山門の嗷訴に依つて公卿僉議の事
同じき八月に、「上皇、臨幸成つて、供養を遂げらるべし。」とて、国々の大名どもを召され、代々の例に任せ、その役を仰せ合はせらる{*1}。およそ天下の鼓騒、洛中の壮観と聞こえしかば、例の山門の大衆、怒りをなし、夜な夜なの蜂起、谷々の雷動、止む時なし。「あはや、天魔の障碍、法会の違乱いで来ぬる。」とぞ見えし。
三門跡{*2}、これを静めんために御登山あるを、若大衆ども、御坊へ押し寄せて、不日に追ひ下し奉り、やがて三塔会合して、大講堂の大庭にて僉議しける。その詞に曰く、「{*k}それ王道の盛衰は、仏法の邪正に依り、国家の安全は、山門の護持に在り。所謂桓武皇帝、平安城を建つるや、将来を吾が山に契り、伝教大師、比叡山を開くや、鎮守を帝城に致す。然りしより以来、釈氏化導の正宗、天子本命の道場、偏へに真言止観の繁興に在り。聖代明時の尊崇を専らにせらるるものなり。ここに頃年、禅法の興行、世に喧びすしく、顕密弘通、無きが如し。亡国の先兆、法滅の表事、誰人かこれを思はざらん。吾が山、殊に驚嘆す。例を異国に訪へば、宋朝の幼帝、禅宗を尊崇し、世を蒙古に奪はる。証を吾が朝に引けば、武臣相州、この法を貴重し、家を当今{*3}に傾けらる。覆轍遠からず、後車何ぞ誡めざらん。而るに今、天竜寺供養の儀、既に勅願の軌則を整へ、臨幸の壮観に及ぶべしと、云々。事、風聞の如くんば、天聴を驚かし奉り、疎石法師を遠流して、而して天竜寺に於いては、犬神人{*4}を以て破却せしむべきの由、公家に奏聞し、武家に触れ訴ふべし。裁許、もし猶予に及ばば、早く七社の神輿を頂戴し、九重の帝闕に振り奉るべし。{*k}」と僉議しければ、三千の大衆、一同に皆、「尤も。」とぞ同じける。
同じき七月三日、谷々の宿老、款状を捧げて陳参す。その奏状にいはく、
{*k}延暦寺三千の大衆法師等、誠恐誠惶謹言
特に天裁を蒙つて先例に因准し、忽ちに疎石法師の邪法を停廃せられ、その身を遠島に追放し、天竜寺に至つては、供養の儀則を止勅し、顕密両宗の教跡を恢弘して、いよいよ国家護持の精祈を致さんと請ふ状
右、謹しんで案内を考ふるに、直に諸宗の最頂を踏み、快く百王の聖躬を護するは、唯、天台顕密の法のみ。これを仰げばいよいよ高し。誰か一実円頓の月を攀ぢん。これを鑽ればいよいよ堅し。何ぞ四曼相即の花を折らん。ここを以て累代の徳化、忝くも叡運を当山に比す。諸刹の興基、多くは称号を末寺に寄す。もしそれ、順なるときは妨げず。建仁の儀、前に在り。逆なるときは得ず。嘉元の例{*5}、後に在り。今、疎石法師が行跡の如きは、柱を食らふ蠧害、人を射る含沙なり。亡国の先兆、大教の陵夷、これより甚しきは無し。何を以てこれを言ふ。僅かにその端を叩き、暗に西来の宗旨を挙げて、漫りに東漸の仏法を破る。これを守る者は、瓮を蒙つて壁に向ふ。これを信ずる者は、石を包んで金と為す{*6}。その愚心、皆かくの如し。しかのみならず、皇居の遺基を移して、人処の栖界と為す。何ぞ傷まざらんや。三朝礼儀の明堂ここに廃れて、野干、骸を争ふの地と為り、八宗論談の梵席永く絶えて、鬼神、舌を伸ぶるの声に替ふ。笑ひてかの行蔵を問へば、何の似たる所ぞ。譬へば猶、調達が衆を集めて{*7}邪路に落とし、提羅が供を貪りて利門を開くがごとし。ああ、人家漸く寺と為るすら、古賢、悲しんでこれを戒む。況んや皇居に於いてをや。聞くならく、岩栖礀飲、大いに人世を忘るるは、道人の幽趣なり。疎石独り、これに背く。櫛を山にし梲に描いて自ら居所を安んずるは、俗士の奢侈なり。疎石、尚これに過ぎたり。光を包み門を掩ふは、何ぞ墻を踰ゆるの人に異ならん{*8}。手を垂れてゑつぼに入るは、宛かも執鞭の士{*9}に同じ。天下、これを言へば口を嗽ぎ{*10}、山上、これを聞けば耳を洗ふ処に、剰へ今、臨幸の粧ひを厳かにし、将に供養の儀を繕はんとす。これに因つて三千の学侶、忽ちに雷同を為して一紙表奏し、頻りに天聴を驚かし奉る。ここに於いて勅答有りて曰く、天竜寺供養の事、厳重の勅願寺供養に非ず。当寺に准拠し、後醍醐天皇の御菩提と為し奉り、建立せられ訖んぬ。而るに追善の御仏事、武家申し行ふの間、御聴聞の為に密々臨幸有るべきかの由、その沙汰有る所なり。山門、訴へ申すこと、何の篇ぞや{*11}と、云々。綸宣に就いて往事を訪ふに、元を捨てて末を務むるは、明王の至徳に非ず。正を軽んじ邪を重んずるは、豈仏意の帰する所ならんや。而るに今、九院荒廃して、旧苔疎そかにして侵露の隙を補ひ、五堂回禄すれども、作木未だ成風の斧{*12}を巡らさず。吾が君、何ぞ天子本命の道場を差し置いて、犢牛前身の僧界を興さるる。大いなるかな、世、淳朴に在つて、四花、台嶺に敷く。痛ましきかな、時、澆薄に及んで、五葉、叢林と為る。正法邪法の興廃、粲然としてこれを見つべし。つらつら仏法滅尽経の文を看るに、曰く、我、滅尽の期、五濁悪世に、魔、沙門となつて吾が道を壊乱し、只、財物を貪り積集して散ぜずと。誠なるかな、この言。今疎石、これなり。望み請ふ、天裁、急に葛藤を断ちて、天竜寺に於いては須らく勅願の号を削り、勅会の儀を停止し、疎石を流刑し、かの寺を徹却せしむべし。もし然らば、法性常住の灯、長く挑げて、後五百歳の闇を輝かし、皇化照耀の日自ら暖かにして、春二三月の天よりも麗はしからん。懇歎の至りに耐へず。衆徒等、誠惶誠恐謹言。
康永四年七月日 延暦寺三千大衆法師等奉る{*k}
とぞ書きたりける。
奏状、内覧に下されて後、諸卿参列して、「この事、如何あるべき。」と僉議あり。されども、大儀なれば満座閉口の処に、坊城大納言経顕卿、進んで申されけるは、「先づ山門の申す詞に就いて、事の心を案ずるに、和漢の例を引いて、この宗を好む世は必ず亡びずといふ事なしと申す條、愚案短才の第一なり。その故は、異国にこの宗を尊崇せし始めをいへば、梁の武帝、達磨に対して無功徳の話を聞き、大同寺に禅坐したまひしより以来、唐代二百八十八年{*13}、宋朝三百十七年、皆宝祚長久にして国家安静なり。我が朝には、武臣相模守、この宗に傾いて、九代累葉を栄えたり。然るに、幼帝の時に至つて大宋は蒙古に奪はれ、本朝には、元弘の初めに当たつて高時、一家を亡ぼせし事は、全く禅法帰依の咎にあらず。唯、政を乱り驕りを極めし故なり。何ぞ必ずしも治まりし世を捨てて、亡びし時をのみ取らんや。これ、奸濫謀訴なり。豈許容するに足らんや。その上、天子、武を諱とし給ふ時は、世の人、武名を謂はず。況んやこの夢窓は、三代の国師として四海の知識たり。山門、たとひ訴へを横しまにすとも{*14}、義を知り礼を存せば、過言を止めて天裁を仰ぐべし。漫りに疎石法師を遠島へ遣はし、天竜寺を犬神人に仰せて破却すべしと申す條、奇怪至極なり。罪科軽からず。この時、もし刑を措かば、向後の嗷訴、絶ゆべからず。早く三門跡に相尋ねられ、衆徒の張本を召し出だし、断罪流刑にも行はるべしとこそ存じ候へ。」と、誠に余儀なく申されけり。
「この議、実にも。」とおぼゆる処に、日野大納言資明卿、申されけるは、「山門、いささか嗷訴に似て候へども、退いて愚案を加ふるに、一儀ありと存じ候。その故は、日本、開闢は天台山より起こり、王城の鎮護は延暦寺を以て専らとす。故に乱政、朝に行はるる日は、山門、これを諌め申し、邪法、世に興る時は、衆徒、これを退くる例、その来る事、久し。先づ後宇多院の御宇に、横岳の大応国師、嘉元寺を造らるる時、山門、訴へ申すに依つて、その議を止められ畢んぬ。又、以往には、土御門院の御宇元久三年に、沙門源空{*15}、専修念仏敷演の時、山門、訴へ申して、これを退治す。後堀河院の御宇嘉禄三年、尚専修の余殃を誡めて、法然上人の墳墓を破却せしむ。又、後鳥羽院の御宇建久年中に{*16}、栄西、能忍等、禅宗を洛中に弘めし時、南都北嶺、共に起こつて嗷訴に及ぶ。然るに{*17}、建仁寺建立に至つて、遮那、止観の両宗を置かるる上、開山、別儀を以て末寺たるべき由申し請はるるに依つて、免許せられ候ひき。総て、仏法の一事に限らず、百王の理乱、四海の安危、古より今に至るまで、山門、これを耳外に処せず。所謂治承の往代に、平相国清盛公、天下の権を執つて、この平安城を福原の卑湿に移せし時も、山門、ひとり奏状を捧げ、終に遷都の議を申し止め畢んぬ。これ等は皆、山門の大事にあらずといへども、仏法と王法と相比するの故を以て、裁許を被るものなり。
「そもそも禅宗の模様とする処は、宋朝の行儀、貴ぶ処は、祖師の行跡なり。然るに、今の禅僧の心操法則、皆これに相違せり。その故は、宋朝には西蕃の帝師とて、摩訶迦羅天{*18}の法を修して朝家の護持を致す真言師あり。彼、上天の下、一人の上たるべき約あるに依つて、如何なる大刹の長老、大耆旧{*19}の人も、路次に行き逢ふ時は、膝をかがめて地に跪き、朝庭に参会する時は、手を伸べ沓を取り礼を致すといへり。我が朝には然らず。無行短才なれども、禅僧とだにいひつれば、法務、大僧正、門主、貫頂の座に等しからん事を思へり。唯いま父母の養育を出でたる沙弥喝食も、兄を超え父を越えんと志すあり{*20}。これ、先づ仁義礼智信の法にはづる。かつて宋朝に例なく、我が朝にはじまれり。詞は語録に似て、その宗旨を説く時は、超仏越祖の手段ありといへども、利に向かつて他の権貴に媚ぶる時は、檀那に諂ひ富人に下らずといふ事なし。身には五色を飾り、食には八珍を尽くし、財産を投げて住持を望み、寄進と号して沙汰を寄する有様、誠に法滅の至りと見えたり。君子、その詞のその行ひに過ぎん事を恥づといへり。これ、豈恥を知るといはんや。およそ心有る人は、物を信じ化物を見じと思ふべし。その故は、戒行も欠け、内証も明らかならざれば、所得の施物、罪業にあらずといふ事なし。
「又、道学の者に三機あり。上機は人我無相なれば、心に懸かる事なし。中機は一念浮かべども、人我無理{*21}を観ずる故に、二念と相継いで思ふ事なし。下機は無相の理までは弁ぜねども、慙愧懺悔の心あつて、諸人を悩まさず慈悲の心あり。この外に、地獄に堕つべき者あるべしと見えたり。人の生涯を失はん事を顧みず、他の難非を顕はす、これ等なり。およそ寺を建てらるる事も、人法繁昌して僧法相対せば、真俗、道備はつて、尤も然るべし。宝堂荘厳に事を寄せ、奇麗厳浄を好むといへども、僧衆慈悲なく不正直にして、法を持し、人を謗して、いたづらに明かし暮らさば、仏法興隆とは申し難かるべし。知識とは、身命を惜しまず随逐給仕して、諸有所得の心を離れて清浄を修すべきに、今、禅の体を見るに、禁裏仙洞は松門茅屋の如くなれば、禅家には玉楼金殿をみがき、卿相雲客は木食草衣なれば、禅僧は珍膳妙衣に飽けり。祖師の行儀、かくの如くならんや。
「昔、摩伽陀国の城中に一人の僧あり。毎朝、東に向かつては快悦して礼拝し、北に向かつては嗟嘆して涙を流す。人、怪しみてその謂はれを問ふに、答へていはく、『東には、山中に乗戒ともに急なる僧、樹下石上に坐して、已に証を得て、年久し。仏法繁昌す。故にこれを礼す。北には、城中に練若{*22}あり。数十の堂塔甍をならべ、仏像経巻、金銀を鏤めたり。ここに住する百千の僧俗、飲食衣服、一つとして乏しき事なし。然りといへども、如来の正法を究めたる僧なし。仏法、忽ちに滅びなんとす。故に、毎朝嗟傷す。』と。これ、その証なり。如何に寺を造らるるとも、人の煩ひ歎きのみあつては、その益なかるべし。朝廷の衰微、歎いて余りあり。これを見て山門、頻りに禁廷に訴ふ。これを言ふ者は咎なく、これを聞く者は、以て誡むるに足れり。然らば、山門の訴へ申す処、その謂はれ有るかとこそ存じ候へ。」と、憚る処なくぞ申されける。
この両義、相分かれて、「是非、いづれにかある。」と、諸卿、心を傾け旨を弁じかねたれば、満座、鳴りを静めたり。ややあつて、三條源大納言通冬卿{*23}、申されけるは、「以前の議は、唯、天地各別の異論にて、道行くべしとも存ぜず。たとひ山門申す処、事多しといへども、肝要は唯、正法と邪法との論なり。然らば、禅僧と聖道と召し合はせ、宗論候へかしとこそ存じ候へ。さらでは、事行ひ難くこそ候へ。
「およそ宗論の事は、三国{*24}の間、先例多く候ものを。朝参の余暇に、賢愚因縁経を開き見候ひしに、かの祇園精舎の始めを尋ぬれば、舎衛国の大臣須達長者、この国に一つの精舎を建て、仏を安置し奉らんために、舎利弗と共にあまねく聚落園林を廻りて見給ふに、波斯匿王の太子、遊戯経行し給ふ祇陀園に勝れたる処なしとて、長者、太子にこの地を乞ひ奉る。祇陀太子、『吾、逍遥優遊の地なり。たやすく汝に与へ難し。但し、この地に敷き余れる程の金を以て買ひ取るべし。」とぞ戯れ給ひける。長者、この詞、誠ぞと心得て、やがて数箇の倉庫を開き、黄金を大象に負はせ、祇陀園八十頃の地に敷き満てて、太子にこれを奉る。祇陀太子、これを見給ひて、『吾が詞、戯れなり。汝、大願を起こして、精舎を建てんためにこの地を乞ふ。何の故にか我、これを惜しむべき。早くこの金を以て造工の助けになすべし。』と仰せられければ、長者、首を振つて曰く、「国を保つべき太子たる人は、仮にも妄語し給はず。臣又、苟くも詞を食むべからず{*25}。何ぞこの金を返し給ふべき。」とて、黄金を地に棄てければ、『この上は力なし。』とて、金を収め取つて地を与へらる。
「長者、大きに悦んで、やがてこの精舎を立てんと欲する処に、六師外道、波斯匿王に参つて申しけるは、『祇陀太子、瞿曇沙門{*26}のために、須達に祇陀園を与へて精舎を建てんとし給ふ。この国の弊え、民の煩ひのみにあらず。世を失ひ国を保ち給ふまじき事の瑞なり。速やかにこれを停め給へ。』とぞ訴へける。波斯匿王、外道の申す処も、その謂はれあり。長者の願力も棄て難しと、案じ煩ひ給ひて、『さらば、仏弟子と外道とを召し合はせ、神力を施させ、勝負について事を定むべし。』と宣下せられしかば、長者、これを聞きて、『仏弟子の通力、我が足の上の一毛にも、外道は及ばじ。』とぞ欺き{*27}給ひける。『さらば。』とて、予参の日を定め、『通力の勝劣を御覧あるべし。』と宣下せらる。
「既にその日になりしかば、金鼓を打つて見聞の衆を集め給ふ。舎衛国の三億悉く集まり、膝を重ね座を連ぬ。かかる処に六師外道が門人、雲霞の如く早く参じて著座したるに、舎利弗は寂場樹下に禅坐して、定より出で給はず。外道が門徒、『さればこそ。舎利弗、我が師の威徳に臆して退復し給ふ。』と笑ひ欺きける処に、舎利弗、定より立つて衣服を整へ、尼師壇を左の肩に著け、歩む事、獅子王の如く来り給ふ。この時、おぼえず外道ども、五体を地に著けて伏しける。
「座定まつて後、外道が弟子労度差、禁庭に歩み出で、虚空に向ひ目を眠り、口に文を呪したるに、百囲に余る大木、俄に生ひ出でて、花は春風に散り、葉は秋霜に酔ふ。見る人、奇特の思ひをなす。後に舎利弗、口をすぼめて息を出だし給ふに、その息、巡つて嵐風となり、この木を根より吹き抜いて、地に倒しぬ。労度差、又空に向つて呪するに、周囲三百里に見えたる池水、俄に湧出して、四面皆、七宝の霊池となる。舎利弗、又、目を揚げて遥かに天を見給へば、一頭六牙の白象、空中より下る。一牙の上に各七宝の蓮花を生じ、一々の花の上に各七人の玉女あり。この象、舌を延べて、一口にかの池水を呑み尽くす。外道、又虚空に向つて暫く呪したるに、三つの大山出現して、上に百余丈の樹木あり。その花、雲を凝らし、その木の実、玉を連ねたり。舎利弗、ここに手を揚げて空中を招き給ふに、一の金剛力士、杵を以て、この山を微塵の如く打ち砕く。
「又外道、先の如く呪するに、十頭の大竜、雲より下つて雨を降らし雷を振ふ。舎利弗、又頭を挙げて空中を見給ふに、一つの金翅鳥飛び来り、この大竜を割き食らふ。外道、又呪するに、肥壮多力の鉄牛一頭いで来て、地を這うて吼え怒る。舎利弗、一音を出だして咄々と叱し給ふに、奮迅の鉄の獅子走り出でて、この牛を食ひ殺す。外道、又座を立つて呪するに、たけ十丈余の一つの鬼神を現ぜり。頭の上より火出でて、炎、天にあがり、四つの牙、剣よりもするどにして、眼、日月を懸けたるがごとし。人皆、怖れ倒れて魂を消す処に、舎利弗、黙然と坐したまひたるに、多門天王、身には金色の鎧を著し、手に降伏の鋒をつきて出現し給ふに、この鬼神、怖畏して忽ちに逃げ去りぬ。その後、猛火、俄に燃え出で、炎、盛んに外道が身に懸かりければ、外道が門人、悉く舎利弗の前に倒れ伏して、五体を地に投げ、礼をなし、『願はくは尊者、慈悲の心をおこして哀愍し給へ。』と、己が罪をぞ謝し申しける。この時舎利弗、慈悲忍辱の心を起こし、身を百千に化し、十八変を現じて、還つて大座に著き給ふ。見聞の貴賤、悉く宿福開発し、随喜感動す。六師外道が徒、一時に皆出家して、正法宗に帰服す。これより須達長者、願望を遂げて祇園精舎を建てしかば、厳浄の宮殿、微妙の浄刹、一生補処の菩薩聖衆、この中に来至し給へば、人天大会、悉く渇仰の頭を傾けける。
「又、異朝に、後漢の顕宗皇帝、永平十四年八月十六日の夜、日輪の如くなる光明を帯びたる沙門一人、帝の御前に来つて空中に立ちたりと、御夢に御覧ぜられ、夙に起きて群臣を召して御夢を問ひたまふに、臣傅毅{*28}、奏して曰く、『天竺に大聖釈尊とて、ひとりの仏、出世したまふ。その教法、この国に流布して、万人、彼の化導にあづかるべき御瑞夢なり。」と合はせ申したりしが、果たして摩騰、竺法蘭{*29}、仏舎利並びに四十二章経を渡す。帝、尊崇し給ふこと、類なし。ここに、荘老の道を貴んで、虚無自然の理を専らにする道士ども、列訴して曰く、『古、五帝三皇の天下に王たりしより以来、儒教を以て仁義を治め、道徳を以て淳朴に帰し給ふ。然るに今、摩騰法師等、釈氏の教へを伝へて、仏骨の貴き事を説く。内聖外王の儀に背き、有徳無為の道に違へり。早くかの法師を流罪して、大素の風に復せしめ給ふべし。』とぞ申しける。これに依つて、『さらば、道士と法師とを召し合はせて、その威徳の勝劣を御覧ぜらるべし。』とて、禁闕の東門に壇を高く築きて、予参の日をぞ定められける。
「既にその日になりしかば、道士三千七百人、胡床を列ねて西に向ひ坐す。沙門摩騰法師は、草座を敷いて東に向ひ坐したりけり。その後、道士等、『いかやうの事を以て勝負を決すべく候や。』と申せば、『唯、天に上り地に入り、山をつんざき月を握る術を致すべし。』とぞ宣下せられける。道士等、これを聞いて大きに悦び、我等が朝夕業とする所なれば、この術、難からずとて、玉晨君を礼し、芝荻を焚き、気を呑み、鯨桓審{*30}に向つて、天に昇らんとすれども上られず、地に入らんとすれども入られず。まして山をつんざかんとすれども山裂けず、月を握らんとすれども月下らず。種々の仙術皆、仏力に押されてし得ざりしかば、万人、手を打つてこれを笑ふ。
「道士、面を垂れ機を失ふ処に、摩騰法師、瑠璃の宝瓶に仏舎利を入れて、左右の手に捧げて、虚空百余丈が上に飛び上がつてぞ立ちたりける。上に著く所なく、下に踏む所なし。仏舎利より光明を放つて、一天四海を照らす。その光、金帳の内、玉扆{*31}の上まで輝きしかば、天子、諸侯卿大夫、百寮万民、悉く金色の光に映ぜしかば、天子、自ら玉扆を下りさせ給ひて、五体を地に投げ礼をなし給へば、皇后元妃、卿相雲客、悉く信仰の頭を地に著けて、随喜の涙を袖に余す。かかりしかば、確執せし道士どもも、邪を翻へし、信心肝に銘じつつ、三千七百余人、即時に出家して摩騰の弟子にぞなりにける。この日、やがて白馬寺を建てて仏法を弘通せしかば、同時に寺を造る事、支那四百州の中に一千七百三箇所なり。これより漢土の仏法は弘まりて、遺教、今に流布せり。
「又、我が朝には、村上天皇の御宇応和元年に、天台法相の碩徳を召して宗論ありしに、山門よりは横川の慈恵僧正、南都よりは松室の貞松房仲算已講ぞ参られける。予参の日になりしかば、仲算、既に南都を出でて上洛し給ひけるに、折節、木津河の水出でて、船も橋もなければ、如何せんと、河の辺に輿を舁き据ゑさせて、案じ煩ひ給ひたる処に、怪しげなる老翁一人現じて、『何事にこの河のほとりにやすらひ給ふぞ。』と問ひければ、仲算、『宗論のために召されて参内仕るが、洪水に河を渡りかねて、水の干落つる程を待つなり。』とぞ答へ給ひける。老翁、笑つて、『水は深し、智は浅し。潜鱗水禽にだにも及ばず。何を以て宗論を致すべき。』と恥ぢしめける間、仲算、『実にも。』と思ひて、十二人の力者に、『唯、水中を舁き通せ。』とぞ{*32}下知し給ひける。輿舁、『さらば。』とて、水中を舁いて通るに、さしもおびただしき洪水、左右にばつと分かれて、大河、俄に陸地となる。供奉の大衆、悉く足をも濡らさず渡りけり。
「慈恵僧正も、比叡山西坂下松のほとりに車を儲けさせて下洛し給ふに、鴨河の水漲り出で、逆浪、岸を浸して茫々たり。牛童、轅を控へ、如何と立ちたる処に、水牛一頭、水中より泳ぎ出でて、車の前にぞ喘ぎける。僧正、『この牛に車をかけ替へて、水中を遣れ。』とぞ仰せられける。牛童、命に随つて水牛に車を懸け、一鞭を当てたれば、飛ぶが如く走り出でて、車の轅をも濡らさず、浪の上三十余町を泳ぎ上がり、内裏の陽明門の前にて、水牛は掻き消す様に失せにけり。両方の不思議奇特、皆、権者{*33}とはいひながら、類少なき事どもなり。
「さる程に、清涼殿に獅子の座を敷いて、問者、講師、東西に相対す。天子は南面にして、玉扆に旒纊を挑げさせ給へば、臣下は北面にして、階下に冠冕{*34}をうなだる。法席既に定まつて、僧正は草木成仏の義を宣べ給へば、仲算は五性各別の理を立てて難じて曰く、『非情草木、理仏性を具すといへども、行仏性無し。行仏性無くんば、何ぞ成仏の義有らんや。但し、文証有らば、暫く疑ひを除くべし。』と宣ひしかば、慈恵僧正、則ち円覚経の文を引いて、『地獄天宮、皆浄土たり。有性無性、等しく仏道を成す。』と誦し給ふ。仲算、この文に詰められて、暫く閉口し給ふ処に、法相擁護の春日大明神、高座の上に化現ましまして、幽かなる御声にて、この文点を読み替へて教へさせ給ひけるは、『地獄天宮、皆浄土たらましかば{*35}、有性無性、等しう仏道を成してまし。』と。
「慈恵僧正、重ねて難じて曰く、『この文点、全く法文の心に叶はず。一草一木、各一因果、山河天地、同一仏性の故に、講答、既に理仏性を具すと許す。もし理仏性を具しながら、遂に成仏の時無くんば、何を以てか仏性といはんや。もし又、仏性を具すといへども成仏せずと言はば、有情も成仏すべからず。有情の成仏は、理仏性を具するに依るが故なり。』と難じ給ひしかば、仲算、詞なく黙止し給ひけるが、重ねて答へて曰く、『草木成仏、仔細なくば、非情までもあるまじ。先づ自身成仏の証を顕はし給はずば、何を以てか疑ひを散ぜん。』と宣ひしかば、この時、慈恵僧正、詞を出ださず、暫しが程、黙坐し給ふとぞ見えし。香染の法服、忽ちに瓔珞細耎の衣となつて、肉身、忽ちに変じて、紫磨黄金の肌となり、赫奕たる大光明、十方に遍照す。されば、南庭の冬木、俄に花を開いて、あたかも春二、三月の東風に繽紛たるに異ならず。列座の三公九卿も、知らず即身を替へず華蔵世界の土に至り、妙雲如来の下に来るかとぞおぼえける。
「ここに仲算、少し欺ける気色にて、如意を揚げ、席を敲いて曰く、『止みなん、止みなん。須らく説くべからず。我が法、妙にして思ひ難し。』と誦じ給ふ。この時、慈恵僧正の大光明、忽ちに消えて、元の姿になり給ひにけり。これを見て、藤氏一家の卿相雲客は、『我が氏寺の法相宗こそ勝れたれ。』と、我慢の心を起こして退出し給ひける処に、門外に繋がれたる牛、舌を垂れて涎を唐居敷{*36}に残せるを見給へば、慥かに一首の歌にてぞありける。
草も木も仏になると聞くときはこころある身のたのもしきかな
これ則ち、草木成仏の証歌なり。春日大明神の示したまひけるにや。いづれを勝劣とも定め難し。理なるかな、仲算は千手の化身、慈恵は如意輪の変化なり。されば、智弁言説、いづれもなじかは劣るべき。唯、雲間の陸士竜、日下の荀鳴鶴が相逢ふ時の如くなり{*37}。然れば、『法相は六宗の長者たるべし。天台は諸宗の最頂なり。』と宣下せられ、共に眉目をぞ開きける。
「そもそも天台の血脈は、師子尊者に至つて絶えたりしを、遥々、世隔たつて、唐朝の大師南岳、天台、章安、妙楽、自解仏乗の智を得て、金口の相承を継ぎ給ふ。奇特なりといへども、禅宗は、これを髣髴なりと難じ申す。又、禅の立つる所は、釈尊、大梵王の請を受けて、忉利天に於いて法を説き給ひし時、一枝の花を拈じ給ひしに、会中の大比丘衆、知る事なし。ここに摩訶迦葉一人、破顔微笑して、拈花瞬目の妙旨を、心を以て心に伝へたり。この事、大梵天王問仏決疑経に説かれたり。然るを、宋朝の舒王{*38}、翰林学士たりし時、秘して官庫に収めし後、この経失ひたりと申す條、『他宗の証拠に足らず。』と、天台は禅を難じ申して、邪法と今も訴へ候上は、かやうの不審をも、このついでに散じたくこそ候へ。唯、禅と天台と召し合はされ、宗論を致され候へかし。」とぞ申されける。
この三議、是非まちまちに分かれ、得失、互に備はれり。上衆の趣、「いづれにか同ぜらるべき。」と、閉口屈旨したる処に、二條関白殿、申させ給ひけるは、「八宗派分かれて、末流、道異なりといへども、共にこれ、獅子吼無畏の説にあらずといふことなし。然るに、いづれを取りいづれを捨つべき。たとひ宗論を致すとも、天台は唯受一人の口決、禅家は没滋味の手段{*39}、理を弁じ玄を談ずるとも、誰かこれを弁じ、誰かこれを会せん。世、澆季なれば、摩騰の如く虚空に立つ人もあらじ。慈恵大師の様に、即身成仏する事もあるべからず。唯、如来の権実、いたづらに堅石白馬の論{*40}となり、祖師の心印、空しく叫騒怒張の中に堕つべし。
「およそ宗論の難き事、我、かつて聞きぬ。如来滅後一千一百年を経て後、西天に護法、清弁とて、二人の菩薩ましましき。護法菩薩は法相宗の元祖にて、有相の義を談じ、清弁菩薩は三論宗の初祖にて、諸法の無相なる理を述べ給ふ。門徒、二つに分かれ、彼を是し、此れを非すと。ある時、この二菩薩相逢うて、空有の法論を致し給ふ事、七日七夜なり。共に富楼那の弁舌を仮つて、智、三千界を傾けしかば、無心の草木も、これを随喜して時ならず花を開き、人を恐るる鳥獣も、これを感嘆して去るべき処を忘れたり。然れども論義、遂に止まず、法理、両端{*41}に分かれしかば、『よしや、五十六億七千万歳を経て慈尊の出世し給はん時、会座に臨んでこの疑ひを散ずべし。』とて、護法菩薩は蒼天の雲を分かち、遥かに都率天宮に上り給へば、清弁菩薩は青山の岩をつんざき、修羅窟に入り給ひにけり。
「その後、華厳の祖師香象、大唐にしてこの空有の論を聞いて、『色即是空なれば、護法の有をも嫌はず。空即是色なれば、清弁の空をも遮らず。』と、二宗を会し給ひけり。上古の菩薩、猶以てかくの如し。況んや末世の比丘に於いてをや。されば、宗論の事は、あながちにその詮なく候か。とても近年、天下の事、何となく皆、武家の計らひとして、万、叡慮にも任せざる事なれば、唯、『山門の訴へ申す処、如何あるべき。』と武家へ尋ね仰せられ、その返事に就いて聖断候べきかとこそ存じ候へ。」とぞ{*42}申されける。諸卿皆、「この儀、然るべし。」と同ぜられ、その日の議定は果てにけり。
「さらば。」とて、次の日、やがて山門の奏状を武家へ下され、計らひ申すべき由、仰せ下されしかば、将軍、左兵衛督{*43}、もろともに山門の奏状を披見して、「これは、そも何事ぞ。寺を建て、僧を尊むとて、山門の所領をも妨げず、衆徒の煩ひにもならず。たまたま公家武家、仏法に帰して大善事を修せば、方袍円頂の身{*44}としては、共に悦ぶべき事にてこそあるに、障碍をなさんとする條、返す返す不思議なり。所詮、神輿入洛あらば、兵を相遣はして防ぐべし。路次に振り棄て奉らば、京中にある山法師の土蔵を点じ、造り替へさせんに、何の痛みかあるべき。非拠の嗷訴を棄て置かれ、厳重の供養を遂げらるべし。」と奏聞をぞ経られける。
「武家、かくの如く申し沙汰する上は、公家、何ぞ異議に及ぶべき。」とて、已に事厳重なりしかば、列参せし大衆、いたづらに款状を公廷に棄てられて、面目を失ひ登山す。これに依つて、三千の大衆、憤り、ななめならず。「されば、嗷訴に及ぶべし。」とて、康永四年八月十六日、三社の神輿を中堂へ上げ奉り、祇園、北野の門戸を閉ぢ、獅子、田楽、庭上に相列なり、神人、社司、御前に奉仕す。「公武の成敗かかはる処なれば、山門の安否、この時にあり。」と、老若、共に驚嘆す。「かくては猶も叶はじ。」とて、同じき十七日、剣、白山、豊原、平泉寺、書写、法花寺、多武峯、内山、日光、太平寺、その外の末寺末社三百七十余箇所へ触れ送り、同じき十八日、四箇の大寺に牒送す。先づ興福寺へ送る。その牒状にいはく、
{*k}延暦寺、興福寺の衙に牒す
早く先規に任せて同心の訴へを致し、天竜寺供養の儀を停止せられ、並びに禅室興行を断絶せしむべき仔細の状
右、大道高く懸かりて、等しく第一義天の日月を戴き、教門広く開きて、互に無尽蔵海の源流を汲む。帝徳安寧の基、仏法擁護の要、遐迩{*45}力を合はせ、彼此、功を同じうす。理の押す所、その来、久し。ここを以て邪執を退治し、異見を掃蕩するの勤め、古より今に及んで怠るに非ず。朝家を扶翼し政道を修整するの例、貴寺当山、盟を合はすこと、専ら先聖明王の叡願より起こり、深く尊神霊祇の冥鑑に託す。国の安危、政の要須、これより先なるは無し。誰か聊爾に処せん。ここに、近年禅法の興行、天下に喧びすし。暗証の朋党{*46}、人間に満つ。濫觴浅しと雖も、已に滔天{*47}の波瀾を揚ぐ。爝火{*48}消さずんば、忽ちに燎原の煙㶿を起こさん。本寺本山の威光、白日空しく掩蔽せられ、公家武家の偏信、迷雲遂に睛{*49}を開かず。もし禁圧を加へずんば、諸宗滅亡、疑ひ無し。伝へ聞く、先年、和州片岡山達磨寺、速やかにこれを焼き払はれ、その住持法師、流刑に処せらると。貴寺の美談、ここに在り。今般、先蹤遠きに非ず。而るに今、天竜寺供養の儀に就いて、この間山門、再往の訴へに及ぶ。今月十四日の院宣に曰く、今度の儀、勅命に非ずと、云々。依つて鬱訴を止め、静謐に属するの処、勅言、忽ちに表裏有り、供養、殊に厳重を増す。院司の公卿以下、有限の職掌等、悉く以て参行せしむべきの由、その聞こえ有り。朝端の軌則、理、豈然るべけんや。天下の謗議、言、以て欺くべからず。吾が山、已に無きに処せられ、面目を失ふ。神道、元来在すが如し。何ぞ忿怒を含まざらん。今に於いては、再び本訴に帰し、しばしば上聞を驚かし奉る。所詮、天竜寺供養に就いて、院中の御沙汰、公卿の参向以下、一向これを停止せられ、又、御幸に於いては、当日と云ひ翌日と云ひ、共に以てその儀を罷められ、凡そ又{*50}禅法の興行を断絶せしめん為に、先づ疎石を遠島に放たれ、禅院に於いては天竜一寺に限らず、洛中洛外大小の寺院、悉く以てこれを破却し、永く達磨宗の蹤跡を掃ひ、宜しく正法輪の弘通を開くべし。これ、専ら釈門の公儀なり。尤も貴寺の与同を待つ。事、已に喉に迫れり。踵を廻らすべからず。もし許諾有らば、日吉の神輿入洛の時、春日の神木、同じく神行を勧め奉る。しかのみならず、或いはかの寺の供養を勤むるの奉行、或いは著座催促の領掌を致す藤氏の月卿雲客等、供養以前に悉く以て氏を放たれ、その上猶、押して出仕の人有らば、貴寺並びに山門、寺家社家の神人公人等を放ち遣はし、その家々に臨んで苛法の沙汰を致すべきの由、不日に触れ送らるべし。これ等の條々、衆議、停滞せしむること無かれ。返報、先規に違はずば、南北両門の和睦、先づ当時の太平を表し、自他一揆の始終、将来の長久を約せんと欲す。宗旨を公庭に論ずるときは、兄弟墻にせめぐの争ひ{*51}有るに似たりと雖も、至好を仏家に寄するときは、復た須らく楚越同舟の志を共にすべし。早く機に当たつてかかはらざるの義勢を成して、速やかに義を見て即ち勇むの歓声を聞かん。依つて牒送、件の如し。
康永四年八月日{*k}
とぞ書きたりける。
「山門、既に南都に牒送す。」と聞こえしかば、「返牒未だ送らざる以前に。」とて、院司の公卿、藤氏の雄臣等、参列して歎き申されけるは、「古より山門の訴訟は、非を以て理とせらるる事、珍しからず候。その上、今度の儀は、かたがた申す処、その謂はれあるかと存じ候。なかんづく、仏事を行ひ僧法を貴ぶ事も、天下無為にてこそ、その詮も候へ。神輿神木、入洛あつて、南都北嶺、嗷訴に及ばば、武家、何と申すとも、静謐の儀なくば、法会の違乱なるべし。かくて又、叡願もいたづらになりぬと存じ候。唯、速やかに聖断あつて、衆徒の鬱訴を宥められ、その後、御心安く法義大会をも行はれ候へかし。」と、様々に申されしかば、「実にも。近年、四海、半ばは乱れて、一日も安居せず。この上に又、南北神訴に及び、衆徒鬱憤して怒らば、以ての外の珍事なるべし。」とて、諸事をまげて、先づ{*52}院宣を成し下され、「勅願の儀を停止せられ、御結縁の為に、翌日に御幸成るべし。」と仰せられければ、山門、これに静まりて、神輿、忽ちに御帰座ありしかば、陣頭警固の武士も皆、馬の腹帯を解いて、末寺末社の門戸も、参詣の道をぞ開きける。
校訂者注
1:底本は、「仰せ合はさる。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
2:底本頭注に、「円融院、青蓮院、妙法院。」とある。
3:底本頭注に、「〇相州 相模守北條高時。」「〇当今 今上天皇。」とある。
4:底本は、「犬神人(いぬじんにん)」。底本頭注に、「祇園の召使の者。」とある。
5:底本頭注に、「〇建仁の儀 栄西国師が建仁寺建立の時山徒の訴訟により台密禅を一寺に置いた。」「〇嘉元の例 大応国師が嘉元寺を経営したが山徒が抑制した。」とある。
6:底本頭注に、「〇蒙瓮向壁 達磨の九年面壁の修行の事。」「〇緘石為金 句子『宋之愚人得蕪石而蔵之、以為宝、周客聞而観焉、掩口笑曰与瓦璧不殊。』。」とある。
7:底本は、「調達(ガ)萃(二)(メテ)衆賢(一)(ヲ)而」。『太平記 四』(1985年)に従い削除した。
8:底本は、「韜(つゝ)(レ)(ミ)光(ヲ)嗽(フ)(レ)門(ヲ)」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。底本頭注に、「〇墻踰之人 孟子に『鑽穴隙相窺、踰墻相從則父母國人皆賤之。』」とある。
9:底本頭注に、「論語述而篇の朱註。『執鞭、賤者之事。』」とある。
10:底本は、「嗷(ギ)」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
11:底本頭注に、「何の謂れぞや。」とある。
12:底本頭注に、「〇回禄 炎上。」「〇作木 材木。」「〇成風の斧 荘子に『運斧成風。』建築のこと。」とある。
13:底本は、「二百八十年、」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
14:底本は、「横たへずとも、」。『太平記 四』(1985年)頭注に従い改めた。
15:底本頭注に、「黒谷の法然上人。」とある。
16:底本は、「建久年中は、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
17:底本は、「及ぶ。建仁寺」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
18:底本は、「摩訶迦羅天(まかからてん)」。底本頭注に、「大黒天。」とある。
19:底本頭注に、「〇大刹 大寺。」「〇長老 老年の徳者。」「〇大耆旧 老年者。」とある。
20:底本は、「越えんとする志あり。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。底本頭注に、「〇沙弥 新入門の僧。」「〇喝食 小僧。」とある。
21:底本頭注に、「真実本有無作の妙理より見れば自もなく他もない。」とある。
22:底本は、「練若(れんにやく)」。底本頭注に、「寺のこと。」とある。
23:底本は、「道冬(みちふゆ)卿(きやう)」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
24:底本頭注に、「天竺(印度)震旦(支那)我が朝(日本)の三国。」とある。
25:底本頭注に、「〇言を食む 虚言する。書経に『朕不食言。』」とある。
26:底本は、「瞿曇(くどん)沙門」。底本頭注に、「釈迦。」とある。
27:底本頭注に、「あざけり。」とある。
28:底本は、「傅毅(ふき)」。底本頭注に、「字は武中で章帝の時に蘭台令史となつた。」とある。
29:底本は、「摩騰(まとう)竺法蘭(ぢくほふらん)」。底本頭注に、「〇摩騰 中天竺の人。」「〇竺法蘭 同上。」とある。
30:底本頭注に、「〇玉晨君 黄老君の号。」「〇鯨桓審 鯨のわだかまる淵。荘子応帝王篇に『鯨桓之審為淵。』」とある。
31:底本は、「玉扆(きよくい)」。底本頭注に、「玉座。扆は屏風。」とある。
32:底本は、「と下知し給ひける。」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
33:底本は、「権者(ごんじや)」。底本頭注に、「仏菩薩の仮に人と現はれたもの。即ち常人でないもの。」とある。
34:底本頭注に、「〇旒纊 旒は冠の前後に垂れたるもの。纊は冠の左右に垂れたもの。」「〇冕 大夫以上の冠。」とある。
35:底本は、「皆浄土たらまし、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
36:底本は、「唐居敷(からゐしき)」。底本頭注に、「門の下に敷きつめたる唐風の石畳。」とある。
37:底本頭注に、「晋陸字士竜、与荀隠字鳴鶴未相識、嘗会張華坐、華以其並有大才謂曰、今日相遇可勿為常談、雲因抗手曰、雲間陸士竜、隠曰、日下荀鳴鶴。」とある。
38:底本は、「舒王(によわう)」。底本頭注に、「王安石。」とある。
39:底本は、「没滋味(もつじみ)の手段」。底本頭注に、「美味を味ふ如き教旨でなく唯文句の冷味を其の手段とす。」とある。
40:底本頭注に、「堅石は石でない、白馬は馬でないとの故事より空論を云ふ。」とある。
41:底本は、「両篇」。『太平記 四』(1985年)頭注に従い改めた。
42:底本は、「と申されける。」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
43:底本頭注に、「〇将軍 足利尊氏。」「〇左兵衛督 同直義。」とある。
44:底本は、「方袍円頂(はうはうゑんちやう)の身」。底本頭注に、「僧侶の身。」とある。
45:底本頭注に、「遠近。」とある。
46:底本頭注に、「上慢の見に落ちて観解にのみ執着せる輩。」とある。
47:底本頭注に、「天にはびこること。」とある。
48:底本頭注に、「炬火の小光。」とある。
49:底本は、「晴」。底本頭注に、「晴は太平記鈔に「睛」とす。」とあるのに従い改めた。
50:底本は、「凡(ソ)為(ニ)令(メン)断(二)絶(セ)禅法(ノ)興行(ヲ)(一)」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
51:底本頭注に、「内輪喧嘩。」とある。
52:底本は、「枉げて院宣(ゐんぜん)を」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
k:底本、この間は漢文。
コメント