住吉合戦の事

 去んぬる九月十七日、河内国藤井寺の合戦に細川陸奥守顕氏、甲斐なく打ち負けて引き退きし後、楠帯刀左衛門正行、勢ひ機に乗つて、辺境、常に侵し奪はるといへども、年内は寒気甚だしくして、兵皆指を落とし、手かがまる事ありぬべければ、暫しとて差し置かれけるが、「さのみ延引せば、敵に勢著きぬべし。」とて、十一月二十三日に軍評定あつて、同じき二十五日、山名伊豆守時氏、細川陸奥守顕氏を両大将にて、六千余騎を住吉天王寺へ差し下さる。
 顕氏は、去んぬる九月の合戦に、楠帯刀左衛門正行に打ち負けて、天下の人口に落ちぬること、生涯の恥辱なりと思はれければ、四国の兵どもを召し集めて、「今度の合戦、又先のごとくして帰りなば、万人の嘲哢たるべし。相構へて面々、身命を軽んじて以前の恥をすすがるべし。」と、衆を勇めて気を励まされければ、坂東、坂西、藤、橘、伴の者ども、五百騎づつ一揆を結んで、大旗小旗下濃の旗、三流れ立てて三手に分け、「一足も引かず討死すべし。」と、神水を飲みてぞ打つ立ちける。事のおぎろ{*1}、実に思ひ切つたる体かなと、先づ涼しくぞ見えたりける。
 大手の大将山名伊豆守時氏、千余騎にて住吉に陣をとれば、搦手の大将細川陸奥守顕氏、八百余騎にて天王寺に陣を取る。楠帯刀正行、これを聞いて、「敵に足をためさせて、住吉、天王寺両所に城郭を構へられなば、神に向ひ仏に向ひ弓をひき矢を放つ恐れありぬべし。不日に押し寄せて、先づ住吉の敵を追ひ払ひ、唯、攻めにせめ立てて、急に追つ懸くるほどならば、天王寺の敵は戦はで引き退きぬとおぼゆるぞ。」とて、同じき二十六日の暁天に、五百余騎を率し、先づ住吉の敵を追ひ出ださんと、石津の在家に火をかけて、瓜生野の北より押し寄せたり。
 山名伊豆守、これを見て、「敵、一方よりよも寄せじ。手を分けてあひ戦へ。」とて、赤松筑前守範貞に、摂津国播磨両国の勢を差し副へて八百余騎、浜の手を防がんと、住吉の浦の南に陣を取る。土岐周済房、明智兵庫助、佐々木四郎左衛門、その勢三千余騎にて、安部野の東西両所に陣を張る。搦手の大将細川陸奥守は、手勢の外、四国の兵五千余騎を率して、わざと本陣を離れず、新手に入れ替はらんために、天王寺に控へたり。
 大手の大将山名伊豆守、舎弟三河守、原四郎太郎、同四郎次郎、同四郎三郎、千余騎にて、唯今馬煙を挙げて進みたる先駆けの敵に懸け合はせんと、瓜生野の東にかけ出でたり。楠帯刀は、敵の馬煙を見て、陣の在所四箇所にありと見てければ、「多からぬ我が勢をあまたに分かたば、中々悪しかるべし。」とて、もと五手に分けたりける二千余騎の勢を、唯一手に集めて、瓜生野へ打つてかかる。この陣、東西南北、野遠くして、疋馬蹄を労せしかば、両陣、互に射手を進めて、鬨の声を一声揚ぐる程こそあれ、敵御方六千余騎、一度に颯と懸け合つて、思ひ思ひに相戦ふ。半時ばかり切り合つて、互に勝鬨をあげ、四、五町が程両方へ引き分かれ、敵御方を見わたせば、両陣、過半滅びて、死人、戦場に充ち満ちたり。
 又、大将山名伊豆守、切り創射疵七所まで負はれたれば、兵、前に立ち隠して、疵をすひ血を拭ふ程、少し猶予したる処へ、楠が勢の中より年の程二十ばかりなる若武者、「和田新発意源秀{*2}。」と名のつて、洗皮の鎧に、大太刀小太刀二振佩いて、六尺余りの長刀を小脇にさし挟み、しづしづと馬を歩ませて、小歌歌ひて進みたり。その次に一人、これも法師武者の{*3}たけ七尺余りもあるらんとおぼえたるが、阿間了願と名乗つて、唐綾縅の鎧に小太刀佩いて、柄の長さ一丈ばかりに見えたる槍を馬の平頚に引き副へて、少しも擬議せず駆け出でたり。その勢ひ事がら、尋常の者には非ずと見えながら、後に続く勢なければ、「あれや。」とばかりいひて、山名が大勢、さしも驚かで控へたる中へ、唯二騎、つと駆け入つて、前後左右を突いて廻るに、小手の外れ、臑当の余り、天辺の只中、内兜、一分もあきたる所をはづさず、矢庭に三十六騎突き落として、大将に近づかんと目を配る。
 三河守これを見て、一騎合ひの勝負は叶はじとや思はれけん、「大勢を以てこれを取り篭めよ。」と、百四、五十騎にて横合ひにかけられたり。楠、又これを見て、「和田討たすな、続けや。」とて、相懸かりにかかつて攻め戦ふ。太刀の鐔音、天に響き、汗馬の足音、地を動かす。互に御方を恥ぢしめて、「引くな、進め。」といふ声に、退く兵なかりけり。されども大将山名伊豆守、已に疵を被り、また入れ替はる御方の勢はなし、叶ふべしともおぼえざりければ、かち立ちなる兵ども、伊豆守の馬の口を引き向けて、後陣の御方と一処にならんと、天王寺を指して引き退く。
 楠、いよいよ気に乗つて、追つ懸け追つ懸け攻めける間、山名三河守、原四郎太郎、同四郎次郎兄弟二騎、犬飼六郎主従三騎、返し合はせて討たれにけり。二陣に控へたる土岐周済房{*4}、佐々木六郎左衛門、三百余騎にて安部野の南にかけ出で、暫し支へて戦ひけるが、目賀田、馬淵の者ども三十八騎、一所にて{*5}討たれにける間、この陣をも破られて、共に天王寺へと引きしさる。一陣二陣、かくの如くなりしかば、浜の手も天王寺の勢も、「大河、後ろにあり、両陣、前に破られぬ。敵に橋を引かれなば、一人も生きて帰る者あるべからず。先づ橋を警固せよ。」とて、渡辺を指して引きけるが、大勢の靡き立ちたる習ひにて、一度も更に返し得ず、行く先狭き橋の上を、落つとも知らず{*6}せき合ひたり。
 山名伊豆守は、我が身深手を負ふのみならず、馬の三頭{*7}を二太刀切られて馬は弱りぬ、敵は手繁く追ひ懸くる、「今は落ち延びじ。」とやおもはれけん、橋詰めにて已に腹を切らんとせられけるを、河村山城守、唯一騎返し合はせて、近づく敵二騎切つて落とし、三騎に手を負はせて、暫し支へたりける間に、安田弾正、走り寄つて、「如何なる事にて候ぞ。大将の腹切る所にては候はぬものを。」といひて、己が六尺三寸の太刀を守り木{*8}になし、鎧武者を鎧の上に掻いおひて橋の上を渡るに、守り木の太刀にせき落とされて、水に溺るる者、数を知らず。
 播磨国の住人小松原刑部左衛門は、主の三河守討たれたることをも知らず、天神松原まで落ち延びたりけるが、三河守の乗り給ひたりける馬の平頚、二太刀切られて放れたりけるを見て、「さては、三河守殿は討たれ給ひけり。落ちては誰がために命を惜しむべき。」とて、唯一騎天神松原より引き返し、向ふ敵に矢二筋射懸けて、腹掻き切つて死ににけり。その外の兵ども、親討たるれども子は知らず、主討死すれども郎従これを助けず、物具を脱ぎ捨て、弓を杖に突いて、夜中に京へ逃げ上る。見苦しかりし有様なり。

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校訂者注
 1:底本は、「賾(おぎろ)」。底本頭注に、「賾は深奥の意だから事の心といふほどの意。」とある。
 2:底本頭注に、「正氏の子。」とある。
 3:底本は、「法師武者(むしや)七尺余(あま)り」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 4:底本は、「土岐周済済(ときしうさいばう)」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 5:底本は、「一所に討(う)たれ」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 6:底本は、「落つともいはず」。『太平記 四』(1985年)頭注に従い改めた。
 7:底本は、「三頭(づ)」。底本頭注に、「馬の尾本の上の所。」とある。
 8:底本は、「守木(もりき)」。底本頭注に、「子守が背に負ふ子を腰かけさせる木。」とある。