巻第二十六
正行吉野へ参る事
安部野の合戦は、霜月二十六日のことなれば、渡辺橋よりせき落とされて流るる兵五百余人、甲斐なき命を楠{*1}に助けられて、河より引き上げられたれども、秋の霜、肉を破り、暁の氷、肌にむすんで、生くべしとも見えざりけるを、楠、情ある者なりければ、小袖を脱ぎ替へさせて身を暖め、薬を与へて疵を療せしむ。かくの如く四、五日、皆いたはりて、馬に乗るものには馬を引き、物具失へる人には物具をきせて、色代{*2}してぞ送りける。されば、敵ながらその情を感ずる人は、今日より後、心を通ぜん事を思ひ、その恩を報ぜんとする人は、やがて、かの手{*3}に属して後、四條縄手の合戦に討死をぞしける。
さても、今年両度の合戦に、京勢、無下に打ち負けて、畿内多く敵のために犯し奪はれ、「遠国また蜂起しぬ。」と告げければ、将軍、左兵衛督{*4}の周章、唯、熱湯にて手を洗ふが如し。「今は、すゑずゑの源氏、国々の催し勢なんどを向けては、叶ふべしともおぼえず。」とて、執事高武蔵守師直、越後守師泰兄弟を両大将にて、四国、中国、東山、東海二十余箇国の勢をぞ向けられける。
軍勢の手分け、事定まつて未だ一日も過ぎざるに、越後守師泰は、手勢三千余騎を率して、十二月十四日の早旦に、先づ淀に著く。これを聞いて馳せ加はる人々には、武田甲斐守、逸見孫六入道、長井丹後入道、厚東駿河守、宇都宮三河入道、赤松信濃守、小早川備後守、都合その勢二万余騎、淀、羽束師、赤井、大渡の在家に居余つて、堂舎仏閣に充ち満ちたり。
同じき二十五日、武蔵守、手勢七千余騎を率して八幡に著く。この手に馳せ加はる人々には、細川阿波将監清氏、仁木左京太夫頼章、今川五郎入道、武田伊豆守、高刑部大輔、同播磨守、南部遠江守、同次郎左衛門尉、千葉介、宇都宮遠江入道、佐々木佐渡判官入道、同六角判官、同黒田判官、長九郎左衛門尉{*5}、松田備前三郎、須々木備中守、宇津木平三、曽我左衛門、多田院御家人。源氏二十三人、外様大名四百三十六人、都合その勢六万余騎、八幡、山崎、真木、葛葉、鹿島、神崎、桜井、水無瀬に充満せり。
「京勢、雲霞の如く淀、八幡に著きぬ。」と聞こえしかば、楠帯刀正行、舎弟正時、一族打ち連れて、十二月二十七日、吉野の皇居に参じ、四條中納言隆資を以て申しけるは、「父正成、尫弱の身を以て大敵の威を砕き、先朝の宸襟を休め参らせ候ひし後、天下程なく乱れて、逆臣、西国よりせめ上り候間、危ふきを見て命を致す処、かねて思ひ定め候ひけるかに依つて、遂に摂州湊河にして討死仕り候ひ了んぬ。その時正行、十三歳に罷りなり候ひしを、合戦の場へは伴はで河内へ帰し、死に残り候はんずる一族を扶持し、朝敵を亡ぼし、君を御代に即け参らせよと申し置きて死して候。然るに正行、正時、已に壮年に及び候ひぬ。この度、我と手を砕き合戦仕り候はずは、且は亡父の申しし遺言に違ひ、且は武略のいふかひなき謗りに落つべくおぼえ候。有待の身、思ふに任せぬ習ひにて、病ひに犯され早世仕る事候ひなば、唯、君の御ためには不忠の身となり、父のためには不孝の子となるべきにて候間、この度、師直、師泰に懸け合ひ、身命を尽くし合戦仕つて、彼等が頭を正行が手に懸けて取り候か、正行、正時が首を彼等に取られ候か、その二つの中に戦ひの雌雄を決すべきにて候へば、今生にて今一度、君の竜顔を拝し奉らんために参内仕つて候。」と申しも敢へず、涙を鎧の袖にかけて、義心その気色に顕はれければ、伝奏未だ奏せざる先に、まづ直衣の袖をぞぬらされける。
主上{*6}、則ち南殿の御簾を高く捲かせて、玉顔、殊に麗はしく諸卒を照臨あつて、正行を近く召して、「以前、両度の戦ひに勝つ事を得て、敵軍に気を屈せしむ。叡慮、先づ憤りを慰する條、累代の武功、返す返すも神妙なり。大敵、今、勢を尽くして向ふなれば、今度の合戦、天下の安否たるべし。進退度に当たり、変化機に応ずることは、勇士の心とする処なれば、今度の合戦、手を下すべきにあらずといへども、進むべきを知つて進むは、時を失はざらんがためなり。退くべきを見て退くは、後を全うせんがためなり。朕、汝を以て股肱とす。慎しんで命を全うすべし。」と仰せ出だされければ、正行、首を地につけて、兔角の勅答に及ばず。ただこれを、「最後の参内なり。」と、思ひ定めて退出す。
正行、正時、和田新発意、舎弟新兵衛、同紀六左衛門子息二人、野田四郎子息二人、楠将監西河子息、関地良円以下、今度の軍に一足も引かず、一処にて討死せんと約束したりける兵百四十三人、先皇の御廟に参つて、「今度の軍、難儀ならば、討死仕るべき」暇を申して、如意輪堂の壁板に、各、名字を過去帳に書き連ねて、その奥に、
返らじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる
と一首の歌を書き留め、逆修のためとおぼしくて、各、鬢髪を切つて仏殿に投げ入れ、その日吉野を打ち出でて、敵陣へとぞ向ひける。
校訂者注
1:底本頭注に、「正行。」とある。
2:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「人に礼すること。深切に待遇したこと。」とある。
3:底本頭注に、「正行の手下。」とある。
4:底本頭注に、「〇将軍 足利尊氏。」「〇左兵衛督 足利直義。」とある。
5:底本頭注に、「〇清氏 和氏の子。」「〇今川五郎入道 基氏の子。」「〇武田伊豆守 信氏。」「〇長九郎左衛門尉 信綱。」とある。
6:底本頭注に、「後村上天皇。」とある。
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