賀名生皇居の事

 貞和五年正月五日、四條縄手の合戦に、和田、楠が一族皆亡びて、今は正行が舎弟次郎左衛門正儀ばかり生き残りたりと聞こえしかば、「このついでに、残る所なく皆退治せらるべし。」とて、高越後守師泰、三千余騎にて石川河原に向ひ城を取つて、互に寄せつ寄せられつ、合戦の止む隙もなし。
 吉野の主上は、天河の奥、賀名生と云ふ所に僅かなる黒木の御所を造りて御座あれば、かの唐尭虞舜の古、茅茨剪らず柴椽削らず、淳素の風もかくやと思ひ知られて、誠なる方もありながら、女院、皇后は、柴葺く庵のあやしきに、軒漏る雨を禦ぎかね、御袖の涙ほす隙なく、月卿雲客は、木の下岩の蔭に松葉を葺きかけ、苔の筵を片敷きて、身を置く宿とし給へば、高峯の嵐吹き落ちて、夜の衣を返せども、露の手枕寒ければ、昔を見する夢もなし。況んやその郎従眷属たる者は、暮山の薪を拾ひては、雪を戴くに肌寒く、幽谷の水をむすんでは、月を担ふに肩やせたり。かくては一日片時もありながらへん心地もなけれども、さすがに消えぬ露の身の、命あらばと思ふ世に、憑みをかけてや残るらん。

執事兄弟奢侈の事

 それ富貴に奢り功に驕つて、終はりを慎まざるは、人の尋常、皆あることなれば、武蔵守師直、今度、南方の軍に打ち勝つて後、いよいよ心奢り、ふるまひ思ふ様になつて、仁義をも顧みず、世の嘲弄をも知らぬ事ども多かりけり。常の法には、四品以下の平侍武士なんどは、関板打たぬ舒葺の家{*1}にだに居ぬ事にてこそあるに、この師直は、一條今出川に故兵部卿親王の御母堂、民部卿三位殿{*2}の住み荒らし給ひし古御所を点じて、棟門唐門四方にあけ、釣殿、渡殿、泉殿、棟梁高く造り並べて、綺麗の壮観を逞しくせり。泉水には伊勢、島、雑賀の大石どもを集めたれば、車きしりて軸をくだき、呉牛喘ぎて舌を垂る。植木には月中の桂、仙家の菊、吉野の桜、尾上の松、露霜染めし紅の八入の岡{*3}の下紅葉、西行法師が古、枯葉の風を詠めたりし難波の葦の一叢、在原中将の東の旅に露分けし宇津の山辺のつた楓、名所名所の風景を、さながら庭に集めたり。
 又、月卿雲客の御女などは、世を浮草の寄る方なくて、誘ふ水あらばと打ち侘びぬる折節なれば、せめてはさも如何せん。申すもやんごとなき宮腹など、その数を知らず、ここかしこに隠し置き奉つて、毎夜通ふ方多かりしかば、「執事の宮廻りに、手向を受けぬ神もなし。」と、京童部なんどが笑ひ種なり。
 かやうの事多かる中にも、殊更、冥加の程も如何とおぼえてうたてかりしは、二條前関白殿の御妹、深宮の中にかしづかれ、三千の数にもと思し召したりしを、師直、盜み出だし奉つて、始めは少し忍びたる様なりしが、後は早、うち顕はれたる振舞にて、憚る方もなかりけり。かくて年月を経しかば、この御腹に男子一人出で来て、武蔵五郎とぞ申しける。さこそ世の末ならめ。忝くも大織冠{*4}の御末、太政大臣の御妹と嫁して、東夷の礼なきに下らせ給ふ、浅ましかりし御事なり。
 これ等は尚もおろかなり。越後守師泰が悪行を伝へ聞くこそ不思議なれ。「東山の枝橋といふ所に山荘を造らん。」とて、この地の主を誰ぞと問ふに、「北野の長者、菅宰相在登卿の領地なり。」と申しければ、やがて使者を立て、この所を賜ふべき由を所望しけるに、菅三位、使に対面して、「枝橋の事、御山荘のために承り候上は、仔細あるまじきにて候。但し、当家の父祖、代々この地に墳墓を占めて、五輪を立て、御経を奉納したる地にて候へば、かの墓標を他所へ移し候はん程は、御待ち候べし。」とぞ返事をしたりける。
 師泰、これを聞いて、「何條その人、惜しまんずるためにぞ左様の返事をば申すらん。唯、その墓ども、みな掘り崩して捨てよ。」とて、やがて人夫を五、六百人遣はして、山を崩し木を伐り捨てて地を曳くに、塁々たる五輪の下に、苔に朽ちたる骸あり。或いは芊々{*5}たる断碑の上、雨に消えたる名もあり。青冢、忽ちに破れて、白楊、已に枯れぬれば、旅魂幽霊、いづくにかさまよふらんと哀れなり。これを見て、如何なるしれ者かしたりけん、一首の歌を書いて、引き土の上にぞ{*6}立てたりける。
  なき人のしるしの卒堵婆掘り棄ててはかなかりける家づくりかな
越後守、この落書を見て、「これはいかさま、菅三位が所行とおぼゆるぞ。当座の口論にことを寄せて、刺し殺せ。」とて、大覚寺殿の御寵愛の童に吾護殿といひける大力の児を語らひて、是非なく菅三位を殺させけるこそ不便なれ。この人、聖廟{*7}の祠官として文道の太祖たり。何事の神慮に違ひて、無実の死刑に逢ひぬらん。唯これ、魏の禰衡が鸚鵡州の土に埋づまれし{*8}昔の悲しみに相似たり。
 又、この山荘を造りける時、四條大納言隆蔭卿の青侍、大蔵少輔重藤、古見源左衛門といひける者二人、この地を通りけるが、立ち寄り見るに、地を引く人夫どもの、汗を流し肩を苦しめて、休む隙なく使はれけるを見て、「あな、かはゆや。さこそ賤しき夫なりとも、これ程まで打ちはらずとも{*9}あれかし。」と慙愧してぞ過ぎ行きける。作事奉行しける者の中間、これを聞いて、「何者にて候やらん、ここを通る本所の侍が、かかりける事を申して過ぎ候ひつる。」と語りければ、越後守、大きに怒つて、「易き程の事かな。夫をいたはらば、しやつ原を使ふべし。」とて、遥かに行き過ぎたりけるを呼び返して、夫の著たるつづりを著換へさせ、立烏帽子を引きこませて、さしも熱き夏の日に、鋤を取つては土を掻き寄せさせ、石を掘つては𫂅{*10}にて運ばせ、日ねもすに責め使ひければ、これを見る人々皆、爪弾きをして、「命は、よく惜しきものかな。恥を見んよりは死ねかし。」と、云はぬ人こそなかりけれ。これ等は尚しも小事なり。
 今年、石川河原に陣を取つて、近辺を管領せし後は、諸寺諸社の所領、一処も本主に充てつけず。殊更、天王寺の常灯料所の荘を押さへて知行せしかば、七百年より以来、一時も更に絶えざる仏法常住の灯も、威光と共に消えはてぬ。又、如何なる極悪の者か言ひ出だしけん、「この辺の塔の九輪は、大略、赤銅にてあるとおぼゆる。あはれ、これを以て鑵子{*11}に鋳たらんに、如何によからんずらん。」と申しけるを、越後守聞きて、「げにも。」と思ひければ、九輪の宝形一つ下して、鑵子にぞ鋳させたりける。げにも、人のいひしに違はず、肌、くぼみなくして、磨くに、光玲々たり。芳甘を酌みてたつる時、建渓{*12}の風味、濃やかなり。東坡先生が、「人間第一の水。」とほめたりしも、この中よりや出でたりけん。
 上の好む所に、下必ず随ふ習ひなれば、相集まる諸国の武士ども、これを聞き傅へて、我劣らじと、塔の九輪を下して鑵子を鋳させける間、和泉、河内の間、数百箇所の塔婆ども、一基も更にすぐなるはなく、或いは九輪を下され、ます形ばかりあるもあり、或いは心柱を切られて、九層ばかり残るもあり。二仏の並座は瓔珞を暁の風に漂はせ、五智の如来は烏瑟を夜の雨に潤せり。唯、「守屋{*13}の逆臣、二度この世に生まれて仏法を亡ぼさんとするにや。」と、怪しき程にぞ見えたりける。

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校訂者注
 1:底本は、「関板(せきいた)打たぬ舒葺(のしぶき)の家」。底本頭注に、「〇関板 屋根板。」「〇舒葺 檜の皮を打ち平めて葺くこと。」とある。
 2:底本頭注に、「民部卿三位大納言師親の女。」とある。
 3:底本は、「八入(やしほ)の岡」。底本頭注に、「大和国長谷寺にあり、新勅撰集『紅のやしほの岡の紅葉葉ばをいかに染めよと猶しぐるらむ。』」とある。
 4:底本頭注に、「藤原鎌足。」とある。
 5:底本は、「芊々(せん(二字以上の繰り返し記号))」。底本頭注に、「草の茂つたさま。」とある。
 6:底本は、「引土(ひきつち)の上にこそ」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
 7:底本頭注に、「北野天神。」とある。
 8:底本は、「埋(うづ)もれし」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 9:底本頭注に、「過度に強ひずとも。」とある。
 10:底本は、「𫂅(あをだ)」。
 11:底本は、「鑵子(くわんす)」。底本頭注に、「青銅真鍮などにて作り湯をわかす器。」とある。
 12:底本頭注に、「〇芳甘 茶の名か。」「〇建渓 唐土の茶の名所。」とある。
 13:底本頭注に、「物部尾輿の子。」とある。