義助朝臣病死の事 附 鞆軍の事
かかる処に、同じき五月四日、国府に居られたる脇屋刑部卿義助、俄に病を受けて、身心悩乱し給ひけるが、僅かに七日過ぎて、終にはかなくなり給ひにけり。相従ふ官軍ども、始皇、沙丘に崩じて、漢楚、機に乗る事{*1}を悲しみ、孔明、籌筆駅に死して、呉魏、便りを得し事を愁へしが如く、五更に灯消えて、破窓の雨に向ひ、中流に船を失ひて、一瓢の浪に漂ふらんもかくやとおぼえて、この事、よそに聞こえなば、敵に気を得られつべしとて、ひそかに葬礼を致して、悲しみを隠し声を呑むといへども、さすが隠れなかりしかば、四国の大将軍にて、尊氏の置かれたる細川刑部大輔頼春、この事を聞きて、「時をば暫くも失ふべからず。これ、司馬仲達が、孔明が死せる弊えに乗つて蜀を亡ぼせし謀りごとなり。」とて、伊予、讃岐、阿波、淡路の勢七千余騎を率して、先づ伊予の境なる河江城へ押し寄せて、土肥三郎左衛門を攻めらる。
義助に従ひ附きたりし多年恩顧の兵ども、土居、得能、合田、二宮、日吉、多田、三木、羽床、三宅、武市の者ども、金谷修理大夫経氏を大将にて、兵船五百余艘にて、土肥が後詰めのために海上におし浮かぶ。これを聞きて、備後の鞆、尾道に船ぞろへして、土肥が城へ寄せんとしける備後、安芸、周防、長門の勢、大船千余艘にておし出だす。両陣の兵船ども、渡中に帆を突きて舷を叩き、鬨を作る。潮に追ひ、風に随つて押し合ひ押し合ひ、相戦ひける。
そのなかに、大館左馬助氏明が執事、岡部出羽守が乗りたる船十七艘、備後の宮下野守兼信、左右に別れて漕ぎ並べたる船四十余艘が中へ分け入りて、敵の船に遷り乗り遷り乗り、みな引つ組んで海中へ飛び入りけるこそ、いかめしかりし振舞なれ。備後、安芸、周防の船は皆大船なれば、艫舳に櫓を高く掻いて、さし下して散々に射る。伊予、土佐の船は皆小船なれば、逆櫓を立てて縦横に相当たる。両方の兵、よしや死して海底の魚腹に葬らるるとも、逃げて天下の人口には落ちじ{*2}ものをと、互に機を進め、一引きも引かず、終日戦ひ暮らしける処に、海上、俄に風きたつて、宮方の船をば悉く西をさして吹きもどす。寄せ手の船をば悉く伊予の地へ吹き送る。
夜に入りて、風、少し静まりければ、宮方の兵ども、「これ程に運のきかぬ時なれば、如何に思ふとも叶ふべからず。唯、元の方へ漕ぎ返すべきか。」と申しけるを、大将金谷修理大夫、「運を計り勝つ事を求むる時こそ、身を全うして功をなさんとは思へ。唯一人憑みたる大将軍脇屋義助は、病ひに侵され失せ給ひぬる上は、今は為すべき方なき微運の我等が、生きてあらば{*3}、いかばかりの事かあるべき。命を限りの戦ひして、弓矢の義を専らにするばかりなるべし。されば、運の通塞も軍の吉凶も謂ふべき処にあらず。いざや、今夜、備後の鞆へ押し寄せて、その城を追ひ落として、中国の勢著かば、西国を攻め随へん。」とて、その夜の夜半ばかりに備後の鞆へ押し寄する。
城中、折節無勢なりければ、三十余人ありける者ども、暫く戦ひて皆討死しければ、宮方の士卒、これに機を挙げて、大可島を詰め城に拵へ、鞆の浦に充満して、武島や小豆島の御方を待つ処に、備後、備中、安芸、周防四箇国の将軍の勢、三千余騎にて押し寄せたり。宮方は、大可島を後ろに当てて、東西の宿へ船を漕ぎ寄せて、打つては上がり打つては上がり、新手を入れ替へて戦ひたり。将軍方は、小松寺を陣に取りて、浜面へ騎馬の兵を出だし、懸け合ひ懸け合ひ揉み合ひたり。互に戦ひ屈して、十余日を経ける処に、「伊予の土肥が城、攻め落とされ{*4}、細川刑部大輔頼春は、大館左馬助氏明の篭られたる世田城へ懸かる。」と聞こえければ、土居、得能以下の者ども、「同じく死なば、我が国にてこそ屍を曝さめ、」とて、大可島を打ち棄てて、伊予国へ引き返す。
敗軍の士卒、相集まつて二千余騎ありけるその中より、日頃手柄顕はし名を知られたる兵を三百余騎すぐり出だして、懸け合ひの合戦に勝負を決せんといふ。これは、細川刑部大輔、目に余るほどの大勢なりと聞きて、「中々、何ともなき取り集め勢を対揚して合戦をせば、臆病武者に引つ立てられて、御方の負けをする事あるべし。唯、一騎当千の兵をすぐつて敵の大勢をかけ破り、大将細川刑部大輔と引つ組んで刺し違へん。」との謀りごとなり。「さらば、敵の国中へ入らぬ先に打つ立て。」とて、金谷修理大夫経氏を大将として、すぐつたる兵三百騎、みな一様に曼荼羅を書きて幌{*5}に懸けて、とても生きては帰るまじき軍なればとて、十死一生の日を吉日に取つて大勢の敵に向ひける心の中、樊噲も周勃も未だ得ざる振舞なり。「あはれ、ただ勇士の義を存する志のほど、やさしくも哀れなる事はあらじ。」とて、これを聞きける者は皆、鎧の袖をぞぬらしける。
さるほどに、細川刑部大輔、七千余騎を率して、「敵、已に打ち出づるなれば、心よく懸け合ひの合戦を致すべし。」とて、千町原へ打ち出でて、敵の陣を見渡せば、渺々たる野原に、中黒の旗一流れ、幽かに風に飛揚して、僅かに勢のほど三百騎ばかりぞ控へたる。細川刑部大輔、これを見給ひて、「当国の敵、これ程の小勢なるべしとは思はぬに、余りに無勢に見えければ、一定、究竟の者どもをすぐつて、大勢の中をかけ破り、頼春に近づかば、組んで勝負を決せんためにてぞあるらん。然らば、思ひ切つたる小勢を一息に討たんとせば、手に余つて討たれぬ事あるべし。
「唯、敵、破らんとせば破られて、然も後を塞げ、轡を並べてかからば、偽つて引き退いて敵の馬の足を疲らかせ、打物になつて一騎合ひにかからば、あひの鞭{*6}を打つて、押しもぢりに射て落とせ。敵疲れぬと見ば、新手を替へて取り篭めよ。余りに近づきて敵に組まるな{*7}。引くとも御方を見放すな。敵の小勢に御方を合はすれば、一騎に十騎を対しつべし。飽くまで敵を悩まして、弊えに乗つて一揉み揉みたらんに、などかこれ等を討たざるべき。」と、委細に手立てを成敗して、旗の真先に現れて、しづしづとぞ進まれたる。
金谷修理大夫、これを見て、「すはや、敵はかかると見えたるは。」とて、ちつとも見繕ふ処もなく、相懸かりにむずと攻めて、矢一つ射違ふる程こそありけれ、皆、弓矢をばはづし棄て、打物になつて、をめき叫んで{*8}真黒にぞかけたりける。
細川刑部大輔の馬廻りに、藤の一族、五百余騎{*9}にて控へたるが、かねての謀りごとなりければ、左右へ颯と分かれて控へたり。この中に大将ありと思ひも寄らず、三百騎の者ども、これをば目にもかけず、裏へつと駆け抜け、二陣の敵に打つて懸かる。この陣には、三木、坂西、坂東の兵ども相集まつて七百余騎、兜の錣を傾けて馬を立て納め、閑まり返つて控へたりけるが、勇猛強力の兵どもにかけ散されて、南なる山の峯へ颯と引いて上がりけるが、これもはかばかしき敵はなかりけりとて、三陣の敵に打つて懸かる。
これには、詫間、香西、橘家、小笠原の一族ども、二千余騎にて控へたり。これにぞ大将はおはすらんと見澄まして、中を颯とかけ破つて、取つて返し、引つ組んでは刺し違へ、落ち重なつては首を取る。一足も引かず戦ひけるに、宮方の兵三百余騎、忽ちに蹄の下に討死して、僅か十七騎にぞなりたりける。その十七騎と申すは、先づ大将金谷経氏、河野備前守通郷、得能弾正、日吉大蔵左衛門、杉原与一、富田六郎、武市与三左衛門、土居備中守、浅海六郎等なり。彼等は一騎当千の兵なれば、自ら敵に当たる事十余箇度、陣を破る事六箇度なりといへども、未だ痛手をも負はず、又、疲れたる体もなかりけり。
一所に馬を打ち寄せて、「馬も物具も見知らねば、大将、いづれとも知り難し。させる事もなき国勢{*10}どもに逢うて討死せんよりは、いざや、打ち破つて落ちん{*11}。」とて、十七騎の人々は、また馬の鼻を引き返し、七千余騎が真中をかけ破つて、備後をさして引いて行く。いかめしかりし振舞なり。
大館左馬助討死の事 附 篠塚勇力の事
かかりしかば、大将細川頼春は、合戦、事散じて、御方の手負死人を註さるるに、七百人に余れりといへども、宗徒の敵{*12}二百余人討たれにければ、人皆、気を挙げ勇みをなせり。「さらば、やがて大館左馬助が篭つたる世田城へ寄せよ。」とて、八月二十四日の早旦に、世田の後ろなる山へ打ち上りて、城を遥かに見下し、一万余騎を七手に分けて、城の四辺に打ち寄せ、先づ己が陣々をぞ構へたる。向ひ陣、已に取り巻かせければ、四方より攻め寄せて、持楯をかづき寄せ、乱杭逆茂木を引きのけて、夜昼三十日までぞ攻めたりける。
城の内には、宗徒の軍をもしつべき兵と憑まれし岡部出羽守が一族四十余人、皆、日比沖にて自害しぬ。その外の勇士どもは、千町原の戦ひに討死しぬ。力尽き食乏しくして、防ぐべき様もなかりければ、九月三日の暁、大館左馬助主従十七騎、一の木戸口へ{*13}打ち出でて、塀に著きたる敵五百余人を遥かなる麓へ追ひ下し、一度に腹を切つて、枕を並べてぞ伏したりける。防ぎ矢射ける兵ども、これを見て、今はいつをか期すべきとて、或いは敵に引つ組んで刺し違へるもあり、或いは己が役所に火をかけて、猛火の底に死するもあり。目も当てられぬ有様なり。
かやうに人々自害しけるその中に、篠塚伊賀守一人は、大手の一二の木戸、のこりなく押し開きて、ただ一人ぞ立ちたりける。降人に出づるかと見れば、さはなくて、紺糸の鎧に鍬形打つたる兜の緒を締め、四尺三寸ありける太刀に、八尺あまりの金撮棒{*14}、脇にさし挟みて、大音揚げて申しけるは、「よそにては定めて名をも聞きつらん。今、近づいて我を知れ。畠山荘司次郎重忠に六代の孫、武蔵国にそだつて、新田殿に一人当千と憑まれたりし篠塚伊賀守、ここにあり。討つて勲功に預かれ。」と呼ばはりて、百騎ばかり控へたる敵の中へ、ちつとも擬議せず{*15}走りかかる。その勢、事柄、勇鋭たるのみならず、かねて聞こえし大力なれば、誰かはこれを遮り止むべき。百余騎の勢、東西へ颯と引き退いて、中を開いてぞ通しける。
篠塚、馬にも乗らず、弓矢をも持たず、しかも唯一人なれば、「何程の事かあるべき。唯、近づく事なくて、遠矢に射殺せ。返し合はせば、かけ悩まして討て。」とて、藤、橘、伴の者ども二百余騎、後について{*16}追ひかくる。篠塚、少しも騒がず、小歌にてしづしづと落ち行きけるを、敵、「余すな。」とて追つかくれば、立ち止まつて、「ああ、御辺達。いたく近づいて、頚に中違ひすな。」とあざ笑うて、くだんの金棒を打ち振りければ、蜘の子を散らすが如く颯とは逃げ、また叢立つて後に集まり、鏃をそろへて射れば、「某が鎧には、かたがたのへろへろ矢は、よも立ち候はじ。すは、ここを射よ。」とて、後ろを差し向けてぞ休みける。
されども名誉の者なれば、「一人なりとも、もしや打ち止むる。」と、追つ懸けたる敵二百余騎に六里の道を送られて、その夜の夜半ばかりに今張浦にぞ著きたりける。これより船に乗りて、隠岐島{*17}へ落ちばやと志し、「船やある。」と見るに、敵の乗り棄てて水主ばかり残れる船、あまたあり。これこそ我が物よと悦んで、兜著ながら浪の上五町ばかりを泳ぎて、ある船にがばと飛び乗る。水主梶取、驚きて、「これはそもそも何者ぞ。」と咎めければ、「さな云ひそ。これは、宮方の落人、篠塚といふ者ぞ。急ぎこの船を出だして、我を隠岐島へ送れ。」といひて、二十余人してくり立てける碇を易々と引き上げ、十四、五尋ありける帆柱を軽々と押し立てて、屋形の内に高枕して、いびきかきてぞ臥したりける。水主、梶取ども、これを見て、「あな、おびただし。凡夫のわざにはあらじ。」と恐怖して、則ち順風に帆をかけて、隠岐島へ送りて後、暇を請ひてぞ帰りにける。
「昔も今も、勇士多しといへども、かかる事をば聞かず。」とて、篠塚を誉めぬものこそなかりけれ。
校訂者注
1:底本は、「機に乗らんこと」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
2:底本頭注に、「世人の笑ひぐさにはなるまい。」とある。
3:底本頭注に、「生きてあらばとて。」とある。
4:底本は、「城を攻(せ)め落(おと)さる。」。『太平記 三』(1983年)に従い削除し、改めた。
5:底本は、「幌(ほろ)」。底本頭注に、「背に負うて矢を防ぐもの。」とある。
6:底本頭注に、「弓射る間に鞭をあてること。」とある。
7:底本は、「組(く)まるゝな。」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
8:底本は、「叫(をめ)き喚(さけ)んで」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
9:底本は、「五百騎」。『太平記 三』(1983年)に従い補った。
10:底本は、「国勢(こくぜい)」。底本頭注に、「国々の催し勢。」とある。
11:底本は、「落(おと)さん」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
12:底本は、「勢」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
13:底本は、「木戸口(きどぐち)に打出でて、」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
14:底本は、「金撮棒(かなさいぼう)」。底本頭注に、「鉄棒。」とある。
15:底本頭注に、「何の猶予もせず。」とある。
16:底本は、「跡についで」。『太平記 三』(1983年)に従い改めた。
17:底本頭注に、「伊予国越智郡にある沖島のことで隠岐国ではない。」とある。
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