巻第二十二
畑六郎左衛門が事
さるほどに、京都の討手、大勢にて攻め下りしかば、杣山城も落とされ、越前、加賀、能登、越中、若狭五箇国の間に、宮方の城、一所もなかりけるに、畑六郎左衛門時能、僅かに二十七人篭りたりける鷹巣城ばかりぞ相残りたりける。一井兵部少輔氏政は、去年、杣山城より平泉寺へ越えて、衆徒をかたらひ旗を挙げんと議せられけるが、国中、宮方よわくして、与力する衆徒もなかりければ、これも同じく鷹巣城へぞ引き篭りける。「時能が勇力、氏政が機分、小勢なりとて差し置きなば、いかさま、天下の大事になるべし。」とて、足利尾張守高経、高上野介師重、両大将として、北陸道七箇国の勢七千余騎を率して、鷹巣城の四辺を千百重に囲まれ、三十余箇所の向ひ城をぞ取つたりける。
かの畑六郎左衛門と申すは、武蔵国の住人にてありけるが、歳十六の時より相撲を好んで取りけるが、坂東八箇国に更に勝つ者なかりけり。腕の力筋太くして、股の村肉厚ければ、かの薩摩の氏長もかくやとおぼえておびただし。その後、信濃国に移住して、生涯、山野江海の猟漁を業として、年久しくありしかば、馬に乗つて悪所岩石を落とす事、あたかも神変を得るが如し。唯、造父が御を取つて千里に疲れざりしも、これには過ぎじとぞおぼえたる。水練に又、憑夷{*1}が道を得たれば、驪竜頷下の珠をも自ら奪ひつべし。弓は、養由が跡を追ひしかば、弦を鳴らして遥かなる樹頭の栖猿をも落としつべし。謀りごと巧みにして人を眤び、気健やかにして心たわまざりしかば、戦場に臨む毎に敵を靡け堅きに当たる事、樊噲、周勃が得ざる道をも得たり。
されば、物は類を以て聚まる習ひなれば、彼が甥に所大夫房快舜とて、少しも劣らざる悪僧あり。又、中間に悪八郎とて、いぐち{*2}なる大力あり。又、犬獅子と名を附けたる不思議の犬一匹ありけり。この三人の者ども、闇にだになれば、或いは帽子兜に鎖を著て、足軽に出で立つ時もあり、或いは大鎧に七つ物持つ時もあり。様々手立てを替へて敵の向ひ城に忍び入り、先づ、くだんの犬を先立てて城の用心の様を伺ふに、敵の用心きびしくて隙を伺ひ難き時は、この犬、一吠えほえて走り出で、敵の寝入り、夜廻りも止む時は、走り出でて主に向ひて尾を振りて告げける間、三人共にこの犬をしるべにて、塀をのり越え城の中へ打ち入りて、喚き叫んで{*3}縦横無礙に切つて廻りける間、数千の敵軍、驚きさわぎて、城を落とされぬはなかりけり。
それ、「犬は守禦を以て人に養はる。」といへり。誠に心なき禽獣も、報恩酬徳の心あるにや。かかる事は先言にも聞きける事あり。昔、周の世衰へんとせし時、戎国乱れて王化に随はず。兵を遣はしてこれを攻むといへども、官軍、戦ひに利なくして、討たるる者三十万人、地を奪はるる事七千余里。国危ふく、士辱しめられて、諸侯皆、彼に降らんことを乞ふ。ここに周王、これを愁へて、扆{*4}を安んじ給はず。折節、御前に狗の候ひけるに魚肉を与へ、「汝、もし心あらば、戎国に下つて、ひそかに戎王を食ひ殺して、世の乱を静めよ。然らば、汝に三千の宮女を一人下して夫婦となし、戎国の王たらしめん。」と戯れて仰せられたりけるを、この狗、勅命を聞きて、立ちて三声吠えけるが、即ち万里の路を過ぎて戎国に下つて、ひそかに戎王の寝所へ忍び入りて、忽ちに戎王を食ひ殺し、その首をくはへて周王の御前にぞ参りける。
なほざりに戯れて勅定ありし事なれども、「綸言、改め難し。」とて、后宮を一人、この狗に下されて夫婦となし、戎国をその賞にぞ行はれける。后、三千の列に勝れ、一人の寵厚かりしその恩情を棄てて、勅命なれば力なく、かの犬に伴ひて、泣く泣く戎国へ下つて、年久しく住み給ひしかば、一人の男子を生めり。その形、頭は犬にして、身は人に替はらず。子孫相続いて戎国を保ちける間、これに依つてかの国を犬戎国とぞ申しける。彼を以つてこれを思ふに、この犬獅子が行ひをも珍しからずとぞ申しける。
されば、この犬、城中に忍び入りて機嫌{*5}を計りける間、三十七箇所に城を拵へ分かつて、逆茂木を引き塀を塗りたる向ひ城ども、毎夜一つ二つ打ち落とされ、物具を捨て馬を失ひ恥をかく事多ければ、敵のつよるをば顧みず、御方に笑はれん事を恥ぢて{*6}、ひそかに兵粮を入れ、忍び忍び酒肴を送りて、「然るべくは、我が城を夜討になせそ。」と、畑を語らはぬものぞなかりける。
ここに、寄せ手の中に上木九郎家光といひけるは、元は新田左中将の侍なりけるが、心を翻して敵となり、攻め口に候ひけるが、「数百石の兵粮を通じて畑に内通す。」といふ聞こえありしかば、如何なる者かしたりけん、大将尾張守高経の陣の前に、「畑を打たんと思はば、先づ上木を切れ{*7}。」といふ秀句を書きて、高札をぞ立てたりける。これより、大将も、上木に心をおかれ、傍輩もこれに隔心ある体に見えける間、上木、口惜しき事に思ひて、二月二十七日の早旦に、己が一族二百余人、俄に物具ひしひしと堅め、大竹をひしいで楯の面に当て、かづき連れてぞ攻めたりける。自余の寄せ手、これを見て、「城の案内知つたる上木が俄に攻むるは。いかさま、落つべき様ぞあるらん。上木一人が高名になせそ。」とて、三十余箇所の向ひ城の兵ども七千人、取る物も取りあへず、岩根を伝ひ、木の根に取りつきて、さしも嶮しき鷹巣城の坂十八町を一息に攻め上がり、切り岸の下にぞ著きたりける。
されども城には鳴りを静めて、「事の様を見よ。」とて静まりかへつてありけるが、已に鹿垣程近くなりける時、畑六郎、所大夫房快舜、悪八郎、鶴沢源蔵人、長尾新左衛門、児玉五郎左衛門、五人の者ども、思ひ思ひの物具に、太刀長刀の鋒をそろへ、声々に名のつて、喚いて切つてぞ出でたりける。「誠に人なし。」と油断して、そぞろに進み近づきたる先懸けの寄せ手百余人、これに驚き散つて、互の助けを得んと、一所へひしひしと寄せたる処を、例の悪八郎、八、九尺ばかりなる大木を脇に挟み、五、六十人しても押しはたらかし難き大磐石を転ばし懸けたれば、その石に当たる有様、輪宝の山を崩し、磊石の卵を押すに異ならず。これに理を得て、左右に激し八方を払ひ、破つては返し返しては進み、散々に切り廻りける間、或いは討たれ或いは疵を被る者ども、その数を知らず。さりながらその後は、いよいよ寄せ手{*8}、攻め上がる者もなくて、唯、山を隔て川を境うて、向ひ陣を遠く取りのきたれば、中々、とかくもすべきやうなし。
かかりし程に、畑、つくづくと思案して、「このままにては、叶ふまじ。珍しき戦ひ今一度して、敵を散らすか散らさるるか、二つの間に天運を見ん。」と思ひければ、我が城には、大将一井兵部少輔に兵十一人を附けて残し留め、又、我が身は宗徒の者十六人を引き具して、十月二十一日の夜半に、豊原の北に当たりたる伊地山に打ち上つて、中黒の旗二流れ打つ立てて、寄せ手遅しとぞ待ちたりける。尾張守高経、これを聞きて、鷹巣城より勢を分かつて、この所へ打ち出でたるとは思ひ寄らず、「豊原、平泉寺の衆徒、宮方と引き合ひて旗を挙げたり。」と心得て、ちつとも足をためさせじと、同じき二十二日の卯の刻に、三千余騎にてぞ押し寄せられける。
寄せ手、初めの程は敵の多少を量りかねて、左右なく進まざりけるが、「小勢なりけり。」と見て、ちつとも恐るる処なく、我先にとぞ進みたりける。畑六郎左衛門、敵、外に控へたる程は、わざとありとも知られざりけるが、敵、已に一、二町に攻め寄せたりける時、金胴の上に緋縅の鎧の敷目に拵へたるを草摺長に著下して、同じ毛の{*9}五枚兜に鍬形打つて緒を締め、熊野打ちの頬当に、大立揚の臑当を脇楯の下まで引き篭めて、四尺三寸の太刀に三尺六寸の長刀、茎短かに握り、一つ引き両に三𥻘の笠印、馬の三頭{*10}に吹きかけさせ、塩津黒とて五尺三寸ありける馬に、鎖の鎧懸けさせて、劣らざる兵十六人、前後左右に相随へ、「畑将軍、ここにあり。尾張守はいづくにましますぞ。」と呼ばはりて、大勢の中へかけ入り、追ひ廻し懸け乱し、八方を払つて四維に遮りしかば、万卒、忽ちに散じて、皆、馬の足をぞ立たかねたる。
これを見て、尾張守高経、鹿草兵庫助、旗の下に控へて、「いふかひなき者どもかな。敵、たとひ鬼神なりとも、あれ程の小勢を見て引く事やあるべき。唯、馬の足を立ち寄せて、魚鱗に控へて、兵を虎韜になして取り篭め、一人も漏らさず討ち留めよや。」と、透間もなくぞ下知せられける。かかりしかば、三千余騎の兵ども、大将の諌言に力を得て、十六騎の敵を真中におつ取り篭め、余さじとこそ揉うだりけれ。
大敵、欺き難しといへども、畑が乗つたる馬は、項羽が騅にも劣らざる程の駿足なりしかば、鐙の鼻に当て落とされ、蹄の{*11}下にころぶをば、首を取つては馳せ通り、取つて返しては颯と破る。相従ふ兵も皆、似るを友とする事なれば、目に当たる敵をば斬つて落とさずといふ事なし。その肌たわまず、目まじろかざる勇気に{*12}、三軍、敢へて当たり難く見えしかば、尾張守の兵三千余騎、東西南北に散乱して、河より向うへ引き退く。
軍散じて後、畑、帷幕の内に打ち帰りて、その兵を集むるに、五騎は討たれて、九人は痛手負ひたりけり。その中に、殊更憑みたる大夫房快舜、七所まで痛手負ひたりしが、その日の暮程にぞ死ににける。畑も、臑当のはづれ、小手のあまり、切られぬ所ぞなかりける。少々の小疵をば、物の数とも思はざりけるに、障子の板{*13}の外れより肩先へ射篭められたりける{*14}白羽の矢一筋、何と抜きけれども、鏃、更に抜けざりけるが、三日の間、苦痛、身を責めて、終に吠え死ににこそ失せにけれ。
およそ、この畑は、悪逆無道にして罪障を恐れざるのみならず、無用なるに僧法師を殺し仏閣社壇を焼き壊ち、修善の心はつゆばかりもなく悪業をなす事は山の如く重なりしかば、勇士智謀のその芸ありしかども、遂に天のためにや罰せられけん、流矢に侵されて死にけるこそ無慙なれ。
君、見ずや。「羿、弓を引き、天に懸かる九つの日を射て落とし、奡、舟を押し、水なき陸地を遣りしかども、あるいはその臣寒浞に殺され、あるいは{*15}夏后小康に討たれて、みな死名を遺せり。されば、開元の宰相宋開府が、幼君のために武を汚し、その辺功を立てざりしも、智慮の忠臣と{*16}謂ひつべし。」と、思ひ合はせけるばかりなり。
畑、すでに討たれし後は、北国の宮方、気をたわまして、頭をさし出だすものもなかりけり。
校訂者注
1:底本は、「憑夷(ひようい)」。底本頭注に、「河の神。」とある。
2:底本は、「欠唇(いぐち)」。底本頭注に、「みつくち。上唇の切れた口。」とある。
3:底本は、「叫(をめ)き喚(さけ)んで」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
4:底本は、「扆(い)」。底本頭注に、「絳を質とし斧を描いた屏風。天子の諸侯に対する時後方に立てて南面する。」とある。
5:底本頭注に、「適当の時期。」とある。
6:底本は、「敵の強きをば顧(かへり)みず、御方(みかた)に笑はれん事を恥ぢず、」。『太平記 三』(1983年)頭注及び本文に従いそれぞれ改めた。
7:底本は、「上木を伐て。」。『太平記 三』(1983年)本文及び頭注に従い改めた。
8:底本は、「寄手に攻め」。『太平記 三』(1983年)に従い削除した。
9:底本は、「同じ五枚兜」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
10:底本は、「三頭(づ)」。底本頭注に、「馬の尾の本の上の部分。」とある。
11:底本は、「落(おと)され下に」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
12:底本頭注に、「孟子公孫丑上篇に『北宮黝之養勇也、不膚橈、不目逃。』」とある。
13:底本頭注に、「鎧の綿上の上にあつて障子を立てたやうな状であるから云ふ。」とある。
14:底本は、「射篭められたる」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
15:底本は、「あるひは其の臣寒浞(かんさく)に殺され、これは夏后小康(かこうせうかう)に討たれて」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。底本頭注に、「〇あるひは其の臣云々 羿は寒浞に桃梧で殺され奡は小康に過で滅ぼされたと云ふ。」とある。
16:底本は、「智慮なき忠臣と」。『太平記 三』(1983年)頭注に従い改めた。
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