぞ下し参らせられける。これのみならず、新田左兵衛義興、相模次郎時行、二人をば、「東八箇国を討ち平らげて、宮に力を添へ奉れ。」とて、武蔵、相模の間へぞ下されける。「陸地は皆、敵強うして通り難し。」とて、この勢、皆、伊勢の大湊に集まつて、船を揃へ風を待ちけるに、九月十三日の宵より、風止み雲収まつて、海上、殊に静まりたりければ、船人、纜をといて、万里の雲に帆を飛ばす。
兵船五百余艘、宮の御座船を中に立てて、遠江の天竜灘を過ぎける時に、海風、俄に吹き荒れて、逆浪、忽ちに天を巻き返す。或いは帆柱を吹き折られて、弥帆{*4}にて馳する船もあり。或いは梶をかき折つて、廻流に漂ふ船もあり。暮るればいよいよ風あらくなつて、一方に吹きも定まらざりければ、伊豆の大島、女良湊、かめ河、三浦、由比浜、津々浦々の泊りに船の吹き寄せられぬはなかりけり。
宮の召されたる御船一艘、漫々たる大洋に放たれて、已に覆らんとしける処に、光明赫奕たる日輪、御船の舳先に現じて見えけるが、風、俄に取つて返し、伊勢国神風浜へ吹きもどし奉る。「若干の船ども、行方も知らずなりぬるに、この御船ばかり、日輪の擁護に依つて伊勢国へ吹きもどされ給ひぬること、ただ事にあらず。いかさま、この宮、継体の君として九五の天位を践ませ給ふべき所を、忝くも天照太神の示されけるものなり。」とて、忽ちに奥州の御下向を止められ、則ち又、吉野へ返し入れまゐらせられけるに、果たして先帝{*5}崩御の後、南方の天子の御位をつがせ給ひし吉野の新帝と申し奉りしは、則ちこの宮の御事なり。
結城入道地獄に墜つる事
中にも結城上野入道が乗つたる船、悪風に放されて渺々たる海上にゆられ漂ふ事、七日七夜なり。既に大海の底に沈むか、羅刹国{*6}に堕つるかとおぼえしが、風少し静まりて、これも伊勢の安野津へぞ吹き著けられける。ここにて十余日を経て後、猶奥州へ下らんと、渡海の順風を待ちける処に、俄に重病を受けて、起居も更に叶はず、定業極まりぬと見えければ、善知識の聖、枕に寄つて、「この程までは、さりともとこそ存じ候ひつるに、御いたはり{*7}、日に随ひて重らせ給ひ候へば、今は御臨終の日遠からじとおぼえて候。相構へて、後生善所の御望み怠る事なくして、称名の声の内に三尊の来迎を御待ち候べし。
「さても今生には何事をか思し召しおかれ候。御心にかかる事候はば、仰せおかれ候へ。御子息の御方様へも伝へ申し候はん。」と云ひければ、この入道、すでに目を塞がんとしけるが、かつぱと跳ね起きて、からからと打ち笑ひ、わなないたる声にて云ひけるは、「我、已に齢七旬に及んで、栄花、身にあまりぬれば、今生に於いては一事もおもひ残すこと候はず。ただ今度罷り上つて、遂に朝敵を亡ぼし得ずして、空しく黄泉の旅に赴きぬる事、多生広劫までの妄念となりぬとおぼえ候。されば、愚息にて候大蔵権少輔{*8}にも、『我が後生を弔はんと思はば、供仏施僧の作善をも致すべからず。更に称名読経の追賁{*9}をもなすべからず。唯、朝敵の首を取つて、我が墓の前に懸け並べて見すべし。』と云ひおきける由、伝へてたまはり候へ。」と、これを最後の詞にて、刀を抜きて逆手に持ち、歯噛みをしてぞ死にける。
罪障深重の人多しといへども、終焉にこれ程の悪相を現ずる事は、古今未だ聞かざるの所なり。げにも、この道忠が平生の振舞をきけば、十悪五逆、重障過極の悪人なり。鹿を狩り鷹を使ふ事は、せめて世俗のわざなれば、言ふにたらず。咎なき者を打ち、縛り、僧尼を殺す事、数を知らず。常に、「死人の首を目に見ねば、心地の蒙気{*10}する。」とて、僧俗男女をいはず、日毎に二、三人が首を切つて、わざと目の前に懸けさせけり。されば、彼が暫しも居たる辺りは、死骨満ちて屠所の如く、死骸積みて九原の如し。
この入道が伊勢にて死したる事、道遠ければ、故郷の妻子、未だ知る事なかりけるに、その頃、所縁なりける律僧、武蔵国より下総へ下る事あり。日暮れ野遠くして、留まるべき宿を尋ぬる処に、山伏一人出で来て、「いざ、させたまへ{*11}。この辺に接待所の候ぞ。その処へつれ参らせん。」と云ひける間、行脚の僧、悦びて、山伏の引導に相従ひ、遥かに行きて見るに、鉄の築地をついて、金銀の楼門を立てたり。その額を見れば、大放火寺と書きたり。門より入つて内を見るに、奇麗にして美を尽くせる仏殿あり。その額をば理非断とぞ書きたりける。僧をば旦過{*12}に置いて、山伏は内へ入りぬ。
暫くあつて、前の山伏、内より螺鈿の箱に法華経を入れたるを持ち来つて、「唯今これに不思議の事あるべきにて候。いかに恐ろしく思し召し候とも、息をもあらくせず、三業を静めてこの経を読誦候べし。」と云つて、己は六の巻の紐を解いて寿量品をよみ、僧には八の巻を与へて普門品をぞ読ませける。僧、「何事にや。」と怪しく思ひながら、山伏の云ふに任せて、口には経を誦し、心に妄想を払つて、寂々としてぞ居たりける。
夜半過ぐる程に、月、俄にかきくもり、雨あらく稲光りして、牛頭馬頭の阿防羅刹ども、その数を知らず大庭に群集せり。天地、須臾に換尽して、鉄城高くそばだち、鉄の網、四方に張れり。烈々たる猛火燃えて、一由旬{*13}が間に盛んなるに、毒蛇、舌をのべて焔を吐き、鉄の犬、牙をといで吠え、怒る。
僧、これを見て、「あな、恐ろし。これは、無間地獄にてぞあるらん。」と恐怖して見居たる処に、火車に罪人を一人のせて、牛頭馬頭の鬼ども、轅を引いて虚空より来れり。待つて怒れる悪鬼ども、鉄の俎の盤石の如くなるを庭に置きて、その上にこの罪人を取つてあふのけにふせ、その上に又、鉄の俎を重ねて、諸々の鬼ども、膝を屈し肱をのべて、えいや声を出し、「えいや、えいや。」と押すに、俎のはづれより血の流るる事、油をしたづるが如し。これを受けて、大きなる鉄の桶に入れ集めたれば、程なく十分に湛へて滔々たる事、夕陽を浸せる江水の如くなり。その後、二つの俎を取り除けて、紙の如くに押しひらめたる罪人を、鉄の串にさしつらぬき、炎の上にこれを立てて、打ち返しあぶる事、唯、庖人の肉味を調ずるに異ならず。
至極あぶり乾かして後、また俎の上に押し平めて、臠刀{*14}に鉄の魚箸を取り副へて、ずたずたにこれを切り割いて、銅の箕の中へ投げ入れたるを、牛頭馬頭の鬼ども、箕を持つて、「活々。」と唱へてこれを簸けるに、罪人、忽ちによみがへりて、又、もとの形になる。時に阿防羅刹、鉄の楉{*15}を取つて、罪人にむかひ、怒れる詞を出だして罪人を責めて曰く、「地獄、地獄にあらず。汝が罪、汝を責む。」と。罪人、この苦に責められて、泣かんとすれども涙落ちず。猛火、眼を焦がす故に。叫ばんとすれども声出でず。鉄丸、喉を塞ぐ故に。もし一時の苦患を語るとも、聞く人は地に倒れつべし。
客位の僧、これを見て、魂も浮かれ骨髄も砕けぬる心地して、恐ろしくおぼえければ、主人の山伏に向つて、「これは、如何なる罪人を、かやうに呵責し候やらん。」と問ひければ、山伏の云ふ、「これこそ奥州の住人結城上野入道と申す者、伊勢国にて死して候が、阿鼻地獄へ落ちて呵責せらるるにて候へ。もしその方様の御縁にて御渡り候はば、後の妻子どもに、『一日経{*16}を書き供養して、この苦患を救ひ候へ。』と仰せられ候へ。我は、かの入道今度上洛せし時、鎧の袖に名を書きて候ひし、六道能化の地蔵薩埵にて候なり。」と、委しくこれを教へけるに、その詞未だ終へず、暁を告ぐる野寺の鐘、松吹く風に響いて一声幽かに聞こえければ、地獄の鉄城も忽ちにかきけす様にうせ、かの山伏も見えずなつて、旦過に坐せる僧ばかり、野原の草の露の上に惘然として居たりけり。
夢現の境も未だおぼえねども、夜、已に明けければ、この僧、現化の不思議に驚いて、急ぎ奥州へ下り、結城上野入道が子大蔵権少輔にこの事を語るに、「父の入道が伊勢にて死したる事、未だ聞き及ばざる前なれば、これ皆、夢中の妄想か、現の間の怪異か。」と、真しからず思へり。その後、三、四日あつて、伊勢より飛脚下つて、父の上野入道が遺言の様、臨終の悪相ども、委しく語りけるにこそ、「僧の云ふ所、一つも偽らざりけり。」と、信を取つて、七日七日{*17}の忌日に当たる毎に一日経{*}を書き供養して、追孝の作善をぞ致しける。
「『若有聞法者、無一不成仏。』は、如来の金言、この経の大意なれば、八寒八熱の底までも、悪業の猛火、忽ちに消えて、清冷の池水、正に湛へん。」と、導師、称揚の舌をのべて玉を吐き給へば、聴衆、随喜の涙を流して袂を潤しけり。これ、しかしながら地蔵菩薩の善巧方便にして、かの有様を見せしめて、追善を致さしめんがためなり。結縁の多少に依つて利生の厚薄はありとも、仏前仏後の導師、大慈大悲の薩埵に値遇し奉らば、真諦俗諦善願の望みを達せん。今世後世能引導の御誓ひ、たのもしかるべき御事なり。
校訂者注
1:底本頭注に、「北畠顕家。」とある。
2:底本は、「首(かうべ)」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
3:底本頭注に、「義良親王。後に後村上天皇。」とある。
4:底本は、「弥帆(やほ)」。底本頭注に、「普通の帆の外に舳に張つた帆。」とある。
5:底本頭注に、「御醍醐帝。」とある。
6:底本は、「羅刹国(らせつこく)」。底本頭注に、「羅刹は悪鬼。」とある。
7:底本頭注に、「御病気。」とある。
8:底本頭注に、「道忠の子。親朝。」とある。
9:底本は、「追賁(つゐひ)」。底本頭注に、「追善。」とある。
10:底本は、「蒙気(もうき)」。底本頭注に、「鬱気。」とある。
11:底本頭注に、「さあいらつしやい。」とある。
12:底本は、「旦過(たんくわ)」。底本頭注に、「旅僧の一夜の宿泊所。」とある。
13:底本は、「一由旬(ゆじゆん)」。底本頭注に、「十六里。」とある。
14:底本は、「臠刀(れんたう)」。底本頭注に、「肉切り庖丁。」とある。
15:底本は、「楉(しもと)」。底本頭注に、「むち。」とある。
16:底本は、「七々(なぬか(二字以上の繰り返し記号))」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
17:底本頭注に、「多勢集まつて一部の経を一日に書くこと。」とある。
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