四条縄手合戦の事 附 上山討死の事

 師直、師泰は、淀、八幡に越年して、「猶、諸国の勢を待ちそろへて、河内へは向ふべし。」と議しけるが、「楠、已に逆寄せにせんために、吉野へ参つて暇申し、今日、河内の往生院に著きぬ。」と聞こえければ、師泰、先づ正月二日、淀を立つて二万余騎、和泉の堺の浦に陣を取る。師直も、翌日三日の朝、八幡を立つて六万余騎、四條に著く。「このままやがて相近づくべけれども、楠、定めて難所を前に当ててぞ相待つらん。寄せては悪しかるべし。寄せられては便りあるべし。」とて、三軍五所に分かれ、鳥雲の陣をなして、陰に設け陽に備ふ。
 白旗一揆の衆には、県下野守を旗頭として、その勢五千余騎、飯盛山に打ち上がりて、南の尾崎に控へたり。大旗一揆の衆には、河津、高橋二人を旗頭として、その勢三千余騎、秋篠や外山の峯に打ち上がつて、東の尾崎に控へたり。武田伊豆守は千余騎にて、四條縄手の田中に、馬の駆け場をまへに残してひかへたり。佐々木佐渡判官入道は、二千余騎にて伊駒の南の山に打ち上がり、面に畳楯五百帖突き並べ、足軽の射手八百人、馬よりおろして、打つてのぼる敵あらば、馬の太腹射させて、猶予する処あらば、真さかさまに懸け落とさんと、後ろに馬勢控へたり。大将武蔵守師直は、二十余町ひき後れて、将軍の御旗の下に輪違の旗打ち立てて、前後左右に騎馬の兵二万余騎、馬廻りにかち立ちの射手五百人、四方十余町を相支へて、稲麻の如く打ち囲みたり。手分けの一揆、互に勇み争つて、陣の張り様厳しければ、項羽が山を抜く力、魯陽が日を返す勢ありとも、この堅陣に駆け入つて戦ふべしとは見えざりけり。
 さる程に、正月五日の早旦に、先づ四條中納言隆資卿、大将として、和泉、紀伊国の野伏二万余人引き具して、色々の旗を手々に差し上げ、飯盛山にぞ向ひ合ふ。これは、大旗、小旗両一揆を麓へ下さで、楠を四條縄手へ寄せさせんための謀りごとなり。案の如く、大旗、小旗の両一揆、これをたばかり勢とは知らず、「これぞ寄せ手なるらん。」と心得て、射手を分け旗を進めて、坂中までおり下つて、嶮岨に待つて戦はんと見繕ふ処に、楠帯刀正行、舎弟正時、和田新兵衛高家、舎弟新発意賢秀、究竟の兵三千余騎を率して、霞隠れよりまつしぐらに四條縄手へ押し寄せ、「先づ物見の敵を駆け散らさば、大将師直に寄せ合はせて、などか勝負を決せざらん。」と、少しも擬議せず進んだり。
 県下野守は、白旗一揆の旗頭にて、遥かの峯に控へたりけるが、菊水の旗唯一流れ、是非なく武蔵守の陣へ駆け入らんとするを見て、北の岡より馳せ下り、馬よりひたひたと飛び下りて、唯今敵のまつしぐらに駆け入らんとする道の末を一文字に遮つて、東西に颯と立ち渡り、かち立ちになつてぞ待ち懸けたる。
 勇気最も盛んなる楠が勢、僅かにかち立ちなる敵を見て、などか少しもやすらふべき{*1}。三手に分けたる前陣の勢五百余騎、しづしづと打つて懸かる。京勢の中、秋山弥次郎、大草三郎左衛門二人、真先に進んで射落とさる。居野七郎、これを見て、敵に気を附けじと、秋山が伏したる上を、つと飛び越えて、「ここを遊ばせ。」と射向の袖を敲いて、小跳りして進んだり。敵、東西より差し合はせて雨の降る様に射る矢に、これも内兜、草摺の外れ、二所、箆深に射られ、太刀をさかさまにつき、その矢を抜かんとすくみて立ちたる所を、和田新発意、つと駆け寄つて、兜の鉢をしたたかにうつ。打たれて犬居に倒れければ、和田が中間走り寄つて、首掻き切つて差し上げたり。
 これを軍の始めとして、楠が騎馬の兵五百余騎と、県がかち立ちの兵三百余人と、喚き叫んで相戦ふに、田野ひらけ平らかにして、馬の駆け引き自在なれば、かち立ちの兵、汗馬に駆け悩まされ、白旗一揆の兵三百余騎、大略討たれにければ、県下野守も深手五所まで被つて、叶はじとや思ひけん、討ち残されたる兵と、師直の陣へ引いて去る。
 二番に、戦ひ屈したる楠が勢を弊えに乗つて討たんとて、武田伊豆守、七百余騎にて進んだり。楠が二陣の勢、千余騎にて懸かり合ひ、二手に颯と分かれて、一人も余さじと取り篭むる。汗馬東西にはせ違ひ、追つつ返しつ、旌旗南北に開き分かれて、巻つつ巻くられつ、互に命を惜しまで、七、八度まで揉み合ひたるに、武田が七百余騎、残り少なに討たるれば、楠が二陣の勢も、大半疵を被つて、朱になつてぞ控へたる。
 小旗一揆の衆は始めより、四條中納言隆資卿{*2}の偽つて控へたる見せ勢に対して、飯盛山に打ち上がつて、大手の合戦をばいたづらによそに見下して居たりけるが、楠が二陣の勢の戦ひ疲れて麓に控へたるを見て、小旗一揆の中より、長崎彦九郎資宗、松田左近将監重明、舎弟七郎五郎、子息太郎三郎、須々木備中守高行、松田小次郎{*3}、河勾左京進入道、高橋新左衛門尉、青砥左衛門尉、有元新左衛門、広戸弾正左衛門、舎弟八郎次郎、その弟太郎次郎以下、勝れたる兵四十八騎、小松原より駆け下りて、山を後ろに当て、敵を麓に見下して、駆け合ひ駆け合ひ戦ふに、楠が二陣千余騎、僅かの敵に遮られ、進みかねてぞ見えたりける。
 佐佐木佐渡判官入道道誉は、「楠が軍の疲れ足推し量るに、自余の敵にはよも目もかけじ。大将武蔵守の旗を見てぞ懸からんずらん。さるほどならば、少し遣り過ごし、後を塞いで討たん。」と議して、その勢三千余騎を率して、飯盛山の南なる峯に打ち上がつて、旗打ち立て控へたりけるが、楠が二陣の勢の両度数刻の戦ひに、馬疲れ気屈して、少し猶予したる処を見澄まして、三千余騎を三手に分けて、同時に鬨をどつと作つて駆け下す。
 楠が二陣の勢、暫く支へて戦ひけるが、敵は大勢なり、御方は疲れたり、馬強なる新手に駆け立てられて、叶はじとや思ひけん、大半討たれて、のこる勢、南を指して引いて行く。元来小勢なる楠が兵、後陣既に破れて、残り止まる前陣の勢、僅かに三百余騎にも足らじと見えたれば、こらへじと見る処に、楠帯刀、和田新発意、未だ討たれずしてこの中にありければ、今日の軍に討死せんと思ひて過去帳{*4}に入りたりし連署の兵百四十三人、一所にひしひしと打ち寄せて、少しも後陣の破れたるをば顧みず、唯、敵の大将師直は後にぞ控へてあるらんと、目に懸けてこそ進みけれ。
 武蔵守が兵は、御方、軍に打ち勝つて、敵、しかも小勢なれば、機に乗り勇み進んで、これを討ち取らんとて、先づ一番に細川阿波将監清氏、五百余騎にて相当たる。楠が三百騎の勢、少しも滞らず相懸かりにかかりて、面も振らず戦ふに、細川が兵、五十余騎討たれて、北をさして引き退く。二番に仁木左京大夫頼章、七百余騎にて入れ替はつて攻むるに、又、楠が三百余騎、轡を並べて真中に駆け入り、火を散らして戦ふに、左京大夫頼章、四角八方へ懸け立てられて、一所へ又も打ち寄らず。三番に千葉介、宇都宮遠江入道、同三河入道、両勢合はせて五百余騎、東西より相近づいて、手先を捲りて{*5}中を破らんとするに、楠、敢へて破られず。敵、虎韜に連なつて囲めば、虎韜に分かれて相当たり、竜鱗に結んで懸かれば、竜鱗に進んで戦ふ。三度合つて三度分かれたるに、千葉、宇都宮が兵、若干討たれて引き返す。
 この時、和田、楠が勢、百余騎討たれて、馬に矢の三筋四筋射立てられぬはなかりければ、馬を踏み放してかち立ちになつて、とある田の畔に後ろを差し当てて、胡簶に差したる竹葉{*6}取り出だして、心閑かに兵粮つかひ、機を助けて{*7}ぞ並み居たる。「これほどに思ひ切つたる敵を取り篭めて討たんとせば、御方の兵、若干亡びぬべし。唯、後ろをあけて、落ちば落とせ。」とて、数万騎の兵、みな一処に打ち寄つて、取り巻く体をば見せざりけり。されば、楠たとひ小勢なりとも、落ちば落つべかりけるを、初めより、「今度の軍に師直が首を取つて返り参ぜずは、正行が首を六條河原に曝されぬ{*8}と思し召され候へ。」と、吉野殿にて奏し申したりしかば、その詞をや恥ぢたりけん、又、運命ここにや尽きけん、和田も楠ももろともに、一足も後ろへは退かず。「ただ師直に寄り合つて勝負を決せよ。」と声々に罵り呼ばはり、閑かに歩み近づきたり。
 これを見て、細川讃岐守頼春、今川五郎入道、高刑部大輔、高播磨守、南遠江守、同次郎左衛門尉、佐々木六角判官、同黒田判官、土岐周済房、同明智三郎、荻野尾張守朝忠、長九郎左衛門、松田備前次郎、宇津木平三、曽我左衛門、多田院の御家人を始めとして、武蔵守の前後左右に控へたる究竟の兵ども七千余騎、我先に討ち取らんと、喚き叫んで駆け出でたり。
 楠、これに少しも臆せずして、暫く息継がんと思ふ時は、一度に颯と並み居て鎧の袖をゆり合はせ、思ふ様に射させて、敵近づけば同時にはつと立ち上がり、鋒を並べて跳りかかる。
 一番に懸け寄せける南次郎左衛門尉、馬の諸膝薙がれて落つる処に、起こしも立てず討たれにけり。二番に、劣らじと駆け入りける松田次郎左衛門、和田新発意に寄り合つて、敵を切らんと差しうつぶく処を、和田新発意、長刀の柄を取り延べて、松田が兜の鉢をはたとうつ。打たれて錣を傾くる処に、内兜を突かれて、馬よりさかさまに落ちて討たれにけり。この外、目の前に切つて落とさるる者五十余人、小腕うち落とされて朱になる者二百余騎、追つ立て追つ立て攻められて、叶はじとやおもひけん、七千余騎の兵ども、開き靡いて引きけるが、淀、八幡をも馳せ過ぎて、京まで逃ぐるも多かりけり。
 この時もし武蔵守、一足も退く程ならば、逃ぐる大勢に引つ立てられて、洛中までも追ひ著けられぬと見えけるを、少しも漂ふ気色{*9}なくして、大音声を揚げて、「きたなし、返せ。敵は小勢ぞ。師直、ここにあり。見捨てて京へ逃げたらん人、何の面目あつてか将軍の御目にも懸かるべき。運命、天にあり。名を惜しまんと思はざらんや。」と、目をいららげ歯噛みをして、四方を下知せられけるにこそ、恥ある兵は引き留まりて、師直の前後に控へけれ。
 かかる処に、土岐周済房の、手の者どもは皆打ち散らされ、我が身も膝口切られて血にまじり、武蔵守の前を引いて、すげなう通りけるを、師直、吃と見て、「日頃の荒言にも似ず、まさなうも見え候ものかな。」と詞を懸けられて、「何か見苦しく候べき。さらば、討死して見せ申さん。」とて、又、馬を引き返し、敵の真中へ駆け入つて、終に討死してげり。これを見て、雑賀次郎も駆け入り、討死す。
 已に楠と武蔵守と、あはひ僅かに半町ばかり隔たつたれば、「すはや、楠が多年の本望、ここに遂げぬ。」と見えたる処に、上山六郎左衛門、師直の前に馳せ塞がり、大音声を揚げて申しけるは、「八幡殿より以来、源家累代の執権として、武功、天下に顕はれたる高武蔵守師直、これにあり。」と名のつて討死しける、その間に、師直、遥かに隔たつて、楠、本意を遂げざりけり。
 そもそも多勢の中に、上山一人、師直が命に代はつて討死しける所存、何事ぞと尋ぬれば、唯一言の情を感じて、命を軽くしけるとぞ聞こえし。
 唯今、楠、この陣へ寄すべしとは思ひ寄らず、上山、閑かに物語せんとて、執事の陣へ行きける処に、東西南北騒ぎ色めきて、敵寄せたりと打つ立ちける間、上山、我が屋に帰り物具せん逗留なかりければ、師直がきせなが{*10}の料に、同じ毛の鎧を二領{*11}まで置きたりけるを、上山、走り寄つて、唐櫃の緒を引つ切つて、鎧を取つて肩に打ち懸けけるを、武蔵守が若党、鎧の袖を控へて、「これは、如何なる御事候ぞ。執事の御きせながにて候ものを、案内をも申され候はで。」と云ひて、奪ひ止めんと引き合ひける時、師直、これを聞いて馬より飛んで下り、若党をはたと睨んで、「云ふ甲斐なき者の振舞かな。ただ今、師直が命に代はらん人々に、たとひ千両万両の鎧なりとも、何か惜しかるべきぞ。ここのけ。」と制して、「いしうもめされて候ものかな。」と、かへつて上山を感ぜられければ、上山、誠に嬉しき気色にて、この詞の情を思ひ入れたるその心地、いはねども色に現れたり。されば、事の儀を知らずして鎧を惜しみつる若党は、軍の難儀なるを見て、先づ一番に落ちけれども、情を感ずる上山は、師直がその命に代はつて討死しけるぞ哀れなる。
 かやうの事、異国にもその例あり。秦の穆公と申す人、六国の諸侯と戦ひけるに、穆公の軍破れて他国へ落ち給ふ。敵の追ふ事甚だ急にして、乗り給へる馬疲れにければ、後にさがりたる乗替の馬を待ち給ふ処に、穆公の舎人ども、馬をば引いて来らずして、疲れたる兵ども二十余人、皆高手小手に縛りて、軍門の前に引き据ゑたり。穆公自ら事の由を問ひ給ふに、舎人、答へて申す様、「召替の御馬をひき参り候処に、戦ひに疲れ食に飢ゑたる兵ども二十余人、この御馬を殺して皆食ひて候間、死罪に行ひ候はんがために、生け捕りて参つて候。」とぞ申しける。穆公、さしも怒れる気色なく、「死せる者は、二度生くべからず。たとひ二度生くるとも、獣の卑しきを以て人の貴きを失はんや。我聞く、飢ゑて馬を食せる人は、必ず病む事あり。」とて、その兵どもに酒を飲ませ、薬を与へて医療を加へられける上は、敢へて罪科に及ばず。その後、穆公、軍に打ち負けて、大敵に囚はれ已に討たれんとし給ひし時、馬を殺して食ひたりし兵ども二十余人、穆公の命に代はり戦ひける程に、大敵皆散じて、穆公、死を逃れ給ひにけり。
 されば、古も今も、大将たらん人は皆、罰をば軽く行ひ宥め、賞をば厚く与へしむ。もし昔の穆公、馬を惜しみ給はば、大敵の囲みを出で給はんや。今の師直、鎧を与へずば、上山、命に代はらんや。情は人のためならずとは、かやうの事をぞ申すべき。
 楠、上山を討つてその首を見るに、太く清げなる男なり。鎧を見るに、輪違を金物に彫り透かしたり。「さては、仔細なく武蔵守を討つてけり。多年の本意、今日已に達しぬ。これを見よや、人々。」とて、この首を宙に投げ上げては請け取り、請け取つては手玉についてぞ悦びける。
 楠が弟次郎{*12}、走り寄つて、「如何にや。あたら、首の損じ候に。先づ旗の蝉本につけて、敵御方の者どもに見せ候はん。」といひて、太刀の鋒に指し貫き、差し上げてこれを見るに、「師直にはあらず。上山六郎左衛門が首なり。」と申しければ、楠、大きに腹立して、この首を投げて、「上山六郎左衛門と見るはひが目か。汝は、日本一の剛の者かな。我が君の御ために無双の朝敵なり。さりながら、余りに剛に見えつるがやさしさに、自余の首どもには混ずまじきぞ。」とて、著たる小袖の片袖を引つ切つて、この首を押し包んで、岸の上にぞ差し置きたる。
 鼻田弥次郎、膝口を射られ、すくみて立ちたりけるが、「さては師直、未だ討たれざりけり。安からぬものかな。師直、いづくにか有らん。」といふ声を力にして、内兜にからみたる鬢の髪を押しのけ、血眼になつて遥かに北の方を見るに、輪違の旗一流れ打ち立てて、清げなる老武者を大将として、七、八十騎がほど控へたり。「いかさま、師直とぞおぼゆる。いざ、かからん。」といふところに、和田新兵衛、鎧の袖を控へて、「暫く。思ふ様あり。余りに勇み懸かりて、大事の敵を討ち漏らすな。敵は馬武者なり。我等はかち立ちなり。追はば、敵、定めて引くべし。ひかば、何として敵を討ち取るべき。事の様を案ずるに、我等、こらへで{*13}引き退く真似をせば、この敵、気に乗つて追つ懸けつとおぼゆるぞ。敵を近々と引き寄せて、その中に、これぞ師直と思はん敵を、馬の諸膝薙いで切り据ゑ、落つる処にて細頚打ち落とし、討死せんとおもふは如何に。」といひければ、討ち残されたる五十余人の兵ども、「この議、然るべし。」と一同して、楯を後ろに引きかづき、引き退く体をぞ見せたりける。
 師直、思慮深き大将にて、敵のたばかつて引く処を推して、少しも馬を動かさず。高播磨守、西なる田中に三百余騎にて控へたるが、これを見て、「引く敵ぞ。」と心得て、一人も余さじと追つ懸けたり。元来、剛なる和田、楠が兵なれば、敵の太刀の鋒の、鎧の総角、兜の錏二つ三つうち当たる程近づけて、一同にどつと喚いて、磯打つ波の岩に当たつて返るが如く取つて返し、火出づる程ぞ戦ひける。高播磨守が兵ども、引き返すべきほどの隙もなければ、矢庭に討たるる者五十余人、散々に切り立てられて、馬をかけ開いて逃げけるが、本陣をも馳せ過ぎて、二十余町ぞ引きたりける。

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校訂者注
 1:底本は、「何故か少しもやすらぶべき。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 2:底本は、「隆資の」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 3:底本頭注に、「秀盛。」とある。
 4:底本頭注に、「如意輪堂で壁板に決死の人々が名を連署したこと。」とある。
 5:底本頭注に、「手近き敵をまくり立てて。」とある。
 6:底本は、「竹葉(ちくえふ)」。底本頭注に、「もと酒の名で、こゝは弁当の意。」とある。
 7:底本頭注に、「元気をつけて。」とある。
 8:底本頭注に、「曝されぬべしの意。」とある。
 9:底本頭注に、「動揺する様子。」とある。
 10:底本頭注に、「大将の著る鎧。」とある。
 11:底本は、「二両」。『太平記 四』(1985年)本文及び頭注に従い改めた。
 12:底本は、「弟の次郎」。『太平記 四』(1985年)に従い削除した。
 13:底本は、「怺(こら)へて」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。