南帝受禅の事

 同じき十月三日、大神宮へ奉幣使を下され、第七宮{*1}、天子の位に即かせたまふ。
 それ、継体の君、登極の御時、様々の大礼あるべし。先づ新帝受禅の日、三種の神器を伝へられて、御即位の儀式あり。その明年の三月に、卜部宿禰陰陽博士、軒廊にして国郡を卜定す。即ち行事所始めありて、百司千官、次第の神事を執り行はる。同じき年の十月に、東の河原に幸なつて、御禊あり。又、神泉苑の北に斎庁所を作つて、旧主、一日、抜穂を御覧ぜらる。竜尾堂を立てられ、壇上にして御行水ありて、回立殿を建て、新帝、大甞宮に行幸あり。その日、殊に堂上の伶倫、正始の曲を調べて、一たび雅音を奏すれば、堂下の舞人、小忌の衣{*2}を肩脱ぎて、五たび袖を翻す。これを五節の淵酔といふ。その後、大甞宮に行幸なつて、御牲の祭りを行はるる程に、悠紀、主基{*3}、風俗の歌を唱へて帝徳を称し、童女、八乙女、稲舂の歌を謡ひて神饌を奉る。
 これ皆、代々の儲君、御位を天に継がせ給ふ時の例なれば、三載数度の大礼、一つも闕けてはあるべからずといへども、洛外山中の皇居の事、周備すべきにあらざれば、形の如く三種の神器を拝せられたるばかりにて、新帝、位に即かせたまふ。

遺勅に任せ綸旨を成さるる事 附 義助黒丸城を攻め落とす事

 同じき十一月五日、南朝の群臣、相議して、先帝に尊号を奉る。「御在位の間、風教おほくは延喜の聖代を追はれしかば、最もその寄せ{*4}あり。」とて、後醍醐天皇と諡し奉る。新帝{*5}、幼主にて御座ある上、君、崩じ給ひたる後、百官冢宰{*6}に任せて、三年、政を聞こし召されぬことなれば、万機悉く北畠大納言の計らひとして、洞院左衛門督実世、四條中納言隆資卿、二人、専ら諸事を執奏せらる。
 同じき十二月、先づ北国にある脇屋刑部卿義助朝臣の方へ綸旨をなさる。先帝御遺勅、他に異なるうへは、故義貞の例にかはらず、官軍恩賞以下の事、相計らつて奏聞を経べきの由、宣下せらる。その外、筑紫の西征将軍宮、遠江井伊城に御座ある妙法院{*7}、奥州新国司顕信卿の方へも、旧主の遺勅に任せて、殊に忠戦を致さるべきの由、綸旨をぞ下されける。
 義助は、義貞討たれし後、勢ひ微なりといへども、所々の城郭に軍勢を篭め置き、さまでは敵に挟められざりければ、「いつまでかくてもあるべきぞ。城々の勢を一つに合はせて、黒丸城に楯篭られたる尾張守高経を攻め落とさばや。」と評定ありける処に、先帝崩御の御事を承つて、惘然たる事、闇夜に灯を失へるが如し。さはありながら、御遺勅、他に異なる宣旨の忝さに、忠義いよいよ心肝に銘じければ、「如何にもして一戦に利を得、南方祠候の人々の機をも助けばや。」と、御国忌の御中陰の過ぐるを遅しとぞ相待ちける。
 この両三年、越前の城三十余箇所、相交じはつて合戦の止む日なし。中にも湊城とて、北陸道七箇国の勢どもが終に攻め落とさざりし城は、義助の若党畑六郎左衛門時能が、僅か二十三人にて篭つたりし平城なり。南帝御即位の初め、天運、図に当たる時なるべし。諸卒、同じく城を出でて一所に集まり、当国の朝敵を平らげ他国に打ち越ゆべき由を、大将義助の方より牒ぜられければ、七月三日に畑六郎左衛門、三百余騎にて湊城を出で、金津、長崎、河合、河口、あらゆる所の敵の城十二箇所を打ち落として、首を斬る事、八百余人。女童、三歳の嬰児まで、残さずこれを刺し殺す。
 同じき五日に、由良越前守光氏、五百余騎にて西方寺城より出でて、和田、江守、波羅密、深町、安居の荘内に、敵の厳しく構へたる六箇所の城を二日に攻め落とし、則ち御方の勢を入れ替へて、六箇所の城を守らしむ。
 同じき五日、堀口兵部大輔氏政、五百余騎にて居山城より出でて、香下、鶴沢、穴間、河北、十一箇所の城を五日が中に攻め落として、降人千余人を引率し、河合荘へ出で合はる。総大将脇屋刑部卿義助は、祢津、風間、瓜生、川島、宇都宮、江戸、波多野が勢、三千余騎の将として、国府より三手に分かれて、織田、田中、荒神峯、安居渡城、十七箇所を三日三夜に攻め落として、その城の大将七人生け捕り、士卒五百余人を誅して、河合荘へ打ち出でらる。
 同じき十六日、四方の官軍、一所に相集まつて六千余騎、三方より黒丸を相挟みて、未だ戦はず。河合孫五郎種経、降人になつて畑に属す。その勢を率して、夜半に足羽の乾なる小山の上に打ち上つて、夜もすがら城の四辺を打ち廻り、鬨を作り遠矢を射かけて、後陣の大勢集まらば、一番に城へ攻め入らんと、勢を見せて待ち明かす。
 ここに、上木平九郎家光は、元は新田左中将の兵にてありしが、このごろ将軍方に属して黒丸城に在りけるが、大将尾張守高経の前に来て申しけるは、「この城は、先年、新田殿の攻められしに、不思議の御運に依つて打ち勝たせ給ひしに御習ひ候うて、猶仔細あらじと思し召し候はんには、おろかなる御計らひにて候べし。その故は、先年、この所へ向ひ候ひし敵ども皆、東国西国の兵にて、不知案内に候ひし間、深田に馬を馳せこみ、堀溝に堕ち入つて、遂に名将、流矢の鏑に懸かり候ひき。今は、御方に候ひつる者どもが、多く敵になつて候間、寄せ手も、城の案内は能く存じ候。
 「その上、畑六郎左衛門と申して、日本一の大力の剛の者、命をこの城に向つて止めんと思ひ定めて向ひ候なる。恐らくは、今どきの御方に、誰かこれと互角の合戦をし候べき。後詰めもなき平城に、名将の小勢にて御篭り候うて、命を失はせ給はん事、口惜しかるべき御計らひにて候。唯、今夜の中に加賀国へ引き退かせ給ひて、京都の御勢下向の時、力を合はせ、兵を集めて、かへつて敵を御退治候はんに、何の仔細か候べき。」とぞ申しける。
 細川出羽守、鹿草兵庫助、浅倉、斎藤等に至るまで、皆この議に同じければ、尾張守高経、五つの城に火をかけて、その光を松明になして、夜の間に加賀国富樫城へ落ち給ふ。畑が謀りごとを以て、義助、黒丸城を落としてこそ、義貞の討たれ給ひし会稽の恥をば清めけれ{*8}。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「義良。」とある。
 2:底本は、「小忌(をみ)の衣(ころも)」。底本頭注に、「白い布を山藍で摺り右肩に二條の赤紐を附し袖の中央に紙捩を垂れたもの。小忌の装束。」とある。
 3:底本は、「悠紀(ゆき)、主基(すき)」。底本頭注に、「大嘗会の時に天神地祇を祭る殿の名。」とある。
 4:底本頭注に、「因縁。」とある。
 5:底本頭注に、「後村上天皇。」とある。
 6:底本は、「冢宰(ちようさい)」。底本頭注に、「宰相。」とある。
 7:底本頭注に、「〇西征将軍宮 懐良親王。」「〇妙法院 宗良親王。」とある。
 8:底本は、「雪めける。」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。