直義病悩について上皇御願書の事
さる程に、諸国の宮方、力衰へて、天下、武徳に帰し、中夏静まるに似たれども、仏神三宝をも敬はず、三台五門{*1}の所領をも渡さず、政道、さながら塗炭に堕ちぬれば、「世の中、如何。」と申し合へり。吉野の先帝{*2}崩御の後、様々の事ども申ししが、車輪の如くなる光り物、都を指して夜な夜な飛びわたり、種々の悪相どもを現じける間、「不思議かな。」と申すに合はせて、疾疫、家々に満ちて、貴賤苦しむ事、甚だし。
これをこそ、「珍事かな。」と申すに、同じき二月五日の暮ほどより、直義朝臣、俄に邪気に侵され、身心悩乱して五体逼迫しければ、諸寺の貴僧高僧に仰せて、御祈りななめならず。陰陽寮、鬼見、泰山府君を祭りて、財宝を焼き尽くし、薬医、典薬、倉公、華陀{*3}が術を究めて療治すれども、癒えず。病、日々に重つて、「今は、さて。」と見えしかば、京中の貴賤、驚きあひて、「この人、如何にもなり給ひなば、唯、小松大臣重盛の早世して、平家の運命、忽ちに{*4}尽きしに似たるべし。」と思ひよりて、「いよいよ天下の政道は、いたづら事なるべし。」と歎かぬ者もなかりけり。
持明院上皇{*5}、この由を聞こし召し、殊に歎き思し召ししかば、ひそかに勅使を立てられて、八幡宮に一紙の御願書を篭められて、様々の御立願あり。その詞に曰く、
{*k}敬つて白す 祈願の事
右、神霊の明徳を顕はすや、民を安んじ国を理するを本と為す。王者の政化を施すや、功を賞し賢を貴ぶを先と為す。ここに、左兵衛督源直義朝臣は、只に爪牙の良将たるのみに非ず、已に股肱の賢弼たり。四海の安危、偏へにこの人の力に懸かる。巨川の済渉{*6}、久しく眇身{*7}の心を沃ぐ。義は君臣たり、思ひは父子の如し。而して近日の間、宿霧相侵し、薬石験を失ふ。驚遽、頼もしげ無し。もし幽陵の擁護に非ずんば、いかでか病源の平癒を得んや。依つて心中、所念有り。廟前、将に祷請し奉らんとす。神霊、たとひ忿怒の心有りとも、眇身、已に祈謝の誠を抽んづ。懇棘{*8}忽ちに酬い、病根速やかに消せば、七日の光陰を点じ、弥天の{*9}碩才に課し、妙法の偈を講讃ぜしめ、尊勝供を勤修すべし。伏して乞ふ、尊神、叡願を哀納し、文治撥乱の昔の合体を忘れたまはずんば、早く経綸安全の今の霊験を施したまへ。春秋、とこしなへに盛んに、華夏{*10}、専ら泰からん。敬つて白す。
暦応五年二月日{*k}
勅使勘解由長官公時、御願書を開いて宝前に跪き、涙を流して高らかに読み上げ奉るに、宝殿、暫く振動して、御殿の妻戸開く音、幽かに聞こえけるが、誠に君臣合体の誠を感じ、霊神、擁護の助けをや加へ給ひけん、勅使帰参して三日の中に、直義朝臣、病ひ忽ち平癒し給ひけり。これを聞く者、「有り難きかな。昔、周の武王、病ひに臥して崩じ給はんとせし時、周公旦、天に祈つて命に替はらんとしたまひしかば、武王の病ひ、忽ちに癒えて、天下、無為の化に誇るに相似たり。」と、聖徳を感ぜぬものこそなかりけれ。又、傍らに吉野殿方を引く人は、「いでや、いたづら事、な云ひそ。神、非礼を受けず、正直の頭に宿らんと欲す。何故か諂諛の偽りを受けん。唯、折節よく、し合はせられたる願書なり。」と、欺く{*11}人も多かりけり。
土岐頼遠御幸に参り合ひ狼籍を致す事 附 雲客車より下るる事
同じき九月三日は、故伏見院の御忌日なりしかば、かの御仏事、殊更故院の御旧跡にて執り行はせ給はんために、持明院上皇、伏見殿へ御幸なる。この離宮は、さしも紫楼紺殿を彩り、奇樹怪石を集めて、見所ありし栖墀{*12}なれども、旧主、座を去る事、年久しくなりぬれば、見しにもあらず荒れはて、一叢薄の野となつて、鶉の床も露繁く、八重葎のみ門を閉ぢて、荻吹きすさむ軒端の風、苔もりかぬる板間の月、昔の秋を思ひ出でて、今の涙をぞ催しける。物毎に愁ひを惹き悲しみを添ふ秋の気色、光陰、人を待たず、無常迅速なる理、貴きも賤しきも皆、古になりぬる哀れさを、導師、富楼那の弁舌を借つて数刻宣説し給へば、上皇を始め奉り、旧臣老儒、悉く直衣束帯の袖を絞るばかりにぞ見えたりける。種々の御追善、端多くして{*13}、秋の日程なく昏れはてぬ。憐れむべし、九月初三の夜の月、出づる雲間に影消えて、虚穹に落つる雁の声、伏見の小田も物すごく、をちかた人の夕と、動き静まる程にもなりしかば、松明を取つて還御なる。
夜は、さしも更けざるに、御車、東洞院を上りに、五條辺りを過ぎさせ給ふ{*14}。かかる処に、土岐弾正少弼頼遠、二階堂下野判官行春、今、比叡の馬場にて笠懸射て、芝居の大酒{*15}に時刻を移し、これも夜更けて帰りけるが、端なく樋口東洞院の辻にて御幸にぞ参り合ひける。召次、御前に走り散つて、「何者ぞ、狼籍なり。下り候へ。」とぞ罵りける。下野判官行春は、これを聞いて、「御幸なりけり。」と心得て、馬より飛び下りて傍に畏まる。
土岐弾正少弼頼遠は、御幸も知らざりけるにや、この頃、時を得て、世をも恐れず心のままに振舞ひければ、馬をかけ据ゑて、「この頃、洛中にて頼遠などを下すべき者は、おぼえぬものを。おりよといふは、如何なる馬鹿者ぞ。一々に奴原、蟇目負はせてくれよ。」と罵りければ、前駆御随身、馳せ散つて、声々に、「如何なる田舎人なれば、かやうに狼籍をばふるまふぞ。院の御幸にてあるぞ。」と呼ばはりければ、頼遠、酔狂の気や萌しけん、これを聞いて、からからと打ち笑ひ、「何、院といふか、犬といふか{*16}。犬ならば、射て落とさん。」といふままに、御車を真中に取り篭めて、馬をかけ寄せ、追物射にこそ射たりけれ。
竹林院中納言公重卿、御後ろに打たれけるが、衛府の太刀を抜き、馳せ寄せ、「かかるあさましき狼籍こそなけれ。御車をとく駆け破つて仕れ。」と下知せられけれども、牛の靷を切られて軛も折れ、牛童どもも散り散りになり行き、供奉の卿相雲客も皆打ち落とされて、御車に当たる矢をだに防ぎ参らする人もなし。下簾みなかなぐり落とされ、三十輻{*17}も少々折れにければ、御車は路頭に顛倒す。浅ましといふもおろかなり。
上皇は、唯、御夢の心地ましまして、何とも思し召し分けたる方もなかりけるを、竹林院中納言公重卿、御前に参られたりければ、上皇、「如何に。公重か。」とばかりにて、やがて御涙にぞ咽びましましける。公重卿も、進む涙を押さへて、「この頃の中夏{*18}の儀、蛮夷僭上、無礼の至極、是非に及ばず候。然れども、日月未だ天に懸からば、照鑑、何の疑ひか候べき。」と奏せられければ、上皇、少し叡慮を慰ませおはします。「されば、その事よ。聞けや、如何に。五條の天神は、御出でを聞いて宝殿より下り、御幸の道に畏まり、宇佐八幡は、勅使の度毎に威儀をつくろひて、勅答を申さるとこそ聞け。さこそ武臣の無礼の代と謂ふからに、かかる狼籍を目のあたり見つることよ。今は、末代乱悪の習俗にて、衛護の神もましまさぬかとこそおぼゆれ。」と仰せ出だされて、袞衣{*19}の御袖を御顔に押し当てさせおはしませば、公重卿も、涙の中にかきくれて、牛童少々尋ね出だして、泣く泣く還御なりにけり。
その頃は、直義朝臣、尊氏卿の政務に代はつて天下の権柄を執り給ひしかば、この事を伝へ承つて、「異朝にも未だこの類を聞かず。まして本朝に於いては、かつて耳目にも触れざる不思議なり。その罪を論ずるに、三族に行ひても尚足らず、五刑に下しても何ぞ当たらん。直にかの輩を召し出だして、車裂きにやする、醢{*20}にやすべき。」と、大きに驚嘆申されけり。頼遠も行春も、「かくては、事、悪しかりなん。」と思ひければ、皆、己が本国へぞ逃げ下りける。「この上は。」とて、「やがて討手を差し下し、退治せらるべし。」と評定一決したりければ、下野判官は、「叶はじ。」とや思ひけん、頚を延べて上洛し、咎なき由を様々陳じ申しける間、事の次第、委細に糺明あつて、行春をば罪の軽きに依つて死罪を宥められ、讃岐国へぞ流されける。
土岐頼遠は、いよいよ罪科遁るる所なかりければ、美濃国に楯篭つて謀叛を起こさんと相議して、便宜の知音、一族どもを招き寄すると聞こえしかば、「急ぎ討手を差し下し、退治せらるべし。」とて、先づ甥の刑部大輔頼康を始めとして、宗徒の一族どもに御教書を成し下されしかば、頼遠、謀叛も事行かず。「かくては如何。」と思案して、ひそかに都へ上り、夢窓国師をぞ憑みける。夢窓は、この頃天下の大善知識にて、公家武家、崇敬類なかりしかば、「さりとも。」と憑み仰せられしかども、左兵衛督{*21}、「これ程の大逆を緩く差し置かば、向後の積習たるべし。然れども、御口入{*22}黙止し難ければ力なく、その身をば誅せられて、子孫の安堵を全うすべし。」と返事申され、頼遠をば侍所細川陸奥守顕氏に渡されて、六條河原にて終に首を刎ねられけり。その弟に周済房とてあるをも、既に、「切らるべし。」と評定ありけるが、その時の人数にてはなかりける由、証拠分明なりければ、死刑の罪を免されて、やがて本国へぞ下りける。夢窓和尚の、武家に出でて、「さりとも{*23}。」と口入し給ひし事、叶はざりしを、欺く者やしたりけん、狂歌を一首、天竜寺の脇、壁の上にぞ書きたりける。
いしかりしときは夢窓にくらはれて周済ばかりぞ皿に残れる
この頼遠は、当代、殊更、大敵を靡け忠節を致せしかば、その賞翫も人に勝れ、その恩禄も他に異なりけるを、今かかる振舞に依つて、重ねて吹挙をも用ゐられず、忽ちにその身を失ひぬる事、「天地日月、未だ変異はなかりけり。」とて、皆人、恐怖して、直義の政道をぞ感じける。
この頃の習俗、華夏変じて戎国の民となりぬれば、人皆、院、国王といふことをも知らざりけるにや。「土岐頼遠こそ御幸に参り会ひて狼籍したりとて、斬られまゐらせたれ。」と申しければ、道を過ぐる田舎人ども、これを聞いて、「そもそも、院にだに馬より下りんには、将軍に参りあひては、土を這ふべきか。」とぞ欺きける。されば、をかしき事ども、浅ましき中にも多かりけり。
ここに、如何なる雲客にてかありけん、破れたる簾より見れば、年四十余りなりけるが、眉作り鉄漿つけて立烏帽子引きかづき著たる人の、轅はげたる破れ車を、打てども行かぬ疲れ牛に懸けて、北野の方へぞ通りける。今ほど洛中には武士ども充満して、時を得る人、その数を知らず。誰とは見えず、太く逞しき馬どもに思ひ思ひの鞍置いて、唐笠に毛沓はき、色々の小袖ぬぎさげて、酒あたため、たき残したる紅葉の枝、手毎に折りかざし、早歌交じりの雑談して、馬上二、三十騎、大内野の芝生の花、露と共に蹴散らかし、辺りを払つて歩ませたり。
主人とおぼしき馬上の客、この車を見つけて、「すはや、これこそくだんの院と云ふ曲者よ。頼遠などだにも、かかる恐ろしき者に乗り会ひして、生涯を失ふ。まして我等が様の者、いかにと咎められては叶ふまじ。いざや、下りん。」とて、一度にさつと馬より下り、頬被り外し笠ぬぎ、頭を地に著けてぞ畏まりける。車に乗りたる雲客は、又、これを見て、「あな、浅ましや。もしこれは、土岐が一族にてやあるらん。院をだに散々に射参らするを、まして吾等、ここを{*24}下りでは悪しかりぬべし。」とあわて騒ぎ、かけもはづさぬ車より飛び下りけるほどに、車は、なまじひに先へ行き馳するに、軸に当たつて立烏帽子を打ち落とし、髻放ちたる青陪従、片手にては髻をとらへ、片手には笏を取り直し、騎馬の客の前に跪き、「いかに、いかに。」と色代しけるは、前代未聞の曲事なり{*25}。
その日は殊更、聖廟の御縁日にて、参詣の貴賤、布引き{*26}なりけるが、これを見て、「けしからずの体たらくや。路頭の礼は、弘安の格式に定め置かれたり。それにも、『雲客、武士に対せば、車より下り、髻を放せ。』とはなきものを。」とて、笑はぬ者もなかりけり。
校訂者注
1:底本頭注に、「〇中夏 帝都。」「〇三台 三公。」「〇五門 五摂家。」とある。
2:底本頭注に、「御醍醐帝。」とある。
3:底本は、「倉公、華陀(くわだ)」。底本頭注に、「〇倉公 齊の人で医方術の名人。」「〇華陀 魏の人で養性の術に通じた人。」とある。
4:底本は、「忽ち尽(つ)きし」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
5:底本頭注に、「光厳院。」とある。
6:底本頭注に、「書経に『若済巨川用汝作舟』と見ゆ。」とある。
7:底本頭注に、「光厳院。」とある。
8:底本頭注に、「懇請。」とある。
9:底本頭注に、「天に満ちわたる。」とある。
10:底本頭注に、「京都。」とある。
11:底本頭注に、「あざける。」とある。
12:底本は、「栖墀(せいち)」。底本頭注に、「詩経に『衡門之下可以栖遅。』文選の註に『謂優遊也。』とある。遊山休息の所を云ふ。」とある。
13:底本頭注に、「雑事が多くて。」とある。
14:底本は、「過(すご)させ給ふ。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
15:底本頭注に、「芝生に張つた酒宴。」とある。
16:底本頭注に、「ゐんといぬと発音が似ている所からかう云つたのだ。」とある。
17:底本は、「三十輻(みそのや)」。底本頭注に、「老子の註に『古者車三十輻法日数也。』輻は車軸から輪へ出した木。」とある。
18:底本頭注に、「帝都。」とある。
19:底本は、「袞衣(こんえ)」。底本頭注に、「袞竜の衣。天子の礼装。」とある。
20:底本は、「醢(しゝびしほ)」。底本頭注に、「しほから漬け。」とある。
21:底本頭注に、「直義。」とある。
22:底本頭注に、「とりなし。」とある。
23:底本は、「さりとも口入(こうじゆ)」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
24:底本は、「こゝに下(お)りでは」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
25:底本は、「色代(しきだい)しけるは、前代未聞(みもん)の曲事(くせごと)なり」。底本頭注に、「〇色代 挨拶。」「〇曲事 珍妙な事。」とある。
26:底本頭注に、「ひきも切らず群集すること。」とある。
k:底本、この間は漢文。
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