楠正行最後の事

 さる程に、師直と楠とが間、一町ばかりになりにけり。「これぞ願ふ処の敵よ。」と見澄まして、魯陽、二度白骨を連ねて韓と難を構へ戦ひける心も、これには過ぎじと勇み悦んで、千里を一足に飛んで懸からんと、心ばかりははやりけれども、今朝の巳の刻より申の時の終はりまで、三十余度の戦ひに、息絶え気疲るるのみならず、深手浅手負はぬ者もなかりければ、馬武者を追つ詰めて討つべき様ぞなかりける。
 されども、多くの敵ども四角八方へ追ひ散らして、師直、七、八十騎にて控へたれば、「何程の事かあるべき。」と思ふ心を力にて、和田、楠、野田、関地良円、河辺石掬丸、我先、我先とぞ進みたる。余りに辞理なく{*1}懸けられて、師直、已に引き色に見えける処に、九国の住人須々木四郎とて、強弓の矢つぎばや、三人張に十三束二伏、百歩に柳の葉を立てて、百矢をはづさぬ程の射手のありけるが、人の解き捨てたる箙、尻篭{*2}、胡簶を掻き抱くばかり取り集めて、雨の降るが如く矢壺{*3}を指してぞ射たりける。
 一日著暖めたる物具なれば、当たると当たる矢、箆深に立たぬはなかりけり。楠次郎、眉間、ふえ{*4}のはづれ射られて、抜くほどの気力もなし。正行は、左右の膝口三所、右の頬さき、左の目尻、箆深に射られて、その矢、冬野の霜に伏したるが如く折り懸けたれば、矢ずくみに立つて働かず。その外、三十余人の兵ども、矢三筋四筋射立てられぬ者もなかりければ、「今は、これまでぞ。敵の手に懸かるな。」とて、楠兄弟、刺し違へ、北枕に伏しければ、自余の兵三十二人、思ひ思ひに腹掻き切つて、上が上に重なり伏す。
 和田新発意、如何して紛れたりけん、師直が兵の中に交じはりて、武蔵守に刺し違へて死なんと近づきけるを、このほど河内より降参したりける湯浅本宮太郎左衛門といひける者、これを見知つて、和田が後ろへ立ち廻り、諸膝切つて、倒るる所を走り寄つて頚を掻かんとするに、和田新発意、朱を注ぎたる如くなる大の眼を見開いて、湯浅本宮をちやうど睨む。その眼、終に塞がずして、湯浅に首をぞ取られける。大剛の者に睨まれて、湯浅、臆してやありけん、その日より病ひつきて身心悩乱しけるが、仰けば和田が怒りたる顔、天に見え、うつぶけば新発意が睨める眼、地に見えて、怨霊、五体を責めしかば、軍散じて七日と申すに、湯浅、あがき死ににぞ死ににける。
 大塚掃部助、手負ひたりけるが、楠、なほ後にあり{*5}とも知らで、放れ馬のありけるに打ち乗つて、遥かに落ち延びたりけるが、「和田、楠、討たれたり。」と聞きて、唯一騎馳せ帰り、大勢の中へ駆け入つて、切り死ににこそ死ににけれ。
 和田新兵衛正朝は、吉野殿にまゐつて事の由を申さんとやおもひけん、唯一人、鎧一縮して、かち立ちになつて、太刀を右の脇に引きそばめ、敵の首一つ取つて左の手にひつ提げて、東條の方へぞ落ち行きける。安保肥前守忠実、唯一騎、馳せ合ひて、「和田、楠の人々、皆自害せられて候に、見捨てて落ちられ候こそ情なくおぼえ候へ。返されさふらへ。見参に入らん。」と詞をかけければ、和田新兵衛、打ち笑ひて、「返すにかたき事か。」とて、四尺六寸の太刀の、貝しのぎ{*6}に血の著きたるを打ち振つて走りかかる。忠実、一騎合ひの勝負、叶はじとやおもひけん、馬をかけ開いて引き返す。忠実留まれば、正朝又落つ。落ち行けば、忠実又追つ懸け、追つ懸くれば止まり、一里ばかりを過ぐるまで、互に討たず討たれずして、日、已に夕陽に及ばんとす。
 かかる処に、青木次郎、長崎彦九郎、二騎、箙に矢少し射残して馳せ来る。新兵衛を懸け退け懸け退け射ける矢に、草摺の余り、引き合はせの下、七筋まで射立てられて、新兵衛、遂に忠実に首をば取られにけり。
 総て、今日一日の合戦に、和田、楠が兄弟四人、一族二十三人、相従ふ兵百四十三人、命を君臣二代の義に留めて、名を古今無双の功に残せり。先年、奥州の国司顕家卿、安部野にて討たれ、武将新田左中将義貞朝臣、越前にて亡びし後は、遠国に宮方の城郭少々ありといへども、勢ひ未だ振はざれば、今更驚くに足らず。ただ、この楠ばかりこそ、都近き切所に威を逞しくして、両度まで大敵を靡かせぬれば、吉野の君も、魚の水を得たる如く叡慮を悦ばしめ、京都の敵も、虎の山によりかかる恐懼をなしつるに、和田、楠が一類皆、片時に亡びはてぬれば、「聖運、已に傾きぬ。武徳、誠に久しかるべし。」と、思はぬ人もなかりけり。

吉野炎上の事

 さるほどに、「楠が館をも焼き払ひ、吉野の君をも取り奉るべし。」とて、越後守師泰、六千余騎にて、正月八日、和泉の境浦を立つて、石川河原に先づ向ひ城をとる。武蔵守師直は、三万余騎の勢を率して、同じき十四日、平田を立つて、吉野の麓へ押し寄する。
 その勢、已に吉野郡に近づきぬと聞こえければ、四條中納言隆資卿、急ぎ黒木の御所に参つて、「昨日、正行、已に討たれ候。又明日、師直、皇居へ襲来仕るよし聞こえ候。当山、要害の便り稀にして、防ぐべき兵、更に候はず。今夜、急ぎ天河の奥、賀名生の辺へ御忍びさふらふべし。」と申して、三種の神器を内侍典司に取り出ださせ、寮の御馬を庭前に引き立てたれば、主上{*7}は、万、思し召し分けたる方なく、夢路をたどる心地して、黒木の御所を立ち出でさせたまへば、女院、皇后、准后、内親王、宮々を始め参らせて、内侍、上童、北政所、月卿雲客、郎吏、従官、諸寮頭、八省輔、僧正、僧都、児、房官に至るまで、取る物も取りあへず、あわて騒ぎ倒れ迷ひて、習はぬ道の岩根を歩み、重なる山の雲を分けて、吉野の奥へ迷ひ入る。思へば、この山中とても、心を留むべき所ならねども、年久しく住み馴れぬる上、行く末は猶、山深き方なれば、「さこそは住みうからめ。」と思ひ遣るにつけても、涙は袖にせきあへず。主上、勝手の宮の御前を過ぎさせ給ひける時、寮の御馬より下りさせ給ひて、御涙の中に一首、かくぞ{*8}思し召しつづけさせ給ひける。
  憑むかひなきにつけても誓ひてし勝手の神の名こそをしけれ
 異国の昔は、唐の玄宗皇帝、楊貴妃故に安禄山に傾けられて、蜀の剣閣山に幸なる。我が朝の古は、浄見原天皇、大友宮{*9}に襲はれて、この吉野山に隠れ給ひき。これ皆、逆臣暫く世を乱るといへども、終には聖主、大化を施されし先蹤なれば、「かくてはよもありはてじ。」と思し召しなぞらふる方はありながら、貴賤男女、あわて騒いで、「こは、そも、いづくにか暫しの身をも隠すべき。」と、泣き悲しむ有様を御覧ぜらるるに、叡襟、更にやむときなし。
 さるほどに、武蔵守師直、三万余騎を率して吉野山に押し寄せ、三度鬨の声を揚げたれども、敵なければ音もせず。「さらば、焼き払へ。」とて、皇居並びに卿相雲客の宿所に火をかけたれば、魔風、盛んに吹き懸けて、二丈一基の笠鳥居、二丈五尺の金の鳥居、金剛力士の二階の門、北野天神示現の宮、七十二間の廻廊、三十八所の神楽屋、宝蔵、竃殿、三尊光を和げて、万人頭を傾くる、金剛蔵王の社壇まで、一時に灰燼となりはて、煙、蒼天に立ち上る。あさましかりし有様なり。
 そもそもこの北野天神の社壇と申すは、天慶四年八月朔日に、笙の岩屋の日蔵上人{*10}、頓死し給ひたりしを、蔵王権現、左の御手に乗せ奉つて、炎魔王宮に至り給ふに、第一の冥官、一人の倶生神{*11}を相副へて、この上人に六道を見せ奉る。鉄窟苦所といふ所に至つて見給ふに、鉄湯の中に、玉冠を著て天子の形なる罪人あり。手を挙げて上人を招き給ふ。如何なる罪人なるらんと、怪しみて立ち寄つて見たまへば、延喜の帝{*12}にてぞおはしましける。
 上人、御前に跪いて、「君、御在位の間、外には五常を正して仁義を専らにし、うちには五戒を守つて慈悲をさきとしおはせしかば、如何なる十地等覚の位にも到らせ給ひぬらんとこそ存じ候ひつるに、何故にかかる地獄には堕ちさせ給ひ候やらん。」と尋ね申されければ、帝は、御涙を拭はせ給ひて、「吾、在位の間、万機怠らず民を撫で世を治めしかば、一事も誤る事なかりしに、時平が讒を信じて、罪なき菅丞相{*13}を流したる故に、この地獄に堕ちたり。上人、今、冥途に赴き給ふといへども、非業なれば、蘇生すべし。朕、上人と師資の契り浅からず、早く娑婆に帰り給はば、菅丞相の廟を建てて化導利生を専らにし給ふべし。さてぞ、朕がこの苦患をば免るべし。」と、泣く泣く勅宣ありけるを、上人、つぶさに承つて、堅く領状申すと思へば、中十二日と申すに、上人、息出で給ひにけり。「冥土にて正しく勅を承りし事なれば。」とて、則ち、吉野山に廟を建つ。利生方便を施し給ひし天神の社壇、これなり。
 蔵王権現と申すは、昔、役優婆塞{*14}、済度利生のために金峯山に一千日篭つて、生身の薩埵を祈りたまひしに、この金剛蔵王、先づ柔和忍辱の相を顕はし、地蔵菩薩の形にて地より湧出し給ひたりしを、優婆塞、頭をふつて、未来悪世の衆生を済度せんとならば、かやうの御形にては叶ふまじき由を申されければ、則ち、伯耆の大山へ飛び去り給ひぬ。その後、大勢忿怒の形を顕はし、右の御手には三鈷を握つて臂をいららげ{*15}、左の御手には五指を以て御腰を押さへ給ふ。一睨、大きに怒つて魔障降伏の相を示し、両脚たかく垂れて、天地経緯の徳を顕はし給へり。示現のかたち、尋常の神に替はつて、尊像を錦帳の中に鎖ざされて、その湧出の体を秘せんために、役の優婆塞と天暦の帝{*16}と、各、手づから二尊を作り副へて、三尊を安置し奉り給ふ。悪愛{*17}を六十余州に示して、かれを是しこれを非し、賞罰を三千世界に顕はして、人を悩まし物を利す。総て神明、権跡を垂れて七千余座、利生の新たなるを論ずれば、無二亦無三の霊験なり。
 かかる奇特の社壇仏閣を一時に焼き払ひぬる事、誰か悲しみを含まざらん。されば、主なき宿の花は、唯、露に泣ける粧ひをそへ、荒れぬる庭の松までも、風に吟ずる声を呑む。天の怒り、いづれの処にか帰せん。「この悪行、身に留まらば、師直、忽ちに亡びなん。」と、思はぬ人はなかりけり。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本は、「辞理(じり)なく」。底本頭注に、「むやみに。」とある。
 2:底本は、「尻篭(しこ)」。底本頭注に、「矢篭。矢壺。」とある。
 3:底本は、「矢坪((やつぼ)」。底本頭注に、「矢の狙ひ的。」とある。
 4:底本頭注に、「のどぶえ。」とある。
 5:底本は、「なほ後(あと)にあるとも知らで、」。
 6:底本頭注に、「鎬の稜立ちが普通よりはふくらんで殊に角立つて子貝に似てゐるので名づけたと云ふ。」とある。
 7:底本頭注に、「後村上天皇。」とある。
 8:底本は、「かくこそ」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 9:底本頭注に、「〇浄見原天皇 天武天皇。」「〇大友宮 弘文天皇。」とある。
 10:底本頭注に、「三善清行の弟。」とある。
 11:底本は、「倶生神(ぐしやうじん)」。底本頭注に、「人の生れると倶に生ずる神。」とある。
 12:底本頭注に、「醍醐帝。」とある。
 13:底本頭注に、「菅原道真。」とある。
 14:底本は、「役優婆塞(えんのうばそく)」。底本頭注に、「文武帝の時の人と云はれる。」とある。
 15:底本頭注に、「怒らし。」とある。
 16:底本頭注に、「村上帝。」とある。
 17:底本は、「悪愛(をあい)」。底本頭注に、「にくむといつくしむと。」とある。