伊勢より宝剣を奉る事 附 黄粱夢の事

 今年、「古、安徳天皇の壇浦にて海底に沈めさせ給ひし宝剣、出で来れり。」とて、伊勢国より進奏す。その仔細をよくよく尋ぬれば、伊勢国国崎の神戸に下野阿闍梨円成といふ山法師あり。大神宮へ千日参詣の志ありける間、毎日に潮を垢離にかいて隔夜詣でをしけるが、已に千日に満ちける夜、又、垢離をかかんとて、磯へ行つて遥かの沖を見るに、一つの光り物あり。怪しく思ひて、釣する海人に、「あれは、何物の光りたるぞ。」と問ひければ、「いさとよ、何とは知らず候。この二、三日が間、毎夜この光り物、浪の上に浮かんで、かなたこなたへ流れありき候間、船を漕ぎ寄せて取らんとし候へば、打ち失せ候なり。」とぞ答へける。
 かれを聞くに、いよいよ不思議に思ひて、目も放さずこれを目守つて、遠き渚の海づらを遥々と歩み行く処に、この光り物、次第に磯へ寄つて、円成が歩むに随ひてぞ流れて来りける。「さては、仔細あり。」と思ひて立ち留まりたれば、光り物、ちと小さくなつて、円成が足元に来れり。恐ろしながら、立ち寄つて取り上げたれば、金にもあらず石にもあらざる物の、三鈷柄の剣なんどの形にて、長さ二尺五、六寸なるものにてぞありける。「これは、明月に当たつて光を含むなる犀の角か。しからずば、海底に生ふるなる珊瑚樹の枝か。」なんど思ひて、手にひつ提げて大神宮へぞ参りたりける。
 ここに、年十二、三ばかりなる童部一人、俄にものに狂ひて、四、五丈飛び上がり飛び上がりけるが、
  思ふ事など問ふ人のなかるらむあふげば空に月ぞさやけき
といふ歌を高らかに詠じける間、社人村老、数百人集まりて、「如何なる神の託せさせ給ひたるぞ。」と問ふに、物つき、口走りて申しけるは、「神代より伝へて、我が国に三種の神器あり。たとひ継体の天子、位を継がせ給ふといへども、この三つの宝なき時は、君も君たらず、世も世たらず。汝等、これを見ずや。承久以後、代々の王位軽くして、武家のために威を失はせ給へる事、ひとへに宝剣の、君の御守りとならせ給はで、海底に沈める故なり。あまつさへ今、内侍所、璽の御箱{*1}さへ外都の塵に埋づもれて、登極の天子、空しく九五の位{*2}に臨ませたまへり。これに依つて、四海いよいよ乱れて、一天未だ静かならず。ここに、百王鎮護の宗廟の神、竜宮に神勅を下されて、元暦の古、海底に沈みし宝剣を召し出だされたるものなり。すは、ここに立ちて我を見る、あの法師の手に持ちたるぞ。それ、宝剣よや。あの法師は、急ぎその宝剣を持つて、奈良の方へ行きて、便宜の伝奏に附けて、この宝剣を内裏へ参らすべし。いふ処不審あらば、これを見よ。」とて、円成に走り懸かつて、手に持つたる光り物を取つて、涙をはらはらと流し、額より汗を流しけるが、暫く死に入りたる体に見えて、物の怪は則ち去りにけり。
 神託、不審あるべきにあらざれば、祭主を始めとして、見及ぶ処の神人等、連署の起請を書いて、円成に与ふ。円成、これを錦の袋に入れて頚に懸け、託宣に任せ、先づ南都へぞ赴きける。春日の社に七日参篭してありけるが、「これこそ事の顕はるべき端よ。」と思ふ験もなかりければ、又、初瀬へ参りて、三日断食をして篭りたるに、京家の人よとおぼしくて、拝殿の脇に通夜したる人のありけるが、円成を呼び寄せて、「今夜の夢に、伊勢の国より参つて、この三日断食したる法師の申さんずる事を、伝奏に挙達せよといふ示現を蒙つて候。御辺は、もし伊勢国よりや参られて候。」とぞ問ひける。円成、嬉しく思ひて、始めよりの有様を委細に語りければ、「我こそ日野大納言殿の所縁にて候へ。この人に附けて奏聞を経られ候はん事、いと易かるべきにて候。」とて、やがて円成を同道し、京に上つて、日野前大納言資明卿に附いて、宝剣と祭主が起請とをぞ出だしたりける。
 資明卿、事の様をよくよく聞き給ひて、「誠に不思議の神託なり。但し、かやうの事には、如何にも横句{*3}謀計あつて、伝奏の短才、人の嘲哢となる事多ければ、よくよく事の実否を尋ね聞きて、諸卿、げにもと信を取る程の事あらば、奏聞すべし。いかさま、天下静謐の奇瑞なれば、引出物せよ。」とて、銀剣三振、かづけ物十重、円成にたびて、宝剣をば前栽に崇め給へる春日の神殿にぞ納められける。「神代の事をば、如何にも日本紀の家{*4}に存知すべきことなれば、委しく尋ねたまはん。」とて、平野社の神主、神祇の大副兼員をぞ召されける。
 大納言、兼員に向つて宣ひけるは、「そもそも三種の神器の事、家々に相伝し来る義、まちまちなりといへども、資明は、未だこれを信ぜず。画工、闘牛の尾を誤ちて牧童に笑はれたることなれば{*5}、御辺の申され候はん義を正路とすべきにて候。いささか以て事のついでに、このこと存知したき{*6}事あり。委しく宣説候へ。」とぞ仰せられける。兼員、畏まつて申しけるは、「御前にてかやうの事を申し候はんは、唯、養由に弓を教へ、羲之に筆を授けんとするに相似て候へども、御尋ねある事を申さざらんも又、恐れにて候へば、伝はる処の義、一事も残らず申さんずるにて候。
 「まづ天神七代と申すは、第一、国常立尊、第二、国狭槌尊、第三、豊斟渟尊{*7}。この時、天地開け初めて、空中にものあり、葦芽の如しといへり。その後、男神に泥土瓊尊、大戸之道尊、面足尊、女神に沙土瓊尊、大戸間辺尊、惶根尊。この時、男女の形ありといへども、更に婚合の儀なし。その後、伊弉諾、伊弉冊の男神女神の二神、天の浮橋の上にして、『この下に豈国なからんや。』とて、天瓊鉾をさし下して、大海を掻き探り給ふ。その鋒の滴り、凝つて一つの島となる。おのころ島、これなり。次に一つの洲を産み給ふ。この洲、余りに小さかりし故{*8}、淡路洲と名づく。吾が恥の国といふ心なるべし。二神、この島に天降り給ひて、宮造りせんとし給ふに、葦原生ひ繁つて、所もなかりしかば、この葦を引き捨て給ふに、葦を置きたる所は山となり、引き捨てたる跡は河となる。
 「二神、夫婦となつて住み給ふといへども、未だ陰陽和合の道を知り給はず。時に、鶺鴒といふ鳥の、尾を土に敲きけるを見給ひて、始めて嫁ぐ事を習ひて、『あなにえや、えをとめ{*9}に遇ひぬ。』と読み給ふ。これ、和歌の始めなり。かくて四神を生み給ふ。日神、月神、蛭子、素盞烏尊、これなり。日神と申すは天照大神。これ、日天子の垂跡。月神と申すは、月読明神なり。この御形、余りにうつくしくおはしまし、人間の類にあらざりしかば、二親の御計らひにて天に登せ奉る。蛭子と申すは、今の西宮大明神にてまします。生まれたまひし後、三年まで御足立たずして、片輪におはせしかば、いはくす船{*10}に乗せて、海に放ちたてまつる。
  かぞいろはいかに哀れと思ふらむ三年になりぬ足立たずして{*11}
と詠める歌、これなり。素盞烏尊は、出雲の大社にておはします。この尊、草木を枯らし、禽獣の命を失ひ、もろもろ荒くおはせし間、出雲国へ流し奉る。三神かくの如く、或いは天に上り、或いは海に放たれ、或いは流したまひし間、天照大神、この国の主となり給ふ。
 「ここに素盞烏尊、吾が国を取らんとて、軍を起こして、小蝿なす一千の悪神を率して、大和国宇多野に一千の剣を掘りたてて、城郭として楯篭り給ふ。天照大神、これをよしなきことに思し召して、八百万の神達を引き具して、葛城の天岩戸に閉ぢ篭らせたまひければ、くに{*12}の内、皆常闇になつて、日月の光も見えざりけり。この時に島根見尊、これを歎きて、香久山の鹿を捕らへて肩の骨を抜き、はゝかの木を焼いて、『この事、如何有るべき。』と占はせ給ふに、『鏡を鋳て岩戸の前にかけ、歌をうたはば御出であるべし。』と、占に出でたり。
  香久山のははかの下に占とけて肩ぬく鹿は妻恋ひなせそ
と詠める歌は、則ちこの意なり。
 「さて、島根見尊、一千の神達を語らひて、大和国天香久山に庭火を焼き、一面の鏡を鋳させ給ふ。この鏡は、思ふ様にもなしとて捨てられぬ。今の紀州日前宮の神体なり。次に鋳給ひし鏡、『よかるべし。』とて、榊の枝に著けて、一千の神達を引き、調子をそろへて神歌を歌ひ給ひければ、天照大神、これにめで給ひて、岩根手力雄尊に岩戸を少し開かせて、御顔を差し出ださせ給へば、世界、忽ちに明らかになつて、鏡に映りける御形、永く消えざりけり。この鏡を名づけて八咫鏡とも、又は内侍所とも申すなり。
 「天照大神、岩戸を出でさせ給ひて、八百万の神達を遣はし、宇多野城に掘り立てたる千の剣を皆、蹴破つて捨て給ふ。これよりして千剣破{*13}とは申しつづくるなり。この時、一千の悪神は、小蠅となつて失す。
 「素盞烏尊、一人になつて、かなたこなたに迷ひ行き給ふ程に、出雲国に行き給ひぬ。海上に浮かんで流るる島あり。『この島は、天照大神もしらせ給ふべき所ならず。』とて、尊、御手にて撫で留めて{*14}住み給ふ。故に、この島をば手摩島とは申すなり。ここにて遥かに見給へば、清地の郷の奥、簸の河上に八色の雲あり。尊、怪しく思ひて、行きて見給へば、老翁老婆二人、美しき少女を中に置いて、泣き悲しむ事、切なり。
 「尊、かの泣く故を問ひ給へば、翁、答へて曰く、『我をば脚摩乳、うばをば手摩乳と申すなり。この姫は、老翁老婆の儲けたるひとり子なり。名をば稲田姫と申すなり。近頃、この所に八岐大蛇とて、八つの頭ある大蛇、山の尾七つ谷七つにはひ渡りて候が、夜毎、人を以て食とし候間、野人村老、皆食ひ尽くし、今日をかぎりの別れ路の遣る方もなき悲しさに、泣き伏すなり。』とぞ語りける。尊、哀れと思し召して、『この姫を我にえさせば、この大蛇を退治して、姫が命を助くべし。』と宣ふに、老翁、悦びて、『仔細候はじ。』と申しければ、湯津爪櫛を八つ作つて、姫が髻にさし、八醞の酒を酒舟に湛へて、その上に棚を掻きて姫を置き奉り、その影を酒にうつしてぞ待ち給ひける。
 「夜半過ぐる程に、雨荒く風烈しく吹き過ぎて、大山の動く如くなるもの来る勢ひあり。稲妻の光にこれを見れば、八つの頭に各二つの角ありて、あはひに{*15}松栢生ひ茂つたり。十六の眼は、日月の光に異ならず。喉の下なる鱗は、夕日を浸せる大洋の波に異ならず。暫しは酒舟の底なる稲田姫の影を望み見て、生贄ここにありとや思ひけん、八千石湛へたる酒を、少しも残さず飲み尽くす。尽きぬれば、よそより筧を懸けて、数万石の酒をぞ飲ませたる。大蛇、忽ちに飲み酔ひて、ほれぼれとしてぞ臥したりける。この時に尊、剣を抜いて、大蛇をずたずたに切りたまふ。
 「尾に至つて剣の刃、少し折れて切れず。尊、怪しみて剣を取り直し、尾を縦様に割きて見たまへば、尾の中に一つの剣あり。これ、所謂天叢雲剣なり。尊、これを取つて、天照大神に奉り給ふ。『これはそのかみ、我{*16}、高天原より落としたりし剣なり。』と悦び給ふ。その後、尊、出雲国に宮作りしたまひて、稲田姫を妻とし給ふ。
  八雲たつ出雲八重垣つまごめにやへがきつくるその八重垣を
これ、三十一字に定まりたる歌の始めなり。
 「それより以来、この剣、代々天子の御宝となつて、代、十継ぎを経たり。時に第十代の帝、崇神天皇の御宇に、これを伊勢大神宮に奉り給ふ。十二代の帝景行天皇四十年六月に、東夷乱れて天下静かならず。これに依つて、第二の皇子日本武尊、東夷征罰のために東国に下り給ふ。先づ伊勢大神宮に参つて、事の由を奏し給ひけるに、『慎しんで怠る事なかれ。』と、直に神勅あつて、件の剣を下さる。尊、剣を賜はりて、駿河野を過ぎ給ひける時、賊徒、相謀つて、広野に火を放つて、尊を焼き殺し奉らんとす。燎原、炎盛りにして、遁るべき方もなかりければ、尊、剣を抜いて打ち払ひ給ふに、刃の向ふ方の草木二、三里が間、己と{*17}薙ぎ伏せられて、炎、忽ちに賊徒の方に靡きしかば、尊、死を遁れさせ給ひて、朝敵若干亡びにけり。これに依つて、草薙剣とは申すなり。
 「この剣、未だ大蛇の尾の中にありし程、簸の河上に雲かかりて、天、更に晴れざりしかば、天叢雲剣とも名づく。その尺、僅かに十束なれば、又、十束剣とも名づけたり。天武天皇の御宇、朱鳥元年に又召されて、内裏に収められしより以来、代々の天子の御宝なればとて、又、宝剣とは申すなり。
 「神璽は、天照大神、素盞烏尊と、みとのまぐはひ{*18}ありて、八坂瓊曲玉をねぶりたまひしかば、陰陽成生して、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊を生み給ふ。この玉をば神璽と申すなり。いづれも異説多端なり。委細を尽くすに暇あらず。蓬蓽{*19}に伝ふるところの一説、大概これにて候。」と、委細にぞ答へ申したりける。
 大納言、よくよく聞き給ひて、「唯今、何のついでとしもなきに、御辺を呼び候て、三種の神器の様を委しく問ひつる事は、別の仔細なし。昨日、伊勢国より宝剣といふものを持参したる事ある間、不審を開かんために尋ね申しつるに、委細の説、大略日頃より誰も存知の前なれば、別に異議なし。但し、この説の中に、十束の剣と名づけしは、十束ある故なりと聞きつるぞ。人の左右なく知るべき事ならずとぞおぼゆる。その剣、取り出だせ。」とて、南庭に崇め給へる春日社より、錦の袋に入れたる剣をとり出だして、尺をささせて見たまふに、果たして十束ありけり。
 「さては、不審なき宝剣とおぼゆ。但し、奏聞の段は、一つの奇瑞なくば、叡信、立つべからず。暫くこの剣を御辺のもとに置いて、如何なる不思議も一つ祈り出だされよかし。」とのたまへば、兼員、「世は澆季に及びて、仏神の威徳もあつてなきが如くになつて候へば、如何に祈り候とも、誠に天下の人を驚かす程の不思議、出で来べしともおぼえ候はず。但し、今も仏神の威光を顕はして人の信心を催すは、夢に過ぎたる事はなきにて候。所詮、先づこの剣を預け給ひて、三七日が間、幣帛を捧げ礼奠を調へ、祈誓を致し候はんずる最中、先づは両上皇{*20}、関白殿下、院司の公卿、もしくは将軍、左兵衛督なんどの夢に、この剣、誠に宝剣なりけりと不審を散ずる程の夢想を御覧ぜられ候はば、御奏聞候へかし。」と申して、卜部宿禰兼員、この剣を賜はりてぞ帰りける。
 次の日より兼員、この剣を平野社の神殿に安んじ、十二人の社僧に真読の大般若経を読ませ、三十六人の神子に長時の御神楽を奉らしむるに、殷々たる梵音は、本地三身の高聴にも達し、玲々たる鈴の声は、垂跡五能の応化をも助くらんとぞ聞こえける。その外、金銀弊帛の奠、蘋蘩蘊藻の礼、「神、それ神たらば、などか奇瑞もここに現ぜざらん。」とおぼゆる程にぞ祈りける。
 已に三七日に満じける夜、鎌倉左兵衛督直義朝臣の見給ひける夢こそ不思議なれ。所は大内の神祇官かとおぼえたるに、三公九卿、百司千官、位に依つて列坐す。纛{*21}の旗を立て、幔の座を敷いて、伶倫、楽を奏し、文人、詩を献ず。事の儀式厳重にして、大礼を行はるる体なり。直義朝臣、夢心地に、「これは、何事のあるやらん。」と怪しく思ひて、竜尾堂の傍に徘徊したれば、権大納言経顕卿、出で来り給へるに、直義朝臣、「これは、何事の大礼を行はれ候やらん。」と問ひ給へば、「伊勢大神宮より宝剣を参らせらるべしとて、中儀の節会を行はれ候なり。」とぞ答へられける。「さては、希代の大慶かな。」と思ひて、暫く見居たる処に、南方より五色の雲一叢立ち出でて、中に光明赫奕たる日輪あり。その光の上に、宝剣よとおぼえたる一つの剣、立ちたり。梵天四王、竜神八部、蓋を捧げ列を引いて、前後左右に囲遶したまへりと見て、夢は則ち覚めにけり。
 直義朝臣、夙に起きて、この夢を語り給ふに、聞く人皆、「静謐の御夢想なり。」と賀し申さぬはなかりけり。その聞こえ、洛中に満ちて、次第に語り伝へければ、卜部宿禰兼員、急ぎ夢の記録を書きて、日野大納言殿に進覧す。大納言、この夢想の記録を以て仙洞に奏聞せらる。「事の次第、御不審を残さるべきにあらず。」とて、八月十八日の早旦に、諸卿参列して、宝剣を請け取り奉る。翌日、これをとり参らせし円成阿闍梨、次第を経ず直任の僧都になされ、河内国葛葉の関所を恩賞にぞ下されける。唯、周の代に宝鼎を掘り出だし、夏の時に河図を得たりし祥瑞も、これには過ぎじとぞ見えし。
 この頃、朝庭に賢才輔佐の臣多しといへども、君の不義を諌め、政の不善を誡めらるるは、勧修寺大納言経顕、日野大納言資明、二人のみなり。それ、両雄は必ず争ふ習ひなれば、互に威勢を競はれけるにや、経顕卿、申し沙汰せられたる事をば、資明卿、申し破らんとし、資明卿の執奏せられたる事をば、経顕卿、支へ申されけり。ここに、「伊勢国より宝剣進奏の事、日野大納言、執奏申されたり。」と聞こえしかば、勧修寺大納言経顕卿、院参して申されけるは、「宝剣執奏の事、委細に尋ね承り候へば、一向、資明が阿党の所より事起こつて候なる。佞臣、朝に仕ふれば、国に不義の政ありとは、これにて候なり。
 「先づ思ひて見候に、素盞烏尊、古、簸の河上にて斬られし八岐の蛇、元暦の頃、安徳天皇となつて、この宝剣を執つて竜宮城へ帰りたまひぬ。それより後、君十九代、春秋百六十余年、政盛んに徳豊かなりし時だにも、遂に出現せざる宝剣の、何故にかかる乱世無道の時に当たつて出で来り候べき。もし我が君の聖徳に感じて出現せりと申さば、それよりも先づ天下の静謐こそあるべく候へ。もし又、直義が夢を以て御信用あるべきにて候はば、世間に定相なき事をば夢幻と申し候はずや。されば、聖人に夢なしとは、ここを以て申すにて候{*22}。
 「昔、漢朝にして富貴を願ふ客あり{*23}。楚国の君、賢才の臣を求めたまふ由を聞きて、恩爵を貪らんために、則ち楚国へぞ赴きける。路に歩み疲れて、邯鄲の旅亭に暫く休みけるを、呂洞賓といふ仙術の人、この客の心に願ふことを暗に悟つて、富貴の夢を見する一つの枕をぞ貸したりける。客、この枕に寝ねて一睡したる夢に、楚国の侯王より勅使来りて、客を召さる。その礼、その贈り物、甚だ厚し。客、悦んで、則ち楚国の侯門に参ずるに、楚王、席を近づけて、道を計り、武を問ひ給ふ。客、答ふる度毎に、諸卿皆、頭を屈して旨を承りければ、楚王、ななめならずこれを貴寵して、将相の位に昇せたまふ。かくて三十年を経て後、楚王、隠れ給ひける刻、第一の姫宮を客にめあはせ給ひければ、従官使令、好衣珍膳、心に叶はずといふ事なく、目を悦ばしめずといふ事なし。座上に客、常に満ち、樽中に酒空しからず。
 「楽しみ身に余り、遊び、日を尽くして五十一年と申すに、夫人、一人の太子を産み給ふ。楚王に位を継ぐべき御子なくして、この孫子出で来ければ、公卿大臣皆相計つて、楚国の王になし奉る。蛮夷率服し、諸侯の来朝する事、唯、秦の始皇の六国を併せ、漢の文恵の九夷を従へしに異ならず。王子、已に三歳になり給ひける時、洞庭の波上に三千余艘の船を並べ、数百万人の好客を集めて、三年三月の遊びをし給ふ。紫髯の老将は錦の纜を解き、青蛾{*24}の女御は棹の歌を唱ふ、かれをさへや、大梵高台の月、喜見城宮{*25}の花も、見るに足らず、翫ぶべからずと、遊び戯れ舞ひ歌ひて、三年三月の歓娯、已に終はりける時、夫人、かの三歳の太子を抱きて、舷に立ち給ひたるが、踏み外して、太子夫人もろともに海底に落ち入り給ひてけり。数万の侍臣、あわてて一同に、『あれや、あれや。』といふ声に、客の夢、忽ちに覚めてけり。
 「つらつら夢中の楽しみを数ふれば、遥かに天位五十年を経たりといへども、覚めて枕の上の眠りを思へば、僅かに午炊一黄粱の間を過ぎざりけり。客ここに、人間百年の楽しみも皆、枕頭片時の夢なる事を悟り得て、これより楚国へ越えず、忽ちに身を捨てて世を避くる人となつて、遂に名利に繋がるる心はなかりけり。これを揚亀山が日月を謝する詩に作つていはく、
  {*k}少年より力め学んで志須らく張るべし  得失由来一夢長し
  試みに問ふ、邯鄲枕を欹つる客  人間幾度か黄粱を熟する{*k}
これを、邯鄲午炊の夢とは申すなり。
 「なかんづく葛葉の関は、年頃、南都の管領の地にて候を、謂はれなく召し放されんこと、衆徒の嗷訴を招くにて候はずや。綸言再びし難しといへども、過つて改むるに憚る事なかれと申す事候へば、速やかに以前の勅裁を召し返され、南都の嗷訴、事{*26}未だ萌さざる前に止めらるべくや候らん。」と委細に奏し申されければ、上皇も、「実にも。」とや思し召しけん、即ち院宣を成し返されければ、宝剣をば平野社の神主卜部宿禰兼員に預けられ、葛葉の関所をば元の如く、又南都へぞつけられける。

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校訂者注
 1:底本は、「内侍所(ないしどころ)璽(しるし)の御箱」。底本頭注に、「〇内侍所 神鏡。」「〇璽 神璽。曲玉。」とある。
 2:底本は、「九五(きうご)の位(くらゐ)」。底本頭注に、「皇位。」とある。
 3:底本は、「横句(わうく)」。底本頭注に、「偽り言。」とある。
 4:底本頭注に、「歴史家のいへ。」とある。
 5:底本頭注に、「万花谷に、『有蔵載崧牛闘与客観、旁有一牧童曰牛闘力在前尾入両股間今尾掉何也。』」とある。
 6:底本は、「存知度き」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 7:底本は、「豊斟淳尊(とよくんぬのみこと)。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 8:底本は、「故に、」。『太平記 四』(1985年)に従い削除した。
 9:底本は、「喜哉(あなにえや)可美小女(えをとめ)」。底本頭注に、「あゝうれしやの意。」とある。
 10:底本は、「磐櫲樟船(いはくすぶね)」。
 11:底本頭注に、「大江匡衡の作として古今集に出づ。かぞいろは父母の意。」とある。
 12:底本は、「六合(くに)」。底本頭注に、「東西南北上下より成れる故の称。」とある。
 13:底本は、「千剣破(ちはやぶる)」。底本頭注に、「は神の枕詞。」とある。
 14:底本は、「留(とゞ)め栖み」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 15:底本は、「間(あはひ)は松栢(まつかや)」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 16:底本は、「我が高天原(たかまのはら)」。『太平記 四』(1985年)に従い削除した。
 17:底本は、「己(おのれ)と」。底本頭注に、「おのづから。」とある。
 18:底本は、「共為夫婦(みとのまぐはひ)」。底本頭注に、「夫婦の交はり。」とある。
 19:底本は、「蓬蓽(ほうひつ)」。底本頭注に、「自分の家の謙称。」とある。
 20:底本頭注に、「花園院と光厳院。」とある。
 21:底本は、「纛(たう)」。底本頭注に、「旄牛の尾で飾つた大旗。天子の旗。」とある。
 22:底本は、「これを以て申すものにて候。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 23:底本頭注に、「この事は沈既済の枕中記に詳し。盧生の夢として名高い。」とある。
 24:底本頭注に、「美人の眉の形容。」とある。
 25:底本頭注に、「忉利天王帝釈の住む所。」とある。
 26:底本は、「嗷訴未だ」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 k:底本、この間は漢文。