塩冶判官讒死の事

 「北国の宮方、頻りに起こつて、尾張守、黒丸城を落とされぬ。」と聞こえければ、京都、以ての外に周章して、「助けの兵を下さるべし。」と評定あり。即ち、四方の大将を定めて、その国々へ勢をぞ添へられける。
 高上野介師治は、大手の大将として、加賀、能登、越中の勢を率し、加賀国を{*1}経て宮腰より向かはる。土岐弾正少弼頼遠は、搦手の大将として、美濃、尾張の勢を率し、穴間、郡上を経て大野郡へ向かはる。佐々木三郎判官氏頼は、江州の勢を率して、木目峠を打ち越えて敦賀津より向かはる。塩冶判官高貞は、船路の大将として、出雲、伯耆の勢を率して、兵船三百艘をそろへ、三方の寄せ手の相近づかんとする頃ほひ、津々浦々より上がつて敵の後ろを襲ひ、陣のあはひを隔てて、戦ひを機変の間に致すべしと、合図を堅く定めらる。
 陸地三方の大将、已に京を立ちて、分国の軍勢を催しければ、塩冶も我が国へ下つて、その用意を致さんとしける最中に、不慮の事出で来て、高貞、忽ちに武蔵守師直がために討たれにけり。「その宿意、何事ぞ。」と尋ぬれば、高貞、多年相馴れたりける女房を、師直に思ひ懸けられて、謂はれなく討たれけるとぞ聞こえし。
 その頃、師直、ちと違例{*2}の事あつて、暫く出仕をもせで居たりける間、重恩の家人ども、これを慰めんために、毎日酒肴を調へて、道々の能者どもを召し集めて、その芸能を尽くさせて、座中の興をぞ催しける。或る時、月更け夜閑まりて、荻の葉を渡る風、身にしみたる心地しける折節、真都と覚一検校と、二人づれ平家をうたひけるに、「近衛院の御時、紫宸殿の上に、鵺といふ怪鳥飛び来つて、夜な夜な鳴きけるを、源三位頼政、勅を承つて射て落としたりければ、上皇、限りなく叡感あつて、紅の御衣を当座に肩に懸けらる。
 「『この勧賞に、官位も闕国も猶、あつるに足らず。誠やらん、頼政は、藤壺の菖蒲に心をかけて、堪へぬ思ひに臥し沈むなる。今夜の勧賞には、このあやめを下さるべし。但し、この女を頼政、音にのみ聞いて、未だ目には見ざんなれば、同じ様なる女房をあまた出だして、引き煩はば、あやめも知らぬ恋をするかな、と笑はんずるぞ。』と仰せられて、後宮三千人の侍女の中より、花を猜み月を妬む程の女房達を、十二人同じ様に装束せさせて、なかなかほのかなる気色もなく、金紗の羅の中にぞおかれける。さて、頼政を清涼殿の孫廂へ召され、更衣を勅使にて、『今夜の抽賞には、浅香の沼のあやめを下さるべし。その手はたゆくとも、自ら引いて我が宿の妻となせ。』とぞ仰せ下されける。
 「頼政、勅に随つて、清涼殿の大床に手を打ち懸けて候ひけるが、いづれも齢二八ばかりなる女房の、みめかたち、絵に書くとも筆も及び難き程なるが、金翠の装ひを飾り、桃顔の媚びを含んで並み居たれば、頼政、心いよいよ迷ひ、目うつろひて、いづれを菖蒲と引くべき心地もなかりけり。更衣、打ち笑ひて、『水のまさらば、浅香の沼さへまぎるる事もこそあれ。』と申されければ、頼政、
  五月雨に沢辺の真薦水越えていづれあやめと引きぞわづらふ
とぞ詠みたりける。時に近衛関白殿、余りの感に堪へかねて、自ら立つて菖蒲の前の袖を引き、『これこそ汝が宿の妻よ。』とて、頼政にこそ下されけれ。
 「頼政、鵺を射て、弓箭の名を揚げたるのみならず、一首の歌の御感に依つて、年月恋ひ忍びつる菖蒲の前を賜はりつる、数奇のほどこそ面目なれ。」と、真都、三重の甲を上ぐれば、覚一、初重の乙に収めて謡ひすましたりければ、師直も、枕を押しのけ耳をそばだて聞くに、簾中庭上もろともに、声を上げてぞ感じける。
 平家はてて後、居残つたる若党、遁世者ども、「さても、頼政が鵺を射たる勧賞に、傾城を賜はりたるは面目なれども、所領か御引出物かを賜はりたらんずるには、莫大の劣りかな。」と申しければ、武蔵守、聞きもあへず、「御辺達は、無下に不当なることをいふものかな。師直は、菖蒲程の傾城には、国の十箇国ばかり、所領の二、三十箇所なりともかへてこそ賜はらめ。」とぞ恥ぢしめける。
 かかる処に、元は公家の生上達部{*3}に仕へて、盛んなりし御代を見たりし女房、今は時と共に衰へて、身の寄る辺なきままに、この武蔵守がもとへ常に立ち寄りける侍従と申す女房、垣越しに聞いて、後ろの障子を引きあけて、限りなく打ち笑ひて、「あな、さがなの{*4}御心あて候や。事の様を推量候に、昔の菖蒲の前は、さまで美人にてはなかりけるとこそおぼえて候へ。楊貴妃は、一度笑めば六宮に顔色なしと申し候。たとひ千人万人の女房を並べ据ゑて置かれたりとも、菖蒲の前、誠に世に勝れたらば、頼政、これを引きかね候べしや。これ程の女房にだに、国の十箇国ばかりをばかへても、何か惜しからんと仰せ候はば、先帝の御外戚早田宮の御女、弘徽殿の西台なんどを御覧ぜられては、日本国、唐土、天竺にもかへさせ給はんずるや。この御方は、よく世に類なきみめかたちにて御渡りありと思し召し知り候へ。
 「いつぞや雲の上人、花待ちかねし春の日のつれづれに、禁裏仙洞の美夫人、九嬪更衣達を、花のたとへにせられ候ひしに、桐壺のおんことは、あてやかにうちあらはれたる御気色を見奉りたる事なければ、譬へて申さんもあやなかるべけれども、雲井のよそ目も異なれば、明けやらぬ外山の花とや申すべき。梨壺の御事は、いつも臥し沈み給へる御気色、物悲しく、烽火の昔も理にこそ御覧ぜらるらめと、君の御心も空に知られしかば、『玉顔寂寞として涙欄干たり。』とたとへし、雨の中の梨壺と名に負ふ御様なるべし。或いは、月もうつろふ本あらの小萩、波も色ある井手の山吹、或いは遍昭僧正の、『われ落ちにきと人に語るな。』と戯れし嵯峨野の秋の女郎花、光源氏の大将の、『白くさけるは。』と名を問ひし、黄昏時の夕顔の花、見るにおもひのふかみぐさを始めとして、色々様々の花どもをとりどりにたとへられしに、梅は、匂ひ深くて枝たをやかならず。桜は色ことなれども、その香もなし。柳は風を留むる緑の糸、露の玉ぬく枝異なれども、匂ひもなく花もなし。
 「梅が香を桜の色に移して、柳の枝にさかせたらんこそ、げにもこのかたちには譬へめとて、遂に花のたとへの数にも入らせ給はざりし上は、申すも中々おろそかなる事にてこそ。」といひ戯れて、障子を引き立てて内へ入らんとするを、師直、目もなく打ち笑ひて、「暫し。」と袖をひかへて、「その宮は、いづくに御座候ぞ。御年は、いくつばかりにならせたまふぞ。」と問ひけるに、侍従、立ち留まつて、「この頃は、田舎人の妻とならせたまひぬれば、御かたちも雲の上の昔には替はり給ひ、御年も盛り過ぎさせ給ひぬらんと、思ひやり参らせてありしに、一日、物詣での帰るさに参りて見奉りしが、古の春待ち遠にありし若木の花よりも、猶色深くにほひあつて、有明の月の隈なく差し入りたるに、南向きの御簾を高くかかげさせて、琵琶をかきならし給へば、はらはらとこぼれかかりたる鬢のはづれより、ほのかに見えたる眉の匂ひ、芙蓉の眸、丹花の唇、如何なる笙の岩屋{*5}の聖なりとも、心迷はであらじと、目もあやにおぼえてこそ候ひしか。
 「うらめしの結ぶの神の御計らひにや{*6}、いかなる女院、御息所とも見奉るか、さらずば、今程天下の権を取る、さる人の妻ともなし奉らで、声は塔の鳩の鳴く様にて、御副ひ臥しもさこそ、こはごはしく鄙たけたるらんとおぼゆる出雲の塩冶判官に、先帝より下されて、賤しき田舎の御住まひにのみ、御身を捨てはてさせ給ひぬれば、ただ王昭君が胡国の夷に嫁しけるも、かくこそとおぼえて、見奉るも悲しくこそ侍りつれ。」とぞ語りける。
 武蔵守、いとど嬉しげに聞きとれて、「御物語の余りに面白くおぼゆるに、先づ引出物申さん。」とて、色ある小袖十重ねに、沈の枕{*7}を取り副へて、侍従の局が前にぞ置かれたる。侍従、俄に徳づきたる心地しながら、「あら、けしからずの今の引出物や。」とおもひて、立ちかねたるに、武蔵守、近く居寄つて、「詮なき御物語ゆゑに、師直が違例は、やがてなほりたる心地しながら、又あらぬ病のつきたる身になつて候ぞや。さりとては、平に憑み申し候はん。この女房、如何にもして我に御なかだち候うてたばせたまへ。さる程ならば、所領なりとも、又は家の中の財宝なりとも、御所望に随つて参らすべし。」とぞ語りける。
 侍従の局は、「思ひ寄らぬ事かな。唯ひとりのみおはする人にてもなし。何としてかくとも申し出づべきぞ。」と思ひながら、「事の外に叶ふまじき由をいはば、命をも失はれ、思ひのほかの目にもや合はんずらん。」と恐ろしければ、「申してこそ見候はめ。」とて、先づ帰りぬ。二、三日は、「とやせまし、かくや{*8}いはまし。」と案じ居たる処に、例ならず武蔵守がもとより、様々の酒肴なんど送り、「御左右遅し。」とぞ責めたりける。
 侍従は、辞するに詞なくして、かの女房の方に行き向ひ、忍びやかに、「かやうの事は、申し出だすについて、心の程も推し量られ参らせぬべければ、聞きしばかりにてさてあるべき事なれども、かかる事の侍るをば、いかが御計らひ候べき。つゆばかりのかごとに人の心をも慰められば、公達の御ために行く末たのもしく、また、憑むかたなき我等までも、立ちよる方なくては候はじ。さのみ度重ならばこそ、安漕浦に引く網の、人目に余る憚りも候はめ{*9}。篠のをざさの一節も、つゆかかる事ありとも、誰か思ひ寄り候べき。」と、様々かきくどき聞こゆれども、北台は、「事の外なる事かな。」とばかり打ちわびて、少しもいひ寄るべき言の葉もなし。
 「さても、錦木の千束を重ねし夷心の奥をも、哀れと思ひしる事もや{*10}。」と、日毎に経廻りて、「我に憂き目を見せ、深き淵河に沈ませて、哀れとばかりの後の御情はありとも、よしや何かせん。唯、日頃参り仕へし故宮の御名残と思し召さんかひには、せめて一言の御返事をなりとも承り候へ。」と、とかくいひ恨みければ、北台、もはや{*11}気色打ち萎れ、「いでや、もの侘しく、かくとな聞こえそ。哀れなる方に心引かれば、高志浜のあだ浪に、うき名の立つ事もこそあれ。」と、かこち顔なり。
 侍従、帰つて、「かくこそ。」と語りければ、武蔵守、いとど心を空になして、「度重ならば、情に弱る事もこそあれ。文をやりて見ばや。」とて、兼好{*12}といひける能書の遁世者を呼び寄せて、紅葉重ねの薄様の、取る手もくゆるばかりにこがれたる{*13}に、詞を尽くしてぞ聞こえける。返事遅しと待つ処に、使、帰り来て、「御文をば手に取りながら、あけてだに見給はず、庭に捨てられたるを、人目にかけじと懐に入れ、帰り参つて候ひぬ。」と語りければ、師直、大きに気を損じて、「いやいや、物の用に立たぬものは、手書きなりけり。今日よりその兼好法師、これへよすべからず。」とぞ怒りける。
 かかる処に、薬師寺次郎左衛門公義、所用の事あつて、ふと差し出でたり。師直、傍らへ招いて、「ここに、文をやれども取つても見ず、けしからぬ程に気色つれなき女房のありけるをば、如何すべき。」と打ち笑ひければ、公義、「人皆、岩木ならねば、如何なる女房も、慕ふに靡かぬ者や候べき。今一度御文を遣はされて御覧候へ。」とて、師直に代はりて文を書きけるが、中々、詞はなくて、
  返すさへ手や触れけむと思ふにぞわが文ながらうちもおかれず
押し返して、なかだち、この文を持ちて行きたるに、女房、いかがおもひけん、歌を見て顔打ちあかめ、袖に入れて立ちけるを、なかだち、「さては、便りあしからず。」と、袖を控へて、「さて、御返事はいかに。」と申しければ、「重きが上の小夜衣。」とばかりいひ捨てて、内へ紛れ入りぬ。暫くあれば、使、急ぎかへつて、「かくこそ候ひつれ。」と語るに、師直、うれしげに打ち案じて、やがて薬師寺を呼び寄せ、「『この女房の返事に、重きが上の小夜衣といひ捨てて立たれける。』と、なかだちの申すは、『衣小袖を調へて送れ。』とにや。その事ならば、如何なる装束なりともしたてんずるに、いと易かるべし。これは、なにといふ心ぞ。」と問はれければ、公義、「いや、これは、さやうの心にては候はず。新古今の十戒の歌に、『さなきだに重きが上の小夜衣わがつまならぬつまな重ねそ。』といふ歌の心を以て、人目ばかりを憚り候ものぞとこそおぼえて候へ。」と、歌の心を釈しければ、師直、大きに悦びて、「ああ、御辺は、弓箭の道のみならず、歌道にさへ無双の達者なりけり。いで、引出物せん。」とて、金作りの円鞘の太刀一振、手づから取り出だして、薬師寺にこそひかれけれ。兼好が不祥、公義が高運、栄枯一時に地を易へたり。
 師直、この返事を聞きしより、いつとなく侍従を呼びて、「君の御大事に逢つてこそ捨てんと思ひつる命を、詮なき人の妻故に空しくならんずる事の悲しさよ。今はのきはにもなるならば、必ず侍従殿をつれ参らせて、死出の山、三途の河をば越えんずるぞ。」と、或る時は目を怒らかして{*14}いひおどし、或る時は又、顔を垂れていひ恨みける程に、侍従の局、もはや持てあつかひて、「さらば、師直にこの女房の湯より上がつて、唯顔{*15}ならんを見せて、うとませばや。」と思ひて、「暫く御待ち候へ。見ぬにもあらず、見もせぬ御心あては、申すをも人の憑まれぬ事にて候へば、よそながら先づ、その様を見せ参らせ候はん。」とぞ慰めける。
 師直、これを聞くよりひとり笑みして、今日か明日かと待ち居たる処に、北台の方に中居する女童に、かねて約束したりければ、侍従の局の方へ来つて、「今夜こそあれの御留守にて、御台は御湯ひかせたまひ候へ{*16}。」とぞ告げたりける。侍従、かくと師直に申せば、やがて侍従をしるべにて、塩冶が館へ忍び入りぬ。二間なる所に身を側めて、垣の隙より窺へば、唯今この女房、湯より上がりけり{*17}とおぼえて、紅梅の色ことなるに、氷のごとくなる練貫の小袖の、しをしをとあるをかいとつて、ぬれ髪の行方ながくかかりたるを、袖の下にたきすさめる空だきの煙、匂ふばかりに残つて、その人はいづくにかあるらんと、心たどたどしくなりぬれば、巫女廟の花は夢の中に残り、昭君村の柳は雨の外におろかなる心地して{*18}、師直、物の怪のつきたるやうに、わなわなと震ひ居たり。
 「さのみ程経ば、主の帰ることもこそ。」とあやなくて、侍従、師直が袖を引きて、半蔀の外まで出でたれば、師直、縁の上にひれふして、如何に引き立つれども、起き上がらず。「あやしや、このままにて絶えや入らんずらん。」とおぼえて、とかくしてかへしたれば、今はひたすら恋の病ひに臥し沈み、物狂はしきことをのみ、寝ても覚めてもいふなんど聞こえければ、侍従、「如何なる目にか合はんずらん。」と恐ろしくおぼえて、その行方知るべき人もなき片田舎へ逃げ下りにけり。
 これより後は、しるべする人もなし。師直、「如何にせん。」と歎きけるが、「すべき様あり。」と案じ出だして、塩冶、隠謀の企てある由を、様々に讒を巡らし、将軍、左兵衛督にぞ申しける。塩冶、この事を聞きければ、「とても遁るまじき我が命なり。さらば、本国に逃げ下つて旗を揚げ、一旗を催して、師直がために命を捨てん。」とぞたくみける。
 高貞、三月二十七日の暁、弐心あるまじき若党三十余人、狩装束に出で立たせ、小鷹、手毎にすゑて、蓮台野、西山辺へ懸狩{*19}のために出づる様に見せて、寺戸より山崎へ引き違へ、播磨路よりぞ落ち行きける。身に近き郎等二十余人をば、女房子どもにつけて、物詣でする人の体に見せて、半時ばかり引き別れ、丹波路よりぞ落としける。
 この頃、人の心、子は親に敵し、弟は兄を失はんとする習ひなれば、塩冶判官が舎弟四郎左衛門、急ぎ武蔵守がもとへ行きて、高貞が企ての様、ありのままにぞ告げたりける。師直、これを聞きて、「この事、長僉議して、この女房取り外しつる事の安からずさよ。」と思ひければ、急ぎ将軍へ参りて、「高貞が隠謀の事、さしも急に御沙汰候べしと申し候ひつるを、聞こし召し候はで、この暁、西国を指して逃げ下り候ひけんなる。もし出雲、伯耆に下著して、一族を催して{*20}城に楯篭る程ならば、ゆゆしき御大事にてあるべう候なり。」と申しければ、「実にも。」と驚き騒がれて、「誰をか追手に下すべき。」とて、その器用をぞ選まれける。
 当座にありける人々、「我をや追手にさされん{*21}。」と、かたづを飲うで機を詰めたる気色を見たまひて、「この者どもが中には、高貞を追つ詰めて討つべき者なし。」と思はれければ、山名伊豆守時氏と桃井播磨守直常、大平出雲守とを呼び寄せて、「高貞、只今西国を指して逃げ下り候なる。いづくまでも追つ詰めて、討ち留められ候へ。」と宣ひければ、両人共に、一議{*22}にも及ばず、畏まつて領掌す。
 時氏は、かかる事とも知らず、出仕の装束にて参られたりけるが、宿所へかへり、武具を帯し、勢を率せば、時刻遷りて追つつくことを得がたしと思ひけるにや、武蔵守が若党に著せたりける物具取つて、肩に打ち懸け、馬の上にて高紐かけ、門前より懸け足を出だして、父子主従七騎、播磨路にかかり、揉みにもうでぞ追つたりける。直常も、大平も、宿所へは帰らず、中間を一人帰して、「乗替の馬物具をば、路へ追つつけよ。」と下知して、丹波路を追つてぞ下りける。
 道に行き合ふ人に、「怪しげなる人や通りつる。」と問へば、「小鷹少々すゑたりつる殿原達十四、五騎が程、女房をば輿に乗せて、急がはしげに通りつる。その間は、二、三里は過ぎ候ひぬらん。」とぞ答へける。「さては、幾程も延びじ。後れ馳せの勢どもを待ちつれん。」とて、その夜は波々伯部宿に暫く逗留し給へば、子息右衛門佐、小林民部丞、同左京亮以下の侍ども、取る物も取りあへず二百五十余騎、落人の後を問ひ問ひ、夜昼の境もなく追つ懸けたり。塩冶が若党どもも、「追手、定めて今は懸かるらん。一足も{*23}。」と急ぎけれども、女性、幼き人を具足したれば、とかくのしつらいに滞つて、播磨の陰山にては、早、追ひつかれにけり。
 塩冶が郎等ども、「今は、落ち得じ。」と思ひければ、輿をば道の傍なる小家に舁き入れさせて、向ふ敵に立ち向かひ、おしはだぬぎ、散々に射る。追手の兵ども、物具したる者は少なかりければ、懸け寄せては射落とし、抜いて懸かれば射すゑられて、やにはに死せる者十一人、手負ふ者は数を知らず。かくても、追手は次第に勢重なる、矢種も已に尽きければ、「先づ女性、幼き子どもを刺し殺して、腹を切らん。」とて、家の内へ走り入つて見れば、あてやかに萎れわびたる女房の、夜もすがらの涙に沈んで、さらずとも我と消えぬと見ゆる気色なるが、膝の傍に二人の子をかき寄せて、「これや、如何にせん。」と、呆れ迷へる有様を見るに、さしも猛く勇める者どもなれども、落つる涙に目も昏れて、ただ惘然としてぞ居たりける。
 さるほどに、追手の兵ども、間近く取り巻いて、「この事の起こりは何ことぞ。たとひ塩冶判官を討ちたりども、その女房をとり奉らでは、執事の御所存に叶ふべからず。相構へてその旨を存知せよ。」と下知しけるを聞きて、八幡六郎は、判官が次男の三歳になるが、母にいだきつきたるを抱きて、あたりなる辻堂に修行者のありけるに、「この幼き人、汝が弟子にして、出雲へ下し参らせて、御命を助け参らせよ。必ず所領一所の主になすべし。」といひて、小袖一重ね副へてぞとらせける。
 修行者、かひがひしく請け取りて、「仔細候はじ。」と申しければ、八幡六郎、限りなく悦びて、元の小家に立ちかへり、「我は、矢種のあらんほどは、防ぎ矢射んずるぞ。御辺達は内へ参つて、女性、幼き人を刺し殺し参らせて、家に火をかけて腹を切れ。」と申しければ、塩冶が一族に山城守宗村と申しける者、内へ走り入り、持つたる太刀を取り直して、雪よりも清く花よりも妙なる女房の胸の下を、きつさきに{*24}紅の血を注ぎ、つと突き通せば、「あつ。」といふ声幽かに聞こえて、薄衣の下に伏したまふ。五つになる幼き人、太刀の影に驚きて、「わつ。」と泣いて、「母御、なう。」とて、空しき人に取りつきたるを、山城守、心強くかき抱き、太刀の柄を垣にあて、もろともに鐔元まで貫かれて、抱きつきてぞ死ににける。
 自余の輩、二十二人、「今は心安し。」と悦びて、髪を乱し大肌脱ぎになつて、敵近づけば走り懸かり走り懸かり、火を散らしてぞ切り合ひたる。「とても遁るまじき命なり。さのみ罪を造つては何かせん。」とは思ひながら、「ここにて敵を暫くも支へたらば、判官、少しも落ち延ぶる事もや。」と、「塩冶、ここにあり。高貞、これにあり。頚取つて師直に見せぬか。」と、名乗りかけ名乗りかけ、二時ばかりぞ戦ひたる。今は矢種も射尽くしぬ、切疵負はぬ者もなかりければ、家の戸口に火をかけて、猛火の中に走り入り、二十二人の者どもは、思ひ思ひに腹切つて、焼きこがれてぞ失せにける。
 焼けはてて後、一堆の灰を払ひのけてこれを見れば、女房は、焼野の雉の雛を翅に隠して焼け死にたる如くにて、未だ胎内にある子の、刃のさきに懸けられながら、半ばは腹より出でて、血と灰とに塗れたり。又、腹かき切つて多く重なり伏したる死人の下に、幼き子を抱きて、一つ太刀に貫かれたる兵あり。「これぞ、いかさま、塩冶判官にてぞあるらん。されども焼け損じたる首なれば、取つて帰るに及ばず。」とて、桃井も大平も、これより京へぞ帰り上りける。
 さて、山陽道を追つて下りける山名伊豆守が若党ども、山崎財寺の前を打ち過ぎける処に、後より、「執事の御文にて候。暫く御逗留候へ。申すべきことあり。」とぞ呼ばはりける。「何事やらん。」とて馬を控へたれば、この者、三町ばかり隔たりて、「余りに強く走つて候程に、息絶えて、それまでも参り得ず候。こなたへ打ち帰らせ給へ。」山名、我が身は馬より下り、若党を四、五騎帰して、「何事ぞ。あれ、聞け。急ぎ馳せ帰れ。」とぞ下知しける。五騎の兵ども、「誠ぞ。」と心得て、使の前にて馬より飛び下り、「何事にて候やらん。」と問へば、この者、につこと打ち笑ひ、「誠には執事の使にては候はず。これは、塩冶殿の御内の者にて候が、判官殿の落ちられ候ひけるを知り候はで、伴をば仕らず候。ここにて主の御ために命を捨てて、冥途にてこの様を語り申すべきにて候。」といひもあへず、抜き合はせ、時移るまでぞ切り合ひける。三人に手負はせ、我が身も二太刀切られければ、これまでとや思ひけん、塩冶が郎等は、腹かき破つて死ににけり。
 「この者に出だしぬかれ、時刻移りければ、落人は遥かに延びぬらん。」とて、いよいよ馬を早め追つかけける。京より湊川までは十八里の道を、二時ばかりに打つて、「余りに馬疲れければ、今日は{*25}、とても近づくことありがたし。一夜、馬の足を休めてこそ追はめ。」とて、山名伊豆守、湊河にぞとどまりける。
 その時、生年十四歳になりける子息右衛門佐{*26}、気早なる若者どもを呼び抜いてのたまひけるは、「逃ぐる敵は、後を恐れて、夜を日に継いで逃げて下る。我等は、馬つかれていたづらに明くるを待つ。かやうにては、この敵を追つ詰めて討つといふ事、あるべからず。馬つよからん人々は、我に同じ給へ。豆州{*27}には知らせ奉らで、今夜この敵を追つ詰めて、道にて討ち留めん。」といひもはてず、馬引き寄せて乗り給へば、小林以下の侍ども十二騎、我も我もと同じて、夜中に追つてぞ馳せ行きける。
 湊河より賀久河までは十六里の道を、一夜に打つて、夜も、はやほのぼのと明けければ、遠方人の袖見ゆる、河瀬の霧の絶え間より、向ふの方を見渡しければ、旅人とはおぼえぬ騎馬の客三十騎ばかり、馬の足しどろに聞こえて、我先にと馬を早めて行く人あり。「すはや、これこそ塩冶よ。」と見ければ、右衛門佐、川端に馬をかけすゑて、「あの馬を早められ候人々は、塩冶殿と見奉るは僻目か。将軍を敵に思ひ、我等を追手に受けて、いづくまでか落ちられぬべき。踏み留まつて尋常に討死して、この長河の流れに名を残され候へかし。」と詞をかけられて、判官が舎弟塩冶六郎、若党どもに向つて申しけるは、「某は、ここにて先づ討死すべし。御辺達は、細路のつまりつまりに防ぎ矢射て、廷尉{*28}を落とし奉れ。一度に討死する事、あるべからず。」と、なからん跡のことまでも、委しくこれを相謀つて、主従七騎、引つ返す。
 右衛門佐の兵十二騎、一度に河へ打ち入つて、轡を並べて渡せば、塩冶が舎弟七騎、向ひの岸に鏃をそろへ、散々に射る。右衛門佐が兜の吹き返し、射向の袖に矢三筋受けて、岸の上へさつと駆けあがれば、塩冶六郎、抜き合つて、駆け違ひ駆け違ひ、時うつる程こそ切り合ひたれ。小林左京亮、塩冶に切つて落とされて、已に討たれんと見えければ、右衛門佐、馳せ塞がつて、当の敵を切つて落とす。残り六騎の者ども、思ひ思ひに討死しければ、その首を路次に切り懸けて、時刻を移さず追つて行く。この間に塩冶は、又五十町ばかり落ち延びたりけれども、郎等どもが乗つたる馬疲れて、更にはたらかざりければ、道に乗り捨て、かちはだしにて相従ふ。
 かくては本道を落ち得じとや思ひけん、御著宿より道を替へて、小塩山へぞ懸かりける。山名、続いて追ひければ、塩冶が郎等三人返し合はせて、松の一叢茂りたるを木楯に取りて、指し詰め引き詰め散々に射る。面に進む敵六騎射て落とし、矢種も尽きければ、打物になつて切り合つてぞ死ににける。これより高貞落ち延びて、追手の馬どもも、皆疲れにければ、「今は道にて追ひつく事叶ふまじ。」とて、山陽道の追手は、心閑かにぞ下りける。
 三月晦日に{*29}、塩冶、出雲国に下著しぬれば、四月一日に、追手の大将山名伊豆守時氏、子息右衛門佐師氏、三百余騎にて同国屋杉荘に著きたまふ。則ち、国中にあひ触れて、「高貞が叛逆露顕の間、誅罰せんために下向する所なり。これを討ちて出だしたらん輩に於いては、非職凡下{*30}をいはず、恩賞を申し与ふべき。」由を披露す。これを聞いて、他人はいふに及ばず、親類骨肉までも、欲心に年頃のよしみを忘れければ、自国他国の兵ども、道を塞ぎ前をよぎつて、ここに待ちかしこに来りて討たんとす。
 高貞、一日も身を隠すべき所なければ、「佐々布山に取り上つて一軍せん。」と、馬を早めて行きける処に、丹波路より落ちける若党の中間一人、走りつきて、「これは、誰がために御命をば惜しまれて、城に楯篭らんとは思し召し候や。御台御供申し候ひつる人々は、播磨の陰山と申す所にて、敵に追ひつかれて候ひつる間、御台をも公達をも皆刺し殺し参らせて、一人も残らず腹を切つて死んで候なり。これを告げ申さんために、甲斐なき命生きて、これまで参つて候。」といひもはてず、腹かき切つて馬の前にぞ伏したりける。
 判官、これを聞き、「時の間も離れ難き妻子を失はれて、命生きても何かせん。安からぬものかな。七生まで師直が敵となつて、思ひ知らせんずるものを。」と怒つて、馬の上にて腹を切り、さかさまに落ちて死ににけり。三十余騎ありつる若党どもをば、「城になるべき所を見よ。」とて、ここかしこへ遣はし、木村源三一人、附き従ひてありけるが、馬より飛んでおり、判官が首を取つて、鎧直垂に包み、遥かの深田の泥の中に埋めて後、腹かき切り、腸手繰り出だし、判官の首の切口を隠し、上に打ち重なりて、抱きつきてぞ死にたりける。
 後に伊豆守の兵ども、木村が足の泥に汚れたるをしるべにて、深田の中より高貞が虚しき首を求め出だして、師直が方へぞ送りける。これを見聞く人ごとに、「さしも忠あつて咎なかりつる塩冶判官、一朝に讒言せられて百年の命を失ひつる事の哀れさよ。唯、晋の石季倫が、緑珠が故に亡ぼされて、金谷の花と散りはてしも、かくや。」といはぬ人はなし。
 それより師直、悪行積もつて、程なく亡び失せにけり。「人を利する者は、天必ずこれを幸ひし、人を損なふ者は、天必ずこれを禍ひす。」といへる事、真なるかなとおぼえたり。

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校訂者注
 1:底本は、「加賀(の)国経(へ)て」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 2:底本頭注に、「病気。」とある。
 3:底本は、「生上達部(なまかんだちめ)」。底本頭注に、「新参の公卿。」とある。
 4:底本は、「善悪無(さがな)の」。底本頭注に、「宜くない。」とある。
 5:底本頭注に、「吉野の奥にある行律の僧侶の籠り居る処。」とある。
 6:底本は、「御計らひや。」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 7:底本は、「沈(ぢん)の枕(まくら)」。底本頭注に、「沈香といふ香木で作つた枕。」とある。
 8:底本は、「かくといはまし」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 9:底本頭注に、「或人の歌に『伊勢の海や安漕が浦にひく網のたび重ならばあらはれにけり。』」とある。
 10:底本頭注に、「錦木とは一尺許りの木を彩つたもので昔陸奥の風俗に女に逢はうとする時男は之を女の門に立てると女が逢はうと思へば取入れる。取入れねば男更に加へて千束を限りとす。古歌に『思ひかね今日立てそむる錦木の千束もまたで逢ふよしもがな。』。」とある。
 11:底本は、「北台(きたのだい)も早気色」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 12:底本頭注に、「卜部氏。」とある。
 13:底本頭注に、「薫きしめた紙。」とある。
 14:底本は、「瞋(いか)らして」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 15:底本頭注に、「化粧せぬ素顔。」とある。
 16:底本頭注に、底本は、「今夜こそあれの御留守(るす)にて、御台(みだい)は御湯(みゆ)ひかせたまひ候。」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。「〇あれ あの人。即ち塩冶判官を指す。」とある。
 17:底本は、「上(あが)りけると」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 18:底本頭注に、「朗詠集に『巫女廟花紅似粉、昭君村柳翠於眉。』」とある。
 19:底本は、「懸狩(かけがり)」。底本頭注に、「賭け狩り。」とある。
 20:底本は、「促して」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 21:底本は、「追手(おつて)になされん」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 22:底本は、「一儀」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 23:底本は、「一足とも」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 24:底本は、「胸(むね)の下をつきさくに、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
 25:底本は、「今日とても」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
 26:底本頭注に、「師氏。時氏の子。」とある。
 27:底本頭注に、「伊豆守山名時氏。」とある。
 28:底本頭注に、「判官の唐名。」とある。
 29:底本は、「晦日(つごもり)には塩冶」。『太平記 三』(1983年)に従い削除した。
 30:底本は、「非職凡下(ぼんげ)」。底本頭注に、「〇非職 職務なき官吏。」「〇凡下 身分なき人。」とある。