天竜寺供養の事 附 大仏供養の事

 「この上は、武家の沙汰として当日の供養をば執り行ひ、翌日に御幸あるべし。」とて、同じき八月二十九日、将軍並びに左兵衛督{*1}、路次の行粧を調へて、天竜寺へ参詣せられけり。貴賤、ちまたに充ち満ちて、僧俗、かしこに群をなす。前代未聞の壮観なり。
 先づ一番に、時の侍所にて山名伊豆守時氏、華やかに鎧うたる兵五百余騎を召し具して先行す。その次に、随兵の先陣にて武田伊豆前司信氏、小笠原兵庫助政長、大友戸次丹後守頼時、伊東大和八郎左衛門尉祐煕、土屋備前守範遠、東中務丞常顕、佐々木佐渡判官入道が息男四郎左衛門尉秀定、同近江四郎左衛門尉氏綱、大平出羽守義尚、粟飯原下総守清胤、吉良上総三郎満貞、高刑部大輔師兼、以上十二人、色々の糸毛の鎧に烏帽子懸して、太く逞しき馬に厚総懸けて番ひたり。三番には、帯刀にて武田伊豆四郎、小笠原七郎、同又三郎、三浦駿河次郎左衛門尉、同越中次郎左衛門尉、二階堂美作次郎左衛門尉、同対馬四郎左衛門尉、佐々木佐渡五郎左衛門尉、同佐渡四郎、海老名尾張六郎、平賀四郎、逸見八郎、小笠原太郎次郎、以上十六人、染め尽くしたる色々の直垂に、思ひ思ひの太刀佩いて、二行に歩み連ねたり。
 その次に、正二位大納言征夷大将軍源朝臣尊氏卿{*2}、小八葉の車の鮮やかなるに簾を高く揚げ、衣冠正しく乗り給ひける。
 五番には、後陣の帯刀にて設楽五郎兵衛尉、同六郎、寺岡兵衛五郎、同次郎、逸見又三郎、同源太、小笠原蔵人、秋山新蔵人、佐々木出羽四郎左衛門尉、同近江次郎左衛門尉、富永四郎左衛門尉、宇佐美三河守、清久左衛門次郎、森長門四郎、曽我左衛門尉、伊勢勘解由左衛門尉、以上十六人、衣服帯剣、先の如く、行列の次第をぞ守りける。
 その次に、参議正三位行兼左兵衛督源朝臣直義、巻纓の老懸に蒔絵の細太刀佩いて、小八葉の車に乗れり。
 七番には、役人にて南部遠江守宗継、高播磨守師冬、二人は御剣の役。長井大膳大夫広秀、同治部少輔時春、御沓の役。佐々木吉田源左衛門尉秀長、同加地筑前二郎左衛門貞信は、御調度の役。和田越前守宣茂、千秋三河左衛門大夫惟範は、御笠の役。以上八人、布衣に上括りして列を引く。八番には、高武蔵守師直、上杉弾正少弼朝貞、高越後守師泰、上杉伊豆守重能、大高伊予守重成、上杉左馬助朝房、布衣に下括りして、半靴はいて、二騎づつ左右に打ち並びたり。九番には、後陣の随兵、足利尾張左近大夫将監氏頼、千葉新介氏胤、二階堂美濃守行通、同山城三郎左衛門尉行光、佐竹掃部助師義、同和泉守義長、武田甲斐前司盛信、伴野出羽守長房、三浦遠江守行連、土肥美濃守高実、以上十人、戎衣甲冑、いづれも金玉を磨きたり。十番には、外様の大名五百余騎、直垂著にて相随ふ。土佐四郎、長井修理亮、同丹波左衛門大夫、摂津左近蔵人、城丹後守、水谷刑部少輔、二階堂安芸守、同山城守、中條備前守、園田美作権守、町野加賀守、佐々木豊前次郎左衛門尉、結城太田三郎、梶原河内守、大内民部大夫、佐々木能登前司、太平六郎左衛門尉、狩野下野三郎左衛門尉、里見蔵人、島津下野守、武田兵庫助、同八郎、安保肥前守、土屋三河守{*3}、小幡右衛門尉、疋田三郎左衛門尉、寺岡九郎左衛門尉{*4}、田中下総三郎、須賀左衛門尉、赤松美作権守、同次郎左衛門尉、寺尾新蔵人、以上三十二人、打ち混みに次第を守らず打つたりけり{*5}。この後は、吉良、渋河、畠山、仁木、細川を始めとして、宗徒の氏族、外様の大名、打ち混みに、弓箭兵杖を帯し、思ひ思ひの馬鞍にて、大宮より西郊まで透間なく、袖を連ねて支へたり。薄馬場より随兵、帯刀、直垂著、布衣の役人、悉く次第を守り列を引く{*6}。
 已に寺門に至りしかば、佐々木佐渡判官秀綱、検非違使にて、黒袴著せる走り下部、水干直垂、金銀を延べたる如木の雑色、爽やかに鎧ひたる若党三百余人、胡床敷皮の上に列居して山門を警固す。その行粧、あたりを払つて見えたり。
 尊氏卿、直義朝臣、既に参堂ありしかば、勅使藤中納言資明卿、院司の高右衛門佐泰成、陣参して、即ち法会を行はる。その日は無為に暮れにけり。
 明くれば八月晦日なり。今日は又、御結縁のために、両上皇{*7}、御幸なる。昨日には事の体替はつて、見物の貴賤も閭巷に足を立てかねたり。御車、総門に至りしかば、牛を懸け放して、手引きなり。御牛飼七人、いづれも皆持明党とて、綱取りて名誉の上手どもなり。中にも松一丸は遣り手にて、綾羅を裁ち、金銀を鏤めたり。
 上皇、御簾を揚げて見物の貴賤を叡覧あり。黄練貫の御衣、御直衣、雲立涌、すずしの織物、薄色の御指貫を召されたり。竹林院大納言公重卿、濃香に牡丹を織りたる白裏の狩衣に、薄色のすずしの衣、洲流しに鞆絵の藤の丸、青鈍のすずしの織物の指貫にて、御車寄せに参られたり。左宰相中将忠季卿、薄色の織襖の裏なしに、蔦を紋にぞ織りたりける。女郎花の衣、浮紋に浅黄の指貫にて供奉せらる。殿上人には左中将宗雅朝臣、浮線綾の女郎花の狩衣に、朝顔を紋にぞ織りたりける。薄色のすずしの衣、藤の丸の指貫なり。頭左中弁宗光朝臣、浮線綾の比金襖の狩衣、珍しくぞ見えたりける。右少将教貞朝臣、紫苑唐草を織りたるすずしの青裏、紅の引倍木{*8}、はえばえしくぞ見えし。春宮権大進時光は、浮線綾に、萩を経青緯紫の段にして青く織りたる女郎花のすずしの衣に、藍の指貫なり。この後は、下北面の輩、中原季教、源康定、同康兼、藤原親有、安部親氏、豊原泰長。御随身には秦久文、同久幸、これ等なり。参会の公卿には、三條帥公季卿、日野中納言資明卿、別当四條中納言隆蔭卿、春宮大夫実夏、左兵衛督直義。いづれも皆、行粧、あたりを輝かす。
 仏殿の北の廊四間を飾つて、大紋の畳を重ね敷き、その上に氈を延べられたり。平敷の御座、その北にあり。西の間に屏風を立て隔てて、御休所に構へたり。御前に風流の島形を据ゑられたり。大井河の景趣を表して、水、紅錦を洗ひて、感興の心をぞ添へたりける。これは、三宝院僧正賢俊、武命に依つて設け参らす。仏殿の裏二間を拵へて御簾を懸け、御聴聞所にぞ構へたる。その北に畳を敷きて、公卿の座にぞなされたる。仏殿の庭の東西に幕を打つて、左右の伶倫十一人、唐装束にて胡床に坐す。左には、光栄、朝栄、行重、葛栄、行継、則重なり。右には、久経、久俊、忠春、久家、久種なり。鳳笙竜笛の楽人十八人、新秋、則祐、信秋、成秋、佐秋、季秋、景朝、景茂、景重、栄敦、景宗、景継、景成、季氏、茂政、重方、重時、これ等なり。
 国師、既に山門より進み出でさせ給へば、楽人、幕を巻き、乱声を奏する事、時をぞ移しける。聴聞の貴賤、この時に感涙を流しけり。導師は、金襴の袈裟、鞋はいて莚道に進ませ給へば、二階堂丹後三郎左衛門、執蓋、島津常陸前司、佐々木三河守両人、執綱{*9}にて、同じく歩み出でたり。左右の伶倫、いづれも皆、幕より立つて参向の儀あつて、万秋楽の破を奏して、舞台の下に列を引けば、古清衆、導師に従うて入堂あり。南禅寺の長老智明、建仁寺の友梅、東福寺の一鞏、万寿寺の友松、真如寺の良元、安国寺の至孝、臨川寺の志玄、崇福寺の恵聰、清見寺の智琢、本寺当官にて士昭、首座。これ等は皆、江湖の竜象{*10}なり。釈尊の十大弟子に擬して、扈従の粧ひ、厳重なり。
 その後、正面の戸牖を閉ぢて、願文の説法、数刻なり。法会、果てしかば、伶人、本幕に帰つて舞あり。左に蘇合、右に古鳥蘇、陵王荒序、納蘓利、太平楽、狛鋒なり{*11}。中にも荒序は、当道の深秘にて、たやすくこれを奏せずといへども、たまたま聖主臨幸の法席なり、黙止すべきにあらずとて、朝栄、荒序を舞ひしかば、笙は新秋、笛は景朝、太鼓は景茂ぞ仕りたる。当道の眉目、天下の壮観、類なかりし事どもなり。
 この後、国師、一弁の香を拈じて、「今上皇帝、聖躬万歳。」と祝し給へば、御布施の役にて、飛鳥井新中納言雅孝卿、大蔵卿雅仲、一條二位実豊卿、持明院三位家藤卿。殿上人には、難波中将宗有朝臣、二條中将資将卿、難波中将宗清朝臣、紙屋川中将教季、持明院少将基秀、姉小路侍従基賢、二條少将雅冬、持明院前美作守盛政。諸大夫には、千秋駿河左衛門大夫、星野刑部少輔、佐脇左近大夫。金銀珠玉を始めとして、綾羅綿繍はさて置きぬ、倭漢の間に名をのみ聞いて、未だ目には見ざりし珍宝を持ち連ね立てて、山の如く積み上げたり。唯これ、王舎城の昔年、五百の車に珍貨を積みて仏に奉りしも、これには過ぎじとぞ見えし。
 総てこの両日の儀を見る者、悉く福智の二報を成就して、済度利生の道を広くせし事、この国師に過ぎたる人はあらじとて、宗を改め法に帰し、偏執の心をぞ失ひける。さしも違乱に及びし大法会の事ゆゑなく遂げて、天子の叡願、武家の帰依、一時に望み足んぬと、喜悦の眉をぞ開かれける。
 それ、仏を作り堂を立つる善根、誠に勝れたりといへども、願主、いささかも憍慢の心を起こす時は、法会の違乱出来して、三宝の住持、久しからず。されば、梁の武帝、達磨に対し、「朕、寺を建つる事、一千七百箇所、僧尼を供養する事、十万八千人。功徳あるや。」と問ひ給ひしに、達磨、「無功徳。」と答へ給ふ。これ、誠に功徳なしといふにはあらず。叡信の憍慢を破つて、無作の大善に帰せしむるなり。
 吾が朝の古、聖武天皇、東大寺を造立せられ、金銅十六丈の廬舎那仏を安置して供養を遂げられしに、行基菩薩を導師に請じ給ふ。行基、勅使に向つて申させ給ひけるは、「綸命重くして、辞するに詞なしといへども、かくの如くの御願は、唯、冥顕の帰する所に任せらるべきにて候へば、供養の当日、香花を備へ、伽陀{*12}を唱へ、天竺より梵僧を請じ奉り、供養をば遂げ行はるべく候。」とぞ計らひ申されける。天子を始め参らせて、諸卿悉く、世既に澆季に及び、如何にしてか{*13}百万里の波涛を隔てたる天竺より、俄に導師来つて供養をば遂げらるべきと、大きに疑ひをなしながら、行基の計らひ申さるる上は、異議に及ぶべきにあらずとて、明日供養といふまでに、導師をば未だ定められず。已にその日になりける朝、行基、自ら摂津国難波の浦に出で給ひ、西に向つて香花を供じ、座具を延べて礼拝し給ふに、五色の雲、天に聳えて、一葉の船、浪に浮かんで、天竺の婆羅門僧正、忽然として来り給ふ。諸天、蓋を捧げて、御津の浜松、自ら雪に傾くかと驚き、異香、衣を染めて、難波津の梅、忽ちに春を得たるかと怪しまる。一時の奇特、ここに顕はれて、万人の信仰、ななめならず。
 行基菩薩、則ち婆羅門僧正の御手を引いて、
  伽毘羅会{*14}に共に契りしかひありて文殊の御顔あひ見つるかな
と一首の歌を詠じ給へば、婆羅門僧正、
  霊山{*15}の釈迦の御もとに契りてし真如朽ちせずあひ見つるかな
と詠み給ふ。供養の儀則は、中々、詞を尽くすに暇あらず。天花、風に繽紛として、梵音、雲に悠揚す。上古にも末代にもあり難かりし供養なり。
 仏閣供養の有様は、尤もかくの如くこそあるべきに、この天竜寺供養の事に就いて、山門、あながちに嗷訴を致し、遂に勅会の儀を申し止めつる事、只事にあらず。いかさま、真俗共に憍慢の心あるに依つて、天魔波旬の伺ふ処あるにやと、人皆、これを怪しみけるが、果たしてこの寺、二十余年の中に二度まで焼けける事{*16}こそ不思議なれ。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「直義。」とある。
 2:底本は、「尊氏(たかうぢ)卿は、八葉(えう)の」。『太平記 四』(1985年)本文及び頭注に従い改めた。
 3:底本は、「上屋三河守、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 4:底本は、「寺岡八郎左衛門(の)尉、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 5:底本は、「打(う)つたりける。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 6:底本は、「列を引き、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 7:底本頭注に、「花園院と光厳院。」とある。
 8:底本は、「引倍木(ひへぎ)」。底本頭注に、「下襲の下に著る衵を云ふ。」とある。
 9:底本頭注に、「〇執蓋 蓋(かさ)を持つてさしかける役。」「〇執綱 蓋に附けた綱をとる役。」とある。
 10:底本頭注に、「祖庭事苑に『大智度論言其力大、竜水行中大、象陸行中力大。』」とある。
 11:底本頭注に、「蘇合から狛鋒まで皆落の名。」とある。
 12:底本頭注に、「節をつけて経文を唱へる。」とある。
 13:底本は、「如何してか」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 14:底本は、「伽毘羅会(かびらゑ)」。底本頭注に、「中天竺の国名。仏の降生した処。」とある。
 15:底本は、「霊山(りやうせん)」。底本頭注に、「霊鷲山。」とある。
 16:底本は、「焼(や)けけるこそ」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。