義助吉野へ参らるる事 並 隆資物語の事
ここに、脇屋刑部卿義助は、去んぬる九月十八日、美濃の根尾城に立て篭りしかども、土岐弾正少弼頼遠、刑部大夫頼康に攻め落とされて、郎等七十三人を召し具し、微服潜行して、熱田大宮司が城、尾張国波津崎へ落ちさせ給ひて、十余日逗留して敗軍の兵を集めさせ給ひて、伊勢、伊賀を経て、吉野殿へぞ参られける。即ち参内して竜顔に謁し奉りしかば、君{*1}、玉顔、殊に麗しく照らして席を進め、この五、六年が間の北征の忠功、他に異なる由を感じ仰せられて、更に敗北の無念なる事をば仰せ出だされず。「その命、恙なくして、今ここに来る事、君臣水魚の忠徳、再び顕はるべき故なり。」と、御涙を浮かべさせおはしまして仰せ下さる。次の日、臨時の宣下あつて、一級を加へらる。しかのみならず、当参の一族並びに相従へる兵どもに至るまで、或いは恩賞を賜ひ、或いは官位を進められければ、面目、人に超えてぞ見えたりける。
その時分、殿上の上口に諸卿参候せられたりけるが、物語のついでに洞院右大将実世、未だ左衛門督にてましませしが、欺き{*2}申されけるは、「そもそも義助、越前の合戦に打ち負けて、美濃国へ落ちぬ。その国をさへ又追ひ落とされて、身の置き処なきままに当山に参りたるを、君、御賞翫あつて官禄を進ませらるる事、返す返すも心得ず。これ唯、治承の昔、権佐三位中将維盛が、東国の討手に下つて、鳥の羽音に驚いて逃げ上りたりしを、祖父清盛入道が計らひとして一級を進ませしに異ならず。」とぞ笑はれける。
四條中納言隆資卿、つくづくとこれを聞き給ひけるが、退いて申されけるは、「今度の儀、叡慮の赴く処、その理に当たるかとこそ存じ候へ。その故は、義助、北国の軍に利を失ひ候ひし事は、全く彼が戦ひの拙きにあらず。唯、聖運、時未だ到らず、又、勅裁の、将の威を軽くせられしに依つてなり。高才に対してかやうの事を申せば、管を以て天を窺ひ、道に聞き道に説く風情にて候へども、唯その一端を申すべし。
「昔、周の末、戦国の時に当たつて、七雄の諸侯、相争ひ、互に国を奪はんと謀りし時、呉王闔廬、孫子といひける勇士を大将として敵国を伐たん事を謀る。時に孫氏、呉王闔廬に向つて申しけるは、『それ、教へざるの民を以て戦はしむること、これを棄てよと云へり。もし敵国を伐たしめんとならば、先づ宮中にあらゆる所の美人を集めて、兵の前に立てて、陣を張り戈を持たしめて後、我、その命を司らん。一日の中に三度、戦ひの術を教へんに、命に随ふことを得ば、敵国を滅ぼさん事、立ちどころに得つべし。』とぞ申しける。呉王、則ち孫子が申し請ふ旨にまかせて、宮中の美人三千人を南庭に出だして、皆、兵の前陣に立てらる。
「時に孫氏、甲冑を帯し、戈を取りて、『鼓うたば、進みて刃を交じへよ。鐘をうたば、退いて二陣の兵に譲れ。敵引かば、急に逃ぐるを追へ。敵返さば、堪へて弱きを凌げ。命を背かば、我、汝等を斬らん。』と、馬を馳せてぞ習はしける。三千の美人、君の命に依つて戦ひを習はす戦場へ出でたれども、窈窕たる婉嫋、羅綺にだもたへざる体なれば、戈をだにももたげ得ざれば、まして刃を交じふるまでもなし。あきれたる体にて打ち笑ひぬるばかりなり。孫氏、これを怒りて、殊更呉王闔廬が最愛の美人三人を、忽ちに斬つてぞ捨てたりける。これを見、自余の美人、相従ひて、『士卒と共にかけよ。』といへば進み、『返せ。』といへば止まる。聚散、変に応じ、進退、度に当たる。これ、全く孫氏が美人の殺す事を以て兵法とはせず。唯、大将の命を士卒の重んずべき処を人に知らしめんがためなり。呉王も、最愛の美人を三人まで失ひつる事は悲しけれども、孫氏が教へたる謀りごと、誠に当たれりと思はれければ、遂に孫氏をもつて多くの敵国を亡ぼされてげり。
「されば、周の武王、殷の紂王を伐たんために、大将を立てんことを太公望に問ひ給ふ。太公望、答へて曰く、『{*k}{*3}凡そ国、難有れば、君、正殿を避けて、将を召してこれに詔して曰く、社稷の安危、もつぱら将軍に在り。願はくは将軍、師を帥ゐてこれに応ぜよと。将、既に命を受けて、乃ち大史に命じて卜せしむ。斎すること三日、大廟に行きて霊亀を鑽り、吉日を卜して以て斧鉞を授け、君は廟門に入りて、西面にして立ち、将は廟門に入りて、北面にして立つ。君、自ら鉞を操りて頭を持ち、将にその柄を授けて曰く、これより上、天に至るまでは、将軍、これを制せよと。復た斧を操り、柄を持ちて将にその刃を授けて曰く、これより下、淵に至るまでは、将軍、これを制せよ。その虚を見ば、則ち進み、その実を見るときは、則ち止まれ。三軍を以て衆と為して、敵を軽んずること勿かれ。命を受くるを以て重しと為して、死を必すること勿かれ。身貴きを以て人を賤すること勿かれ。独見を以て衆に違ふこと勿かれ。弁説を以て必ず然りとすること勿かれ。士未だ坐せざるに、坐すること勿かれ。士未だ食せざるに、食すること勿かれ。寒暑も必ず同じくせよ。かくの如くするときは則ち、士衆、必ず死力を尽くさんと。
「『将、已に命を受け、拝して君に報じて曰く、臣聞く、国は以て外より治むべからず。軍は以て中より禦ぐべからず。二心あつて以て君に仕ふべからず。疑志あつて以て敵に応ずべからず。臣、既に命を受け、斧鉞の威を専らにす。臣、敢へて生きて還らじ。願はくは君、又、一言の命を臣に垂れたまへ。君、臣に許さずんば、臣、敢へて将たらずと。君、これを許す。乃ち辞して行く。
「『軍中の事、君命を聞かず。皆、将より出づ。敵に臨んで戦ひを決す。二心有ること無し。かくの如くするときは、則ち上に天無く、下に地無し。前に敵無く、後に君無し。この故に、智者はこれがために謀り、勇者はこれがために闘ふ。気、青雲を励まし、疾きこと、馳騖するが如し。兵、刃を交じへずして、敵、降服す。戦ひ、外に勝ち、功、内に立つ。吏{*4}、遷され、士、賞せられる。百姓、懽悦し、将、咎殃無し。この故に、風雨、時節あり、五穀豊熟して、社稷安寧なり。{*k}』といへり。古より今に至るまで、将を重んずる事、かくの如くにてこそ、敵を亡ぼし国を治むる道は候事なれ。
「さる程に、この間、北国の有様を伝へ承るに、大将の挙状を帯せざれども、士卒、直に訴ふる事あれば、やがて勅裁を下され、僅かに山中を伺ひ伺候の労を以て、軍用を{*5}支へらる。北国の所領どもを望む人あれば、事問はずして聖断をなさる。これに依つて、大将、威軽く、士卒、心恣にして、義助、遂に百戦の利を失へり。これ、全く戦ひの罪にあらず。唯、上の御沙汰の違ふ処に出でたり。
「君、忝くもこれを思し召し知るに依つて、今、その賞を重んぜらるるものなり。秦の将、孟明視、西乞術、白乙丙、鄭国の軍に打ち負けて帰りたりしを、秦の穆公、素服郊迎して、『我、百里奚、褰叔が詞を用ゐずして、辱しめられたり。三子は何の罪かある。それ、専心怠る事なかれ。』といひて、三人の官禄を復せしにて候はずや。何ぞ古の維盛を入道相国賞せしに同じくせんや。」と申されしかば、さしも大才の実世卿、詞なくしてぞ退出せられける。
校訂者注
1:底本頭注に、「後村上天皇。」とある。
2:底本頭注に、「あざけり。」とある。
3:底本頭注に、「〇凡国有難云々 六韜竜韜立将篇に出づ。」とある。
4:底本は、「史」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
5:底本は、「軍用に支(さゝ)へらる。」。
k:底本、この間は漢文。
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