巻第二十三
大森彦七が事
暦応五年{*1}の春の頃、伊予国より飛脚到来して、不思議の注進あり。その故を委しく尋ぬれば、当国の住人大森彦七盛長といふ者あり。その心、飽くまで不敵にして、力、尋常の人に勝れたり。誠に血気の勇者と謂ひつべし。
去んぬる建武三年五月に、将軍、九州より攻め上り給ひし時、新田義貞、兵庫の湊河にて支へ、合戦のありし時、この大森の一族ども、細川卿律師定禅に随つて手痛く軍をし、楠正成に腹を切らせし者なり。されば、その勲功、他に異なりとて、数箇所の恩賞を賜はりてんげり。この悦びに誇つて、一族ども、様々の遊宴をつくし活計しけるが、猿楽は、これ遐齢延年のかたなればとて、御堂の庭に桟敷を打つて舞台を敷き、種々の風流を尽くさんとす。近隣の貴賤、これを聞きて群集する事、おびただし。
彦七も、その猿楽の衆なりければ、様々の装束ども、下人に持たせて楽屋へ行きけるが、山際の細道をすぐさまに通るに、年の程十七、八ばかりなる女房の、赤き袴に柳裏の五衣{*2}著て、鬢深く削ぎたるが、指し出でたる山の端の月に映じて、唯一人たたずみたり。彦七、これを見て、おぼえず、「かかる田舎などに、かやうの女房のあるべしとは。いづくよりか来るらん。又、如何なる桟敷へか行くらん。」と見居たれば、この女房、彦七に立ち向ひて、「路芝の露払ふべき人もなし。行くべき方をも誰に問はまし。」とて打ち萎れたる有様、如何なる荒夷なりとも、心を懸けずといふ事あらじとおぼえければ、彦七、あやしんで、如何なる宿の妻にてかあるらんに、あやめも知らざるわざ{*3}は如何と思ひながら、いふばかりなきわりなき姿に引かれて、心ならず、「こなたこそ道にて候へ。御桟敷など候はずば、たまたま用意の桟敷候。御入り候へかし。」と云ひければ、女、ちと打ち笑ひて、「うれしや候。さらば、御桟敷へ参り候はん。」といひて、後についてぞ歩みける。
羅綺にだも耐へざる姿、誠に物いたはしく、未だ一足も土をば踏まざる人よとおぼえて、行き悩みたる有様を見て、彦七、こらへず、「余りに露も深く候へば、あれまで負ひ参らせ候はん。」とて、前に跪きたれば、女房、少しも辞せず、「便なう、如何。」といひながら、やがて後ろにぞよりかかりける。白玉か何ぞと問ひしいにしへもかくやと思ひ知られつつ、嵐のつてに散る花の、袖に懸かるよりも軽やかに、梅花の匂ひなつかしく、踏む足もたどたどしく、心も空にうかれつつ、半町ばかり歩みけるが、山蔭の月少し暗かりける処にて、さしもいつくしかりつるこの女房、俄に、たけ八尺ばかりなる鬼となつて、二つの眼に朱を溶いて鏡の面に注ぎける{*4}が如く、上下の歯くひ違うて、口脇、耳の根まで広く割け、眉は漆にて百しほ塗りたる如くにして額を隠し、振分髪の中より五寸ばかりなる小牛の角、鱗をかづきて生ひ出でたり。その重き事、大磐石にて押すが如し。彦七、屹と驚いて、打ち棄てんとする処に、この化物、熊のごとくなる手にて、彦七が髪を掴んで虚空に上がらんとす。
彦七、元来したたかなるものなれば、むずと引つ組んで深田のなかへ転び落ちて、「盛長、化物組み留めたり。よれや、者ども。」と呼ばはりける声について、後にさがりたる者ども、太刀長刀の鞘をはづし、走り寄つてこれを見れば、化物は、かき消す様に失せにけり。彦七は、若党中間どもに引き起こされたれども、茫然として人心地もなければ、これ、只事にあらずとて、その夜の猿楽は止みにけり。さればとて、これ程まで馴らしたる猿楽を、さてあるべきにあらずとて、又、吉日を定め、堂の前に{*5}舞台をしき、桟敷を打ち並べたれば、見物の輩、群をなせり。
猿楽、已に半ばなりける時、遥かなる海上に、装束の唐笠程なる光り物、二、三百いで来たり。海人の縄焼く漁火か、鵜船に灯す篝火かと見れば、それにはあらで、一群立つたる黒雲の中に、玉の輿を舁き連ね、恐ろし気なる鬼形の者ども、前後左右に連なりたり。その後に、色々に鎧うたる兵百騎ばかり、細馬{*6}に轡を噛ませて供奉したり。近くなりしより、そのかたちは見えず。黒雲の中に電光、時々して、唯今猿楽する舞台の上に差し覆ひたる森の梢にぞ止まりける。
見物衆皆、肝を冷やす処に、雲の中より高声に、「大森彦七殿に申すべき事あつて、楠正成、参じて候なり。」とぞ呼ばはりける。彦七、かやうの事にかつて恐れぬ者なりければ、少しも臆せず、「人死して再び帰ることなし。定めてその魂魄の霊鬼となりたるにてぞあるらん。それはよし、何にてもあれ、楠殿は、何事の用あつて今ここに現じて、盛長をば呼び給ふぞ。」と問へば、楠、申しけるは、「正成、存命の間、様々の謀りごとを廻らして、相模入道の一家を傾けて先帝の宸襟を休め参らせ、天下一統に帰して聖主の万歳を仰ぐ処に、尊氏卿、直義朝臣、忽ちに虎狼の心をさし挟み、遂に君を傾け奉る。これに依つて、忠臣義士、屍を戦場に曝す輩、悉く修羅の眷属になつて、瞋恚を含む心、止む時なし。
「正成、彼と共に天下を覆さんと謀るに、貪瞋癡の三毒を表して、必ず三つの剣を用ゐるべし{*7}。我等大勢、忿怒の悪眼を開いて刹那に大千界を見るに、願ふ処の剣、たまたま我が朝の内に三つあり。その一つは日吉大宮にありしを、法味に替へて申し賜はりぬ。今一つは尊氏のもとにありしを、寵愛の童に入り代はつて乞ひ取りぬ。今一つは、御辺の唯今腰に差したる刀なり。知らずや、この刀は元暦の古、平家、壇の浦にて亡びし時、悪七兵衛景清が海に落としたりしを、海豚といふ魚が呑みて、讃岐の宇多津の沖にて死しぬ。海底に沈んで已に百余年を経て後、漁父の網に引かれて御辺のもとへ伝へたる刀なり。所詮、この刀をだに我等が物と持つならば、尊氏の代を奪はん事、掌の内なるべし。急ぎ参らせよと先帝{*8}の勅定にて、正成、罷り向つて候なり。早く賜はらん。」といひもはてぬに、雷、東西に鳴り渡りて、唯今落ち懸かるかとぞ聞こえける。
盛長、これにもかつて臆せず、刀の柄を砕けよと握りて申しけるは、「さては先度、美女に化けて我をたぶらかさんとせしも、御辺達の所行なりけるや。御辺、存日の時より常に申し通せし事なれば、如何なる重宝なりとも、御用と承らんに惜しみ奉るべきにあらず。但し、この刀をくれよ、将軍の世を亡ぼさんと承りつる、それこそえ参らすまじけれ。身、不肖なりといへども、盛長、将軍{*9}の御方に参じ、弐心なき者と知られ参らせし間、恩賞厚く蒙つて、一家の豊かなること、日頃に過ぎたり。されば、この猿楽をして遊ぶ事も、ひとへに武恩の余慶なり。およそ勇士の本意、唯、心を変ぜざるを以て義となす。されば、たとひ身をずたずたに割かれ、骨を一々に砕かるるとも、この刀をば参らすまじく候。早、御帰り候へ。」とて、虚空をはたと睨んで立ちたりければ、正成、以ての外、怒れる詞にて、「何ともいへ。遂には取らんものを。」と罵りて、元の如く光り渡り、海上遥かに飛び去りにけり。
見物の貴賤、これを見て、唯今、天へ引きあげられて上がるかと、肝魂も身にそはねば、子は親を呼び、親は子の手を引いて、四角八方へ逃げ去りける間、又、今夜の猿楽も、二、三番にて止めにけり。
その後、四、五日を経て、雨一通り降り過ぎて、風すさまじく吹き騒ぎ、稲光り時々しければ、盛長、「今夜、いかさま、くだんの化物来ぬとおぼゆ。遮つて待たばやと思ふなり。」とて、中門に敷皮敷いて鎧一縮し、二所籘の大弓に、中差あまた抜き散らし、鼻膏引いて、化物遅しとぞ待ち懸けたる。
案の如く、夜半過ぐる程に、さしも隈なかりつる中空の月、俄にかき曇りて、黒雲一叢立ち覆へり。雲の中に声あつて、「如何に、大森殿は、これにおはしぬるか。先度仰せられし剣を急ぎ参らせられ候へとて、綸旨を成されて候間、勅使に正成、又、罷り向つて候は{*10}。」といひければ、彦七、聞きもあへず庭へ立ち出でて、「今夜は定めて来り給ひぬらんと存じて、宵より待ち奉つてこそ候へ。初めは、何ともなき天狗、化物などの化して候事ぞと存ぜし間、委細の問答にも及び候はざりき。今、慥かに綸旨を帯したるぞと承り候へば、さては、仔細なき楠殿にて御座候ひけりと、信を取つてこそ候へ。事長々しきやうに候へども、不審の事どもを尋ぬるにて候。
「先づ、相伴ふ人、あまたありげに見え候ば、誰人にて御渡り候ぞ。御辺は、六道四生の間、如何なる所に生まれておはしますぞ。」と問ひければ、そのとき正成、庭前なる鞠の懸かり{*11}の柳の梢に、近々と下がつて申しけるは、「正成が相伴ふ人々には、先づ後醍醐天皇、兵部卿親王{*12}、新田左中将義貞、平馬助忠政、九郎大夫判官義経、能登守教経、正成を加へて七人なり。その外、泛々の輩、数ふるに暇あらず。」とぞ語りける。
盛長、重ねて申しけるは、「さて、そもそも先帝は、いづくに御座候ぞ。又、相随ひ奉る人々、如何なる姿にておはしますぞ。」と問へば、正成、答へて曰く、「先朝{*13}は、元来、摩醯首羅王の所変にておはすれば、今、かへつて欲界の六天に御座あり。相随ひ奉る人々は、悉く修羅の眷属となつて、或る時は天帝{*14}と戦ひ、或る時は人間に下つて、瞋恚強盛の人の心に入り替はる。」「さて御辺は、如何なる姿にておはしましぬる。」と問へば、正成、「某も、最期の悪念に引かれて罪障深かりしかば、今、千頭王鬼となつて、七頭の牛に乗れり。不審あらば、その有様を見せん。」とて、松明を十四、五、同時にはつと振り挙げたる、その光について虚空を遥かに見上げたれば、一叢立ちたる雲の中に、十二人の鬼ども、玉の御輿を舁き捧げたり。
その次には兵部卿親王、八竜に車を懸けて扈従し給ふ。新田左中将義貞は、三千余騎にて前陣に進み、九郎大夫判官義経は、ひた兜数百騎にて後陣に支へらる。その後に能登守教経、三百余艘の兵船を雲の浪に押し浮かべ給へば、平馬助忠政、赤旗一流れ差し挙げて、これも後陣に控へたり。また、虚空遥かに引きさがりて、楠正成、湊川にて合戦の時見しに少しも違はず、紺地の錦の鎧直垂に黒糸の鎧著て、頭の七つある牛にぞ乗りたりける。この外、保元平治に討たれし者ども、治承養和の争ひに滅びし源平両家の輩、この頃、元弘建武に亡びし兵ども、人に知られ名を顕はす程の者皆、甲冑を帯し弓箭を携へて、虚空十里ばかりが間に透間なくぞ見えたりける。
この有様、ただ{*15}盛長が幻にのみ見えて、他人の目には見えざりけり。盛長、左右を顧みて、「あれをば見ぬか。」と云はんとすれば、忽ちに風に従ふ雲の如く、漸々として消え失せにけり。唯、楠が物云ふ声ばかりぞ残りける。盛長、これ程の不思議を見つれども、その心、猶も動ぜず。「一翳眼に在れば空花乱墜す{*16}といへり。千変百怪、何ぞ驚くに足らん。たとひ如何なる第六天の魔王どもが来つて云ふとも、この刀をば進ずまじきにて候。然らば例の、手の裏を返すが如くなる綸旨、賜はりても詮なし。早々、面々御帰り候へ。この刀をば将軍へ参らせ候はんずるぞ。」といひ捨てて、盛長は内へ入りにけり。
正成、大きにあざわらひて、「この国、たとひ陸地に連なりたりとも、道をばたやすく通すまじ。まして海上を通るには、遣る事ゆめゆめあるまじきものを。」と、同音にどつと笑ひつつ、西を指してぞ飛び去りにける。その後より、盛長、物狂はしくなつて、山を走り水を潜る事、やむ時なし。太刀を抜き矢を放つ事、ひまなかりける間、一族ども相集まつて、盛長を一間なる所に押し篭めて、弓箭兵杖を帯して警固の体にてぞ居たりける。
或る夜又、雨風一頻り通つて、稲妻の影頻りなりければ、すはや、例の楠こそ来れと怪しむ処に、案の如く、盛長が寝たる枕の障子をかばと踏み破つて、数十人討ち入る音しけり。警固の者ども、起きふためきて、太刀長刀の鞘を外して、夜討ち入りたりと心得て、敵はいづくにかあると見れども、更になし。こは如何にと思ふ処に、天井より、熊の手の如くなる毛生ひて長き手をさし下して、盛長が髻を取つて宙に引つ提げ、破風の口より出でんとす。盛長、宙にさげられながら、くだんの刀を抜いて、化物の真唯中を三刀刺したりければ、刺されてちと弱りたる体に見えければ、むずと引つ組んで、破風より広廂の軒の上に転び落ち、取つて押しつけ、重ねて七刀までぞ刺したりける。化物、急所を刺されてやありけん、脇の下より鞠の勢なる物、ふつと抜け出でて、虚空を指してぞ上がりける。
警固の者ども、梯子を差して軒の上に登りて見れば、一つの牛の頭あり。「これは、いかさま、楠が乗りたる牛か。然らずば、その魂魄の宿れるものか。」とて、この牛の頭を中門の柱に結ひつけて置きたれば、夜もすがら鳴りはためきて動きける間、打ち砕いて則ち水底にぞ沈めける。
その次の夜も、月曇り風荒くして、怪しき気色に見えければ、警固の者ども大勢、遠侍{*17}に並み居て、夜もすがら眠らじと、碁双六を打ちてぞ遊びける。夜半過ぐる程に、上下百余人ありける警固の者ども、同時にあつと云ひけるが、皆、酒に酔へる者の如くなりて、頭を垂れて眠り居たり。その座中に禅僧一人、眠らでありけるが、灯火の影より見れば、大きなる山蜘蛛一つ、天井より下つて、寝入りたる人の上を這ひ廻つて、又、天井へぞ上がりける。その後、盛長、俄に驚いて、「心得たり。」といふままに、人と引つ組んだる体に見えて、上が下にぞ返しける。叶はぬ詮にやなりけん、「よれや、者ども。」と呼びければ、傍に臥したる者ども、起き上がらんとするに、或いは柱に髻を結ひつけられ、或いは人の手を我が足に結ひ合はせられて、ただ網に懸かれる魚の如くなり。
この禅僧、あまりの不思議さに走り立ちて見れば、さしも強力の者ども、僅かなる蜘蛛のい{*18}に手足をかけられて、更に働き得ざりけり。されども盛長、「化物をば取つて押さへたるぞ。火を持つてよれ。」と申しければ、警固の者ども、とかくして起きあがり、蝋燭を灯いて見るに、盛長が押さへたる膝を持ち挙げんとむくめきける。諸人、手に手を重ねて、逃がさじと押す程に、大きなる土器の破るる音して、微塵に砕けにけり。その後、手をのけてこれを見れば、曝れたる死人の頭、眉間の半ばより砕けてぞ残りける。
盛長、大息をつきて、暫し心を静めて、腰を探つて見れば、早、この化物に刀を取られ、鞘ばかりぞ残りにける。これを見て盛長、「我、已に疫鬼に魂を奪はれ、今は如何に猛く思ふとも叶ふまじ。我が命の事は、物の数ならず。将軍の御運如何。」と歎きて、色を変じ涙を流して、わなわなと震ひければ、聞く者見る人、悉く身の毛よだつてぞ候ひける。
かくて、夜少し更けて、有明の月、中門に差し入りたるに、簾を高く捲き上げて庭を見出だしたれば、空より毬の如くなる物、光りて叢の中へぞ落ちたりける。何やらんと走り出でて見れば、先に盛長に押し砕かれたりつる頭の半ばのこりたるに、くだんの刀、自ら抜けて、柄口まで突き貫いてぞ落ちたりける。不思議なりといふもおろかなり。やがて、この頭を取つて火に抛げ入れたれば、跳り出でけるを、金鋏にて焼き砕いてぞ棄てたりける。
事静まりて後、盛長、「今は化物、よも来らじとおぼゆる。その故は、楠が相伴ふ者七人といひしが、我に来る事、已に七度なり。これまでにてぞあらめ。」と申しければ、諸人、「誠に、さもおぼゆ。」と同ずるを聞きて、虚空にしはがれ声にて、「よも七人には限り候はじ。」とあざわらひて謂ひければ、こは如何にと驚いて、諸人、空を見上げたれば、庭なる鞠のかかりに、眉太{*19}に作り、鉄漿黒なる女の首、面四、五尺もあるらんとおぼえたるが、乱れ髪を振り挙げて、目もあやに打ち笑うて、「はづかしや。」とて後ろ向きける。これを見る人、あつと怯えて、同時にぞ皆倒れ臥しける。
かやうの化物は、蟇目の声に恐るなり{*20}とて、毎夜、番衆を据ゑて、宿直蟇目を射させければ、虚空にどつと笑ふ声、毎度に天を響かしけり。さらば{*21}、陰陽師に門を封ぜさせよとて、符を書かせて門々に押せば、目にも見えぬ者来つて、符を取つて棄てける間、かくては如何すべきと思ひ煩ひける処に、彦七が縁者に禅僧のありけるが、来つて申しけるは、「そもそも、今現ずる所の悪霊どもは、皆、修羅の眷属たり。これを静めん謀りごとを案ずるに、大般若経を読むに如くべからず。その故は、帝釈と修羅と、須弥の中央にて合戦を致す時、帝釈、軍に勝てば、修羅、小身を現じて藕糸の孔の内に隠れ、修羅又勝つ時は、須弥の頂に坐して、手に日月を握り、足に大海を踏む。しかのみならず、三十三天の上に攻め上つて、帝釈の居所を追ひ落とし、欲界の衆生を悉く我が有になさんとする時、諸天善神、善法堂に集まつて、般若を講じ給ふ。この時、虚空より輪宝下つて剣戟を降らし、修羅の輩をずたずたに割き切ると見えたり。されば、須弥の三十三天を領し給ふ帝釈だにも、我が叶はぬ所には、法威を以て魔王を降伏し給ふぞかし。況んや薄地の凡夫をや。法力を借らずんば、退治すること得難し。」と申しければ、「この議、誠に然るべし。」とて、俄に僧衆を請じて、真読の大般若を日夜六部までぞ読みたりける。
誠に般若講読の力に依つて、修羅、威を失ひけるにや、五月三日の暮程に、導師、高座の上にて啓白の鐘打ち鳴らしける時より、俄に天、掻き曇りて、雲の上に車を轟かし馬を馳せ違ふる声、止む時なし。矢さきの甲冑を徹す音は、雨の降るよりも繁く、剣戟を交じふる{*22}光は、輝く星に異ならず。聞く人見る者おしなべて、肝を冷やして恐れあへり。この闘ひの声やみて、天も晴れにしかば、盛長が狂乱、本復して、正成が魂魄、かつて夢にも来らずなりにけり。
さても、大般若経真読の功力に依つて、敵軍に威を添へんとせし楠正成が亡霊、静まりにければ、脇屋刑部卿義助、大館左馬助を始めとして、土居、得能に至るまで、或いは誅せられ、或いは腹切りて、なきが如くになりにけり。誠なるかな、天竺の班足王は、仁王経の功徳によつて千王を害する事をやめ、吾が朝の楠正成は、大般若講読の結縁に依つて三毒を免るることを得たりき。誠に、鎮護国家の経王、利益人民の要法なり。
その後、この刀をば、天下の霊剣なればとて、委細の注進を副へて上覧に備へしかば、左兵衛督直義朝臣、これを見給ひて、「事、誠ならば、末世の奇特、何事かこれに如くべき。」とて、上を作り直して、小竹作りと同じく賞翫せられけるとかや。沙に埋づもれて年久しく、断剣の如くなりしこの刀、盛長が注進に依つて凌天の光を輝かす。不思議なりし事どもなり。
校訂者注
1:底本は、「暦応三年」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
2:底本は、「柳裏(やなぎうら)の五衣(いつゝぎぬ)」。底本頭注に、「表が白で裏が青の五重の衣。」とある。
3:底本は、「善悪(あやめ)も知らざるわざ」。底本頭注に、「何かゆゑありげなふるまひ。」とある。
4:底本は、「洒(そゝ)ぎたるがごとく、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
5:底本は、「前の舞台(ぶたい)」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
6:底本頭注に、「良馬。」とある。
7:底本は、「用ふべし」。
8:底本頭注に、「御醍醐帝。」とある。
9:底本頭注に、「足利尊氏。」とある。
10:底本は、「候ぞ。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
11:底本頭注に、「蹴鞠場。」とある。
12:底本頭注に、「大塔宮護良親王。」とある。
13:底本頭注に、「先帝即ち御醍醐天皇。」とある。
14:底本頭注に、「帝釈天。」とある。
15:底本は、「この有様、盛長が」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
16:底本は、「一翳(えい)眼(がん)に在れば空花(くうげ)乱墜(らんつゐ)す」。底本頭注に、「僅かの曇でも眼にあるとちらちらする。」とある。
17:底本は、「遠侍(とほざむらひ)」。底本頭注に、「武家の邸にて中門の傍にある廊の如き所で番侍の詰所。」とある。
18:底本頭注に、「蜘蛛の網。」とある。
19:底本は、「眉大(まゆぶと)」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
20:底本は、「恐るるなり」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
21:底本は、「されば」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
22:底本は、「交ゆる」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
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