藤井寺合戦の事

 楠帯刀正行は、父正成が先年湊川へ下りし時、「思ふやうあれば、今度の合戦に我は必ず討死すべし。汝は河内へ帰つて、君の如何にもならせ給はんずる御様を見はてまゐらせよ。」と申し含めしかば、その庭訓を忘れず、この十余年、我が身の人となるを待ち、討死せし郎従どもの子孫を扶持して、「如何にもして父の敵を滅ぼし、君の御憤りを休め奉らん。」と、明け暮れ肺肝を苦しめてぞ思ひける。光陰過ぎ易ければ、年積もつて、正行、已に二十五、今年は殊更父が十三年の遠忌に当たりしかば、供仏施僧の作善、所存の如く致して、今は命惜しとも思はざりければ、その勢五百余騎を率し、時々、住吉、天王寺辺へ打ち出で打ち出で、中島の在家少々焼き払つて、「京勢や懸かる。」と待つたりける。
 将軍{*1}、これを聞きたまひて、「楠が勢の分際、思ふにさこそあらめ。これに辺境を侵し奪はれて、洛中驚き騒ぐ事、天下の嘲哢、武将の恥辱なり。急ぎ馳せ向つて退治せよ。」とて、細川陸奥守顕氏を大将にて、宇都宮三河入道、佐々木六角判官、長左衛門、松田次郎左衛門、赤松信濃守範資{*2}、舎弟筑前守範貞、村田、奈良崎、坂西、坂東、菅家の一族ども、都合三千余騎、河内国へ差し下さる。
 この勢、八月十四日の午の刻に、藤井寺にぞ著いたりける。この陣より楠が館へは、七里を隔てたれば、「たとひ急々に寄するとも、明日か明後日かの間にぞ寄せんずらん。」と、京勢、油断して、或いは物具を解きて休息し、或いは馬の鞍を下して休める処に、誉田八幡宮の後ろなる山蔭に、菊水の旗一流れほの見えて、ひた兜の兵七百余騎、しづしづと馬を歩ませて打ち寄せたり。「すはや、敵の寄せたるは。馬に鞍おけ、物具せよ。」とひしめき色めく{*3}処へ、正行、真先に進んで、喚いて駆け入る。
 大将細川陸奥守、鎧をば肩に懸けたれども、未だ上帯をもしめえず、太刀を佩くべき隙もなく見え給ひける間、村田の一族六騎、小具足ばかりにて、誰が馬ともなくひたひたと打ち乗つて、雲霞のごとく群がつて控へたる敵の中へかけ入つて、火を散らしてぞ戦うたる。されども、続く御方なければ、大勢の中に取り篭められ、村田の一族六騎は、一所にて討たれにけり。その間に、大将も物具堅め、馬に打ち乗つて、相従ふ兵百余騎、しばし支へて戦うたり。敵は小勢なり、御方は大勢なり。たとひ進んで駆け合はするまではなくとも、引き退く兵だになかりせば、この軍に京勢、総て負くまじかりけるを、四国中国より駆り集めたる葉武者、前に支へて戦へば、後ろには捨て鞭を打つて引きける間、力なく大将も猛卒も、同じ様にぞ落ち行きける。
 勝つに乗つて、鬨を作り懸け鬨を作り懸け追ひける間、大将、已に天王寺渡部の辺にては危ふく見えけるを、六角判官舎弟六郎左衛門、返し合はせて討たれにけり。又、赤松信濃守範資、舎弟筑前守三百余騎、命を名に替へて討死せんと、取つては返し取つては返し、七、八度まで踏み留まつて戦ひけるに、奈良崎も、主従三騎討たれぬ。粟生田小太郎も、馬を射られて討たれにけり。これ等に度々支へられて、敵、さまで追はざりければ、大将も士卒も危ふき命を助かつて、皆京へぞ帰り上りにける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「足利尊氏。」とある。
 2:底本頭注に、「円心の子で、則祐の兄。」とある。
 3:底本頭注に、「敗け色づく。」とある。