先帝崩御の事
南朝の年号延元四年{*1}八月九日より、吉野の主上、御不予の御事ありけるが、次第に重らせたまふ。医王善逝の誓約も、祈るにその験なく、耆婆、扁鵲{*2}が霊薬も、施すにその験おはしまさず。
玉体、日々に消えて、晏駕の期遠からじと見え給ひければ、大塔忠雲僧正{*3}、御枕に近づき{*4}奉りて、涙を抑へて申されけるは、「神路山の花、再び開くる春を待ち、石清水の流れ、遂に澄むべき時あらば、さりとも仏神三宝も捨て参らせらるる事は、よも候はじとこそ存じ候ひつるに、御脈、已に替はらせたまひて候由、典薬頭、驚き申し候へば、今はひとへに十善の天位を捨てて、三明の覚路{*5}に赴かせたまふべき御事をのみ、思し召し定められ候べし。さても、『最後の一念に依つて、三界に生を引く。』と、経文に説かれて候へば、万歳の後の御事、万、叡慮にかかり候はん事をば悉く仰せ置かれ候て、後生善所の望みをのみ、叡心に懸けられ候べし。」と申されたりければ、主上、苦しげなる御息を吐かせ給ひて、「『妻子珍宝及王位、臨命終時不随者。』これ、如来の金言にして、平生{*6}、朕が心にありしことなれば、秦の穆公が三良{*7}を埋づみ、始皇帝の宝玉を随へし事、一つも朕が心に取らず。ただ、生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉く亡ぼして、四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。
「朕、則ち早世の後は、第七の宮を天子の位に即け奉りて、賢士忠臣、事を図り、義貞、義助が忠功を賞して、子孫不義の行ひなくば、股肱の臣として天下を鎮むべし。これを思ふ故に、玉骨は、たとひ南山の苔に埋づむるとも、魂魄は、常に北闕の天を望まんと思ふ。もし命を背き義を軽んぜば、君も継体の君にあらず。臣も、忠烈の臣にあらじ。」と、委細に綸言を遺されて、左の御手に法華経の五の巻を持たせ給ひ、右の御手には御剣を按じて、八月十六日の丑の刻に、遂に崩御なりにけり。
悲しいかな、北辰{*8}、位高うして、百官、星の如くに列なるといへども、九泉の旅の路には、供奉仕る臣、一人もなし。奈何かせん、南山、地下がりにして{*9}、万卒、雲の如くに集まるといへども、無常の敵の来るをば禦ぎ止むる兵、更になし。唯、中流に舟を覆して一壺の浪に漂ひ{*10}、暗夜に灯消えて、五更の雨に向ふが如し。
葬礼の御事、かねて遺勅ありしかば、御終焉の御形を改めず。棺槨を厚くし御座を正しうして、吉野山の麓、蔵王堂の艮なる林の奥に円丘を高く築いて、北向きに葬り奉る。寂寞たる空山の内、鳥啼き、日すでに暮れぬ。土墳数尺の草、一経、涙尽きて、愁ひ未だ尽きず。旧臣后妃、泣く泣く鼎湖の雲を瞻望して、恨みを天辺の月に添へ、覇陵の風に夙夜して{*11}、別れを夢裏の花に慕ふ。哀れなりし御事なり。
「天下、久しく乱に向ふ事は、末法の風俗なれば、暫く言ふに足らず。延喜天暦より以来、先帝程の聖主神武の君は、未だおはしまさざりしかば、何となくとも、聖徳一たび開けて、拝趨忠功の望みを達せぬ事はあらじ。」と、人皆、憑みをなしけるが、君の崩御なりぬるを見参らせて、「今は、御裳濯河の流れの末も絶えはて、筑波山の蔭に寄る人もなくて、天下皆、魔魅の掌握に落つる世にならんずらん{*12}。」と、あぢきなくおぼえければ、多年附き纏ひ参らせし卿相雲客、或いは東海の波を踏んで仲連が跡を尋ね、或いは、「南山の歌を唱へて寗戚が行ひを学ばん。」と、思ひ思ひに身の隠れ家をぞ求め給ひける{*13}。
ここに、吉野執行吉水法印宗信、ひそかにこの有様を伝へ聞きて、急ぎ参内して申しけるは、「先帝崩御の刻、遺勅を遺され、第七宮を御位に即け参らせ、朝敵追伐の御本意を遂げらるべしと、諸卿、目の当たり綸言を含ませ給ひし事なり。未だ日を経ざるに、退散隠遁の御企てありと承り及び候こそ、心えがたく存じ候へ。異国の例を以て吾が朝の今を計らひ候に、文王、草昧の主として、武王、周の業を起こし、高祖崩じ給ひて後、孝景、漢の世を保ち候はずや。今、一人万歳を早うし給ふとも、旧労の輩、その功を捨てて敵に降らんと思ふ者は、あるべからず。
「なかんづく、世の危ふきを見て、いよいよ命を軽んぜん官軍を数ふるに、先づ上野国に新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興、武蔵国にその家嫡左少将義宗。越前国に脇屋刑部卿義助、同子息左衛門佐義治。この外、江田、大館、里見、鳥山、田中、羽河、山名、桃井、額田、一井、金谷、堤、青竜寺、青襲、小守沢の、一族都合四百余人、国々に隠謀し、所々に楯篭る。造次にも忠戦を計らずといふ事なし{*14}。
「他家の輩には、筑紫に菊池、松浦鬼八郎、草野、山鹿、土肥、赤星。四国には、土居、得能、江田、羽床。淡路に阿間、志宇知。安芸に有井。石見には三角入道、合四郎。出雲伯耆に長年が一族ども。備後には桜山。備前に{*15}今木、大富、和田、児島。播磨に吉川。河内に和田、楠、橋本、福塚。大和に三輪の西阿、真木の宝珠丸。紀伊国に湯浅、山本、井遠三郎、加藤太郎。遠江には井伊介。美濃に根尾入道。尾張に熱田大宮司。越前には小国、池、風間、祢津越中守、太田信濃守。山徒には南岸の円宗院。この外、泛々の輩は、数ふるに暇あらず。皆、義心、金石の如くにして、一度も変ぜぬ者どもなり。
「身、不肖に候へども、宗信、かくて候はん程は、当山に於いて又、何の御怖畏か候べき。いかさま、先づ御遺勅に任せて、継体の君を御位に即け参らせ、国々へ綸旨を成し下され候へかし。」と申しければ、諸卿皆、げにもと思はれける処に、又、楠帯刀{*16}、和田和泉守、二千余騎にて馳せ参り、皇居を守護し奉つて、誠に他事なき体に見えければ、人々皆、退散の思ひを翻して、山中は無為になりにけり。
校訂者注
1:底本は、「延元三年」。底本及び『太平記 三』(1983年)頭注に従い改めた。
2:底本は、「耆婆(きば)扁鵲(へんじやく)」。底本頭注に、「〇耆婆 印度の名医。」「〇扁鵲 支那の名医。」とある。
3:底本頭注に、「中院光忠の子。」とある。
4:底本は、「近づきて奉りて、」。『太平記 三』(1983年)に従い削除した。
5:底本頭注に、「一は過去、二は未来、三は現在十方のすべての事を明知すること。」とある。
6:底本は、「平生の朕(ちん)が心」。『太平記 三』(1983年)に従い削除した。
7:底本頭注に、「三人の良臣。」とある。
8:底本は、「北辰(ほくしん)」。底本頭注に、「北斗星。天子に譬ふ。衆星の北辰に拱ふのは恰も群臣が天子に仕へるやうなものだと云ふこと。」とある。
9:底本は、「奈何(いかん)せん、南山の地僻(さがり)にして、」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い補い、削除した。
10:底本頭注に、「中流に船が覆れば一壺でも力とする。行末の心細い譬へ。」とある。
11:底本頭注に、「〇鼎湖 黄帝が上天したといふ地の名。」「〇西陵 漢の文帝を葬むつた地の名。」とある(「西」は「覇」の誤り)。
12:底本は、「ならんずらめと、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
13:底本頭注に、「〇仲連 齊の人。戦国策に『連有赴東海而死耳。』。」「〇南山の歌 三齊略記に『寗戚候齊桓公出、扣牛角歌曰、「南山粲々白石爛々、中有鯉魚長尺有半、生不遭堯与舜、短布単衣纔至骬、従昏飲牛至夜半、長夜漫々何時旦。」桓公召之因以為相。』。」とある。
14:底本は、「造次(ざうじ)にも忠戦を計らはずといふ事なし。」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。底本頭注に、「〇造次にも かりそめの場合にも。」とある。
15:底本は、「備前には今木(いまぎ)、」。『太平記 三』(1983年)に従い削除した。
16:底本頭注に、「楠正行。」とある。
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