佐々木信胤宮方になる事
かかる処に、伊予国より専使馳せ来りて、急ぎ然るべき大将を一人選びて下されば、御方に対して忠戦を致すべきの由を奏聞したりしかば、脇屋刑部卿義助朝臣を下さるべきに、公議、定まりけり。「されども、下向の道、海上も陸地も皆、敵陣なり。如何して下すべき。」と、僉議、一ならざりける処に、備前国の住人佐々木飽浦三郎左衛門尉信胤、早馬を打つて、「去月二十三日、小豆島に押し渡り、義兵を挙ぐる処に、国中の忠ある輩、馳せ加はつて、逆徒少々打ち従へ、京都運送の船路を差し塞いでさふらふなり。急ぎ近日、大将御下向あるべし。」とぞ告げたりける。諸卿、これを聞きて、「大将進発の道開けて、天運、機を得たる時至りぬ。」と悦び給ふ事、限りなし。
そもそもこの信胤と申すは、去んぬる建武の乱の始めに、細川卿律師定禅に与力して、備前、備中の両国を平らげ、将軍のために忠功ありしかば、武恩に飽きて、恨みを含むべき事もなかりしに、何に依つて今、俄に宮方になりしぞと、事の根元を尋ぬれば、この頃、天下に禍ひをなす例の傾城{*1}故とぞ申しける。
その頃、菊亭殿に御妻とて、眉目かたち類なく、その品賤しからで、なまめきたる女房ありけり。しかあれども、元来心軽く、思ひ定めたる方もなければ、何となく引く手あまたのうき網の、目もはづかなるその喩へも猶こと過ぎて、寄る瀬いづくにかと、我ながら思ひわかでぞありわたりける。さはありながら、おぼろげにては人の近づくべきにもあらぬ宮中の深き住まひなるに、いかにして心をかけし玉垂の、ひま求め得たる便りにかありけん、今の世に肩を並ぶる人もなき高土佐守{*2}に通ひ馴れて、人しれず思ひむすぼれたる下紐の、せきとめがたき中なれば、初めの程こそ忍びけれ、後ははや、山田にかかるひたぶるに打ちひたたけて{*3}、あやにくなる里居にのみまかでければ、宮仕へも常には{*4}おろそかなる事のみありて、主の左のおほいまうちぎみ{*5}も、「かくとも知らせたまひしかば、むづかしの人目を中の関守や、よひよひ毎の更け過ぐるをまたずともあれかし。」など許され、まかで{*6}出でける時もあり。
かかりし程に、この土佐守に元相馴れて、子供あまた儲けたる鎌倉の女房のありけり。これは元来、田舎人なりければ、物妬みはしたなく、心猛々しくて、かの源氏の雨夜の物語に、頭中将の指をくひ切りたりし有様ども多かりけり。されども子供の親なれば、けしからずの有様かなとは思ひながら、否と云ふべき方もなくて、年を送りける処に、土佐守、伊勢国の守護になつて下向しけるが、二人の女房を皆具足して下らんとて、元の女房をば先づ下しぬ。御妻を同じ様にと待ちしかども、今日よ明日よとて、少しうるさげなる気色に見えしかば、土佐守、猶も思ひの色増して、伴ひ行かでは叶ふまじきとて、三日まで逗留して、とかくいひ恨みける程に、さらばとて、夜半ばかりに輿さし寄せ、几帳さし隠して助け乗せられぬ。
土佐守、限りなくうれしくて、道に少しも休らはず、やがて伊勢路に赴きけり。まだ夜を篭めて、逢坂の関の岩かど踏み鳴らし、木綿附鳥{*7}に送られて、水の上なる粟津野の、露分け行けばにほの海{*8}、流れの末の河となる、勢多の橋を打ち渡れば、衣手の田上河の朝風に、比良の峯わたし吹き来つて、輿の簾を吹き揚げたり。出だし絹の中を見入れたれば、年の程八十ばかりなる古尼の、額には皺のみよりて、口には歯一つもなきが、腰二重にかがめてぞ乗つたりける。
土佐守、驚いて、「これは、いかさま、古狸か古狐かの化けたるにてぞあるらん。鼻をふすべよ。蟇目にて射て見よ。」と申しければ、尼、泣く泣く、「これは、化者にても候はず。菊亭殿へ年頃参り通ふものにて候を、御妻の局へ召されて、『かやうにて京に住みわびんよりは、我が下る田舎へ行きて、暫くも慰めかし。』と仰せられ候ひし間、さそふ水もがなと思ふ憂き身にて候へば、うれしき事に思ひて、昨日御局へ参りて候へば、留められ参らせて、妻戸に輿を寄せたりしに、『それに乗れ。』と仰せ候ひしかば、何心もなく乗つたるばかりにて候ぞ。」と申しける。土佐守、「さては、この女房に出だし抜かれたるものなり。かの御所に討ち入つて奪ひ取らずば、下るまじきものを。」とて、尼をば勢多の橋詰めに打ち捨てて、空輿を舁きかへして、又、京へぞ上りける。
元来思慮なき土佐守、菊亭殿に押し寄せて、四方の門を差し篭めて、残る所なく捜しける。御所中の人々、「こは、如何なる事ぞ。」とて、上下、あわて騒ぐこと限りなし。如何に求むれどもなければ、この女房の住みしあたりなる局にありける女の童を捕らへて責め問ひければ、「その女房は、通ふ方多かりしかば、いづくとも指しては知りがたし。この頃は、飽浦三郎左衛門とかや云ふ者にこそ、分きて志深く、人目も憚らぬ様に承り候ひしか。」と語りければ、土佐守、いよいよ腹を据ゑかねて、やがて飽浦が宿所へ押し寄せて討たんと謀りけるを聞きて、自科{*9}遁れ難きに依つて身を隠しかね、多年粉骨の忠功を棄てて、宮方の旗をば挙げけるなり。
「『折り得ても心ゆるすな山桜さそふ嵐にちりもこそすれ』と歌に詠みたりしは、人の心の花なりけり。」と、今さら思ひ知つても、あさましかりしことどもなり。
義助予州へ下向の事
さる程に、「四国の通路開けぬ。」とて、脇屋刑部卿義助は、暦応三年四月一日、勅命を蒙つて、四国西国の大将を承つて下向とぞ聞こえし。年頃相従ふ兵、その数、多しといへども、越前美濃の合戦に打ち負けしとき、大将の行く末を知らずして山林に隠れ忍び、或いは危難を遁れて境を隔てしかば、吉野へ馳せ来る兵、五百騎にも足らざりけり。されども、「四国中国に心を通ずる官軍、多くありしかば、いま一日も急ぐべし。」とて、未明に吉野を打つ立つて、紀伊路にかかり通られけるに、「かやうのついでならでは、いつか参詣の志をも遂げ、当来値遇の縁をも結ぶべき。」と思はれければ、先づ高野山に詣でて三日逗留し、院々谷々拝み廻るに、聞きしよりなほ貴くて、八葉の峯、空にそびえて、千仏の座、雲に捧げたり。
無漏の扉、苔閉ぢて、三会の暁に月を期す。或いは説法衆会の場もあり、或いは念仏三昧の砌もあり。飛行の三鈷{*10}、地に堕ち、験に生ひたる一株の松、回禄の余煙、ほのかに去つて、軒を焦がせる御影堂、香煙、窓を出でて心細く{*11}、鈴の声、霧に篭つてもの寂し。「これは昔、滝口入道が住みたりし庵室の跡。」とて尋ぬれば、古き板間に苔むして、荒れても漏らぬ夜の月。「かれは古、西行法師が結び置きし柴の庵のなごり。」とて立ち寄れば、払はぬ庭に花散りて、踏むに跡なき朝の雪。様々の霊場、所所の幽閑を見給ふにぞ、「遁れぬべくは、かくてこそあらまほしく。」と宣ひし維盛卿の心の中、実にもと思ひ知られたる。
しばらくもかかる霊地に逗留して、猶も憂き身の汚れをすすぎたく思はれけれども、軍旅に赴きたまふことなれば、かなはずして、高野より紀伊路にかかり、千里の浜を打ち過ぎて、田辺の宿に逗留し、渡海の船をそろへ給ふに、熊野の新宮別当湛誉、湯浅入道定仏、山本判官、東四郎、西四郎以下の熊野人ども、馬物具、弓矢、太刀長刀、兵粮等に至るまで、我劣らじと奉りける間、行路の助け、沢山なり。かくて順風になりにければ、熊野人ども、兵船三百余艘{*12}そろへ立て、淡路の武島{*13}へ送り奉る。
ここには安間、志宇知、小笠原の一族ども、元来宮方にて、城を構へて居たりしかば、様々の酒肴、引出物を尽くして、三百余艘の船をそろへ、備前の児島へ送り奉る。ここには佐々木薩摩守信胤、梶原三郎、去年より宮方になつて、島の内には交じる人もなし。されば、大船あまたそろへて、四月二十三日、伊予国今張浦に送り著け奉る。
大館左馬助氏明は、先帝、山門{*14}より京へ御出でありし時、供奉仕つてありしが、如何思ひけん、降人になり、しばらくは将軍に属して居たりけるが、「先帝、ひそかに牢御所を御出であつて、吉野に御座あり。」と聞きて、やがて馳せ参じたりしかば、君、御感あつて、伊予国の守護に補せられしかば、去年の春より当国に居住してあり。又、四條大納言隆資子息少将有資は、この国の国司にて、去々年より在国せらる。土居、得能、土肥、河田、武市、日吉の者ども、多年の宮方にして、東は讃岐の敵を支へ、西は土佐の畑を境うて居たりければ、大将下向にいよいよ勢ひを得て、竜の水を得、虎の山によりかかるが如し。
その威、漸く近国に振ひしかば、四国は申すに及ばず、備前、備後、安芸、周防、乃至九国の方までも、「また、大事出で来ぬ。」と云はぬ者こそなかりけれ。されば、当国の中にも、将軍方の城、僅かに十余箇所ありけるも、未だ敵も向かはぬ先に、皆聞き落ちしてんげれば、今は四国悉く一統して、「何事かあるべき。」と、たのもしく思ひあへり。
校訂者注
1:底本は、「傾城(けいせい)」。底本頭注に、「美人。」とある。
2:底本頭注に、「師秋。師行の子。」とある。
3:底本頭注に、「〇山田にかゝるひたぶるに ひたぶるのひたと引板のひたとを云ひ懸く。」「〇打ちひたたけて あらはになつて。」とある。
4:底本は、「常に疎(おろそ)かなる」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
5:底本頭注に、「左大臣。」とある。
6:底本は、「まかり出でける」。『太平記 三』(1983年)に従いそれぞれ改めた。
7:底本は、「木綿附鳥(ゆふつけどり)」。底本頭注に、「鶏。」とある。
8:底本頭注に、「琵琶湖。」とある。
9:底本は、「自科(じくわ)」。底本頭注に、「みづから犯した罪。」とある。
10:底本は、「飛行(ひぎやう)の三鈷(さんこ)」。底本頭注に、「弘法大師が明州の津で投げた三鈷(仏具の一)が雲に入り我が国高野山に止つたといふ。」とある。
11:底本は、「心細き鈴の声」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
12:底本は、「三百艘」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
13:底本は、「武島(むしま)」。底本頭注に、「今の沼島か。」とある。
14:底本頭注に、「〇先帝 御醍醐帝。」「〇山門 比叡山延暦寺。」とある。
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