巻第二十一
天下時勢粧の事
暦応元年の末に、四夷八蛮、悉く王化を助けて、大軍、同時に起こりしかば、「今は、はや聖運啓けぬ。」と見えけるに、北畠顕家卿、新田義貞、共に流矢のために命を落とし、あまつさへ、「奥州下向の諸卒、渡海の難風に放されて、行方知らず。」と聞こえしかば、「世間、さて。」とや思ひけん、結城上野入道が子息大蔵少輔{*1}も、父が遺言を背いて降人に出でぬ。芳賀兵衛入道禅可も、主の宇都宮入道が子息加賀寿丸を取り篭めて将軍方に属し、主従の礼儀をみだり、己が威勢を恣にす。
この時、新田の氏族、尚残つて城々に楯篭り、竹園の連枝、時を待つて国々に御座ありといへども、猛虎の檻に篭り、窮鳥の翅を削がれたるが如くになりぬれば、涙眼空しく百歩の威を覆ひ{*2}、悲心遠く九霄{*3}の雲を望んで、唯、時々の変あらん事を待つばかりなり。
天下の危かりし時だにも、世の譏りをも知らず、奢りを究め欲を恣にせし大家の氏族、高、上杉の党類なれば、能なく芸なくして乱階不次の賞に与り、例にあらず法にあらずして警衛判断の職を司る。初めのほどこそ朝敵の名を憚りて、毎事天慮を仰ぎ申す体にてありしが、今は、「天下、只武徳に帰して、公家あつて何の用にか立つべき。」とて、月卿雲客、諸司恪勤{*4}の所領はいふに及ばず、竹園、椒房、禁裏、仙洞の御領までも、武家の人押領しける間、曲水重陽の宴も絶えはて、白馬踏歌の節会も行はれず、形の如くの{*5}儀ばかりなり。
禁闕、仙洞さびかへり、参仕拝趨の人もなかりけり。況んや朝廷の政、武家の計らひに任せてありしかば、三家の台輔{*6}も、奉行、頭人の前に媚びをなし、五門の曲阜{*7}も、執事、侍所の辺に賄ふ。されば、納言宰相なんどの詞を聞いても、「心得がたの畳字や。」と欺き、廷尉北面、路次に行き合ひたるを見ても、「あはや、例の長袖垂れたる魚板烏帽子よ。」といひ、声を学び指を差して軽慢しける間、公家の人々、いつしか云ひも習はぬ坂東声を使ひ、著もなれぬ折烏帽子に額を顕はして、武家の人に紛れんとしけれども、立ち振舞へる体、さすがになまめいて、額附きの跡、以ての外にさがりたれば、公家にも附かず、武家にも似ず、ただ都鄙に歩みを失ひし人の如し。
佐渡の判官入道流刑の事
この頃、殊に時を得て、栄耀、人の目を驚かしける佐々木佐渡判官入道道誉が一族若党ども、例のばさら{*8}に風流を尽くして、西郊東山の小鷹狩して帰りけるが、妙法院の御前を打ち過ぐるとて、後にさがりたる下部どもに、南庭の紅葉の枝をぞ折らせける。
折節、門主、御簾の内よりも、暮れなんとする秋の気色を御覧ぜられて、「霜葉は二月の花よりも紅なり。」と、風詠閑吟して興ぜさせ給ひけるが、色殊なる紅葉の下枝を、不得心なる下部どもが引き折りけるを御覧ぜられて、「人やある。あれ、制せよ。」と仰せられける間、坊官一人、庭に立ち出でて、「誰なれば、御所中の紅葉をば、さやうに折るぞ。」と制しけれども、敢へて承引せず。「結句、御所とは何ぞ。かたはらいたの言や。」なんど嘲哢して、いよいよ尚大きなる枝をぞ引き折りける。
折節、御門徒の山法師、あまた宿直して候ひけるが、「悪い奴原が狼籍かな。」とて、持つたる紅葉の枝を奪ひ取り、散々に打擲して、門より外へ追ひ出す。道誉、これを聞いて、「如何なる門主にてもおはせよ、この頃、道誉が内の者に向つて、左様のことふるまはん者は、おぼえぬものを。」と怒つて、自ら三百余騎の勢を率し、妙法院の御所へ押し寄せて、則ち火をぞかけたりける。折節、風烈しく吹きて、余煙十方に覆ひければ、建仁寺の輪蔵、開山堂、並びに塔頭、瑞光庵、同時に皆焼け上がる。
門主は、御行法の最中にて、持仏堂に御座ありけるが、御心早く後ろの小門よりかちはだしにて、光堂の中へ逃げ入らせ給ふ。御弟子の若宮は、常の御所に御座ありけるが、板敷の下へ逃げ入らせ給ひけるを、道誉が子息源三判官{*9}、走りかかつて打擲し奉る。その外、出世、坊官、児、侍法師ども、方々へ逃げ散りぬ。夜中の事なれば、鬨の声、京白河に響き渡りつつ、兵火、四方に吹き覆ふ。在京の武士ども、「こは何事ぞ。」と慌て騒いで、上下に馳せ違ふ。事のよしを聞きさだめて後に、馳せ帰りける人毎に、「あな、あさましや。前代未聞の悪行かな。山門の嗷訴、今にありなん。」と、いはぬ人こそなかりけれ。
山門の衆徒、この事を聞いて、「古より今に至るまで、喧嘩、不慮に出で来る事多しといへども、未だ門主、貫頂{*10}の御所を焼き払ひ、出世、坊官を面縛する程の事を聞かず。早く道誉、秀綱を賜はりて、死罪に行ふべき。」由を公家へ奏聞し、武家に触れ訴ふ。この門主と申すも、正しき仙院の連枝にて御座あれば、道誉が振舞、無念の事に憤り思し召して、「あはれ、断罪、流刑にも行はせばや。」と思し召しけれども、公家の御計らひとしては叶ひ難き折節なれば、力なく武家へ仰せらるる処に、将軍も左兵衛督も、飽くまで道誉を贔負せられける間、山門は、理訴も疲れて、款状、いたづらにつもり、道誉は、法禁を軽んじて、奢侈いよいよ恣にす。
これに依つて、嗷議の若輩、「大宮、八王子の神輿を中堂へ上げ奉つて、鳳闕へ入れ奉れ。」と僉議す。則ち、諸院諸堂の講莚を打ち停め、御願を停廃し、末寺末社の門戸を閉ぢて、祭礼を打ち止む。山門の安否、天下の大事、この時にありとぞ見えたりける。武家も、さすが山門の嗷訴、黙止し難くおぼえければ、「道誉が事、死罪一等を減じて遠流に処せらるべきか。」と奏聞しければ、則ち院宣を成され、山門を宥めらる。前々ならば、衆徒の嗷訴は、これには全て休まるまじかりしかども、「時節にこそよれ、五刑のその一つを以て、山門に理をつけらるる上は、神訴、眉目を開くる{*11}に似たり。」と、宿老、これを宥めて、四月十二日に三社の神輿を御帰座成し奉つて、同じき二十五日、道誉、秀綱が配所の事定まりて、上総国山辺郡へ流さる。
道誉、近江の国分寺まで、若党三百余騎、「打ち送りのために。」とて、前後に相従ふ。その輩、悉く猿皮をうつぼにかけ、猿皮の腰当をして、手毎に鴬篭を持たせ、道々に酒肴を設けて、宿々に傾城を弄ぶ。事の体、尋常の流人には替はり、美々しくぞ見えたりける。これも唯、公家の成敗を軽忽し、山門の鬱陶を嘲弄したる振舞なり。
聞かずや、「古より山門の訴訟を負ひたる人は、十年を過ぎざるに、皆その身を滅ぼす。」と云ひ習はせり。治承には新大納言成親卿、西光、西景。康和には後二條関白{*12}。その外、泛々の輩は、あげて数ふべからず。「されば、これも如何あらんずらん。」と、智ある人は、眼をつけて怪しみ見けるが、果たして文和三年の六月十三日に、持明院新帝、山名左京大夫時氏に襲はれ、江州へ臨幸成りける時、道誉が嫡子源三判官秀綱、堅田にて山法師に討たる。その弟四郎左衛門は、大和内郡にて野伏どもに殺されぬ。嫡孫近江判官秀詮、舎弟次郎左衛門二人は、摂津国神崎の合戦の時、南方の敵に誅せられにけり。「弓馬の家なれば、本意とは申しながら、これ等は皆、医王山王の冥見に懸けられし故にてぞあるらん。」と、見聞の人、舌をふるはして懼れ思はぬ者はなかりけり。
法勝寺の塔炎上の事
康永元年三月二十日に、岡崎の在家より俄に失火出で来て、やがて焼け静まりけるが、僅かなる細𪸫{*13}一つ、遥かに十余町を飛び去つて、法勝寺の塔の五重の上に落ち留まる。暫しが程は、灯篭の火の如くにて、消えもせず燃えもせで見えけるが、寺中の僧達、身を揉みてあわて迷ひけれども、上るべき梯子もなく、打ち消すべき便りもなければ、唯いたづらに空をのみ見上げて手をひらげてぞ立たれたりける。
さる程に、この細𪸫、乾きたる桧皮に焼け附きて、黒煙、天を焦がして焼け上がる。猛火、雲を巻いて翻る色は、非想天の上までも上がり、九輪の地に響いて落つる声は、金輪際の底までも聞こえやすらんとおびただし。魔風、頻りに吹いて、余煙、四方に覆ひければ、金堂、講堂、阿弥陀堂、鐘楼、経蔵、総社宮、八足の南大門、八十六間の廻廊、一時のほどに焼け失せて、灰燼、忽ち地に満てり。焼けける最中、外より見れば、煙の上に或いは鬼形なる者、火を諸堂に吹き懸け、或いは天狗の形なる者、松明を振り上げて塔の重々に火をつけけるが、金堂の棟木の落つるを見て、一同に手を打ち、どつと笑うて、愛宕、大嶽、金峯山を指して去ると見えて、暫しあれば、花頂山の五重の塔、醍醐寺の七重の塔、同時に焼けける事こそ不思議なれ。院は、二條河原まで御幸成つて、法滅の煙に御胸を焦がされ、将軍は、西門の前に馬を控へられて、回禄{*14}の災に世を危ぶめり。
そもそもこの寺と申すは、四海の泰平を祈つて、殊に百王の安全を得せしめんために、白河院御建立ありし霊地なり。されば、堂舎の構へ、善尽くし美尽くせり。本尊の飾りは、金を鏤め玉を琢く。中にも八角九重の塔婆は、横豎ともに八十四丈にして、重々に金剛九会の曼陀羅を安置せらる。その奇麗崔嵬{*15}なる事は、三国無双の雁塔{*16}なり。この塔婆、始めて造り出だされしとき、天竺の無熱池、震旦の昆明池、我が朝の難波浦に、その影、明らかに写りて見えける事こそ奇特なれ。
「かかる霊徳不思議の御願所、片時に焼滅する事、ひとへにこの寺ばかりの荒廃にはあるべからず。唯今より後、いよいよ天下静かならずして、仏法も王法も、有つて無きが如くにならん。公家も武家も共に衰微すべき前相を、かねて顕はすものなり。」と、歎かぬ人はなかりけり。
校訂者注
1:底本頭注に、「親朝。」とある。
2:底本は、「闔(と)ぢ、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
3:底本頭注に、「天。」とある。
4:底本は、「恪勤(かくごん)」。底本頭注に、「諸司に勤番する勇士。」とある。
5:底本は、「如く儀」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
6:底本は、「三家の台輔(たいふ)」。底本頭注に、「閑院、花山院、中院の三家。」とある。
7:底本は、「五門の曲阜(きよくふ)」。底本頭注に、「〇五門 五摂家で近衛、九條、二條、一條、鷹司。」「〇曲阜 摂政の居所。」とある。
8:底本頭注に、「抜折羅と書く。伊達風流をいふ。」とある。
9:底本頭注に、「秀綱。」とある。
10:底本頭注に、「貫主。」とある。
11:底本は、「開ける」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
12:底本頭注に、「藤原師通。師実の子。」とある。
13:底本は、「細𪸫(ほそくづ)」。底本頭注に、「火屑。」とある。
14:底本頭注に、「火神。火災。」とある。
15:底本は、「崔嵬(さいくわい)」。底本頭注に、「高大なこと。」とある。
16:底本は、「雁塔(がんたふ)」。底本頭注に、「普通の塔。」とある。
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